親が亡くなったとき、残された財産をめぐって兄弟が揉める——。
ドラマやニュースでよく見る光景ですが、実はこれ、決して他人事ではありません。
「うちは仲がいいから大丈夫」
と思っている家族ほど、いざお金の話になると豹変する、というのが現実です。
こんなケースを考えてみてください。
実家で不動産賃貸業を営んでいた父親が亡くなりました。
会社は長男が継いだのですが、その長男が
「会社の財産と個人の財産は別だ」
と言い張り、遺産を独り占めしようとしています。
調べてみると、長男は父から会社の株を
「買い取った」
ことになっているのに、代金を支払った形跡がない。
さらには、父親が生きているあいだに預金を勝手に引き出した疑いまである。
おまけに長男はすでに大手法律事務所の弁護士を立て、高圧的な通知を送りつけてきた——。
さて、あなたがこの
「もう一人の子ども」
だったとしたら、真っ先に何をしますか。
たいていの人は、
「弁護士さん、今すぐ裁判してください!」
と言いますね。
気持ちはわかります。
裏切られた怒り、悲しみ、焦り。
感情が爆発するのは人間として自然なことです。
しかし、冷静に考えてみてください。
「すぐ裁判」というのは、本当に賢い選択なのでしょうか?
プロは、なぜすぐ動かないのか
優秀な弁護士に相談すると、こんな答えが返ってくることがあります。
「動くのは後です。まずは徹底的に調べましょう」
これを聞いて、
「頼りない」
「なんで戦ってくれないんだ」
と感じる人は少なくありません。
でも、これこそがプロの仕事なのです。
医者に例えるとわかりやすいかもしれません。
「お腹が痛い!すぐ手術してくれ!」
と叫ぶ患者に対して、腕のいい外科医はいきなりメスを握りません。
まずは血液や尿検査をして、画像を撮って、内視鏡検査をして、症状の原因を正確に把握してから、治療方針を決めますね。
弁護士も同じです。
感情に引きずられて即座に法廷へ走ることは、診断もせずに依頼者を手術台に乗せるようなもの。
むしろ、そちらのほうが危険なのです。
「デューデリジェンス」という、地味だけど最強の武器
プロが真っ先にやること——それは
「デューデリジェンス」、
つまり徹底的な事前調査です。
難しい言葉ですが、要するに
「戦う前に、全体像を把握する」
ということです。
先ほどのケースなら、次のような作業になります。
父親が本当に持っていた財産はどれだけか。
銀行口座、不動産、株、負債——すべてをリストアップします。
長男が
「会社のお金」
と言い張っているものが、本当に会社のものなのか。
株の代金が実際に支払われたのか、通帳の動きを丁寧に追います。
父が生きているあいだに引き出された預金の行方はどこか。
これは地味な作業です。
華やかさのかけらもありません。
でも、この
「財産の地図」
を作らずに戦いに出ることは、地図なしで山に登るようなもの。
遭難するのは依頼する人間のほうです。
ちなみに、調査の一部は自分でもできます。
手元にある通帳の確認や、不動産登記簿の取得などは、特別な資格がなくても可能です。
ただし、
「何を・どの順番で・どう調べるか」
を間違えると、相手に警戒されたり、せっかく集めた証拠が使えなくなったりすることもあります。
闇雲に動くより、まず全体の段取りを頭に入れておくことが大切です。
そして調査が終わったら、次に考えるのが
「費用対効果」
です。
法的に勝てる見込みがあっても、裁判にかかる費用と時間が、取り戻せる金額を上回るなら——その戦いは、経済的には
「負け」
です。
怒りをぶつけるためだけに、多大なコストを払うことになります。
相手の弁護士は「敵」じゃない
ここからが、素人とプロの認識の差が最も大きく開く部分です。
「大手事務所の弁護士まで出てきた。いよいよ戦争だ!」
こう思う人は多いです。
でも、見方を変えると、まったく違う景色が見えてきます。
相手方に弁護士がいるということは、むしろ交渉の窓口があるということです。
弁護士同士は、同じ法律というルールの下で動く
「同業者」
です。
感情的な当事者同士が直接ぶつかり合うより、プロ同士が話したほうが、冷静に話が進みます。
そして、ここで使える
「切り札」
があります。
「相続税の申告期限」
です。
相続税は、亡くなった日から原則10か月以内に申告・納税しなければ、重いペナルティが課されます。
これは、こちら側にとっても、長男にとっても、
「共通の締め切り」
です。
「身内で争って、税務署に余計なペナルティを払うのは、お互いの損ですよね。まず納税という共通のゴールに向けて、少し歩み寄りませんか」
このように共通の利益を持ち出して、相手を交渉のテーブルに引き出す。
戦うのではなく、場を設計する。
これが、冷静な頭を持つ人間のやり方です。
裁判は「最後の手段」である
こうした水面下の調査と交渉を丁寧に積み重ねた結果、相手が合理的な範囲で話し合いに応じてくれるなら、裁判所を使わずに解決できます。
これが、最も安く、最も早く、誰も傷つかない
「スマートな決着」
です。
しかし、これだけ手を尽くしても、長男がどうしても不当な主張を曲げない——そのときに初めて、家庭裁判所への申し立てという最終手段が登場します。
裁判は
「正義の剣」
ではありません。
時間もお金も精神力も根こそぎ持っていかれる、非常にコストの高いプロセスです。
そして忘れてはならないのが、感情のコストです。
一度法廷で白黒つけてしまえば、たとえ勝っても、兄弟が一生口をきかない、顔さえ見たくない関係になることは珍しくありません。
お金は取り戻せても、家族はもう戻らない——そのリスクを、
「すぐ裁判!」
と叫ぶ前に、冷静に考えておく必要があります。
「すぐ動く人」より「よく見ている人」が勝つ
感情が激しいとき、人は
「動くこと」
で不安を紛らわそうとします。
でも、本当に強い人間は、感情が高ぶっているときほど、静かに情報を集めます。
これは相続トラブルだけの話ではありません。
ビジネスでも、人間関係でも、何かトラブルに直面したとき、
「すぐ動く人」
より
「よく見ている人」
「よく思考している人」
のほうが、最終的にいい結果を手にすることが多いものです。
怒りのままに
「すぐ裁判!」
と叫ぶ前に、少し立ち止まってみませんか。
本当に自分を守る戦い方は、もう少し静かで、もう少し賢いはずです。
著:畑中鐵丸