工事中
00269_相続_「法は家庭に入らず」_お金より大切なものを、人はいつ気づくのか
相続というのは、不思議な魔法をかけます。
昨日まで仲良く食卓を囲んでいた家族が、一枚の遺言状をめぐって、まるで別人のように険しい顔をする。
「たかがお金のことで」
と思う人もいるでしょう。
でも実際には、お金そのものより、
「自分だけ軽く扱われた」
という感覚が、人の心を変えてしまうのです。
弁護士に依頼したけれど、途中でやめた——それって「負け」なの?
あるご家族の話をしましょう。
自宅で介護していた母親の相続をめぐって、ある方(ここでは仮にAさんとします)が弁護士に依頼しました。
母親の葬儀後、忌明けもしないのに、兄弟が弁護士を連れてきて、母親の相続の財産分与の話を詰め寄ってきたというのです。
介護期間中のAさんの持ち出しや、Aさんの妻の貢献をまるでなかったかのように、話を押し通す兄弟とその弁護士に、やむなくAさんも弁護士に依頼したということです。
法的には、もう少し粘れば一定の財産を取り戻せる、そういう段階まで話は進んでいました。
でも、Aさんはある日、こう気づきます。
「この金額のために、家族全員が憎しみ合うのは、割に合わない」
ご主人とも話し合い、ふたりの出した結論は
「財産放棄に同意する」
でした。
弁護士から見れば、法的・経済的には明らかに不利な選択です。
着手金も戻ってきません。
では、これは
「負け」
でしょうか?
「法は家庭に入らず」——この諺が教える、もうひとつの論理
日本には
「法は家庭に入らず」
という言葉があります。
法律は、赤の他人同士のトラブルを解決するためのルールです。
契約、証拠、権利と義務——そういう冷たい言葉で人間関係を整理します。
それは必要なことですし、社会の秩序を守るために欠かせません。
でも家族の間には、法律とはまったく別の論理が流れています。
「情宜(じょうぎ)」
という、少し古い言葉があります。
情けと義理、といえばわかりやすいでしょうか。
数字で測れないもの、証拠として出せないもの、でも確かにそこにある、人と人をつなぐ何か。
法律はそこには踏み込めない。
踏み込むべきでもない。
Aさんが選んだのは、法律の論理ではなく、情宜の論理でした。
弁護士の「あと一歩」と、依頼人の「もういい」のあいだ
ここで少し、意地悪な問いを立ててみましょう。
弁護士は
「あと一歩で利益を実現できる段階だった」
と言います。
依頼人は
「やめる」
と言いました。
この二者の判断は、どちらが正しいのでしょうか?
答えは——どちらも正しい、です。
弁護士は、法律と経済の論理で生きています。
「取れるものは取れる状況だ」
というのは、プロとして正しい判断です。
一方で、依頼人は、家族関係という法律の外側にある論理で生きています。
「金銭的利益より、家族の平和のほうが自分には価値がある」
というのも、人間として判断です。
問題は、この2つの論理を同じ秤で量ろうとすることにあります。
弁護士は法律の専門家ですが、その人の家族関係の専門家ではありません。
「法的に損」
と
「人生で損」
は、まったく別の話なのです。
賢い撤退には、ちゃんと作法がある
Aさんのケースで、もうひとつ注目したいことがあります。
途中辞任に際して、弁護士は
「みなし報酬金は請求しません」
と申し出ました。
一見、当たり前のように見えますが、実は、まったく当たり前ではありません。
「みなし報酬金」
というのは、あと一歩で成果が出る段階まで来ているのに、依頼人の都合で
「やっぱりやめます」
と言われた場合に、本来発生する成功報酬相当額のことを指します。
依頼人の一方的な都合で辞任するなら、弁護士はこれを請求するのが筋です。
ところが、本件の弁護士は
「これまでの経緯を考えれば、みなし報酬金は請求しません」
と、その請求権を、自ら静かにしまい込みました。
つまり——撤退にも、人間関係の作法があるということです。
Aさんは深く感謝の意を伝え、弁護士は依頼人の苦しい胸中を酌んで費用を引いた。
法律の話を、最後は人間の話として、きれいに着地させた。
これこそが、双方が
「情宜」
を持って動いた、お手本のような幕引きです。
これは、双方がきちんと
「情宜」
を持って動いた結果です。
「家族の縁」は、お金で買い直せない_守るべきは、目に見えないもの
最後に、少し視点を変えてみましょう。
私たちはつい、
「目に見えるもの」
「数字に出るもの」
ばかりを大切なものと勘違いします。
通帳の残高、不動産の名義、株式の評価額。
確かに、これらは大切です。
しかし、本当に取り返しのつかないものは、たいてい、数字には出ない側にあります。
正月に集まれる兄弟姉妹がいるかどうか。
親が亡くなった後も、姪や甥と笑って会えるかどうか。
家族の集合写真の真ん中に、空席ができないか。
これらは、後からお金を積んでも、もう買い戻せません。
Aさんが守ったのは、目先の財産ではなく、
「取り返しのつかないものを、失わない権利」
だったのかもしれません。
法律にも、情宜にも、それぞれの出番がある
誤解されがちですが、
「法は家庭に入らず」
というのは、法律を軽く見なさい、という意味では決してありません。
法律には法律の出番があり、情宜には情宜の出番がある。
どちらか一方だけを振り回す人は、たいてい、人生のどこかで派手に躓きます。
両方の道具を、場面ごとに正しく使い分けられる人。
そういう人だけが、最終的に、家族も、財産も、自分の人生も、まるくおさめていけるのだと思います。
「割に合わない」
と、自分の頭で判断できる。
「ここは引きどきだ」
と、自分の足で立ち止まれる。
これは、十分すぎるほど、ひとつの
「勝ち方」
です。
そして、こういう勝ち方ができる人のところには、不思議と、後から本当に大切なものがゆっくりと戻ってきます。
著:畑中鐵丸
00268_「もったいない」が判断を狂わせる_有事に平時の金銭感覚を持ち込む、という致命的な誤り
スーパーのチラシを比べて、卵が10円安い店まで自転車を走らせる。
これは立派な生活の知恵です。
でも、もし家が火事になったとき、消火器を買うかどうか値段で迷っていたら?
「もったいない」
と感じる感覚そのものが、状況によっては命取りになります。
今回お話ししたいのは、そういう話です。
「危機のときに、平時の節約マインドを持ち込むと、なぜ失敗するのか」
という、ちょっと逆説的なテーマです。
「情報」と「証拠」は、まったく別のもの
たとえば、何か重大な決断を迫られる場面を想像してみてください。
就職、進路、人間関係・・・どんな場面でもかまいません。
そういうときに
「白黒はっきりさせたい」
と思ったとします。
そこで2つの選択肢が出てきます。
ひとつは
「いますぐ自分で調べる方法」、
もうひとつは
「時間はかかるが、公的・正式な方法」。
前者はお金も手間もそれほどかからない。
後者は確実だけれど、時間がかかる。
ここで多くの人がやってしまう失敗は、
「どうせ後で正式な方法でやり直すなら、今やるのは無駄じゃないか」
と考えることです。
一見、合理的に聞こえます。
でも実は、この考え方には大きな落とし穴があります。
「いますぐ自分が知るため」
の情報と、
「第三者を納得させるため」
の証拠は、目的がまったく違います。
情報は、自分が次の一手を決めるためのものです。
証拠は、相手や第三者に何かを認めさせるためのものです。
前者はスピードが命で、後者は精度が命。
2つは似て非なるものなのです。
たとえば、
「この会社、なんか変だな」
と感じたとき、すぐに自分で調べてみる。
それで
「やっぱりおかしい、辞めよう」
と決断できれば、その情報には十分な価値があります。
後になって法的に証明できるかどうかとは、別の話です。
戦っているときに「節約」を考えると、もっと大きな損をする
危機的な局面、つまり
「有事」
において、情報をケチることは致命的です。
なぜなら、判断が遅れるほど、失うものが増えていくからです。
「どうせ後でやり直すなら今は待とう」
と考えている間にも、状況は動き続けます。
その
「待つコスト」
は、ふつう見えにくい形で積み上がります。
機会の損失、時間の消耗、精神的な消耗・・・それらは数字になりにくいぶん、見過ごされやすいのです。
「二度手間になるのが嫌だ」
という感覚は、平和な日常では美徳です。
でも、局面が緊迫しているときには、その感覚が判断の邪魔をします。
しかも、先に情報を持っていることには、もうひとつの強力なメリットがあります。
それは
「先手を取れる」
ということです。
交渉でも、競争でも、人間関係のもつれでも、先に事実を把握している側は、圧倒的に有利な立場に立てます。
早めに動くことで、長引くはずだったことが、あっさり片付くこともあります。
歴史を振り返っても、ビジネスを見ても、
「競争や争いで負けるのは、リソースを持っていない人よりも、リソースを持っているのに使わなかった人」
であることが多い。
情報を得るための小さなコストをケチって、大局を見誤った例は、枚挙に暇がありません。
「もったいない」の正体
では、なぜ人は有事でも
「もったいない」
と感じてしまうのでしょうか。
それは、私たちの判断が、ほとんどの時間を過ごす
「平時」
に最適化されているからだと思います。
日常生活では、慎重に比較検討して、無駄を省く習慣が正しく機能します。
それが身についているほど、
「賢い人」
とみなされる場面も多い。
だから、危機的な局面に入っても、同じ判断基準をそのまま使ってしまいます。
でも、状況が変われば、最適な行動も変わります。
平時の美徳が、有事の足かせになることがある。
これは
「悪い習慣」
ではなく、
「正しい習慣の、間違った場面での適用」
という、より根が深い問題です。
だからこそ、大事な局面に差し掛かったとき、ひとつ立ち止まって自分に問いかけてみるといいかもしれません。
「私はいま、平時の感覚で動いていないか?」
と。
情報への投資を惜しまないこと。
それは、危機のときに自分を守る、もっとも確実な方法のひとつです。
著:畑中鐵丸
00267_組織_「中から変える」という幻想_同意なしに動ける世界を、自分の手で広げていく
家族が入院していた病院で、目を疑うような出来事が起きた。
あるいは、信頼していた会社に、顧客としてずいぶんぞんざいに扱われた。
大切な家族が、組織ぐるみの甘い管理のせいで、深く傷ついた。
そんなとき、多くの人の口から、とてもよく似た一言が飛び出します。
「あの組織の中に、私を入れてほしい。理事でも、アドバイザーでもいい。中に入って、自分の手で、根っこから立て直してやる」。
怒りの正しさは、少しも疑っていません。
それほど傷ついたし、それほど腹も立った。
それは動かしがたい事実です。
ただ、この一言は、残念ながら、ほとんどの場合、そのままでは通りません。
なぜか。
相手に
「あなたをそこに座らせます」
と、頭を下げてもらわないと、椅子は1つも動かないからです。
交渉とは、こちらの叫びを相手の耳に浴びせることではなく、相手のほうに
「うなずく理由」
を用意してあげることです。
ここに気づかないまま戦いを始めた人は、たいてい、途中で息切れしてしまいます。
「同意のいらない世界」と「同意がなければ始まらない世界」
世の中の行動を、一度すっきりと2つの箱に仕分けしてみると、景色がずいぶん違って見えてきます。
1つめの箱には、
「相手の意向とは関係なく、自分の意思と自分のお金と自分の時間で、勝手にどんどん進められること」
が入ります。
2つめの箱には、
「相手が『はい』と言ってくれない限り、どう頑張っても一歩も動かないこと」
が入ります。
たとえば、あなたがNPO法人を立ち上げて、病院全般の安全管理のあり方を世に問う活動を始めるとします。
これは、1つめの箱に入ります。
相手の病院からすれば、
「そちらが、そちらのお金と労力で、うちとは別の法人を作って何をなさろうが、どうぞご自由に」
という話です。
文句をつけられる筋合いも、ブレーキをかける理由も、ありません。
ところが、
「その病院の理事に私を迎え入れろ」
「系列グループから病院を切り離せ」
と要求し始めた瞬間、話は2つめの箱にすっと移ります。
相手の病院は、相手の組織です。
あなたが、いくら理屈を研ぎ澄ましても、いくら正義の旗を高く掲げても、相手が
「はい、お願いします」
と頭を下げないかぎり、椅子は1つも動きません。
2つの箱のあいだに引かれているのは、一見、細くて頼りない線に見えます。
しかし、この線を見落としたまま戦いを始めると、人は本当に消耗してしまいます。
怒りのあまり、自分の力では開かないドアを、何時間でも叩き続けてしまうからです。
「中に入れろ」と言った瞬間、あなたは相手の掌のうえにいる
もう一歩、話を踏み込んでみます。
「中に入って、内側から変える」
というフレーズは、正義感の強い人ほど、つい、うっとりしてしまいます。
しかし、冷静になってみましょう。
相手の組織というのは、どういう場所でしょうか。
文字どおり、相手の家です。
相手の家の椅子は、相手が置いたもので、相手が招いた人だけが座るものです。
「入れてほしい」
と頼み込む構図は、すでに、頭を下げる側があなた、頭を下げられる側が相手、という上下関係のうえに成り立っています。
さらに、意地悪な言い方をしますと・・・。
「中に入れろ」
と声を張るほど、あなたは相手を有利にしてしまいます。
もし相手が
「わかりました、理事にお迎えします」
と言い出したら、それは多くの場合、戦う意思が折れたのではありません。
「この人は、椅子を1つあてがえば黙る」
と、算盤をはじいた結果です。
中に入った瞬間、あなたは、その組織の守秘義務と、その組織の顔色と、その組織の人間関係を、まるごと背負うことになります。
外で自由にしゃべれていた言葉が、内側の作法と空気にからめ取られ、だんだんと、語尾が柔らかくなっていきます。
「改革する側」
に入ったはずが、気がつくと、
「改革されるべき対象の、広報担当」
に回されている。
これは、小さな会社でも、大きな法人でも、驚くほど同じ形で起きます。
「中から変える」
という夢は、じつは、もともと変わる気のある組織に対してしか、ほとんど効きません。
本当に変わってほしい組織ほど、あなたを内側には入れてくれない。
もし、すっと入れてくれたとしたら・・・。
それはもう、ほぼ例外なく、あなたの口を静かに塞ぐための、丁寧な工夫です。
それでも「中の椅子」が動くときはある――ただし、呼ぶのはあなたの怒りではない
もちろん、歴史を見渡せば、
「中の椅子」
が外からの声で動かされた例は、ちゃんとあります。
ひと昔前の話ですが、大手の乳業会社が、傷んだ牛乳を市場に出してしまい、世間から厳しい批判を浴びた事件がありました。
彼らは、自社の常識なら絶対に役員に迎え入れないタイプの、口うるさい消費者運動の専門家を、経営の中枢に座らせざるをえなくなりました。
あるいは、漢字の検定を行っていた団体で、親子の理事による身内支配が問題になったケース。
監督する役所が動き、当時の理事親子は追い出され、団体と縁もゆかりもなかった外部の弁護士が、いきなり理事長の椅子に据えられ、組織の作り方そのものが、根本から組み替えられました。
どちらも、
「法的な手続き」
や
「理屈」
だけで起きた変化ではありません。
背中を押したのは、マスコミという拡声器、世論というどよめき、監督官庁という「見張り役」――組織の外側から吹き込んだ、相当に強い風でした。
一般の人が、自力でこの風を呼べるかというと、正直、かなり難しい。
風を呼ぶためには、相手の事情が、全国ニュースに載るほど世間の関心を集める必要があります。
これは、誰にでも登れる壁ではありません。
平たく言えば、
「組織の中の椅子」
を動かす外圧とは、めったに落ちてこない雷のようなものです。
雷を
「落としにいく」
ことはできます。
しかし、雷を呼び寄せる人生を続けるには、相当の体力と、相当の運が要ります。
雷が落ちる前に、あなたの人生のほうが先に終わってしまうことも、十分にあり得ます。
雷を待つあいだに、あなたはあなたの旗を立てられる
話を、明るい方向に戻します。
先ほどの2つの箱でいえば、じつは、
「同意のいらない世界」
のほうが、想像よりずっと広い。
自分たちでNPO法人を作って、啓発活動を始める。
現場で起きた実態を、冷静な記録として丁寧にまとめて発信する。
同じような悩みを抱える患者家族たちを集めて、情報を分かち合う勉強会を開く。
現状を憂えている専門家に声をかけて、ゆるやかなネットワークを作る。
自分のブログや講演で、経験と、そこから引き出した教訓を、こつこつと語っていく。
いずれも、相手の病院の許可は要りません。
相手の会社の同意も要りません。
監督官庁の鶴の一声も要りません。
あなたの意思と、あなたのお金と、あなたの時間さえあれば、明日にでも始められる話です。
ここで気づいていただきたいことがあります。
こうした活動を地道に続けている人たちこそが、結果として、先ほどの
「外からの強い風」
を作り出す当事者に、静かに育っていきます。
最初は一人きりで立てた小さな旗が、いつのまにか風を呼び、気がつけば、頑として動かなかったはずの組織の中の椅子すらも、ゆらゆらと揺れ始める。
これは、きれいごとではなく、わりと地味な、社会の仕組みの話です。
直接、相手の椅子を奪いにいった人ではなく、
「自分の旗を、自分の手で立て続けた人」
のところにこそ、いつか雷は近づいてきます。
「カネで動く話」と「カネでは動かない話」を、区別しておく
もう1つ、整理しておきたいことがあります。
「同意が要る話」
と一口に言っても、じつは、さらに2段階に分かれます。
1つは、
「カネで動く話」。
もう1つは、
「カネでは動かない話」
です。
たとえば、相手に
「うちのNPOに寄付してくれませんか」
と持ちかけるたぐいの話は、前者に入ります。
世間体、事業上の思惑、税制上の扱いなど、相手の側にも、首を縦に振る動機がそれなりに用意されていて、条件次第で、手を打ってもらえる余地があります。
一方、
「病院の運営に口を出させろ」
「組織の編制を変えろ」
といった話は、後者です。
これは、相手の組織の背骨そのものにかかわる問題です。
いくらお金を積み上げたところで、相手は、絶対に、首を縦には振りません。
背骨を抜かれるのは、組織にとって、死ぬよりつらい話だからです。
このあたりを、ごちゃまぜに語っていると、
「あの人たちは、お金でも動かない強欲な連中だ」
といった、ずいぶんゆがんだ被害者意識に行き着きます。
相手が動かないのは、強欲だからではありません。
そもそも、構造上、動きようのない話を持ちかけている、というだけのことです。
相手の性根が悪いのではなく、こちらが、交渉している階(フロア)を間違えている。
この一段深い見立てができるだけで、怒りの量と、その怒りの注ぎ先が、ずいぶん違って見えてきます。
自分のエネルギーは、「動かせる盤」に集中させる
怒りには、残念なことに、使える燃料に限りがあります。
「取れる果実」
と
「取れない果実」
を見分ける力のことを、古い言い方で
「大局観」
と呼びます。
遺産分割でも、離婚でも、労働紛争でも、企業間のもめごとでも、最終的にきっちり結果を出している人たちには、例外なく、この大局観があります。
大局観の中身は、意外なほど素朴です。
「自分の意思だけで動かせる盤」
と、
「相手の手を借りなければ動かない盤」
を、最初の3分で仕分ける。
そのうえで、自分の時間と、自分のお金と、自分の怒りのエネルギーを、
「動かせる盤」に7割、
「動かない盤」に3割、
くらいの配分で、黙って注ぎ込む。
多くの人は、これを、見事に逆にやってしまいます。
動かない盤に9割のエネルギーを叩きつけ、動かせる盤は手つかずのまま放置し、気づけば、疲れ果てた自分と、びくとも変わらない相手と、何もしなかった1年だけが、手もとに残ります。
賢い人は、これをやりません。
動かない盤のほうに、エネルギーを半分置いてきぼりにしてでも、動かせる盤で、静かに、自分の旗を立て続けます。
「勝つ」とは、相手を屈服させることではなく、自分の陣地を広げること
最後に、もう一段、視点を引き上げてみます。
多くの人は、
「勝つ」
という言葉を、
「相手を屈服させること」
と、同じ意味で使ってしまいがちです。
しかし、長く効いてくる勝ち方は、相手を屈服させることではありません。
「自分が、自分の意思と自分の力で、立てられる陣地を、一歩ずつ広げていくこと」
です。
相手の椅子を1つ奪うより、自分の椅子を3つ新しく置いたほうが、結果として、あなたの世界は、確実に広くなります。
そして、自分の椅子が増えていけばいくほど、皮肉なことに、かつてあれほど欲しかった相手の椅子が、だんだん、どうでもよく見えてきます。
本当に手が届きそうになった頃には、もう、欲しくなくなっている。
そんなことすら、普通に起こります。
組織の不祥事に腹を立てた患者家族が、最初は
「あの病院を、なんとかしてやりたい」
と言っていたのに、3年経って振り返ってみると、
「気がつけば、日本じゅうの病院の安全の基準を、少しずつ引き上げる方向に、自分の活動が効いていた」
という景色になっている。
これは、現実に、何度も繰り返されてきた話です。
「中に入れろ」
と叫んでいた人が、内側の論理に飲まれて、いつの間にかおとなしくなってしまった隣で、自分の旗をこつこつ立て続けた人が、外側の景色そのものを、静かに塗り替えてしまう。
これが、世間というものの、少し意地悪で、しかし、かなり正直な一面です。
今夜、紙の真ん中に、縦に一本、線を引いてみてください
もし今、あなたが、どこかの組織の理不尽にぶつかり、
「どう戦えばよいのか」
と胸ぐらをつかまれるような思いでいらっしゃるなら、今夜、白い紙と、ペンを一本、用意してみてください。
紙の真ん中に、縦に一本、線を引きます。
左側には、
「相手の同意がなくても、今の自分で始められること」
を、思いつくまま書き出します。
右側には、
「相手の同意がない限り、どうやっても動かないこと」
を、同じように書き出します。
書き終えたら、右側の項目には、ひとまず、そっと鉛筆でバツ印を置いておきましょう。
すぐに諦めろ、という意味ではありません。
「今夜、自分のエネルギーを注ぎ込む場所ではない」
という目印を、そっと置くだけです。
そうしたら、左側に並んだ項目を、上から順に、1つずつ眺めていきます。
おそらく、あなたが思っていたよりも、ずっと多くの選択肢が、そこにはあるはずです。
「戦う」
とは、相手の家のドアを蹴り破ることではありません。
自分の家を、相手より一歩早く、ほんの少しだけ広く、建てていくことです。
同意のいらない世界を、今日から、1つずつ、自分の手で広げていく。
ただ、それだけで、あなたの立ち位置は、昨日までとは違う場所に、静かに移り始めます。
著:畑中鐵丸
00266_通帳には出ない、でも確実に消えているお金の正体
時間と神経を、じわじわ吸い取っていく相手
お店を開いていたり、会社を経営していたりすると、ときどき、妙な
「相手」
が現れます。
「相手」
と書きましたが、言葉を変えると、
「やっかいごと」「悩みの種」。
正確には、
「時間と神経を吸い取る装置」
とでも言うべき存在です。
一度関わりを持ったが最後、電話・メール・来店・クレーム・面談――あらゆる入り口から、あなたの時間と神経を、じわじわと、静かに、吸い続けます。
取引先のこともあれば、近所の誰か、元従業員、クレーマーっぽい常連のこともあります。
姿かたちは違っても、その行動は、ほぼ同じです。
あなたの1日の中の
「本業に使えるはずだった時間」
を、音もなく吸い取っていくのです。
ある会社の社長が、弁護士に相談しました。
「もう半年以上、この案件で、部下まで振り回されています。先生、どうしたらいいでしょうか」
話を聞けば、現場の主力スタッフが、一週間の仕事時間のうちざっと半分を、この件の対応に取られている。
期間は、もう8ヶ月。
つまり、人員にして1.5人分が、まる8ヶ月、この案件に貼りついている計算です。
領収書の出ないお金が、いちばん怖い
これをお金に換算してみましょう。
社員ひとりあたりに会社がかけるコストを、月給・社会保険・諸経費あわせて月60万円とします。
1.5人月を8ヶ月ぶん積み上げると――だいたい、700万円です。
ところが、社長はこの数字を聞いても、顔色ひとつ変えませんでした。
なぜか。
実際には、この金額は通帳から消えていないからです。
領収書もありません。
振込先の口座番号もありません。
要するに、
「見えないお金」
は、脳みそが
「出費」
として認識しない、という少し困った性質を持っているのです。
しかし、確実に、財布の底からこぼれ落ちています。
このお金があれば、その会社はおそらく、もう1店舗、開けることができたでしょう。
社長の
「やっかいごと」「悩みの種」
は、未来の店舗を、静かに食べていたのです。
会社には、帳簿が2冊ある
私たちは
「お金がかかる」
と言われると、反射的に見積書や請求書を思い浮かべます。
紙に数字が書いてあって、印鑑が押してあって、振込先がついている――それが
「かかったお金」
だと、頭の中で決めつけています。
しかし、会社の帳簿には、実は2種類あります。
ひとつは、
「目に見える帳簿」。
もうひとつは、
「目に見えない帳簿」。
後者には、一見、ゼロにしか見えないものが、並んでいます。
やらなかった商談、開けなかった店、採らなかった人、作らなかった商品、書かなかった企画書。
やらなかったのだから、そこにはゼロしか並ばないように見えます。
しかし、本当に経営が上手な人は、そのゼロの後ろに
「取り損ねた利益の金額」
を書き込んで、読んでいます。
これが、
「機会損失」
という、帳簿に載らない概念の正体です。
経営がうまい人とそうでない人の差は、才能でも人脈でもありません。
「見えない帳簿」
を、毎朝、見える帳簿と同じくらい真剣に眺めているかどうか――ただ、その1点に、ほぼ集約されます。
値札には「表」と「裏」がある
さて、弁護士は社長の前に、3つの選択肢を置きました。
1 コストをかけない
手紙は自分たちで書いて、弁護士は赤ペンを入れるだけ。
顧問料の範囲内で、なるべく安くすませる案です。
2 弁護士名義で警告文書を一本出す
25〜30万円ほどで、こちらが本気であることを相手に見せる。
ただし相手が引き下がらなければ、その後の交渉は別料金。
3 裁判もにらんだ徹底的な文書で一発かまし、弁護士が交渉もまるごと引き受ける
着手金は約60万円。
決着すれば、同額ほどの報酬金が上乗せされる設計です。
数字だけ眺めると、ほとんどの経営者の心は、だいたい同じ方向へ動きます。
「とりあえず1で。だめなら2で。3は、いざとなったら、で」。
いかにも堅実で、まっとうな判断に見えます。
ここに、見落としやすい、もう一つの事実が隠れています。
「表の値札と、裏の値札の金額が、まったく違う」
というものです。
表の値札には、〇万円・〇〇万円という具体的な数字が書いてあります。
裏の値札には、
「この選択をしたとき、あと何ヶ月、この案件があなたの社員を吸い続けるか」
が書いてあります。
表と裏、両方を足したときに初めて、その選択肢の本当の値段になります。
「安い封筒」には、見えない請求書が同封されている
1を選んだとしましょう。
問題の構造はほとんど変わらないまま、社長と部下の時間が、また静かに溶け続けます。
8ヶ月の足踏みが、1年になり、1年半になります。
見えない帳簿に、ゆっくりと赤い数字が書き足されていきます。
しかし、この帳簿を音読してくれる人は、どこにもいません。
「会社がなんとなく疲れている」
「利益がなんとなく薄い」
という空気だけが、じわっと社内に広がっていきます。
2にも、実は、同じ問題が潜んでいます。
相手が一発の警告文書で引いてくれれば、25万円ですべてが終わります。
しかし、何年もかけてこちらに貼りついてきた手ごわい相手が、紙一枚でさっと引き下がるかというと――だいたい、引きません。
しかも、2から3へ途中で乗り換えると、最初から3を選んでいた場合よりも、合計のコストは高くつきます。
こちらが途中で
「弱気」
を見せた瞬間、相手はむしろ勢いづくからです。
3は、見た目にはいちばん高くつきそうです。
しかし
「金輪際、二度と近寄らせない」
という目的に限って言えば、これがいちばん安上がりだった――という結末は、現場では、もううんざりするほど見てきました。
医療で言えば、痛み止めと手術の話に似ています。
痛み止めを飲んだ瞬間、楽になったように感じます。
しかし、病気そのものは、静かに、深く、広がっていきます。
あとになって
「最初から切っておけばよかった」
と、誰もが気づく。
痛み止めが悪いわけではありません。
ただ、痛みを消すことと、病気を治すことは、別の話なのです。
「高い」と感じたら、まず実態を数字にせよ
もし目の前の弁護士の見積書の
「60万円」
を見て
「高い」
と感じたとします。
その気持ちのまま、5分、手を動かしてみてください。
白い紙を1枚用意して、次のように書きます。
「この件に、いままでに、うちの誰が、何時間を、何ヶ月、使ってきたか」
現場責任者の時間が、どれほどこの件で消えていったか。
その部下の時間が、どれほど巻き添えになっているか。
総務や経理の時間が、どれほど後始末に取られているか。
そして社長自身の時間が、どれほどこれに奪われているか。
それらに、会社がその人にかけている月額コストを掛け合わせてみます。
出てきた金額が、見積書の金額より大きければ――答えは自ずと出るでしょう。
60万円というのは、
「新しく発生する費用」
ではありません。
すでに溶け続けているお金を、これ以上溶かさないための値段です。
700万円の流出を、ここで断ち切るための、小さな装置です。
そう捉え直した瞬間、60万円という数字の印象は、がらりと変わります。
「安いほうを勧めてくる専門家」が、実はあなたの財布に遠慮がない
ここで、少しだけ、視点を変えてみましょう。
「結局、弁護士は、いちばん高いプランを勧めたいだけなのでは?」
と思われた方。
その警戒心は、まっとうです。
絶対に捨ててはいけない感覚です。
しかし現実は、この警戒心が思っているのと、わりと逆向きにできています。
本当に目先の売上だけを考える専門家ほど、1や2を、にっこり笑って勧めてきます。
案件がいつまでも終わらず
「また、ご相談に」
「また、ちょっと対応を」
と、繰り返し呼んでもらえるからです。
依頼者が完全に勝ちきる前に静かに長居するほど、その専門家の懐は、こつこつと温まっていきます。
逆に
「ここで、いっぺんに、きれいにケリをつけましょう」
と最初から言い切るタイプの人は、長期のリピーター収入を、自分から手放しにかかっています。
「売上欲しさに見える助言」
のほうが、じつは、依頼者のお財布の味方だったりする。
この少しねじれた関係に気づいておくだけで、専門家との付き合い方は、ずいぶん冷静になります。
お医者さんも同じです。
「痛み止めでしばらく様子を見ましょう」
とやさしく言い続けてくれるお医者さんより、
「これは、今のうちに取りましょう」
と一度厳しい顔を見せるお医者さんのほうが、じつはあなたの寿命の、静かな味方をしてくれていたりします。
経営者の本当の仕事は、「見積書の値段くらべ」ではない
経営者という仕事は、しばしば誤解されます。
「ムダなコストをいちばん上手に削る人が、いい経営者だ」
と。
もちろん、ムダを削るのは大事な仕事のひとつです。
しかし、それは、仕事の入り口にすぎません。
経営者の仕事とは、
「いま支払うお金」
と、
「支払わないことで静かに溶け続けていくお金」
と、
「将来、取りにいけたはずのお金」
この3つを同じ天秤に乗せて、値踏みをすることです。
これができる人のことを、世間は
「肝の据わった社長」
と呼びます。
肝というのは、じつは、性格のことではありません。
計算の精度のことです。
「まだ終わっていない案件」を一枚の紙に書き出す
最後に、小さな宿題をひとつだけ。
今夜、静かな時間に、白い紙を一枚用意してください。
一番上に、こう書きます。
「うちの会社で、8ヶ月以上、きれいに終わっていない案件は、何か」
該当するものを、思いつくまま並べます。
それぞれについて
「誰が、どのくらいの時間を、毎週、吸われているか」
を、感覚でかまわないのでとなりに書き添えます。
書き終わってから、電卓を軽く叩いてみてください。
たいていの場合、そこに出てくる合計金額が、いまの通帳から毎月、音もなく消えていっているお金の、本当の正体です。
そのうえで、もう一度、手もとにある見積書を眺めてみます。
数字の印象が、不思議と、がらりと変わっているはずです。
「動かない」
という選択にも、値札はちゃんとついている。
そしてその値札が見えるようになった瞬間から、経営者としてのあなたは、確実に一段、大きくなっています。
そのとき、まだ開けていない2つ目のお店の図面が、机のいちばん下の引き出しの中から、そろそろ、こちらを向いて、静かに見つめ始めているかもしれません。
著:畑中鐵丸