20201220_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」33・終_総括

これまで、苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」として、起業を考えたり、将来経営幹部を目指したり、すでに家業をついでオーナーとして企業経営をしておられる方の心構えに至るまで、
「過酷な経済社会を生き抜くための表層的なノウハウ、テクニック」
を超えた、
「本質的なリテラシーやマインドセットを含めた生き方、考え方」
をお伝えしてきました。

いずれも、
「好感度がイマイチで、マイノリティ志向の強い、毒舌家で、(本人にはさっぱり理由は不明ながら)とかく敵が多い、畑中鐵丸」
が語る、
「誰にでも適用されるべき普遍的理念」
とは真逆の、
「極めて適用範囲の狭い、独善的で偏見に満ちた代物」
といえなくもなかった代物であったかもしれません。

そんな、好感度が芳しくなく、とかく口の悪い畑中鐵丸ですが、
「これだけは、美徳として堅持している」
というものがあります。

それは、畑中鐵丸の気質として、
「ウソをつくのが下手くそ」
というか、
「ウソをつけない」
というか、
「思ったまま、考えたことを口に出してしまう」
という点です。

美点なのか欠点なのかは捉え方にもよりますが、私の語る内容は、だいたい、的のど真ん中を射ちゃっていると思います。

畑中鐵丸は、
「理想」
を語るのは、苦手というか、下手クソです。

だって、
「理想」
って、現実とは違う、いってみれば、キレイでデオドラントな
「ウソ」
ですから。

「仕事や人生の大事な局面」で、「常識や、学校の先生や親に教えられたことや、テレビや新聞で言っていること」にしたがうと、たいてい失敗します。

「常識や、学校の先生や親に教えられたことや、テレビや新聞で言っていること」は理想であり、キレイゴトであり、耳障りはいいものの、役には立たないのです。

「仕事や人生の大事な局面」は、「キレイゴトではどうにもならない、圧倒的な現実」が大きく立ちはだかり、これに対して、「あの手、この手、奥の手、禁じ手、寝技、小技、反則技」を繰り出す「ルール軽視の何でもあり」で死にものぐるいで生き残るような場面ですから。

いずれにせよ、人生、世渡り、身過ぎ世過ぎの上で、役に立つのは、キレイゴトではなくリアリティです。

弁護士として、企業の大事や切所に立ち会う専門家として、常に、リアリティを語ってきましたし、現実に立ち向かうためのリアリティを語ろうとすると、クライアントや関係者がキレイゴトを盾に邪魔をし、足を引っ張ります。

キレイゴトは、有害に作用し、キレイゴトに沿った処理をすると、たいてい首を締め、死期を早めますし、結局は利敵の論理に過ぎません。

その意味では、私は、常に、リアリティを語り、敵と同時に、キレイゴトを語って利敵に回る内部の世間知らずの大馬鹿者と対向する、という二正面作戦を強いられ続ける職業人生を歩んできました。

その意味で、私は、現実を、みたまま、とらえたまま、正確に伝えるのは、得意です。

ウソをついたり、美辞麗句でごまかしたり、といった面倒なことをしなくて済みますから。

他方、真実ほど、残酷に人を傷つけるものはありません。

あるとき、クライアントの高齢の社長に言われたことがあります。

「先生、何をいっても結構だ。タブーなき議論が大事だ、というのもわかる。けれどもね、本当のことだけは言っちゃいけない。先生から、反論できない事実や真実を言われると、本当につらくなるし、死にたくなるからさ」
と。

しかしながら、
「真実、事実、現実、本当のこと」
は、課題の発見・特定・処理に不可欠であり、
「真実、事実、現実、本当のこと」
を避けては、問題の改善はおよそ困難です。

もちろん、ここで今まで述べたことは、
「真実、事実、現実、本当のこと」
のほんの一部です。

まだまだ、きちんと把握し、再確認しておくべき
「真実、事実、現実、本当のこと」
は無限にあります。

では、どうやって、偏見や誤認や誤った評価・解釈を避けて、
「真実、事実、現実、本当のこと」
を正しく、客観的に、フェアに到達する知性や感性を身につけるべきか。

それは、実は簡単なことです。

子供のころから、耳にタコができるくらい、繰り返し言われてきた、親御さんや、小学校の先生や、テレビや、新聞がインプットしてきた
「常識」
「良識」
「社会のルール」
「道徳」
「倫理」
といったものを、すべて忘れ去ることです。

親御さんや、小学校の先生や、テレビや、新聞が、
「教育」
という名の
「洗脳」作用
を通じてインプットしてきた
「常識」
「良識」
「社会のルール」
「道徳」
「倫理」
なるものは、いってみれば、
「理想」
をキレイゴトとして美しく語っているに過ぎず、それは、
「真実や現実とは真逆のもの」
であって、いってみれば、耳に心地いい
「ウソ」
に過ぎません。

「ウソ」
をありがたく奉じて、真実や現実をないがしろにしては、問題解決はおろか、課題の発見・特定すら困難です。

20世紀最大の物理学の権威にして、歴史的な天才科学者であるアインシュタインは、
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
と喝破しました。

「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理にしたがって考え、行動していたら、どうもうまくいかない。何か違和感を感じる」
そんなときは、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
こそ疑ってみるべきです。

もちろん、
「『常識や良識や社会のルールや道徳や倫理』のすべては無価値で無意味である」
というような過激なことを言うつもりありません。

ですが、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
にも
「耐用年数」
というものが観念できます。

ひょっとしたら、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
なるものが、制度疲労や本質劣化の限界に達していて、効用喪失を通り越して、有害になってしまっており、それが、
「違和感」
となって皆さんに警告音を発しているのかしれません。

私がよくクライアントや学生や弟子にお伝えする話として、こんな事例があります。

「それまで圧倒的通説であった天動説が、何時、どのようなプロセスを経て、地動説に、通説の座を譲ったのか、知っていますか」
「天動説の学者が、観測データや天文現象を目の前にして、その背景原理における自説の致命的な誤りに気づいて、非を認め、大いに恥じ入り、膝を屈して、『私が愚かでした。バカでした。間違っていました。地動説の正しさを認めます。今までアホな考えに固執してすいませんでした』とお詫びしつつ、説を変え、転向したのでしょうか」
と。

実際は、バチカンの天動説の学者は、どんな観測データや天文現象を突きつけられても、コペルニクスが地動説を唱えてから400年近くも、頑として、自らの誤りを認めず、自説の正しさに固執し、
「下水管のネズミ」
のようにしぶとく生き残り続けました。

バチカンの天動説の学者が死ぬときも、死してなお、有害な毒でしかない愚昧な自説を譲らず、生き残った者にまで愚かさを感染させていきました。

すなわち、天動説の学者は、自らの死の間際に、弟子や後継者たちに、
「いいか、地動説は絶対間違いだからな。邪説だからな。どんな観測データや天文現象を示されても、悪魔の説だ。わかったな。オレが死んでも、天動説を信奉し、地動説などという異説・邪説に転向するなよ。もし転向・変節したら、化けて出てやるし、おまえら全員地獄に行き、煉獄の炎に焼かれるぞ」
と真顔で脅迫して、それこそ
「孫子の代」
まで、
「天動説」
という愚説を信奉するよう強制したのです。

こうして、天動説という愚説は、バチカン内部で、400年近くも
「冷蔵庫の裏のゴキブリ」
のようにしぶとく生き残り続けたというわけです。

バカチン、もといバチカンが、地動説に転向したのは、1993年になってからです。

ネコが粗相を隠すように、転向をさとられないよう配慮しつつ、地味に、ひっそり、姑息に、ひそひそ、しれっと、知らない間に、さっくり、転向しました。

実に、姑息で、卑怯で、卑劣なやり方で、
「異説を唱える反対者を火炙りにしてまで守り続けた、愚説としての自説」
をしめやかに放棄し、人目を憚り、こっそり、ひっそり転向したのです。

「バカは死ななきゃ治らない」
などといいますが、天動説を組織的に信奉したバカチンもとい、バチカンの頑迷固陋ぶりは、これを通り越しています。

「死んでも治らないバカ」
「死してなお、生き残ったものも縛り付ける有害ではた迷惑なバカ」
とでもいうべき、地獄に落ちてもいいくらいのバカさ、アホさ、愚劣さです。

また、転向の際の卑劣さや姑息さも際立っており、唾棄すべき品位低劣さです。

「ちゃんと、自己批判して、総括しろよ」
「ガリレオやコペルニクスといった天才たちに、三跪九叩頭の礼を以て、きちんと謝罪しろよ」
と言いたくなります。

何を言いたいか、といいますと、
「常識にとらわれるな」
「違和感が生じたら、違和感こそ大事にしろ」
「自分の違和感を疑わず、教育の名の下に行われた『洗脳』によって18歳に植え付けられた『常識』という『偏見のコレクション』をこそ疑え」
ということです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.161、「ポリスマガジン」誌、2021年1・2合併月号(2021年1月20日発売)

20201120_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」32_(18)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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(10)いいカッコをする人間の「イタさ」と、その末路
これまでみてきたとおり、我々は、生きている限り、法を犯さずにいられませんし、また、そのような外聞の悪い人生を、プライバシー権を盾に、冷蔵庫の陰に隠れたゴキブリのように、こっそり、ひそひそと姑息に生きています。

ところが、なかには、イイカッコをしたり、いい人であろうとしたり、美辞麗句を述べたり正義のヒーローを演じる人間がおり、彼ら彼女らは、人間の本質に反する行為を行います。

いうなれば、
「タチの悪いウソつき」
です。

この種の人間は、
「私は法を犯したことはない」
などという
「悪質なウソ」
をつかないと自分を成り立たせることはできない、悲しくて、イタい人間なのです。

もちろん、
「一般人」
としてコソコソ生きている限り、プライバシー権は保障されます。

ですが、
「正義のヒーロー」
とか
「理念を実現するリーダー」
とか自称して自ら進んでマスコミや世間に出た瞬間、プライバシー権は放棄したものとみなされ、過去の行いも含め、徹底的な監視の目にさらされます。

そして、ウソはいずれ、必ず露見します。

良い格好をしようとする偽善者(関西弁で「エエカッコシー」)は、小さなウソを守ろうとするために、どんどんウソを重ね、最後は、事態を過激な方向で打開しようと図り、大きな破滅を招きます。

アメリカ合衆国第42代大統領であったビル・クリントン氏は、ホワイトハウス実習生と性的な関係を持ったとする疑惑が持ち上がった際、1998年1月26日の記者会見で、
「もう一度言います。私はあの女性、ルインスキーさんと性的関係を持っていません。私は誰にも嘘をついたことがありません。いまだかつて一度もありません。この申し立ては虚偽です」
という、明らかなウソをつきました。

追い込まれた挙げ句の強弁ですが、これはダメでしょう。

「私は誰にも嘘をついたことがありません。いまだかつて一度もありません」
というのは、本当にタチの悪い、バレバレで、ミエミエで、スケスケの、額縁に入れてもいいぐらいの、金ピカで、まごうことなき、最悪の、ホンモノの
「ウソ」
です。

こんな
「ウソの中でも最悪のウソ」
をつかざるを得ない事態に至ったのは、ビル・クリントン氏が、
「正義のヒーロー」
とか
「理念を実現するリーダー」
とか自称して自ら進んでマスコミや世間に出た瞬間、プライバシー権は放棄したものとみなされ、過去の行いも含め、徹底的な監視の目にさらされたからです。

このような破滅を防ぐためには、

ア 意味なく無理して表に出ない
イ 表に出たとしても無理して良い格好をしない
あるいは
ウ 良い格好をして、それと真逆の事実を指摘されても、糊塗するために嘘をついたりせず、堂々と認めて開き直るか、プライバシーを盾に弁明を拒否する

のいずれか、またはすべてが推奨されます。

(11)プライバシーを武器にセクハラ疑惑を振り切ったトーマス判事の弁明術

ちなみに、アメリカ最高裁判事のクラレンス・トーマスという御仁は、就任の際、かつての部下であったアニタ・ヒルという女性法学者(オクラホマ大学教授〔当時〕)からセクシャル・ハラスメントで訴えられました。

要するに、出世の機会を得て、世に出て、しかも、法と正義を代弁するという
「究極の良い格好をしなければならない良識あふれる善人」
という立場を演じることが要求される立場を務めることになったところ、過去のセクシャル・ハラスメントを訴え出られて、かなり手厳しい状況に追い込まれたのです。

その際、同判事は、
「良い格好をして、それと真逆の事実を指摘されても、糊塗するために嘘をつく」
という戦略ではなく、
「プライバシーを盾に弁明を拒否する」
という、ある意味、振り切った態度決定を貫く戦略を取り、見事に窮地を脱しました。

その弁明たるや見事の一言に尽きます。

「I will not provide the rope for my own lynching or for further humiliation. I am not going to engage in discussions nor will I submit to roving questions of what goes on in the most intimate parts of my private life or the sanctity of my bedroom. These are the most intimate parts of my privacy, and they will remain just that, private. (意訳:私は、自分が社会的リンチを受け、さらなる誹謗中傷をうけるために、自分から攻撃材料を提供するつもりはない。こんな馬鹿げた議論に参加するつもりもない。私生活の根幹や、神聖な場所である寝室での事柄について、くだらない質問に答えるつもりもない。議論の対象が、私のプライバシーの中で最も機微に触れる部分であり、プライバシーそのものだから、答えないのは当然なはずです)」

こういう類まれなる弁舌のスキルをもつ超天才は別として、我々凡人は、
「雉も鳴かずば撃たれまい」
といった諺をよく噛み締め、地味に暮らしたほうが賢明なのかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.159、「ポリスマガジン」誌、2020年11月号(2020年11月20日発売)

20201020_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」31_(17)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その3

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前回、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「どんな人間であれ、生きている限り、1日最低1つは法を犯す」
という、歴史上証明された絶対的かつ普遍的な法則を紹介しつつ、この例外として、
「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの方が、2種類存在する、と申し上げ、その1つとして、受刑者が
「生きていても、(受刑中は)絶対法を犯さない(というか、犯せない)」
のタイプの人間である、と申し上げ、受刑者の処遇の実体や、懲役刑という処罰の本質について、ご紹介しました。

(7)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの人間その2―皇族の方々―

「絶対、法を犯さない」
という属性をもつ方々が、受刑者に加え、もう1タイプ存在します。

それは、皇族の方々です。

無論、皇族の方々は、性欲を制御できない神父さん(※ごく一部だと思います。多分ね)や、世俗の欲にまみれることもある神主さん(※ごく一部だと思います。わかんないけど)やお坊さん(※ごく一部だと思います。自信はないけどね)と違い、気品と、気高さと、生まれ持った高貴さがおわしますから、
「その品位と高潔さがある故に、絶対、法を犯さない」
ということもあるでしょう(ね、おそらく)。

(そんなもんをお持ちかどうか知らんけど)内面の気品や気高さもさることながら、それ以上に、日本の皇族の方々は、特殊な環境下におかれています。

すなわち、皇族の方々は、24時間監視され、自由が奪われ、社会との接点がありません。

なんと。

偶然にも、意図せず、発見した私自身びっくりしていますが、「皇族の方々の生活環境」は、「刑務所の受刑者の生活環境」と同じになっています(!)。

だから、どんなに罪を犯そうとしても、環境面、処遇面で、犯しようがない、ということもあり、(もちろん内面の気高さも大きなファクターもあるかもしれませんが)
「絶対、法を犯さない」
という特異な人生を送っておられるのです。

欧米の皇族には、監視もなくあるいはゆるく、自由を謳歌でき、社会との接点が多いせいか、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
といったタイプの方もいらっしゃり、薬物中毒経験者であるノルウェー王室のメッテ・マリット王太子妃など、結構、ワイルドでファンキーな問題を起こしていらっしゃいます。

しかしながら、わが国ニッポンでは、
「象徴天皇制」
言い換えれば
「天皇終身アイドル制」
という、大きな大きなお役目を負わされた挙げ句、刑務所の受刑者同様、24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点もなく、我々一般ピーポーのように気軽に罪も犯せない、なんとも窮屈な生活を強いられている日本の皇族の方々は、本当においたわしい限りです。

臣民の1人としては、皇族の方々が、そんな窮屈な生活を送られながら、不満1つ言わず、しっかりとお役目を果たされていることについては、頭が下がる思いです。

(8)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの2種類の人間―受刑者と皇族の方々―の共通性

「受刑者」

「皇族の方々」
という、一見真逆のタイプの二種類の属性の方が、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「どんな人間であれ、生きている限り、一日最低一つは法を犯す」
の例外として、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
稀有な方々として、厳然と存在します。

(受刑者と皇族の方々を並列として議論するのは、大の「皇室ファン」の私としては、どうにも気が引けますが、純粋な社会科学の議論として続けますと、)これら例外的な方々が、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
のは、
「法を完璧に把握し、すべての法を尊重し、常にかつ完全に、高貴で品位を保ちエレガントな振る舞いをされているから」
というよりも、
「社会と隔絶された環境におかれ、24時間監視体制下にあるから、たとえ法を犯したくても物理的・環境的・方法論的に法を犯しようがないから」
というのが大きな理由と思われます。

(9)「法を守れない人間」を優しく保護する「プライバシー権」

以上のような、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
稀有な方々は別として、ごく普通に市民生活を送るカタギの我々は、生きている限り、気軽に1日に2つ3つ法を犯す自由を謳歌し、気ままに、楽しく生活しています。

除夜の鐘が108とかいわれ、煩悩は108程度ですが、普通に生活していたら、法令違反は1年間で軽く1000を超えます。

我々は、そのくらい、日々法を犯しながら、平気な顔で生きているのです。

そして、法律も、このような人間の本質をよく理解した上で、
「隠れて、コソコソ、表沙汰にならず、ひっそりと生きていく」
ということを、人格的尊厳を守るための人権として、正面から認めています。

この、
「誰しも、法を守らず、約束を反故にし、ウソをつき、他人を裏切り・陥れ、目先の利益を姑息においかけて、生きている」
という
「人間のど真ん中の本質」
をよく理解した上で、
「検挙・起訴に至らないようなライトな不正や非行も含めて、都合の悪いことや外聞の悪いことを表沙汰にせず、隠れて、コソコソ、ひっそりと生きていく自由ないし権利」
を、
「人格的尊厳を守るための人権」
として高らかに謳いあげ、保障した憲法上の権利。

これを称して、
「プライバシー権」
といいます。
 

「人間は、生まれながらにして疚しいことが満載なので、これを逐一追及されることなく、コソコソと生きていける状態こそが、『人間が人間らしく、人格的尊厳を保って生きていく』ためには絶対的に必要である」

これがプライバシー権を「基本的人権」として保障する背景論理です。

「社会で生活する全員が、24時間365日、衆人環視に耐えられるような、非の打ち所1つない清廉潔白な生活を、正々堂々と送っている」
というなら、こんな
「プライバシー権」
なんて、
「隠れてコソコソする生活を保障するような姑息にして卑怯な権利」
なんて不要なはずです。

しかしながら、プライバシー権は、皆ほしがりますし、これがないと、人格的尊厳を守って生活できない。それほど、重要にして貴重な人権なのです。

このプライバシー権のおかげで、我々は、衆人環視の状況で現行犯を犯すような明白で愚かなことをせず、あるいは、犯人性や行為を示す顕著な痕跡を残さない限り、何時でも、気軽に、自由に、イージーに、法を犯せます。

そして、そのような環境を享受する自由ないし権利を、法律の王様である憲法が基本的人権として保障しています。

これが、プライバシーという権利の根源的本質です。

正義も品もない、むちゃくちゃな言い方ですが、ある意味、現実的で、人間臭い話です。

憲法というのは、
「すべての人間が、何時何時でも、どのような状況にあっても、すべての法を守って、誰に対しても説明つく行動をして生きるべき」
という非現実的なまでに堅苦しい教条主義的前提に立っていません。

むしろ、憲法は、
「人間が生きている限り、法を犯さずにいられないが、皇族の方々や囚人でもない限り、それを逐一目くじら立てて、全てを監視下において、窮屈で息がつまるような生活を強制せず、自由気ままに、ときに、ちょっとした悪事や非行や法令違反を含め、やましいことや、後ろ暗いことや、説明できないことや、表沙汰にしてほしくないようなこともやらかしながら、生きていける。そういう姑息な生き方が保障された環境こそが、人間らしく生きることであり、これを基本的人権として保障するべき」
という、
「実に、成熟した考えに基づく、粋(いき)で鯔背(いなせ)で世情に通じ、俗気にあふれる法理」
を内包しているのです。

そして、プライバシー権という
「犯罪や犯罪に至らないようなライトな非違行為も含めて、都合の悪いことや外聞の悪いことを表沙汰にせず、隠れて、コソコソ、ひっそりと生きていく」
ための人権のおかげで、皇族でも受刑者でもない、市井の我々は、現行犯として逮捕されたり、顕著な痕跡をおおっぴらに残すような真似をしない限り、1日2つや3つの法を犯しながら、自由に、気ままに生活ができるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.158、「ポリスマガジン」誌、2020年10月号(2020年10月20日発売)

20200920_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」30_(16)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その2

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前回、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「人間がどんなに修行を積んで、立派になっても、欲には決して勝てない。法やモラルを守れといっても、人間が動物である限り、本能と衝突した場面では、必ず、本能が法やモラルに打ち勝つ」
「どんな人間であれ、生きている限り、1日最低1つは法を犯す」
という社会科学上の絶対真実ともいうべき原理ないし法則をお伝えしました。

しかし、物事には必ず例外があります。

すなわち、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
という絶対的かつ普遍的な法則にも例外があり、
「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの方が、私の知る限り、少なくとも2種類存在する、と述べました。

では、この
「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの人種、どんな属性の方なのでしょうか。

いえ、カトリックの神父さんとか大きな神社の神主さんや名刹のお坊さんとかではありません。

カトリックの神父さんの児童の性的虐待や、
「姉弟の間で、文字通り『血で血を争う抗争』」
となった神社の内部抗争等をみれば、むしろ、
「どんなに立派(そう)な人間でも、決して欲には勝てない」
というシンプルながら、強烈な現実を再確認することができるくらいですから。

(5)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの人間その1―受刑者―

「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの人種の1つ目は、懲役刑を食らって刑務所に収監された受刑者の方々です。

これらの方々は、別に、法令遵守意識が高いとか、精神が高邁・高潔というわけではありません(私の勝手な推測ですが、おそらく真実に近いと思います)。

普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着で、さらに言うと、大胆に法を犯したか、はっきりとした痕跡を残したか、あるいはその双方をやらかし、普通の人より大きなしくじりを犯した方々です。

ですが、受刑者の方々は、どんなに法を犯したくても犯すことは不可能です。24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点がないからです。

(6)「懲役」というペナルティの本質的過酷さ

深夜の高速道路の自動車のスピード状況や、かつての大阪市内の路駐の状況をみれば、
「ごく普通の市民であっても、生きている限り、個人単位で、1日に2つ3つ法を犯しながら、生活している」
という事実はご理解いただけると思います。

除夜の鐘が108とかいわれ、煩悩は108程度ですが、普通に生活していたら、法令違反の数は1年間で軽く1000を超えます。

我々は、そのくらい、日々法を犯しながら、平気な顔で生きているのです。

ところが、犯罪者の方々、すなわち、

・「法を無視ないし軽視するような性格・気質」を生まれ持っている
あるいは
・「欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向」を有している
ような特定属性の方々が、
「どんなに法を犯したくても、24時間監視体制下にあって、社会との接点もないため、決して法を犯せない」
という環境で長期間過ごさなければならない。

そこに、懲役刑というペナルティの本質があると考えられます。

すなわち、懲役刑というペナルティの本質的な意味は、
「どこかに閉じ込めておくこと」
「どこかに隔離しておくこと」
ではありません。

もし、懲役刑がそういう趣旨をもつのであれば、犯罪者をまるごと、脱出手段をなくした絶海の孤島に放り出せば、済むはずです。

刑務所設備もそのメンテナンス費用も刑務官その他の人件費も大幅に削減され、
「犯罪者のために多額の血税を投入する」
という無駄もなくせます。

多額の建築費・設備運営費・人件費をかけて、24時間監視体制で自由を奪うインフラを作って運営するのは、犯罪者に対して、単純な隔離以上に、受刑者により積極的に働きかける意義と必要性が存在するはずです。

要するに、
「犯罪者、すなわち、『法を無視ないし軽視するような性格・気質』を生まれ持っている、あるいは『欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向』を有しているような特定属性の方々」
に対して、
「一定期間、24時間監視体制の下、社会との接点を失くさせ、『法を犯したくても、決して法を犯せない』という状況ないし環境」
に追い込み、強烈な精神的な負荷をかけさせる。

このように、
「『法を無視ないし軽視するような性格・気質』を生まれ持っている、あるいは『欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向』を有しているような特定属性の方々にとって、悪夢というべき、最悪な環境」
を作って、そこに犯罪者を送り込むことを以て懲らしめとする、という点にこそ、懲役刑というペナルティの根源的負荷性があるものと思われます。

要するに、
「普通の人なら、普通に生きて、普通に1日2つや3つの法を犯しつつ、娑婆で気ままに生きれる」
という自由があるところ、懲役刑を食らうと、
「普通の人のように、気軽に、自由に、カジュアルに法を犯そうとしても、24時間監視され、社会との接点がなく、自由が奪われた状態で、気ままに法を犯せない」
という窮屈な生活を強いられる。

しかも、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
というリベラルでファンキーな方に、普通の人より窮屈な生活を強いる、という苦痛を味わわせる。

ここに、懲役刑のペナルティとしての厳しさがあるものと思われます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.157、「ポリスマガジン」誌、2020年9月号(2020年9月20日発売)

20200820_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」29_(15)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その1

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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(1)カッコつける人間を演じることのリスク

いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じると、ウソをつかなかればならず、精神衛生上よくありませんし、ストレスがたまり、疲れます。

(2)人間は、生きている限り、法を犯さずにはいられない

そもそも、人間は、生きている限り、法を犯さずにはいられません。

これは、歴史上証明された事実です。

「人間が生きている限りどうしても法を守れない」
「人間が生きている限りどうしても病気や怪我と無縁ではいられない」
こういう厳然たる事実があるからこそ、医者と弁護士という
「人の不幸を生業とするプロフェッション」
が、古代ローマ以来現在まで営々と存在し、今後も、未来永劫存続するのです。

普段暮らしていると、忘れてしまいがちな、重要な前提があります。

「人間は動物の一種である」
という命題です。

人間は、パソコンでもスマホでもAI(人工知能)でもなく、これらとは一線を画する、
「動物」
の一種です。

そして、
「パソコンでもスマホでもAI(人工知能)でもない、動物」
である人間は、生きて活動する限り、ルールやモラルと本能が衝突したときには、必ず本能を優先します。

だって、我々は
「動物」
の一種ですから。

もし、本能に反して、ルールやモラルを優先する人間がいるとしたら、もはや、その人は、
「動物」
ではなく、
「パソコン」

「スマホ」です。

PEPPERくんです。

SIRIちゃんです。

いつもいつも、そんな、清く正しく美しい選択をする人間がいるとすれば、社会心理学上稀有な事例として、研究対象となり、
「なんで、そんな異常なこと、理解に苦しむことをやらかすんだ?」
と考察と検証が行われます(社会心理学では、反態度的行動というそうです)。

(3)どんなに修行を積んだ聖職者でも、欲の前には無力

私が、コンプライアンスに関するセミナーを行う際にご紹介する興味深い事件があります。

高野山真言宗の八事山興正寺(名古屋市昭和区)の前住職らが約80億円を不正に流用したとして、現住職側が背任と業務上横領容疑で告訴状を名古屋地検に提出したことが16日、分かった。14日付。関係者によると、前住職は在任中の平成24年、寺の土地約6万6000平方メートルを学校法人に約138億円で売却。現住職側は、前住職がこのうち約25億円を外国法人に、約28億円を東京都内のコンサルタント会社に送金したと主張。いずれの送金先も前住職と関連のある会社だったとしている。前住職の代理人弁護士は取材に「告訴内容を把握しておらず、コメントは控えたい」と話した。高野山真言宗は無断で土地を売却したとして、前住職を26年に罷免しているが、前住職は「罷免は不当」として現在も興正寺にとどまっている。興正寺は名古屋国税局の税務調査を受け、27年3月期までの3年間に約6億5000万円の申告漏れを指摘された(産経WEST2016年9月16日12時57分配信)。

実に味わいがある、というか、深い、というか、考えさせられる事件です。

「どこの金の亡者の話か?」
と思えば、千日回峰行(空海が教えた密教の修行)を完遂した阿闍梨(仏陀の
「完全な人格」
にかぎりなく近づいている高僧)もいらっしゃる、立派で、高邁な組織で実際あった事件です。

この話以外にも、宮司姉弟間の殺人で話題になった富岡八幡宮事件や、カトリック教会の性的虐待事件など、
「我々、無知蒙昧で、欲まみれで、薄汚れた、迷えるダメ人間」
を導いてくださるはずの、
「難行苦行や修行や日々の祈りによって、欲を克服した、精神の高みに達したはずの聖職者の方々」
も、私のような小心者の想像を絶する、大胆で、えげつないことを、敢行します。

私も
「非日常」
を扱う弁護士という仕事をかれこれ四半世紀もやっていますから、そこそこヤンチャというか、えげつないというか、大胆な人間を知っていますが、このレベルのワイルドな人間は、弁護士からみても、かなりレアというか、オリンピック級です。

そして、特定の、という限定はつくにせよ、聖職者の方々が敢行された犯罪行為の凶悪さ、大胆さをみるにつけ、なんとも感慨深い気持ちになります。

すなわち、これらの事件やトラブルに接すると、
「どんなに立派な修行を積んでも、人間、決して、欲には勝てない」
という、シンプルだが鮮烈な事実を、我々に改めて再確認させてくれる、ということです。

この話が、何につながるか、といいますと、
「人間が欲に勝てない以上、法やモラルを守れといっても、本能と衝突した場面では、必ず、本能が法やモラルに打ち勝つ」
という社会科学上の絶対真実ともいうべき原理ないし法則につながります。

(4)普通に生きていると、1日1つは法を犯す

私の感覚ですが、どんな人間であれ、生きている限り、一日最低一つは法を犯します。

警察や裁判所や刑務所がパンクしないのは、すべての違法行為を取り締まらず、自らの取り締まり能力に見合った数の事件しか取り締まらず、あとは未立件で放置しているからです。

違法行為には、
「目くじら立てて、時間とエネルギーをかけて是非・善悪を明らかにして、公式記録に残されるもの」
以外に、
「発覚しないまま、不問に付され、その後時効にかかるもの」
「お目こぼしされるもの」
といった莫大な暗数のものがあるのです。

いずれにせよ、社会は、違法、違反、約束違反で満ちています。

人間は、誰しも、法を守らず、約束を反故にし、ウソをつき、他人を裏切り・陥れ、目先の利益を姑息においかけて、生きています。

法律も、このような人間の本質をよく理解した上で、
「隠れて、コソコソ、表沙汰にならず、ひっそりと生きていく」
ということを、人格的尊厳を守るための人権として、正面から認めていますというところで、紙幅の限界が来ましたので、この話は次回に続けたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.156、「ポリスマガジン」誌、2020年8月号(2020年8月20日発売)

20200720_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」28_(14)「社会人として仕事をする」という営みは、「学生時代のお勉強」とはまったく違います

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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「仕事をする際、誰の力も借りず、すなわち、カンニングや代筆やレポート丸写しや替え玉受験といったラクで効率的方法を忌避・嫌悪し、とことん自分の頭で考え、徹頭徹尾、自力でやり遂げることにこだわる」
という人間がいます。

有名大学卒の生真面目な試験秀才タイプの企業人の方に多く見られるのですが、彼ないし彼女はホンモノのアホです。

こういう
「有能なバカ」
「生真面目なアホ」
というタイプの方々の脳みそには、
「責任ある自立した社会人として、『目の前の課題に背を向け、安易に外のプロにカネを払って済ませる』という事自体、無責任で不誠実の極みであり、人として、社会人として、歯を食いしばって何とか頑張るべきではないか」
という根源的に誤った思想偏向が巣食っています。

確かに、学生生活においては、勉強や調べ物や宿題やレポートはすべて自力でやり遂げるべきものであり、
「家庭教師にカネを払って宿題を代わりにやってもらう」
などということは言語道断であり、また、試験でカンニングしたり、替え玉に受験させたりするのは、犯罪行為とされています。

では、立派な社会人としても、同様に、勉強や調べ物や宿題やレポートはすべて自力でやり遂げるべき、ということになるのでしょうか?

社会人が仕事を進める上では、
「『自分たちだけでやり遂げる』ことにこだわり、ロクに知識もない素人が何ヶ月かけてグズグズ議論する」
という方が給料の無駄であり、会社にとって資源と時間と機会を損ねる有害な所為です。

「社会人が仕事を進める場合、カンニングや替え玉受験やレポート代筆等は、むしろ積極的に推奨されるべき行動である」
という点をきちんと理解しておくべきです。

有名大学卒の生真面目な試験秀才タイプの企業人においては
「“仕事”と “お勉強”の違いがわかっておらず、法務リスク管理という純ビジネス課題を学究課題と勘違いし、時間がかかっても自力で調査する」
という無駄で非効率な方向性に向かいがちです。

無論、自力で正しい解決にたどりつければいいのですが、情報や経験の不足から、方向性を誤り、
「時間をかけた挙句、仕切りをミスって、会社に大きな迷惑を被らせる」
という悲惨なチョンボをしでかすことが、結構な割合で発生します。

「デキる社会人」

「優秀で真面目な学生」
とは、まったく異なる存在、というか真逆の存在です。

「デキる学生」
とは、きっちり授業に出て、ノートを取り、出回ってきた他人のノートのコピーや、先輩から引き継いだアンチョコにも依存せず、当然ながら、カンニングもせず、親や家庭教師によるレポートの代筆や丸写しもせず、カンニングや替え玉受験など言語道断、徹頭徹尾自力でオリジナリティと想像力を駆使して、どんなに長い時間がかかろうが、刻苦勉励して、知の高みや真理に到達する、という崇高な営みを真面目に行う求道者のような人間です。

しかし、
「デキる社会人」
は、
「デキる学生」
とは対角線上の位置に存在します。

「デキる社会人」
は、自分の未熟の頭であれこれ想像したり妄想したり
「下手の考え」
を巡らせることを0.5秒で放棄し、とにかく、情報を集めることから始めます。

ネットサーチをしたり、本を読んだりすることもあります。

しかし、そもそも、ビジネスや投資に関する情報で公開されているものは、腹が立つくらい難解にわかりにくくしか書いておらず、理解ができませんし、仮に理解できたとしても誤読・誤解する危険もあり得ます。

さらにいいますと、本やネットの知見がそのまま使えるか、という問題もあります。

世の中、大事なことほど本やネットに載っていませんし、テレビで伝えられませんし、学校や親も教えてくれません。

というか、テレビ番組制作者も学校の教師も親も
「ビジネスや法務の本質」
を知りません。

さらにいえば、テレビで伝えられている内容や、学校の教師や親がいうことは、ビジネスや法務の本質とは真逆の偏見であったりしますし、その常識に従うと裏目に出ます。

ビジネスや投資に関する知見は、
「本に載っていないし、載っていても、行間にわかりにくくしか載っていない情報」
の最たるものです。

ということで、
「デキる社会人」
は、カンニングの名手です。

企業内人脈や仕事の関係人脈に加え、セミナーや各種会合等で知り合って名刺交換をした非公式の有力者や専門家の知人・友人のメールアドレスや携帯電話番号も把握していて、
「知識と経験が豊富で、本に載っていないことをたくさん知っている専門家」
のネットワークを保有しています。

そして、
「デキる社会人」がある課題や障害に遭遇した場合、ネットワークをフル活用して、「ゲームのロジックやゲームのルール、相場観や展開予測、さらに想定される現実的ゴール、ゴールを達成するための『あの手、この手、奥の手、禁じ手、寝技、小技、反則技』」
といった各種非公式情報や、そのような情報や知見をもっている関係者にたどりつきます。

「あたり」
が付けられた(見通しが立った)ところで、事例や公式情報の裏付けも協力者の協力を得て探し出し、
「レポート丸写し」
の形で判断に正確性と根拠の担保を実装させます。

場合によっては、知り合いの外部専門家に、的確な指示を与えて、適切なギャランティ交渉を行い、期限管理・品質管理をして、しかるべき
「代筆」
を外注します。

さらにいえば、自分自身や所属組織のリソースでは手に負えない案件の場合、例えば、弁護士からの警告書や通知書が会社に送達され、裁判外紛争が始まったり、争訟事件に至ることになったりすれば、
「替え玉受験」
よろしく、しかるべきプロを立てて、対処します。

このように、
「デキる社会人」
は、
「カンニング」
「代筆」
「替え玉受験」
に長けた、本質的情報や外部専門家の調達のプロ、という言い方ができます。

このような言い方をすると、
「デキる社会人」

「自分では何もやっていない、『圧倒的に高度な知見や優秀なスキルを保持する外部人材の腰巾着か太鼓持ち』でしかなく、女衒やポン引きと同様、独自の価値がない」
という評価をされてしまい、バカにされ、コケにされる、と危惧されるかもしれません。

しかしながら、仕事で大切なことは、
「自力でやって、自分の功績を誇り、威張ること」
ではなく、
「目の前の課題を、早く、少ない労力でうまいことやって、チャッチャと成果を上げる」
ということに尽きます。

「外部の異世界を自由に渡り歩き、効率的に、最適な資源を調達でき、適材適所を以て課題や障害に対処できるようアレンジし、非連続的変化を演出して事態を打開できる」
というのは、まさしく一種の才能でありスキルです。

外から必要な情報や資源や知見を調達する、というと簡単に聞こえるかもしれませんが、調達した情報や知見や専門家が常に最適とは限りません。

間違った情報、紛いものの知見、デキそうだがまったく無能な専門家やカネがかかっても成果が出ないダメな業者、といったトラップにひっかかる可能性もあります。

・目の前の課題に対処したり、障害を克服したりするために必要な資源を発見特定し、これを調達にこぎつけること
・必要な資源を調達するにしても、迅速かつ適価かつ適正品質での調達を実現すること(調達の要求内容や範囲や条件を厳密に定義して、必要かつ最小限な調達となるよう調達設計することを含む)
・外注するとしても、目的達成まできっちりフォローすること、すなわち外注管理(予算管理、品質管理、納期管理、使い勝手管理)をすること

は、偉大な営みであり、立派な仕事(付加価値の創出)です。

外注するにしても、
「外注先を信じて任せれば、あとは寝て待てばいい」
というものではありません。

外注一般については、
外注「管理」
という営みが絶対必要です。

といいますのは、
「外注先を『信用しない・信頼しない』という前提で管理・制御する」
のが、プロのビジネスマンとしての仕事のあり方だからです。

外注業者や外部の専門家が、調達の要求内容や範囲や条件を正確に把握しているかどうかは不明ですし、仮に把握していても、間違ったレスポンスや貧弱なレスポンス、漏れ抜けだらけの欠陥ありきのもの、さらには過剰な対価やサービスフィーとセットになった過剰な内容のもの、納期にルーズなサービス、使い勝手が悪いサービス等々、信用・信頼できない場合もありますし、そもそも
「適切な信頼関係構築をするために、あえて『信頼しない前提』『ケンカ上等の緊張関係』を維持して接する」
という態度で対向することも必要なのです。

加えて、外注業者や外部専門家から納品・提供される成果物や知見が、使い勝手が悪く、課題対処や障害克服の資源として用いるには、
「帯に短し襷に長し、といった趣の、中途半端な代物」
がほとんどです。

こういう場合、自社や自分で使い勝手がよくなるように、カスタマイズするセンスやスキルも必要になります。

さらにいいますと、外注を実現するために
「予算と資源動員の権限をもっているスポンサーや経営者とうまくコミュニケーションすべきこと」
も必要ですし、
「外注がスムーズに機能するように、平時から予算や資源動員の裁量と権限を実装する」
ための社内政治力も求められます。

このように考えると、
「デキる社会人が、カンニングや代筆依頼やレポート丸写しや替え玉受験を通じて、仕事を成し遂げる」
のは、
「女衒やポン引きのようなバカでもできる安直な外注手配」
ではなく、意味と価値と奥行きのある営み、ということができましょう。

バカもハサミも協力会社も関係部門も取引先も外注業者も外部専門家も、要は、使いようです。

いずれにせよ、社会に出たら
「学生時代の勉強のように、カンニングや替え玉受験なしで、自力でなんとかしなければ」
と考えて無駄なストレスを抱え込むことなく、ビジネス社会で遭遇する課題対処については、
「『課題解決はすべて内製化して自力で行う』というドグマを排して、外注という資源動員上の選択肢を常に保有し、ときに『外部業者や外部専門家をいかに上手に、適価で使いたおすか』ということを活動の本旨として、迅速かつ正しく課題に対処していくこと」
が最も重要なのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.155、「ポリスマガジン」誌、2020年7月号(2020年7月20日発売)

20200620_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」27_(13)運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間とのみ付き合い、そうでない人との付き合いをやめましょう

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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付き合うなら、運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間と付き合いましょう。

そうでない人と付き合うのは極力避けましょう。

この交際哲学はラックマネジメントとして極めて重要です。

負け犬同士つるむのは時間の無駄です。

そこからは何も生まれません。

ダメな3人が寄っても、生まれるのは文殊の知恵ではなく、休むに似たりの下手な考えしか出てきません。

だいたい、世の中、大事なことほど本やネットに載っていませんし、テレビで伝えられませんし、学校や親も教えてくれません。

たまに、「世の中の大事や、ど真ん中の本質」に関連しそうなことが本に載っていることがありますが、「行間に、わかりにくく」しか書いてありませんし、仮に、頭で理解できたとしても、「経験を通じて体得したホンモノの知恵」とは程遠い代物です。

というか、テレビ番組制作者も学校の教師も親も「世の中を渡る上で大事なことや本質に関わるようなこと」を知りません。

さらにいえば、テレビで伝えられている内容や、学校の教師や親がいうことは、ビジネスや世渡りの本質とは真逆の偏見であったりしますし、人生の切所や大一番で「テレビで伝えられていたり、学校の教師や親が教えるような陳腐な常識」に従うと、たいてい裏目に出ます。

「本に載っていないし、載っていても『行間に、わかりにくく』しか載っていないし、経験を通じてしか体得できないホンモノの知恵」を学び、運をもらい、世の中の本当の姿や大局や時流を、リアルに、ビビッドを教えられるのは、「常識の外にいて、自由かつパワフルに世間を泳ぎ渡っている、一流の人物」だけです。

「運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間」をみつけ、近づき、接点を持ち、交際関係の輪に入るのは、世渡りのために絶対的な必要な事柄です。

とはいえ、「一見、『運が良さそうな人間、強そうな人間、勢いのありそうな人間、知恵を持っていそうな人間』のようにみえるが、実際は、調子がいいだけで、口先だけで、受け売りだけで、たいしことがないクズや小物や、どうしょうもない詐欺師や犯罪者ないしその予備軍・亜種」という「まがい物の輩」も、世の中、うじゃうじゃいます。

この種の人間に騙されないようにするためには、「目の前の人間がホンモノかどうか」を鑑定する「眼力」も必要になります。

とはいっても、別に難しいことではありません。

「学歴ないし経歴だけが人の評価のすべて」とはいいませんが、この種の評価指標は能力証明手段(シグナリング効果)としては相応に機能しますので、人間に貼り付けられたラベルやレッテルをスクリーニングの道具として活用することも有益です。

もちろん、東大卒といってもたいしたことのないバカはたくさんいますし、学歴とは無縁ながらも超一流の天才、といった人物もたくさんいます。

少年少女を強姦するカトリックの坊主もいれば、「前科・前歴があっても、立派な人格者」という方もいます。

ですが、奇をてらって、そんな稀有な例をわざわざ探さなくても、普通に学歴や経歴といった一般的なシグナルを手がかりに、「運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間」を探していけば、それなりの人物にたどり着ける可能性が高いと思われます。

以上のとおり、「運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間」と積極的に近づき、交わるとともに、「そうでない人」とはなるべく距離を取る、あるいは不要なお付き合いはできる限り遠慮する、というのが(ヒューマニズムとしてどうか、という点はさておき)功利的には正しい行動、といえます。

ただし、負け犬だからといって、マジョリティを馬鹿にしたり、見くびったりするのは極めて危険です。

「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、〝歴史的な力〟である。」

これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社,1993。163p)で書いていた一文です。

足を引っ張られないように、最低限の付き合いをして、人間関係が悪化しないように処置をしておくべきです。

これは、「安全保障」として重要な意味があります。

「中途半端に優秀な人間」というのはアホの真似ができません。

「本当に優秀な人間」は、アホになれます。

「アホ」以上に「アホ」ができます。

「本当にデキる、超一流の人間」とは、「本当のアホよりも、頭悪そうに、平然と、ナチュラルに、『アホ』の真似や仕草ができ、大量破壊兵器級の『アホ』と対向しても、動じることなく、笑顔でその『アホ』と戯れることができる人間」です。

ちなみに、私がリスペクトする芸能人はローラです。

「自分も、大きくなったら、ローラのような人間になりたい」と、思っています。

憧れです。

目標です。

ローラモデル、もといロールモデルです。

ローラは、バカでも天然でもありません。

緻密に計算されつくし、完璧に作られたキャラです。

ローラの実のお父さん、バングラデシュ国籍のジュリップ・エイエスエイ・アルさんは、詐欺容疑で国際指名手配され、同罪で有罪判決を受けた、と報道されています。

国際指名手配されるような詐欺師さん(国際詐欺師)は、バカではできません。

頭が切れ、英語ができ、エレガントに振る舞え、国際社会を知り尽くし、行動力があり、大胆不敵であり、融通無碍で臨機応変に対応でき、何より、人を魅了するオーラがないと、国際詐欺師は務まりません。

ローラのお父さんも、ほぼ間違いなく、頭が切れ、英語ができ、エレガントに振る舞え、国際社会を知り尽くし、行動力があり、大胆不敵であり、融通無碍で臨機応変に対応でき、人を魅了するオーラが充満しているような方のはずです。

そこらへんの教師や公務員やサラリーマンや専業主婦など、何回生まれ変わってもローラのお父さんのようにはなれないでしょう(なりたくないか)。

そんな父から、超優秀なDNAを受け継いだローラがバカなわけがありません。

ローラは、確実に、どえらいIQを持って、冷徹な計算し、シビアな商売人の気質を持っているはずです。

しかも、そんな「エゲツない優秀さや、エグいまでの凄さ」をおくびにも出さないようにして、徹底してバカを演じきっている。

だから、すごいんです。究極なんです。まさに、タレント(天賦の才能ある人間)なのです。

ん? よく理解できない?

「えーとね。そうよね。うーん。多分あなたにはわからないと思うー」

とローラ風にまとめたところで、今回は終わりたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.154、「ポリスマガジン」誌、2020年6月号(2020年6月20日発売)

20200520_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」26_(12)大きな仕事をするのに、常識は有害です

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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「常識」は捨ててください。

そもそも「常識」とは何なのでしょうか。

断言します。

「常識」とは、3歳までに身につけた偏見のコレクションです。

・「『常識』とは、物心つくまでに身につけた偏見のコレクションを指す」(20世紀の天才科学者、アインシュタインの言葉です)
・「三つ子の魂百まで」(ことわざ)
という2つの格言から、当然導かれます。

「常識」という「偏見の集積」をもっていれば、「いてもいなくても同じの、『大したこと』を何一つできないし、『大したこと』にも関われない、社会にとっては陳腐なコモディティとしての『労働者』」で終わってしまいます。

いえ、別に、そういう人生が良いとか悪いとか、っていう評価は別です。

「英雄や偉人を目指せ」というのは、別の言い方をすれば、「異常者になれ」というミッションと同様ですし、

そんな人生が苛酷でクレイジーであることも事実です。

とはいえ、冒頭に書きましたとおり、「個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方」向けのリテラシーとしては、「常識」という「陳腐な偏見の集積」は有害だ、という当たり前の事実を指摘しているだけです。

なぜ、「大したこと」を成し遂げようとしたり、「大したこと」に関わろうとすると「常識」という「陳腐な偏見の集積」が有害になるか、というと、「大したことを成し遂げる」あるいは「大きなプロジェクトの成功」という事態は、例外事象であり異常現象だからです。

大きなビジネスや新規のプロジェクトは、フツーのことをフツーにやっていては成功などしません。

トラブルや想定外の連続の事柄が次々生じます。

大きな事業や新規の事業を、地方公務員やフツーのサラリーマンやごく平均的な小学校の教師に、彼らの常識に従って、ごく常識的で穏当な方法に取り扱わせたら、どうなるか、想像してください。大成功するでしょうか、悲惨な失敗をみることになるでしょうか?

大きな事業や新規の事業といった例外事象の対処には、常識や良識は通用しません。

アップルやグーグルやアマゾンの新しい社長が、ビジネス経験も投資経験もない、「公立小学校の万年ヒラ教師」が指名されたら、これらの企業の株価は上がるでしょうか、暴落するでしょうか?

一ついえることは、アップルがそのような社長人事を強行する事態になったら、少なくとも、私は、二度とアップル製品もアップル社の株も買いません。そのことだけは断言できます。

畑中鐵丸は、部下に対して、いつもいいます。

「世間で評価される仕事というのは、あらゆる形式やモラルを排して遂行されているものだ」と。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.153-2、「ポリスマガジン」誌、2020年5月号(2020年5月20日発売)

20200520_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」25_(11)労働者ではなく、「アーティスト」になりましょう

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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「労働者」という属性ないし身分をもつ人種は、自分の能力や将来に自信がなく、明日がないので余裕がなくがむしゃらにがんばってしまいます。

他方、「アーティスト」という属性ないし身分をもつ人種は、自分の能力や将来に自信をもっており、余裕があるので、「お客様」の顔をよくみながら、それに適合したものを提供できます。

「労働者」は努力の量をアピールしますが、「アーティスト」は、結果の質、売れたか売れないか、作品を買ってくれる人が気に入ってくれたか気に入らなかったのか、を意識します。

皆さん、「努力の量をアピールする」なんて浅ましいことやっていませんか?

涼しい顔して、「お客様」(企業の役職員にとっては、「上司」や「経営者」は、給料を払ってくれるという意味で最も大事な「お客様」です)の喜ぶ顔をみて、ほっといても、相手が褒めて、次の仕事をどんどん頼んでくる「アーティスト」になりましょう。

無様な「労働者」で終わるか、カッコいい「アーティスト」になるかは、その人の気持ちや心構え一つです。

サラリーマンであれ、
地方公務員であれ、
小学校の教員であれ、
スーパーのレジ打ちであれ、
専業主婦であれ、
「営みを提供するカウンターパートとしての『お客様』を意識して、『お客様』の顔をよくみながら、それに適合したものを提供し、結果の質、売れたか売れないか、作品やサービスを買ったり受け取ったりしてくれる『お客様』が、自分の作品やサービスを気に入ってくれたか気に入らなかったのか、を意識しながら、日々の仕事や営みを行う」
という意識、いわば「プロ意識」をもって、目先の客に対してプロとして責任を以て誇りを以て奉仕した瞬間、その人は、立場や身分を問わず、「アーティスト」になります。

そんなカッコいい、「アーティスト」を目指してください。

そのためには、インスピレーションを鍛えてください。

昔、アメリカに、トーマス・アルバ・エジソンという男がいました。

引きこもりの社会不適合者で、最終学歴は小学校中退で、著作権侵害を平然と行い、「虚偽の比較広告をした挙句ライバル企業に敗北した経歴」をもち、訴訟マニアの嫌われ者で、電気椅子を開発して刑務所に売り歩いた、ということで有名な、いわくつきの人物です。

彼は、こういう名言を残しています。

「天才とは99パーセントの汗と1パーセントのインスピレーションである」と

知的水準に問題のある教育関係者は、彼の言葉を誤読し、
「かのエジソンもいうとおり、努力は貴いんだ。苦労は大事なんだ。だから人間は、努力しなくてはならないんだ」
と、何も知らない純粋無垢な生徒に誤った考えを植え付ける洗脳をしているようです。

教育関係者らしい予断と偏見に満ちた、愚劣な誤解です。

エジソンが本当にいいたかったのは、こういうことです。

「霊感を欠如した奴は、どんなに努力したところで、物事をうまく成し遂げることはできない」

「辛酸をなめ尽くし、教育関係者が真の姿を知ったらドン引きするくらいの曲者であったたエジソン」
らしい、ひねていながら、現実的で、教育的な価値がびた1ミリも含まれていない名言です。

「努力」をする前に、霊感を鍛え、正しくて明確な目的を設定し、努力の方向性を誤らないようにしたいものです。

では、どうやって「霊感」を鍛え、霊感あふれる「アーティスト」に近づけるのか。

霊感を鍛えるのは、霊感に優れた人間の近くにいて、成功体験を共有することが大事です。

負け犬とつるんでも、霊感は、ただただ、衰えるだけです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.153-1、「ポリスマガジン」誌、2020年5月号(2020年5月20日発売)

20200420_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」24_(10)「働くこと」「仕事をすること」の意味と本質を理解しましょう

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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「働く」
「仕事をする」
ということは、誰かをクライアントとして、サービスや能力を提供することです。

その際、サービス・スペックや展開能力水準を、「自分の保有値」ではなく、「マーケットの水準」に合わせるようにしなければなりません。

私が経営する弁護士法人に、意気軒昂といった趣の、新人の女性弁護士が入ってきました。

裁判の書面を書かしたところ、過酷な想定がされておらず、突っ込みどころ満載でしたので、
「相手方の攻撃に備えて、言質を取られないように、表現を再考せよ」
と事細かに、かつ丁寧に、何度も起案に赤字を入れて指導させていただきました。

私の指導に対して、彼女は、
「先生、細かすぎます。相手がそんな嫌らしいところを突っ込んでくるはずはない。そんなところまで考えてやっていると、時間がかかってしょうがないし、負荷がかかる」
と相当な抵抗しましたが、
「我々弁護士は、クライアントに対して善管注意義務はもちろん、倫理としても、全身全霊を以て全力を尽くすことが求められているわけだし、第一、手抜きをするのは、私の流儀ではない。それに、疎漏が判明していてこれを放置するのも寝覚めが悪い。お願いだから、指摘されたところはきっちり直してください」
となだめすかしつつ、最後はお願いしつつ、懇切丁寧に教え諭したところ、ブツブツ言っていたものの、しぶしぶアップグレードに応じました。

結果は、想定していた攻撃はすべて現実のものとなり、指導箇所が奏功し、事無きを得ました。

私は、彼女が、私の的確な指導に感謝をし、今回、発見・特定・処理できなかった課題の対処法を学んだことから、今後、成長のための自助努力を重ねることを決意してくれると思っていました。

ところが、案に相違して、彼女は、「こんなに細かいところまで毎回フォローするなんて無理です。毎回、毎回こんなことを要求されても困ります」と目に涙を浮かび始めました。

困った畑中は、彼女にやさしく応じます。

「わかった、わかった。それなら、相手の弁護士や裁判所のところに行って、『私は一年目の、何もわからない、経験のない、やる気もない弁護士なので、私の能力ややる気に併せて、私でもそれなりに結果が出せるよう、手加減してください。』と、土下座して頼んで来たらどうかな?渡る世間は鬼ばかりじゃないよ。きっと、君の真摯な想いが通じて、相手方弁護士も、『わかった。君の能力に合わせて、手加減してあげよう』というやさしく対応してくれるだろう。裁判所も『多少のことは目をつぶって、勝たせてあげよう』と言ってくれるかもしれない」
と提案しました。

そうしたら、今度は、彼女は、顔を真っ赤にして怒りの涙を浮かべはじめました。

私は、ジェントルに、エレガントに、真摯に、彼女のためを思って、どうやれば彼女の思う通りの結果が出るか、を考えて提案したのですが、指導したこと以上に、何か怒らせてしまったのかもしれません。

真実は、人を傷つけます。

真実が正確であればあるほど、真実を聞いた方が傷つきます。

悪いのは、彼女ではありません。

また、ウソをつかず、真実を正確に、正直に、伝えた私も悪くありません。

おそらく、悪いのは、
「彼女が何もわからない、経験のない、やる気もない弁護士であるにもかかわらず、相手が手加減してくれない」という真実の方
なんでしょう。

彼女は、その後すぐに事務所を辞めました。

彼女にも、私にも問題がなかったのでしょうが、「何もわからない、経験のない、やる気もない弁護士」に手加減してくれない、やさしくない、相手方弁護士やリーガルサービスマーケットや裁判所という戦場の方が悪かったのでしょう。

「マーケットがタフすぎる。戦場が厳しすぎる。ダメな自分の能力にあわせて、ダメな自分でも勝てる、もっとラクな環境にしてくれ」という要求は、残念ながら通りません。

そういうことを要求する者の方が、マーケットや戦場から退場するほかありません。

オーナー企業に勤務する役職員にとってのマーケット(顧客・市場)は、オーナー社長です。

皆さんは、「オーナー社長の知性・経験・思考・完成度合いを要求水準とする『市場』」において、オーナー社長をクライアントとして、サービスを提供している事業者である株式会社なのです。

オーナー企業においてはオーナー社長の頭脳と感性を代替することが、皆さんの仕事です。

ちなみに、創業をしたオーナー社長は、皆、努力家で、勉強や考えることが大好きで、四六時中最適化のための検証やアングルチェンジを怠らず、ときに、ゲーム条件だけでなく、ゴールすら変えてしまいます。うまくいかないときにも、回避策の4つや5つ、すぐひねり出します。

そういうオーナー社長の足を引っ張らず、給料以上のパフォーマンスを出して、役に立たなければならない。

オーナー企業に勤務する方は、そういうタフなマーケットに挑戦している、という自覚と恐怖心をもち、正しくマーケットに奉仕してください。

「マーケットやスポンサーに背を向けたら、生きていけない。礼儀知らずは、路頭に迷って野たれ死ぬ」

これは、世の中で最も重要な真実の一つです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.152-2、「ポリスマガジン」誌、2020年4月号(2020年4月20日発売)