00062_「委ねる」ことの難しさ_20080320

今年(注:2008年当時)に入って、中国産冷凍食品に有毒性の農薬が混入していた、という問題が発生しました。

問題が発生してから現在まで、販売者もメーカーも日中両政府もマスコミも「製造からスーパーに出回るまでのどの段階で、どのような形で農薬が混入したのか」ということを、さまざまな角度から検証する動きに出ています。

しかし、私は、農薬の問題は非常に瑣末な問題であり、かりに混入の詳細な経緯が明らかになっても、中国産冷凍食品の買い控え傾向は続くのではないかと思います。

テレビ等で中国現地における加工ラインの様子が紹介されましたが、現代の日本人の衛生感覚からは、当該加工ラインの衛生状況は明らかに容認の限界を超えています。というよりも、そもそも、日本人の口に入るものを中国の工場で生産するということに相当な無理があったのではないかとさえ思うのです。

この問題の背景には、冷凍食品メーカーが、「委託」すなわち「委ねる」ことの難しさを深く考えずに、目先のもうけに踊らされて、漫然と中国での生産委託ないし加工委託した、という経営判断ミスがあるように思います。

そもそも、物事には、委託に馴染むものと馴染まないものとがあります。また、委託に馴染むものであっても、委託するにふさわしい相手先とそうでないところというのがあります。

実際、職業上遭遇する事件には、「委ねる」ことにまつわる失敗が原因となった事件が実に多く存在します。

たいていの方が、「ラクをするため」「面倒くさいことから解放されたいため」「もうかりそうだから」という理由で、ロクな検証もフォローもせず、見ず知らずの人間に、財産や権利や印鑑を委ねてしまい、その結果、委ねられた方が勝手な行動をして、大きなトラブルが発生します。トラブルが委ねた相手方との間に留まっている間はいいのですが、たいていのケースでは、第三者を巻き込んで取り返しのつかない状態に陥っており、権利も財産も失くすことがほとんどですし、身に覚えのない債務まで負わされるケースすらあります。

このように、そもそも「委ねる」ということは大変難しく、チェックやフォローをせずに、ラクして丸投げしようとすると、必ず大きなツケを払わされます。

自動車部品や衣服やスニーカーや工作機械については、工場内の衛生状況や工員の衛生感覚はあまり考慮せず、一定の品質のものが安い工賃で作ることのみを考えて、中国その他の国に加工を委託することは実に合理的であり、市場にとって有益な選択といえます。

しかしながら、食品の生産や加工委託となると、自動車部品や衣服やスニーカーや工作機械と同じに考えるわけにはいきません。

レクサスにちょっとした傷がついていたり、アルマーニやゼニアのスーツにちょっとしたほころびがあっても、安く購入する人が存在し、その限りで市場性を有しますが、「少し腐って、食べたら腹痛がするかもしれない大トロ」や「ちょっと寄生虫がついたシャトーブリアン」などというのは、市場性がないどころか、有害な廃棄物にすぎません。

その意味で、食品には、一定の品質、それも衛生状況における絶対的な基準というものが存在しますし、これをクリアしない限り、どんなに廉価に生産・加工できても意味をなしません。 今後、日本向け食品を中国で生産・加工するというトレンドに大きな歯止めがかかることになるのでしょうが、私個人としては、この問題を教訓として、食品メーカーの経営陣が「委ねる」ことの難しさを再認識し、よりよき生産形態を構築していただきたい、と思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.007、「ポリスマガジン」誌、2008年3月号(2008年2月20日発売)

00061_「楽しく、ゴキゲンな人生を送る」上で役に立つ、「本には書かれていない、いくつかの知恵」

「楽しく、ゴキゲンな人生を送る」上で役に立つ、「本には書かれていない、いくつかの知恵」をご紹介したいと思います。

とはいえ、一般のビジネス書に載っているような、陳腐で退屈なキレイゴトの類ではなく、「欲望渦巻く資本主義社会の最前線で四半世紀余り、『企業参謀』とも言うべきビジネス弁護士を経験して機能的に獲得した知見の一端」ですので、それなりにお役に立つものであると思います。

1、「常識」とは「偏見のコレクション」(ゴキゲンな人生のために、非常識な想像力を働かせる)
世の中、大切なことほど、教科書には載っていませんし、親も学校の先生も先輩も、世の中のことをよくわかっていません。
また、そういう「ホンモノの知恵」は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

成功とは、非常識な方法によって得られた稀有な結果です。
常識や良識にしたがったところで、得られるものは陳腐な結果です。
さらに言えば、「常識」とは、「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」を指します。

「大きなプロジェクトの成功」は、例外事象であり異常現象です。

それなりに大きなビジネスや新規のプロジェクトは、フツーのことをフツーにやっていては成功などしません。
トラブルや想定外の事柄が次々生じます。
大きな事業・新規の事業を、公務員やフツーのサラリーマンや小学校の教師に常識的に取り扱わせたら、どうなるか、想像してください。
これらの事柄の対処には、常識や良識は通用しません。

「世間で評価される仕事というのは、あらゆる形式やモラルを排して遂行されているものだ」

これは、私が、若い方や後輩に常に言っている言葉です。
常識を疑い、常識の裏側や対極にあるものを想定し、非常識のアングルに立って物事を観察するクセをつけてみる。

そうすると、世の中には、イノベーションや改善の可能性、すなわち成功の機会がゴマンとあることに気づくはずです。

では、どうやって、「成功するための、正しい非常識」を身につけるか? 

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じてしか、この種の「非常識だが、理にかなった、資本主義経済社会をうまく泳ぎ切るための知恵」は手に入れることはできません。

2、ラックマネジメント(付き合う人間、接点をもつ人間を選ぶ)
以上のようなことから推奨されるのは、運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間と付き合うことです。

これは、ラックマネジメントの一種です。

負け犬同士つるむのは時間の無駄です。
そこから何も生まれません。

本に載っていない知恵を学び、運をもらい、時流を学ぶのは、外界や異界に通じ、「常識には反するが、経済的には理にかなった方法」をしびれるくらいのスピードで実現する、そんな、ミュータントのような人種です。
「あんなのは非常識だ」と強者を腐すことしかできない負け犬の集団から、その負け犬を反面教師として、突然変異的に、「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」が出て来る、ということはありえません。

学ぶとは、「真似ぶ」、すなわち、「真似る」から転じた言葉、と言われます。

その種の「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」は、常に、すでに成功した人間の近くにいて、非認知情報を含めてじっくり観察し、たんなるビヘイビアだけでなく、思考や哲学や価値観や生き方や美学に至るまで、徹底して模倣することによって、誕生するものです。

3、足を引っ張られないようにする(安全保障)
「強者や幸運な者と交わるべし」とはいうものの、負け犬を馬鹿にしたり、見くびったりするのは危険です。

「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、〝歴史的な力〟である。」

これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社、1993年、163頁)で書いていた一文です。

足を引っ張られないように、最低限の付き合いをして、人間関係が悪化しないように処置をしておいてください。これは、「安全保障」として重要な意味があります。


「中途半端に、優秀な人間」はアホの真似ができません。
「本当に、優秀な人間」は、アホになれます。
「アホ」以上に「アホ」ができます。
「本当にデキる人間」とは、「本当のアホよりも、頭悪そうに、平然と、ナチュラルに、アホの真似ができ、笑顔でアホと戯れることができる人間」のことを言います。

4、 時間を大切にしましょう
時間を大事にしてください。カネより、命より、健康より、大事なのは時間です。

ガンになったとき、医者がやっていることのほとんどは時間稼ぎです。
死ぬまでの時間を、1年を2年に、2年を4年にしているだけです。
一定程度進行したガンのほとんどは治りません。
絶対死にます。
カネとエネルギーと高度な医療技術をかけてガン専門医がやっていることは、死ぬまでの時間を先延ばしするための努力です。

逆に言えば、そのくらい、時間は貴重なのです。

カネがあっても時間は買えませんが、時間さえあれば、なんでもできます。
くだらないこと、無駄なことに費やす時間をなくしましょう。

「千里の道はジェット機で(制作/著作:井藤公量弁護士)」行くのが最も正しい。
千里の道を一歩一歩歩くような馬鹿げたこと、やっていませんか?

5、最後に(気軽に、ゴキゲンに、リラックスして行こう)

以上、かなり難易度の高い、一般的ではない、マインドセットやリテラシーをお伝えしました。

しかし、この程度のことを、肩に力を入れ、眦(まなじり)を決して、鼻息荒くして我武者羅にやる、なんて、品のないことはおやめください。

力を入れず、スマートかつエレガントに、周囲とうまく折り合いをつけながら、しれっとやってください。

ゴルフも、商売も、恋愛も、人間関係も、人生も、肩に力を入れて、いいことは一つもありませんから。

著:畑中鐵丸

初出:『治療家のための法律入門』第36回(終)、「ひーりんぐマガジン」第54号、特定非営利活動法人日本手技療法協会刊、

運営管理コード:HLMGZ35

00060_「倒産しそうな、ヤヴァい会社」との縁の切り方

自分の会社に将来性がなく、かつ新しいキャリア形成に向けた具体的かつ現実的な可能性を見つけることができ、自分のより大きな成長のために現在の勤め先を辞める場合の具体的方法について述べます。

会社側が従業員を解雇する場合には、法律上、大きな制約が課せられています。

私が、企業側の顧問弁護士として、クライアントである企業に解雇事件において助言をする際、
「『結婚は自由だが、離婚は不自由』と同じで、法律上『採用は自由だが、解雇は不自由』です。これを前提に事件の処理を考えましょう」
と必ず前置きをします。

しかしながら、これは、企業側が従業員を無理やり辞めさせる場合の話であって、従業員側が企業を見限るには、法律上何の制約もありません。

無論、社会人として、
「上司に早めに相談する、引き継ぎをきっちりやる、その他迷惑がかからないように配慮する」
といったことは推奨されます。

ですが、これらも所詮、礼儀・道徳のレベルの話です。

法律上は、「従業員は辞めたいときに辞められる」というのが大原則です。

企業や上司が、
「人手不足だから困るので辞めないでほしい」、
「育成責任を問われるから、私が異動になるまで辞めるな」
と退職に反対することがあります。

酷い場合、陰湿なイジメや有形無形の暴力を使って「辞めるな」と脅す場合もあるようです。

しかしながら、従業員がこのような横暴な要求に従う義務は一切ありません。

余りに酷い場合は、労働基準監督署(労働基準法第5条違反に基づく是正申告等)や弁護士に相談すべきですが、いずれにせよ、こういう専門家あるいは専門機関の手にかかれば、会社の妨害もすぐに止まります。

00059_自分の勤め先が「倒産しそうな、ヤヴァい会社」であった場合

自分の勤め先が
「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
だった場合、あなたとしてはどうすべきでしょうか。

まず言えることは、絶対あわててはいけない、ということです。

「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
であるからといって今日明日に会社が倒産する、とは限りません。

無論、
「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
は、長期的に見て淘汰される傾向にある、といえます。

だからといって、経営陣が考えや行動を改める場合がありますし、メインバンクや親会社や主要取引先が救いの手をさしのべ、梃入れのため経営陣を送り込み、生まれ変わる可能性も否定できません。

また、仮に会社が倒産状態に至ったとしても、
「破産」
ではなく、民事再生や会社更生といった
「再生型」手続
が選択された場合、経営陣が刷新され、会社がよみがえる場合もあります。

実際、東証一部上場の超優良企業である
牛丼チェーン「吉野屋」
ですが、今から年前の1980年ころに、実質的に破綻状態に陥り、会社更生法適用申請を行いました。

セゾングループがスポンサーになって無事立ち直り、その後、20年かけ、2000年に東証一部上場を果たしています。

ちなみに、牛丼チェーン店事業を展開する企業として有名な
「吉野屋ホールディング」
の経営トップを、42歳から22年間務め、
「ミスター牛丼」
と呼ばれた安部修仁氏は、吉野屋のアルバイトから正社員になった方で、破綻を経験し、そのまま残留して同社トップ、さらには業界リーダーにまで登りつめられました。

当たり前の話ですが、万が一、破産になったからといって、従業員にはまったく法的責任は及びません。

確かに、職探しをしなければならなかったり、給与がカットされる場合があるかもしれませんが、会社が破産して、経営者の人生が終わったからといって、従業員の人生も一緒に終わるわけではありません。

もちろん、
「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
にお勤めの場合、
「自分の勤め先が今の状態で存続していくことはないかもしれない」
と想定し、自分を磨く上でもっといい会社がないか探してみたり、会社の人間関係を超えた人脈やネットワークを作り上げたり、あるいは会社がつぶれる場合に備えてキャリアアップのための資格取得を考えたりするのは実に合理的です。

ですが、何の準備もなく、
「なんとなくこの会社の先行きが不安だから、いきなり勤め先を辞めます」
というのはあまりに短絡的です。

第一、再就職をする際、面接で
「どうして急に前の会社を辞めたの?」
と聞かれても答えに詰まるだけです。

00058_「学ぶ」とは、模範対象を見つけ、模倣すること

「学ぶ」
という言葉は、
「マネぶ」、
さらに戻すと、
「真似る」
という言葉に由来します。

すなわち、何かを習得するのは、模範となるべきものを見つけだし、これを正確に模倣することから始まるのです。

話は少し脱線しますが、東大や京大などの難関国立大学に入学するような連中は、創造力が秀でているわけでも、人一倍学問センスがあるわけでもありません。

努力の絶対量についても同様です。

勉強時間が他の大学の受験生と極端に多いか、というと、実はそうでもありません。

東大に合格するような連中は、端的に言えば、模倣が得意なのです。

そして、模倣対象が身近にいるため、あれこれ想像力を働かしたり、情報を集めなくとも、
「どこを、どのように、またどの程度、模倣すれば、東大に合格できるか」
ということを簡単に理解・認識できる機会・環境に恵まれていただけなのです。

東大に多数合格者を輩出するような有名高校は、他校と比べて特別変わった内容の授業をしているわけでもありませんし、カリキュラムが特殊というわけでもありません。

東大進学校と呼ばれる高校は、
「東大に合格するようなポテンシャルをもった人間が多数かつ継続的に集まって集団を形成している」
ということが唯一かつ最大の特徴なのです。

このような集団においては、後輩たちが、先輩たちの行動を間近に観察し、模倣することにより、自然に東大に合格するために必要な努力の質や量や方向性を、一次情報・直接情報として取得できるのです。

そして、その環境こそが、東大合格にもっとも有利な条件となるのです。

このように、何かを学んだり、自分を成長させるためにもっとも必要なのは、教科書でもマニュアルでも反面教師でもなく、
「身近な模倣対象を探し出すことと」

「これを正確に模倣するための努力を惜しまないこと」
に尽きるのです。

ビジネスの世界でも、レベルアップするためには、本を読んだり、想像力を働かしたり、資格取得するだけでは全く不十分です。

ビジネスパースンとしての成長は、模範となるべき優秀な人間を見つけ出し、彼ないし彼女の、思想、哲学、構想力、企画力、段取り、行動、管理法を目の当たりにし、これを模倣することによってしか達成できないのです。

00057_「ご臨終間際の企業」とのつきあい方

生きていくための知恵はどこで身につけるか世の中で生きていくために、本当に大事なルールや段取りや考え方は、学校の教科書や文部科学省推薦図書に掲載されていませんし、学校の先生も教えてくれません。

というか、教師はこの種のことを知りません。

「人を信じるな。自分も信じるな。すべてを疑え」
「親や教師や目上の人間のいうことでも間違っていることがある」
「大手や役所と取引があるといって安心するな」
「どうやったら、効率的に金儲けができ、愉快に生きられるかを真剣に考えろ」
「どこに自分にとって快適な居場所があるかを真剣に考えろ。みつけたら、全てをなげうって、そこに最短経路でたどり着け」
「どういう人間と付き合うと出世し、どういう人間についていくと酷い目に遭うかをきちんと見極めろ」
「上品に失敗するより下品に成功する方がマシに決まっている。むしろ成功者や成金はたいてい下品に成功した後、上品に振る舞おうとするものだ。成功した後の上品な戯言は一切無視して、どうやって下品に成功したかをきっちりスタディしろ」
などといった、
「世の中をうまく生きていくための本質的なルール」
を身につけるためには、実地で学ぶことが必要なのです。

バカな会社やダメな会社に入っても何も得るものは全く皆無です。

ダメな会社やバカな会社に入っても、
「探せばどこかいいところがあるはずだ」
「ダメなところをそのまましないようにすれば自分としても成長の糧を得られる」
とポジティブな考え方をする人がいます。

その際、自分を納得させるために、
「反面教師」
という言葉が使われます。

曰く、
「反面教師という言葉があるじゃないか。この会社の経営のあり方を反面教師として、自分は成長するぞ」
と。

一般に、
「反面教師」
とは、
「悪い手本となってくれる事柄や人物」
のことを指すと考えられており、
「人のふり見て、我がふり直せ」
と同じ意味で使われることが多く、故事成語のように思われています。

由来について言えば、「反面教師」
という言葉は、古来の諺でも何でもなく、第二次世界大戦後、毛沢東によって開発された陰惨なリンチ手法を指すものです。

すなわち、毛沢東はある組織に、能力ないし思想に欠陥がある者がいた場合、あえて放逐せず、仕事や権限や尊厳を一切奪った状態で飼い殺しにし、その酷い状況で晒者にすることにより、制裁を加えるとともに、同様の人間の発生や増殖を防ぐという規律手段を用いたそうです。

そして、
「そのリンチの対象となった人物」
を指して
「反面教師」
と言ったそうです。

いずれにせよ、
「反面教師」
は、
「リンチのターゲット」「悪い手本」
ですが、ここから学ぶものは一つもなく、また、学んではいけないものです。

そして、学ぶが「真似ぶ」から転じたことから考えれば、近くにいて、絶対真似てはいけない悪例をどれだけ時間をかけて観察しても有害な意味しかありません。

むしろ、一刻も早く「反面教師」ないし「反面教師」が生息する環境から逃亡して距離を置き、「正面教師」「模範対象」「正しいお手本」の近くに行き(「謦咳に接する」という言葉がありますが、それこそ飛沫感染するくらい近づき)、真似び、学ぶことが正しい教育あるいはキャリア形成というべきです。

たとえば、ここに、東大を強く志望する、開成中学受験に合格した少年がいたとしましょう。

この少年を、あえて、
「教師も生徒もやる気のない、田舎のすさんだ公立中学」
に放り込んでしまいます。

この場合、少年は、周囲の人間や環境を
「反面教師」
として学んで、人として大きく成長して、無事東大に合格してくれるでしょうか。

逆ですね。

おそらく、そのまま開成に入って中高六年間を過ごせば、現役で東大に合格できたであろう少年は、一生東大に合格できないで終わることになるでしょう。

このように
「反面教師」
は、人間の健全な成長にとって有害無益なものなのです。

「目の前の残念な人間や環境を反面教師として成長するぞ」
などという文脈において語られる
「反面教師」
という言葉は、ダメな人間がダメな人間関係やダメな環境から抜け出す努力を放棄する際の自己正当化の弁解道具に過ぎません。

賢明な人間は、
「反面教師」
から全速力で逃げて遠ざかり、一刻も早く
「模範たる教師」
をみつけるための努力をするものです。

00056_本屋のない地方は衰退する_20090420

最近、地方が疲弊しているといわれますが、実際、旅行等で地方に行ってみると、このことはひしひしと感じます。

例えば、ある地方の駅に降り立つと、駅前にコンビニエンスストアと洋菓子販売のフランチャイズ店と、
「ビジネスホテルとも旅館ともつかないお化け屋敷のような宿泊施設」
があるだけで、あとのお店はことごとくシャッターが閉まっていて、ゴーストタウンと化している。

そして、疲弊している地方には本屋が全くなく、本を買うのに非常に苦労します。

本屋がない地方に行くと、
「こんな地方には、永遠に未来がないな」
と感じてしまいます。

本屋がつぶれるということは、本を読まなくても困らない人が多数派を占めるということであり、本物の知識に価値を認める人が存在しない、ということです。

本を読まない人間は、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて人生を過ごすわけであり、本屋がない地方にも、国道沿いには、飲食店や居酒屋、ゲームソフトの販売店やビデオ販売店が乱立しています。

飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間は、やがて親になり、子供を教育する立場につきます。

しかし、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間が子供たちに本の価値を伝えることはできるはずもなく、こうして、本屋のない地方では本や知識に価値を認めない人間が拡大再生産されていきます。

本を読まず、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じてきた人間が文化的創造力を発揮することはあり得ず、かくして、本を読まない人間が多数となった地方には、発信に値する新しい文化が芽生えず、活力を喪失していきます。

東京に暮らしていると、東京には本屋が実に多く存在するということがわかります。

本屋が多い理由は、本を買って読む人がたくさんいるからです。

そして、多数の本を読む人の出会いが契機となって価値ある文化が生まれるのです。

ここで、京都と大阪を比較してみます。

日本書店商業組合連合会加盟書店数の比較(かなり前の統計ですが、トレンドとしては変わっていないと思います)ですが、書店数については、大阪は245店、京都は211店とほぼ同数です。

人口比で、大阪府(880万人)と京都府(260万人)では、約3倍の開きがあることを考えれば、総じて、大阪は
「人が多く、本屋が少ない」
ということがいえます。

活力に満ちた地方都市の代表格である京都の文化発信力がすぐれているのは、ただ単に、昔、都が置かれていたから、というわけではありません。

大阪にも、あるいは奈良にも、京都より古い時代から都が置かれましたが、奈良も大阪も、みるも無残に疲弊しています。

意味もなく人がウジャウジャいれば文化が生じるというわけではありません。

地方に活力が生まれるか否かは、文化発信の担い手となるべき本を読むインテリ層がどれだけ多いか、さらにいえば、インテリを作るインフラである本屋の数がどれだけ多いかに関わっているのです。

その昔、定額給付金制度があったころ、とある地方で、定額給付金が支給される様子が報道されました。

その際、紹介されたのは、定額給付金の支給を受けた男性が、スナックに直行して焼酎とつまみを楽しむ様子でした。

この報道をみて、私は、
「この地方に未来はないな」
と感じました。

もし、この地方に本屋が多数あり、この男性が定額給付金で本を買っている様子が報道されれば、ずいぶん違った印象をもったかもしれません。

しかしながら、実際、定額給付金をもらってスナックに直行して楽しそうに焼酎を飲む男性を通してみえたのは、未来も何もなく、ただただ疲弊していく地方の姿でした。

言葉はなんとか解っても、話がみえない、意図もみえない、という新種の文盲(機能的非識字)が増えている、という研究報告があります。

メールから、ツイッターへ、さらに、インスタグラムやティック・トックへ、と日本人はますます文字に触れなくなっています。

私個人としては、未来には、字が象形文字になり、
「本」
という文化がなくなるのでは、と考えてしまいます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.020、「ポリスマガジン」誌、2009年4月号(2009年4月20日発売)

00055_観る前から駄作と決めつけている映画:文部科学省推薦映画_20090320

映画の中に、文部省推薦(文部科学省推薦)というものがありますが、私はこういう推薦があると、観る前から駄作と決めつけることにしています。

そして、もちろん、物事には例外というものもあり、全てに当てはまるとはいいませんが、この決めつけは、たいてい正しく、実際、当該被推薦映画を間違って観てしまった友人等に感想を聞くと、「駄作。観て損した。時間とカネの無駄だった」という評価が多く、私の決めつけの正しさを裏付けます。

ちなみに、この「文部科学省推薦映画」、ウェッブサイトを観ると一定の規程に基づき選定されているようですが、その選定基準の内容は
「教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されることが適当と認められるもの」
とされています。

そもそも、映画というのは、勉強とか教育とか仕事とかいったツマンナイ日常から逃れるために観るものです。

学校とか教育とかがイヤで、非日常の空想に耽ろうと逃れたら
「教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されるような映画」
が待ち構えていたとなると、たまったものじゃありません。

エンタテイメントの世界では、
「死」や
「セックス」や
「暴力」
といった
「社会生活の中で抑圧されている、非日常で道徳に反する事象」
を取り扱った方がウケることはよく知られています。

すなわち、エンタテイメントというのは、道徳とか教育とかとは対極に位置するものです。

その昔、
「事実上独裁体制が維持されている、テロ国家との指定を受けている東アジアの某国」
が、当該国とイギリス諜報部とのスパイ合戦を描いた大ヒット映画
「007/ダイ・アナザー・デイ」
を、
「悪の帝国で変態と堕落、暴力と色情の末世的な退廃文化を広げる総本山」
と評したことがあります。

教条的で道徳を強調した独裁体制を有する国家から
「暴力と色情の末世的な退廃文化を広げ」た映画
と批判されたということは、裏を返せば、当該映画が優れたエンタテイメント性を有することが確認されたのと同義であり、当該国からの当該批判は、エンタテイメントの世界では勲章ものの話です。

実際、このことを裏付けるかのように、当該作品は大ヒットとなりました(全世界興行収入約4億ドル、007シリーズとしてはそれまでの最大のヒット作)。

私としては、国民一般の教育水準向上は、国家の機能・役割として非常に重要であり、その意味では、文部科学省の役割には多いに期待しております。

しかしながら、教育が機能しうるのは、せいぜい15才ころまでで、その後は、勉強とか自己研鑽とかは個々人の責任で行っていくものです。

実際、義務教育を終えた16、17才になると、勉強に価値を見いださない人間についてはどんな教育を施しても無意味であり、逆に、
「勉強をすることが将来の保障につながる」
という単純な社会事実を理解した人間については、放っておいても自主的に勉強をします。

文部科学省は、初等・中等教育については「ゆとり」など与えず、もっと充実させた方がいい、と思っていたら、やっぱり、「ゆとり」教育はなくなりました。

反面、大学・大学院については、教育・研究内容に介入せず、環境整備に留めておくべきだと思います。

ましてや、文部科学省が、
「反道徳・反教育的なものほど価値が高い」
とされるエンタテイメントの世界にまで首を突っ込み、エンタテイメントの本質を見誤った駄作を見つけ出して推薦する等といった純然たる愚行は即刻辞めた方がいいような気がします。

「ものを知らない子供に対してだけでなく、世の中のウソがある程度わかる大人に対してまで、国家主導で道徳的・教育的価値を普及する」
等という悪趣味な行政運営は、成熟した文明国としてはむしろ嫌忌すべきものですから。

私が映画制作者だったとして、もし、文部科学省から
「あなたの映画は、教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されるような映画ですので、この度、文部科学省推薦映画に内定しました 」
という連絡来たらどうするか。

1、そんなに駄作だったか、文部科学省から推薦を受けるとは、落ちぶれたものだ、と嘆息し、映画の世界から足を洗う

2、文部科学省に対して、「推薦とか、頼むからやめてください。どうしても、推薦なんて嫌がらせするなら、配給前にセックスシーンと暴力描写と殺人シーンを挿入しますよ。それでもいいんですか!とにかく、そっとしておいてください。それでも推薦を強行するなら、立派な営業妨害ですよ」と言って、推薦をやめてもらう

のどちらかでしょうね。

ちなみに、私のコラムやエッセイは、自分自身では
「教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されるようなコンテンツ」
だと思うのですが、まあ、文部科学省から「有害コンテンツ」 とされることはあっても、同省推薦とはならないでしょうね。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.019、「ポリスマガジン」誌、2009年3月号(2009年3月20日発売)

00054_罪を憎んで、人も憎む_20090120

「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、これは性善説で有名な孔子の教えに由来するものだそうです。

「罪を犯すにはそれなりの理由がある、故に、罪を犯した人間をいたずらに罰するのではなく、むしろ、生来善である人間が、何故に罪を犯すに至ったのか、その動機や背景を問え」
という意味であるといわれておりますが、私は、この言葉が大嫌いです。

人間は、自由な意志をもち、ゆえに自分の行動なり人格に対して責任を持ちます。そして、社会は、このような
「自己規律のできる人間」
を主要な構成員として成り立っております。

他方、未成年者や、認知能力・精神活動に問題を抱えた成人といった、自己規律が困難な方々は、適切な保護監督者の支配規律の下、家庭や学校や精神病院に隔離され、社会参加の全部または一部が否定されます。

このような言い方をすると、
「家庭や学校や精神病院と、刑務所が同じであるという意味か」
と各方面からお叱りを受けそうですが、これは
「意味や目的はさておき、機能面、結果面だけ捉えると、同じような働きをしてる」
と答えるほかありません。

「成人同様の体格・精力をもちながら、自己規律が不十分な思春期の15歳前後の若者が、仕事もせず、ブラブラした状態で町中にあふれ返っている状況」
や、
「認知症の老人や精神疾患を抱えた方々がそこらを気ままに徘徊する状況」
というのを想像してみてください。

本来適切な場所において、適切に収容されるべき方々を無秩序に社会参加させると、社会運営に少なからず影響を及ぼすことは明らかです。

子供の人権や認知症・精神病患者の人権を尊重する立場の方々も、まさか
「子供や認知症・精神病患者を無制限に社会に解き放て」
というご主張をされているわけではないはずです。

「社会を適切かつ健全に運営する」
という点からみれば、学校は教育機関であると同時に隔離施設であり、認知症患者をケアする施設や精神病院も治療施設であると同時に収容施設としての意義を有するとの現実を直視せざるを得ません。

話がややそれましたが、自由な意志と自己規律が可能な者として社会参加した成人が犯罪を行い、被害者の人権を否定し、あるいは社会に脅威を与えた場合、同害報復の観点からしかるべき応報刑が執行されるべきことは当然の理です。

「社会が悪い」
とか
「法律をよく知らなかった」
とかいった戯言は、未成年者や認知・精神活動に問題を抱えた方々の弁解としては許されてしかるべきでしょうが、
「自由な意志と自己規律ができる大人として社会参加を許された者」
がなすべき弁解としては考慮すべきではありません。

何より、自ら進んで犯罪を行うという選択により他者の人権や法の尊厳を否定しておきながら、責任を取る場面において自分の人権や法の保護を声高に求めるという卑劣な態度は、
「いい大人」
の行動としてはあまりにも見苦しいですし、こんな無責任な大人が増えれば社会が機能停止に陥ります。

最近、
「自分のケツを自分で拭ける年齢の、いい大人」
が罪を犯しておきながら、処罰を受ける段階になって、
「世間が悪い、社会が悪い、育ちが悪い、あのときはテンパっていた」
等と見苦しい弁解をするケースが多くみられます。

そして、刑事裁判官も上記のような「程度の悪い弁解」を素直に受け容れ、処罰を甘くすることを平気で行います。

子供を甘やかすとロクな大人にならないのと同様、大人を甘えさせてもロクな社会は築けません。

罪も憎いですが、何よりまず憎むべきは、
「自由な意志の下、他者の人権や法の尊厳を否定し、社会に脅威を与えた犯罪者個人そのもの」
です。

自己責任・自己規律の精神に満ちた健全で力強い社会を創造するためにも、
「犯罪者の人権」
等といった空疎なイデオロギーに振り回されることなく、
「罪を憎み、それ以上に、犯罪者個人も憎悪する」
という当たり前のことが適切に行われるべきではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.017、「ポリスマガジン」誌、2009年1月号(2009年1月20日発売)

00053_「自由」なんて代物、ほんとに必要?要らないし、あっても困るし、あったら不幸になるかもよ_20081220

こういう寓話があります。

ある国では奴隷制度を採用していました。奴隷階級の者は、土地に縛りつけられ、差別され、農作業や家事を手伝わされる毎日でした。もちろん、奴隷に自由はありません。

とはいえ、あまり過酷な労働を課すと、奴隷も死んでしまいます。

支配階級からすると、奴隷も機械も同じですから、オーバーヒートするまで使い続けた結果壊してしまっては、大事な資産を失うことになります。

特に、難しい作業をさせる奴隷は、ある程度教育や訓練が必要です。

奴隷への教育や訓練は投資と同じです。高額の投資をした奴隷は、チューンナップした高級車と同じようなものですから、支配階級も雑には扱わず、非常に丁寧に扱い、長く愛用します。

奴隷には自由はありませんでしたが、かといって、病気や怪我をさせられるわけではなく、「普通に暮らせる」といえば「普通に暮らせる」毎日でした。

あるとき、若い王子が父の後を継いで王位につきました。

新しい王は、若いころ奴隷制を廃止した国に留学した経験があり、留学先の進んだ社会の様子をみていたことから、この国の奴隷制度を非常に遅れた制度と考えていました。

新しい王は、自由が与えられない奴隷たちを不憫に思い、奴隷解放を宣言します。

しかし、奴隷解放に対して猛烈な反対の声が上がりました。

反対をしたのは、奴隷たちでした。

新しい王に対し、
「今までご主人様のところで仕事と生活が保障されていた。お前が余計なことをしてくれたおかげで、明日からの生活の展望がなくなり、路頭に迷ってしまうことになるじゃないか。早く奴隷制度を復活させろ」
と。

ブラックな笑いを誘う寓話ですが、私は奴隷制維持を望んだ奴隷達は非常に賢明であると思います。

「自由」というのは「自由」を使いこなせる人間にとっては非常に価値のあるものですが、今まで「自由」というものを知らず、「自由」を使いこなす自信のない人間にとっては、厳しく、凶暴な理念です。

「自由」を使いこなすには、

・創造的知性と圧倒的な情報量、
・タフでクレバーなメンタリティ、
・生き馬の目を抜く敏捷さと他人を出し抜く度胸

といった資質・能力が必要です。

こういうものを持ち合わせない一般人にとっては、「自由」がもらえるといっても、

・試行錯誤する自由や失敗する自由、
・失敗してもお節介を焼かれずほっといてもらえる自由、
・適切な情報が与えられない状態で放置される自由、
・騙される自由

といったもので、与えられても困るような代物ばかりです。

1990年代、

「日本には自由がない」
「規制ばかりで何にもできない」
「行政が何から何まで指導する」

といった不満の声が日本社会に渦巻いておりました。

このような声を受けて橋本政権から小泉政権にかけて、徹底した規制緩和が行われ、日本に待望の「自由」が訪れました。

・不要な従業員をリストラする自由、
・非正規社員を徹底的に安くこき使う自由、
・法の不備をついてこっそりと大量に株を買い集める自由、
・魅力的な企業をカネにあかせて買いたたく自由、
・富めるものが富を増やす自由、それに、
・貧しいものを放置する自由。

自由は格差を生み、格差を広げます。

自由と格差があふれる現代の日本社会は、かつての日本人が望んだ理想の社会のはずでした。

ところが、最近、格差社会の解消や、自由な取引の結果当事者間に不公正が生じる取引について規制を求める声が上がり始めています。

日本社会のこういうアホさをみるにつけ、
「自由などあっても能力のない自分たちには使いこなせない」
と冷静な判断が出来、
「自由なんか要らないから、とにかく奴隷制を維持し、今の安定した生活を保障してくれ」
と求めた前述の奴隷たちは、実は我々よりはるかに現実的で賢明であったと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.016、「ポリスマガジン」誌、2008年12月号(2008年12月20日発売)