00054_罪を憎んで、人も憎む_20090120

「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、これは性善説で有名な孔子の教えに由来するものだそうです。

「罪を犯すにはそれなりの理由がある、故に、罪を犯した人間をいたずらに罰するのではなく、むしろ、生来善である人間が、何故に罪を犯すに至ったのか、その動機や背景を問え」
という意味であるといわれておりますが、私は、この言葉が大嫌いです。

人間は、自由な意志をもち、ゆえに自分の行動なり人格に対して責任を持ちます。そして、社会は、このような
「自己規律のできる人間」
を主要な構成員として成り立っております。

他方、未成年者や、認知能力・精神活動に問題を抱えた成人といった、自己規律が困難な方々は、適切な保護監督者の支配規律の下、家庭や学校や精神病院に隔離され、社会参加の全部または一部が否定されます。

このような言い方をすると、
「家庭や学校や精神病院と、刑務所が同じであるという意味か」
と各方面からお叱りを受けそうですが、これは
「意味や目的はさておき、機能面、結果面だけ捉えると、同じような働きをしてる」
と答えるほかありません。

「成人同様の体格・精力をもちながら、自己規律が不十分な思春期の15歳前後の若者が、仕事もせず、ブラブラした状態で町中にあふれ返っている状況」
や、
「認知症の老人や精神疾患を抱えた方々がそこらを気ままに徘徊する状況」
というのを想像してみてください。

本来適切な場所において、適切に収容されるべき方々を無秩序に社会参加させると、社会運営に少なからず影響を及ぼすことは明らかです。

子供の人権や認知症・精神病患者の人権を尊重する立場の方々も、まさか
「子供や認知症・精神病患者を無制限に社会に解き放て」
というご主張をされているわけではないはずです。

「社会を適切かつ健全に運営する」
という点からみれば、学校は教育機関であると同時に隔離施設であり、認知症患者をケアする施設や精神病院も治療施設であると同時に収容施設としての意義を有するとの現実を直視せざるを得ません。

話がややそれましたが、自由な意志と自己規律が可能な者として社会参加した成人が犯罪を行い、被害者の人権を否定し、あるいは社会に脅威を与えた場合、同害報復の観点からしかるべき応報刑が執行されるべきことは当然の理です。

「社会が悪い」
とか
「法律をよく知らなかった」
とかいった戯言は、未成年者や認知・精神活動に問題を抱えた方々の弁解としては許されてしかるべきでしょうが、
「自由な意志と自己規律ができる大人として社会参加を許された者」
がなすべき弁解としては考慮すべきではありません。

何より、自ら進んで犯罪を行うという選択により他者の人権や法の尊厳を否定しておきながら、責任を取る場面において自分の人権や法の保護を声高に求めるという卑劣な態度は、
「いい大人」
の行動としてはあまりにも見苦しいですし、こんな無責任な大人が増えれば社会が機能停止に陥ります。

最近、
「自分のケツを自分で拭ける年齢の、いい大人」
が罪を犯しておきながら、処罰を受ける段階になって、
「世間が悪い、社会が悪い、育ちが悪い、あのときはテンパっていた」
等と見苦しい弁解をするケースが多くみられます。

そして、刑事裁判官も上記のような「程度の悪い弁解」を素直に受け容れ、処罰を甘くすることを平気で行います。

子供を甘やかすとロクな大人にならないのと同様、大人を甘えさせてもロクな社会は築けません。

罪も憎いですが、何よりまず憎むべきは、
「自由な意志の下、他者の人権や法の尊厳を否定し、社会に脅威を与えた犯罪者個人そのもの」
です。

自己責任・自己規律の精神に満ちた健全で力強い社会を創造するためにも、
「犯罪者の人権」
等といった空疎なイデオロギーに振り回されることなく、
「罪を憎み、それ以上に、犯罪者個人も憎悪する」
という当たり前のことが適切に行われるべきではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.017、「ポリスマガジン」誌、2009年1月号(2009年1月20日発売)

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