00199_現代のBtoB営業1_20150620

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」
は、最終項目の
「営業」
というお仕事のお話に入っております。

前回、コンシューマー向けの営業活動(Business to Consumer、BtoCあるいはB2C営業)についての仕事のお作法についてお話をしました。

今回は、BtoBあるいはB2Bと呼ばれる営業領域、すなわち、法人向け営業や企業間取引営業(Business to Business)の現代型仕事の基本を解説していきます。

(7)現代のBtoB営業その1・業界“協調”時代から、業界“競争”時代へ

護送船団行政や業界癒着構造の終焉の動きに併せて、低成長時代の到来、これによるパイの奪い合い、さらには構造的不況による業界間(内)競争や業界再編の動きが加わりました。

このようにして、日本の産業界は業界“協調”時代から、業界“競争”時代にシフトしていくことになりました。

かつては
「健全な経済発展のためには必要なもの」
という論調まであった談合(談合の当事者は、「談合」という言葉を忌避し、「業界協調」という言葉を使われるようです。しかし、「便所」を「お手洗い」「Rest Room」と言い換えたところで、そこで行われる行為が上品でエレガントなものに変わるわけではないのと同様、言葉を変えたからといって、実体としての違法性が払拭されるわけではありません)ですが、リーニエンシーという
「密告奨励制度」
まで整備され、カルテルや談合は、法的に徹底的に排除される時代になりました。

このような時代の変化により、企業は
「仁義や友情を欠いても、非情なまでに能率競争(品質と価格の競争)を徹底しないと生き残れない」
という状況に直面するようになりました。

このことは、
「古くからの友人関係をビジネスに優先させる会社は生き残れない」
ということを意味します。

また、環境が激変する時代においては、企業は、生き残りのための変革を行い、環境適応しなければなりません。

変革をして環境適応する際には、必ず、新しい事業を興し、新しい市場に参入し、新しい関係構築がついて参ります。

逆に考えますと、会社の取引相手が古くからの会社に固定化されており、長期間変わり映えしない、という状況は、新しい人間関係や商流が形成されていないことの裏返しといえます。

BtoB営業を展開している企業で、古くからの取引先と十年一日のごとき取引を繰り返しているというところは、よほどのブランドやコアコンピタンス(絶対的差別化要因)でももっていない限り、生き残りが厳しいと言えます。

(8)現代のBtoB営業その2・一社依存取引の危険性

中小企業などで、
「ウチは一部上場企業の□□社が上得意だ」
「当社は世界展開している○○社の取引口座を持っている」
「わが社は、△△社の系列だ」
などと自慢するところがあります。

いずれも、大きな会社が主要取引先であり、
「よらば大樹の蔭」
という諺のとおり、
「そこに依存している限り、我々も倒れないから安心できる、ということを自慢したい」
ということだと思います。

しかしながら、これまで
「世界の工場」
として世界中の製造加工を一手に担い我が世の春を謳歌してきた日本は、冷戦の終結とともに、中国や旧東欧といった、考えられないような低コストで製造加工を請け負う新興勢力との競争にさらされるようになりました、ということは何度か申し上げました。

後発組は、新しい技術を既存のものとして取り入れ、設備も全面的に更新できますし、かつて日本で行ってきた
「傾斜生産方式」
などのように国を挙げての保護支援を受けています。

このような環境の変化を受けて、日本の多くの企業は、部品や関連製品の調達コストの合理化を常に検討しています。

取引先に対してコストを下げる圧力を強めるほか、調達先自体を多様化し、互いに競争させるような施策を取り始めています。

このような状況下においては、
「取引先が大手一社」
ということは、将来の安全を保障するものではなく、逆に、
「その大手に切られた場合、たちまち経営不安に陥る」
という意味で、きわめて危険な状況と評価できるのです。

下請けや系列の立場でありながら、生き残りを真剣に考えている企業は、このような変化を敏感に感じ取り、新たな仕入れ先を開拓したり、培った技術でまったく新しい製品を作る可能性を検討し始めています。

逆に、こういう状況下で
「取引先が大手だから安泰」
などと考える企業は、認識不足が甚だしいというほかなく、こういうおめでたい企業の将来は芳しいとはいえません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.094、「ポリスマガジン」誌、2015年6月号(2015年5月20日発売)

00198_現代のBtoC営業_20150520

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」
は、最終項目の
「営業」
というお仕事のお話に入っております。

前回、時代が昭和から平成、さらに平成も30年近く経過した現代において、
「営業活動」
が気合から科学へ、根性論・精神論から理にかなった段取りや仕組みで行うようになった、と申し上げました。

今回は、これを受けて、現代型営業活動について述べさせていただきます。

営業については、コンシューマー向けの営業活動(Business to Consumer、BtoCあるいはB2Cなどと言われます)と、法人向け営業や企業間取引営業(Business to Business、BtoBあるいはB2Bなどと言われます)とで、基本的なロジックや活動スタイルが異なりますので、2つに分けて解説していきます。

(5)現代のBtoC営業その1。全ての品はコモディティ(日用品)化する

「全ての商品はコモディティ化する」
という命題があります。

無論、サービスも同様、全て日用品化し、陳腐化していく運命にあります。

衣食足り、モノやサービスがあふれ、消費者の目が肥え、究極にワガママになった現代において、
「フツーのものをフツーに作って、フツーの値段で、フツーに売ろう」
としても、消費者にそっぽを向かれ、早晩倒産してしまいます。

結局、
・入手しやすさ(価格や購入方法の簡便さ等)
・クオリティ(品質や機能)
・刺激・目新しさ
のいずれか又は全てにおいて、消費者の支持を得ない限り、モノやサービスは売れないのが現代です。

すなわち、営業活動においては、
「怠慢を戒め、以上の全ての要素を常に改善されるよう、たゆまぬ努力をするしか企業が生き残る道はない」
というのがシンプルな結論です。

商品やサービスを、
「値段が高く、入手が面倒くさく、品質や機能も陳腐なままで、長い時間同じものを売っている」
ような怠け者の企業は市場からとっとと退場を命じられます。

逆に、品質や価格において常に消費者の支持を得られるように改善を続けていき、また、リニューアルや新商品や新サービスを恒常的に提供し続けることができる企業は生き残ります。

よく、デフレでモノが売れない、などという声が産業界から聞こえます。

じゃあ、
「インフレになったから、昭和時代のように、モノがバカスカ売れるか」
というと、そんな甘い話にはなりません。

アベノミクスで市中にカネがあふれ、貨幣価値が下がりましたが、
「若い世代が新車を争うように買ったり、高級レストランでバンバン飲み食いする」
なんて景気のいい話は寡聞にして知りませんし、今後、インフレが進んでも、そんな事態にはならないでしょう。

顧客の欲求・現実・価値に真摯に向き合い、方向性を誤らず、誠実な努力を重ねることによって、営業活動が成功する。

実につまんない話ですが、これが営業という仕事の全てです。

(6)現代のBtoC営業その2。「女子供」の目線をもつ

「誠実な努力が大事だ」
と申し上げましたが、何事も、方向性を誤り、無駄な努力を重ねても意味がありません。

では、
「BtoC営業を行う際、どのような方向性をもつべきか」
という点ですが、営業あるいはその企画・計画を練る上では、
・入手しやすさ(価格や購入方法の簡便さ等)
・クオリティ(品質や機能)
・刺激・目新しさ
いずれを目指す場合も、
「女子供」
の目線をもって磨き上げることが重要です。

一般に
「女子供」
というコトバは、女性や低年齢の方々に能力を蔑視するコトバとして忌避されます。

しかし、現実を重視するマーケティングにおいて、モラルや方式にとらわれて、ジャッジを誤ることこそ避けるべきなので、あえて、この
「女子供」
という言葉で解説します。

「女子供」
という言葉は、
「相手が、女子供だから、この勝負、ちょろいもんだ」
という形で、ディスるときに使われるのが一般的な用法ですが、マーケティングにおいては、
「女子供」
は強敵です。

最強です。

「女子供」
の対極にあるのが
「オッサン」
ですので、これと比較しながらお話しましょう。

「オッサン」
は、何事も我慢します。

あきらめます。

目先の人間関係に波風立てるくらいなら、カネを払ってすまそうとします。

それだけの時間的経済的余裕があります。恥とか外聞とかあるので、騒いだりしませんし、文句も言いません。

情実が通用するのでしつこく食い下がると不要なモノでも買ってくれます。

ところが、
「女子供」
は我慢しません。

イヤなものは、イヤ。

つまんないものは、つまんない。

古臭いものは手に取ることはおろか、見向きする時間ももったいない。

0.5秒で判断し、一度、NGを出したら、二度と振り向いてくれません。

一度拒否したにもかかわらずしつこくアプローチすると、
「ストーカー」
扱いされ、嫌悪感が増すだけで、逆効果です。

だから、手強いのです。

「こんな方々の注意を惹き、商品やサービスを知ってもらい、財布を開かせ、買っていただく」
ことを実現するための苦労は並大抵ではありません。

BtoC営業を展開する上で失敗するのは、
「女性や子どもたちの目線」
に立たず、
「オッサン」
の頭と感性で考えるからです。

「女子供」
をバカにせず、むしろ、
「営業活動の合理性を検証する上で、ストレステストの最強のカウンターパート」
として、その感性や行動をつぶさに観察研究することが、現代のBtoC営業には求められるものと言えます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.093、「ポリスマガジン」誌、2015年5月号(2015年4月20日発売)

00197_平成以降の営業_20150420

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」
は、
「営業」
というお仕事のお話に入ってまいります。

「営業」
という仕事のお作法について、特に時代の変化をふまえながら、現代における営業活動の基本を、私なりに解説しております。

前回、昭和から平成に時代が変わるあたりから、冷戦が終了し、世界市場が単一化し、供給が過剰になりはじめ、日本国内においては社会が成熟し、デフレ・低成長時代になり、モノ余りが顕著になっていった、という話をさせていたえだきました。

今回は、これを受けて、時代の変化とともに営業スタイルが変わってきた、というお話をさせていただきます。

(2)平成以降の営業=もはや気合、根性だけでは売れない時代

このようにして、
「フツーのものをフツーに作れる」
というのは希有でもなんでもなく、
「ビミョーなものを、イジョーな安価で作れる中国に簡単に負ける」
ことを意味するような時代になったのです。

こんな時代の到来とともに、日本企業は、フツーのものを大量に作れば、フツーに在庫が積み上がり、フツーに会社が死んでしまう時代になったのです。

また、消費者規制が強化されるようになり、気合で売ろうとすると、逆に特定商取引法違反で逮捕される時代が来たのです。

その意味で、気合、根性、精神論で営業を展開する企業は、
「すでに20ないし30年ほど時代遅れの経営を行っている」
か、
「特定商取引法に無視ないし軽視した経営を指向している」
か、のいずれかまたは双方である、と言えます。

(3)営業は気合からサイエンスに

低成長でデフレーションが顕著な現代においては、営業は、データと科学で緻密に戦略をたて、細かいことにこだわる戦術によって行うことが求められます。

一例を申しあげますと、

売り上げ=(潜在客数×来店率×成約率×平均客単価)+(来店客数×リピート率×リピート成約率×平均リピート客単価)

として計算されます。

売り上げを伸ばすには、潜在客数を増やすか、来店率を上げるか、成約率を上げるか、平均客単価を上げるか、リピート率を上げるか、のいずれかの方法によるしかありません。

すなわち、
「売り上げが低迷している」
という状態を改善するのであれば、
1)平均客単価が減少しているのか、
2)成約率が悪いのか、
3)来店率が悪いのか、
4)リピート率が下がっているのか、
5)潜在客数が減少しているのか、
6)そもそも市場自体が構造的に縮小傾向にあるのか、
等を分析した上で、それぞれに原因に対して有意となるべき合理的な手段を構築し、遂行すべきなのです。

いたずらに、
「気合」
「根性」
と叫んだところで時間とエネルギーの無駄です。

科学的なアプローチを行って合理的な手順や段取りで進めていかない限り、営業はまともに機能しません。

(4)根性論ではなく、科学的かつ具体的な営業指示へ

大日本帝国海軍連合艦隊司令長官であった山本五十六は、
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
と言ったそうです。

海軍のような指揮命令系統が整備されていて、最終目標が
「敵をより多く殺戮する」
という単純明快な組織ですら、このような状況です。
ましてや
「人にモノを買わせる」
という複雑で小難しいミッションを遂行しなければならない企業においては、海軍以上に現場への指示を、合理的で、細かく、具体的で、再現性を持たせるようにしないと組織は動きません。

ハウステンボスを建て直したHISの澤田社長が建て直しの苦労話をされた際、
「『10%売上げを増やせ』という指示を出しても、現場には理解できない。現場への指示は明快で具体的であるべきだ。そこで『移動であれ、会議であれ、作業するのであれ、話をまとめるのであれ、10%スピードアップをしてくれ。1時間かかっている会議は50分で終わってくれ。お遣いに行くときは歩いていかずに自転車を使ってくれ。こういう細かいところも含めて全てスピードアップをしてくれ』という指示を出しました。そうしただけで、売上が劇的に改善された」
ということを言っておられました。

このように、営業上の復活を遂げ、生き残る企業(ハウステンボスの場合、「生き返る企業」ということになりますが)は、精神論、根性論ではなく、
「現場に対して確実に伝わる、現実的で合理的な指示」
が行われることが多いようです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.092、「ポリスマガジン」誌、2015年4月号(2015年3月20日発売)

00196_昭和の営業_20150320

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」
は、最終テーマ、
「営業」
に入ってまいります。

「ヒト」
「モノ」
「カネ」
「情報・技術・ノウハウ」
といった各経営資源を調達・運用した企業は、企業内部に
「商品在庫や役務提供のための設備・人員等」
という形で付加価値(未実現収益)を蓄積していきます。

次に、企業は、営業・販売活動によって、これら付加価値(未実現収益)を収益として実現していくことになります。

商品をカネに変質させることを、一般用語では、
「営業」
といいます。

すなわち、どんなに立派で高機能の商品でも、売れるべき期間売れずに長く売れない状態が続けば、不良在庫として、事業活動上も税務上も邪魔なものとして企業に害を与え続け、それでも売れなければ、陳腐化・品質低下し、ただの廃棄物(ゴミ)となります。

サービス提供施設も同様です。

バブル期前後にできたテーマパークの中には、客が来ないし、ショバ代(固定資産税)は取られるわ、邪魔だわ、不気味だわ、と社会的には有害物であり、壮大なオバケ屋敷兼ゴミ屋敷となってしまうものもありました。

ゴミなら捨てればいいのですが、最近では、うっかり廃棄物の捨て方を間違うと、産業廃棄物処理法違反で書類送検される世の中です。

このように、企業にとって、営業活動は、もっとも重要かつ意義ある活動として考えられます。

なお、営業活動の成果として、商品がカネに変わり、この
「カネ」
が経営資源となって、ヒトやモノやチエを生み出す原資になり、最後は、また商品となり、カネに変わり、というサイクルを繰り返す。

これを、小難しい言葉で
「営業循環」
などと表現したりします。

このような循環を繰り返す中で、企業は拡大再生産を繰り返し、企業価値を高めていくのです。

いずれにせよ、企業にとっては営業活動がもっとも重要です。

顧客を発見し、顧客の
「欲求、現実、価値」
を理解し、特定し、これに適合する形で、自社の商品やサービスを提供していく。

アホではできない高度に知的なチャレンジです。

実際、企業においては、デキる人間ほど営業に回されます。

よく、テレビドラマ等では、営業マンというと、できないサラリーマンの典型例のように扱われますが、実際の企業社会においては、営業部隊がもっとも発言権をもっており、事業会社の社長は、営業のトップが就任する例がほとんどです。

ただ、営業のあり方も、日本の社会構造や産業界の変化に伴い、大きく変質していることも事実であり、そういう状況も踏まえないと、仕事をうまく進めることはできません。

では、以下、
「営業」
という仕事のお作法について、特に時代の変化をふまえながら、現代における営業活動の基本を、私なりに解説してまいりたいと思います。

(1)昭和の営業=気合、根性だけで営業が何とかなった時代

最近では、中東における緊張状態が連日報道されていますし、ウクライナにおける代理戦争のようなロシアとEUとの暗闘状態が垣間見えたりしますが、今から、30年から40年ほど前までは、米ソが、世界を舞台にして、一触即発のガチの睨み合いの真っ最中でした。

本格的な殴り合いはないものの、今にも殴り合いがはじまりそうな、みていてハラハラするようなガンの飛ばし合いを、
「冷戦」
などと言っていました。

このように世界が緊張状態のまっただ中にある中、アジアにおける西側世界の
「代貸し」
ないし
「若頭」
的地位にあった日本は、アメリカという
「組長」
の庇護の下、
「フツーのものをフツーの値段でフツーに作れる」
という稀有な工業国家として、
「世界の工場」
の地位を築き上げました。

経済はインフレーション傾向にあり、作っても作ってもモノが不足し、作ればすべてモノが売れる時代でした。

現在のように、マーケティングだの営業戦略だの細かいことをグダグダ考えなくても、気合を入れれば、なんとか需要家がみつかり、あとは押しの一手で在庫を持ってもらうことができる、そんな時代でした。

そういう時代においては、能書きたれるよりも行動こそが重要で、まさしく営業は気合であり、根性だったのです。

この時代、売上とは、
「営業マンの数×1人当たり売上」
で計算されました。

いかに多くの営業マンを採用するか、そして、いかに営業マンを働かせるか、が重要だったのです。

しかし、1989年、ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終了し、世界市場が単一化し、供給が過剰になりはじめました。

そして、東欧諸国や南米や中国が競争に参入し、圧倒的な価格競争力で
「世界の工場」
という地位を日本から奪取しにかかります。

加えて、日本国内においては社会が成熟し、デフレ・低成長時代になり、モノ余りが顕著になっていきました。

今回は、このあたりで一旦お話を終えますが、次回は、時代の変化とともに、営業が
「気合」
「根性」
からサイエンスに基づき合理的に行われるようになり、これについていけない会社が憂き目をみるようになった、というお話を含め、現代産業社会における
「営業」
というお仕事の本質について解説して参りたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.091、「ポリスマガジン」誌、2015年3月号(2015年2月20日発売)

00195_チエのマネジメント(15)_20150220

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」、
「チエ」
すなわち、情報、技術、ブランドといったソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)の15回目です。

前回、ビジネスの世界においては、特許権や実用新案権とは別に、
「正式な権利」
にはならない
「企業秘密」
という知的財産領域があり、しかも、現実には、この
「企業秘密」
と言われるものの方が、ボリュームとしても膨大であり、かつ、企業にとって重要性を有している、という前振りのお話をさせていただきましたが、今回は、この
「企業秘密」
のお話をさせていただきたいと思います。

(21)企業秘密の特徴

原子力発電は高度な技術情報の集積によって成り立っています。

当然ながら、原子力発電に関する特許は、かなりの数の技術情報が、特許あるいは実用新案として、登録され、あるいは出願されています。

特許や実用新案に関する情報がデータベース化されている
「特許電子図書館」
というサイトで
「原子力発電」
というキーワードで検索すると、同キーワードに関する技術は、特許で2866件、実用新案で55件の合計2921件みつかります。

さて、ここで、例えば、ある会社が、原子力発電所を作ろうと思い立ったとしましょう。

特許許諾云々の問題は別にして、当該会社は、特許や実用新案として公開されている技術情報だけで、原子力発電所を作ることはできるでしょうか?

答えはNOです。

まず、不可能だと思います。

こういう話の仕方をすると、
「畑中は何を言っている! 3000もの技術が公開されているんだから、これを使えば、原子力発電所くらい作れるはずじゃないか!」
とおっしゃる方が出てきそうです。

しかしながら、現実には特許や実用新案だけで原子力発電所を作るなど、夢のまた夢、といえるほど、技術情報が不足著しいのです。

何故か、というと、原子力発電所を作るには、特許や実用新案として公開されている情報”以外”の膨大な技術情報が必要だからです。

これらの技術情報群は、特許化も実用新案化もされることなく、原子力発電メーカー固有の
「門外不出のノウハウ」
として膨大な情報群として存在し、一般の目に触れることなく、日々アップデートされ、進化を遂げているものです。

おそらく、原発を作るのに必要な技術情報のすべてを100とすると、特許や実用新案として公開されるのは、そのうち0.001%にも満たない、と言えるかもしれません。

原発開発に携わる会社は、
「技術競争力の根幹に関わる技術で、比較的早期に陳腐化し、公開することにより生じる犠牲を勘案してもなお、模倣リスクを防御し、牽制しておいた方がいい、ごく一部の情報」
だけを選び出し、競業する他社への牽制も込めて、特許ないし実用新案として出願する、という行動に出ます。

そして、それ以外の膨大な技術情報群は、一切公開されることなく(したがって外部によって真似されるどころか、目にする機会すらない状態で、)静かに製造現場で蓄積されていき、メーカーの競争力を支えているのです。

特許は、強力な権利ですが、他方で、その内容を公開しなければならず、かつ、一定期間でその優先的効力は消滅します。

また、特許の効力は登録した国限りのものであり、登録をしない国においては、
「パクリ放題」
です(特許における属地主義)。

現実問題として、世界百数十ヶ国全てにおいて特許権を取得しようとすると、想像を絶する取得コスト・維持コストが必要となります。

他方、企業内部の技術情報は、新規性や進歩性といった技術内容に関する要件など一切不問で、一定の要件を充たす限り、登録等の手続きは一切不要で、不正競争防止法という法律によって保護されます。しかも、存続期間は永久です。

営業秘密としてよく例に出されるのが、コカコーラの原液のレシピ情報です。

すなわち、コカコーラの原液のレシピ情報は、一切公開されることなく、
「門外不出の企業秘密」
として、百年以上にわたって保護・管理され、コカコーラ社の長期間にわたる競争力を支えています。

もし、これが特許として公開されていたら、コカコーラは20年程度でその競争における優位性を喪失し、今頃企業は破綻していかもしれません。

世阿弥は
「秘すれば花」
と言いました。

技術情報も、同様です。

特許として公開してしまえば、高いコストをかけた挙句、20年ポチしか保護されませんが、公開せず
「自家薬籠中の物」
として保管しておけば、低コストで、かつ長期間、企業の競争力を支えてくれるのです。

(22)日本企業における企業秘密のずさんな管理実体

「営業秘密」
として保護されるためには一定の要件充足が必要であり、その一番重要な要件が、秘密管理性と言われるものです。

要するに、企業が、特定の情報を、不正競争防止法に基づく
「営業秘密」
として保護を求めるのであれば、
「これら情報を、従業員を漫然と信じて、いい加減・適当に管理するようなこと」
はNGで、
「守秘義務誓約書を徴求するとか、社外に容易に持ち出せないような物理的あるいは制度的な仕組を作るなどして、厳密に管理しておく必要がある」、
というわけです。

ですが、長年、
「社員は家族。社員を信じよ。社員を泥棒と考えるような強烈な管理の仕組みはよくない」
というカルチャーを信奉してきた日本の各メーカーは、この種の仕組みをまったく持っていないことが多く、リストラした社員が、情報を持ちだしても、打つ手がなく、技術情報がどんどん流出する状況です。

有名なのが、新日鐵が保有していた方向性電磁鋼板製造技術で、これら技術は、特許化されることなく、長年企業内の秘密として運用されていました。

ところが、リストラされた技術者が、転職先の韓国メーカーにこの技術を持込んだことが契機となって、国際的な企業紛争に発展しています。

無論、新日鐵サイドは、
「不正競争防止法にもとづく保護を受けられるに十分な、営業秘密としての管理実体はあった」
と主張していますが、韓国メーカー側は、
「そんな管理なんかやっていないだろう。大事なものなら、ちゃんとしまっておけ。従業員を信じて適当な管理をしておきながら、クビにした従業員が培った技術を適正に使ったからといって、今更、ギャーギャー騒ぐな。見苦しい」
と応戦しているようです。

いずれにせよ、営業秘密として保護を求める以上、相応の要件充足が必要であり、これまで性悪説に基づく社員に対する厳格な情報管理を要求した経験のない日本企業は、右往左往している、というのが実体です。

以上、企業秘密について見てきましたが、ポイントとしては、発明をしたからといって、何でもかんでも特許化を狙って公開すればいい、というものではなく、
「秘すれば花」
という形で、非公開の営業秘密として運用した方が便宜な場合もあり、企業における技術情報の大半はこのような形で維持・保全されている、ということです。

とはいえ、このような営業秘密として維持・保全を企図するのであれば、
「ウチの従業員はまともだから、信じても大丈夫」
という態度は禁物で、性悪説を徹底した厳密な管理をする必要がある、ということも踏まえなければなりません。

さて、これまで、情報、技術、ブランドといった
「ソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)」
をテーマに、脱線を交えながら、実に多くの企業情報の取り扱い方をみて参りましたが、今回で、一旦、これら
「チエ」
に関わる仕事の作法のお話は終えたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.090、「ポリスマガジン」誌、2015年2月号(2015年1月20日発売)

00194_チエのマネジメント(14)_20150120

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」、
「チエ」
すなわち、情報、技術、ブランドといったソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)の14回目です。

立法・司法・行政という国家三権とその機能分担(三権分立)の話に広がりましたが、前回あたりから、話が無事に、知的財産権、いわゆる
「チザイ」
へと戻ってまいりました。

前回
「審査官をウマく丸め込み登録はしたものの、新規性、進歩性等の要件に問題があるエエ加減な特許権」
をブンブン振り回して、鼻息荒くライバル企業に差止・損害賠償訴訟を提起すると、カウンターパンチをくらうような形で裁判所から突然
「特許無効」
と宣言され、最後に泣きを見る、という事例が出てくるようになった、との前置きをさせていただきましたが、今回は、この事件のお話をさせていただきます。

(20)枝豆特許をめぐる冷食業界の仁義なき抗争

1998年、日本水産(ニッスイ)は、冷凍の塩味茹枝豆に関する特許を取得しました。

特許といっても、製法や材料や味や保存期間等の画期的技術についてではなく、枝豆の塩分濃度や解凍後の枝豆の硬さなど、性質や機能を数値で表現したものに特許権が与えられたものでした。

ニッスイは、特許取得後、同じく冷凍塩味茹枝豆を販売しているニチロ、ニチレイ、マルハなどに特許使用料を要求する交渉を開始しましたが、各社はこれに猛反発。

2002年2月にニチロが特許庁にニッスイの特許の無効審判請求をしたことから、ニッスイ側は、この対抗措置として、自社の特許権を侵害したとして、ニチロの冷凍塩味茹枝豆の販売差止などを求めて、東京地裁に提訴しました。

結果は、東京地裁が
「ニッスイの特許技術に進歩性はない」
と判断し、ニッスイ側の完全敗訴となりました。

ニッスイ側は、控訴も断念し、ここに冷凍塩味茹枝豆の特許をめぐる冷凍食品業界の仁義なき抗争が終結しました。

特許が成立するのは、それまで冷凍食品業界においてまったくなかったような高度な発明で、かつ従来技術からは思いもつかないような進歩的な発明でなければなりません。

人間の
「食」
に対する意識は結構保守的で、変わった食品や変わった製法の食品を敬遠する向きも多く、その意味で、一般に
「食品業界では特許が成立しにくい」
などと言われます。

というか、仮に
「見た目はカレーで、味はイチゴのデザート」
なんて食べ物があったとしますと、この食べ物は、斬新であり、進歩的なもので、ひょっとしたら特許が取れるような発明かもしれませんが、そんなグロテスクな食べ物、日本人のほとんどはあっても食べたいとは思わないでしょう。

そして、事件になったニッスイの特許は、そんな革命的なものというわけではなく、前述のとおり、フツーの食べ物に関する、ちょっと便利な技術に関するものでした。

すなわちニッスイに特許権があり、特許庁長官発行のお免状があるからといっても、
「下駄をはかせてもらい、インチキで取得した『なんちゃって特許』とも言うべき代物」
にすぎないというのが実体であり、ニチロもその
「なんちゃって」
ぶりはきっちりお見通しでした。

にもかかわらず、ニッスイは、そんな、武器にもならない
「おもちゃのチャンバラ道具」
のような権利を使って、
「喧嘩上等」
と言わんばかりに強気になってしまい、訴訟提起をしちゃったところが、運の尽きだったようです。

結局、ニチロから無効審判請求の申立てや、特許法104条の3の抗弁(キルビー抗弁)といった、ガチのカウンターパンチが繰り出され、
「特許庁、すなわち行政という奉行所(権力機関)」
とは別の、
「裁判所、すなわち司法府という別の奉行所(権力機関)」
によって、鵜の目鷹の目で徹底的に調べ上げられ、あっけなく
「その方が有しておる権利とやらは、まがい物の、なんちゃって権利であり、無効なり! そのような権利を振り回すその方の振る舞いこそが不逞千万である!」
と宣言させられたのです。

裁判で負けたら、販売差止に失敗するだけではありません。

もし、ニッスイが、この特許を製造委託先や他社に使用許諾(ライセンス)して、特許使用料(ロイヤルティ)でも取っていようものなら、今度はライセンスしている会社からも
「ガセ特許をネタに高いロイヤルティをふんだくりやがって、この野郎!特許が無効になった以上、これまでインチキで払わされたロイヤルティを全部返せ!」
ということを言われる可能性もあります。

ニッスイも、三権分立をきっちり理解して、
「特許庁、すなわち行政府という権力機関によって、お情け半分で特別に認めてもらった権利が、裁判所という冷厳な別の権力機関でばっさり否定されるかもしれない」
という保守的な前提認識をもち、物騒な展開にせず、大人の話し合いで、なるべく早く双方にとって体面が保てる幕引きをし、
「なんちゃって特許」
が化けの皮を剥がされないようにすれば、よかったのかもしれません。

こうやってみると、
「特許権という、三権分立制度の間に漂う権利を扱う際には、日本の国家制度を本質から理解しておく必要がある」
ということにつながることが理解いただけると思います。

このような
「三権分立制度の間に漂う権利や法律関係」
は、チザイにとどまりません。

税務争訟関係(税務当局と裁判所)、金融商品取引法事件(金融庁、証券取引所、証券取引等監視委員会と裁判所)、独禁法事件(公正取引委員会と裁判所)などなど、ビジネスと法律が交錯する多くの分野で、行政と司法が顔を出します。

無論、多くの場合、結論だけでみると司法判断と行政判断には一致がみられます。つぶさに観察すると、権利や法律関係の扱い方やアングルが相当異なることがわかりますし、
「同じ日 本の権力機関だから、一緒だ」
という安易な考えは早計といえます。

「チザイ」
の扱い方のお話に際して、長々と三権分立の話をさせていただいたのは、こういう背景からなのです。

これまで
「チザイ」
として、特許や著作権や意匠権といった正式な権利となるものを見てまいりました。

もちろん、一般に
「チザイ」
と言えば、これら正式な権利となるようなものが代表選手ですが、ビジネスの世界においては、これらとは別に、
「正式な権利」
にはならない
「企業秘密」
という知的財産領域があります。

そして、現実には、この
「企業秘密」
と言われるものの方が、ボリュームとしても膨大であり、かつ、企業にとって重要性を有しています。

次回は、この
「企業秘密」
のお話をさせていただききたいと思います。

連載が長くなっておりますが、もうしばらくお付き合いください。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.089、「ポリスマガジン」誌、2015年1月号(2014年12月20日発売)

00193_チエのマネジメント(13)_20141220

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」、
「チエ」
すなわち、情報、技術、ブランドといったソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)の13回目です。

話は
「チザイ」、
すなわち知的財産権の話から、立法・司法・行政という国家三権とその機能分担(三権分立)の話に広がっておりますが、今回から、話をチザイに戻してまいります。

前回、法律は、
「サイエンス」
ではなく、
「イデオロギー」
であって、この
「イデオロギー」
たる法律を解釈運用するのは、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されている、いわば
「独裁者」
たる裁判官であり、
「真理探求に謙虚な姿勢の科学者が、サイエンスを扱う」
のとは180度異なる、
「独裁者がイデオロギーを、自由気ままに振りまわす」
というのが司法という権力の実体である、などと解説してまいりました。

そして、司法権力がこれだけの強力な独裁権力ですから、他の国家主権である行政権と摩擦を起こすのは、当然の成り行きといえますが、現実に、チザイの世界では、司法と行政が、世間の目を気にせず、衆人環視の状況で、大喧嘩をすることがあります。

今回は、この話をさせていただきます。

(19)チザイにおける行政VS司法

企業の事件の報道を見ていますと、例えば、こういうニュースに接することがあります。

「2005年2月26日、東京地方裁判所は、特許権侵害訴訟において、日本水産の冷凍塩味茹枝豆特許(塩味茹枝豆の冷凍品及びその包装品の特許)を無効と判断し、日本水産の特許権に基づく損害賠償等の請求を権利濫用として許されないとして棄却」

「2005年11月11日、知財高裁において、日本合成化学工業のパラメーター特許が無効と判断される」

一見すると、ありきたりのニュースとして見過ごしてしまいそうですが、考えてみれば、かなり異常な事態です。

ニュースでは、
「裁判所から、権利を濫用したとか、無効だとか非難された」
とされていますが、当事者である日本水産にせよ、日本合成化学工業にせよ、別に、何の根拠もなし、無茶な因縁をつけたわけではありません。

彼らは、多大な時間とエネルギーを負担して、特許出願し、さらに、出願してからも、特許庁から
「あっちを直せ」
「この出っ張りを引っ込めろ」
とかいろいろ指導を受けた挙句、晴れて、特許権登録を受け、特許庁から
「特許権者」
としてお墨付きを受けた、国家公認の権利者だったのです。

特許権が登録されれば、見るからにおごそかな特許庁長官発行の
「特許証」
という、鳳凰が縁取られた、合格証書のようなものが発行されます。

このような状況にあって、
「自分の権利がマボロシである可能性もあるから、疑え」
と言われても、そりゃ、絶対、無理ってもんです。

日本水産も、日本合成化学工業も、
「特許庁」
という、
「国家行政を担う、立派な奉行所」
のお墨付きを得て、権利者として振舞っていただけです。

そうしたところ、あるとき、この
「厳かなお墨付き」
たる特許権を
「そんなもの、屁のつっぱりにもなるか」
と言わんばかりに、公然とコケにする不逞の輩が現れたのです。

不逞の輩と権利者との揉め事は、
「裁判所」
という別の奉行所が取り扱うことになっています。

奉行所が違ったといえども、同じ日本という国の、同じ国家機関。

「まるで話が通じないわけはない、ということはなかろう」
と思って、裁きを待っていたところ、この
「裁判所」
という奉行所は、
「そちのもっている権利とやらはインチキじゃ。そのようなインチキな権利を振り回す、そちこそが、不逞の輩なり」
と、逆に怒られた。そんな無茶苦茶な話が、前述のニュースです。

なぜ、こんなことが起きてしまうのか。

それは、三権分立制度の陥穽としか言いようがありません。

国家は1つですが、権力作用は、全く別。

しかも、裁判所は、
「サイエンス」
ではない
「イデオロギー」
たる法律を解釈運用する、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されている、いわば
「独裁者」
であり、国会が作った法律すらぶっ飛ばすパワーを持っているくらい強力な独裁者です。

他の国家主権である行政権に属する特許庁が一介の私人に発行したお免状の1つをビリビリ破ることくらい、朝飯前のバナナヨーグルトです。

とはいえ、その昔、
「裁判所は文系の人間で、科学技術のことはよくわからないから、特許権が有効とか無効とかそういう小難しいことは、技術に明るい特許庁の方々に任せ、基本的に特許庁の判断を尊重しよう」
というシキタリがありました。

ところが、あるとき、公知技術を組み合わせただけの明らかに無効な特許を、うまく登録に持ち込んだ輩が登場し、彼が、このインチキ特許を使って、差止や損害賠償請求を行うという事件が起きました。

その際、最高裁は、前記シキタリを破り、
「差止や損害賠償請求が求められた際、裁判所が当該特許の有効・無効を判断し、たとえ技術に明るい特許庁の審査官がお墨付きを与えた特許権であっても、無効と断じてもいい」
と宣言しました。

そして、このような最高裁の取扱は、特許法改正により明文化されました。

このような事情があるため、前述のニュースのように、
「審査官をウマく丸め込み登録はしたものの、新規性、進歩性等の要件に問題があるエエ加減な特許権」
をブンブン振り回して、鼻息荒くライバル企業に差止・損害賠償訴訟を提起すると、カウンターパンチをくらうような形で裁判所から突然
「特許無効」
と宣言され、最後に泣きを見る、という事例が出てくるようになったのです。

前回まで、長々と、国家三権の本質的特徴、という遠大なテーマを論じてまいりましたが、チザイとの関係については、このような話となってつながってくるんです。

次回以降も、この、実にややこしい、チザイの特徴と取り扱い方法を解説していきたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.088、「ポリスマガジン」誌、2014年12月号(2014年11月20日発売)

00192_チエのマネジメント(12)_20141120

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」、
「チエ」
すなわち、情報、技術、ブランドといったソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)の12回目です。

話は
「チザイ」、
すなわち知的財産権の話から、立法・司法・行政という国家三権とその機能分担(三権分立)の話に広がっておりますが、今回、さらに、この脱線話を掘り下げていきます。

前回
「裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持する」
ということがありうる、ということをお話しましたが、今回は、具体的な事例に基づいて詳しくお話しいたします。

(18)上司もなく、やりたい放題の裁判官(承前)

確かに、憲法76条3項には
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
とありますし、裁判官が、その職務権限を行使するにあたっては、外部の権力や裁判所内部の上級者からの指示には一切拘束される必要がない、と憲法で保障されていることはわかります。

とはいえ、
「裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持する」
ということがありうる、とまで言ったりすると、
「カタくてマジメそうな裁判所がそんないい加減なことをしないでしょう」
という声が聞こえてきそうです。

しかしながら、日本の最高裁は、民主主義について非常識ともいえる判断を長年敢行し続けています。

例を用いてお話しします。

東京都内の私立小学校で学級委員を決める際、クラスの担任が、
「港区と千代田区から通っている生徒に5票与え、中央区と渋谷区から通っている生徒には3票、足立区と台東区に通っている生徒には2票、川崎市から通っている生徒に1票という形で付与する」
と発表し、生徒の住所地によって票数を露骨に差別したとします。

もし、実際こういう非民主的な教育運営している教師がいたら、気でも狂ったのではないかと思われ、即座にクビを切られるでしょう。

しかしながら国政レベルにおいては、このような
「気でも狂ったか」
と思われる行為が平然と行われ、最高裁もこれを変えようとはしません。

すなわち、国会議員を選ぶ選挙においては、投票価値が平等ではなく、鳥取県や島根県の方々は5票与えられる反面、東京都民や神奈川県民には1票しか与えられない、という異常な状況が長年続いております。

このような
「『多数決』ならぬ『少数決』による、非民主的な国民代表選出制度」
の違憲無効性が最高裁で度々審理されていますが、
「素性も選任プロセスもよくわからない最高裁の15人の老人たちの思想・良心」
に照らせば、このような制度も
「違憲ではない」
とされ、投票価値の不平等は延々と放置され続けているのです。

小学生の学級委員の選出ですら許されない非民主的蛮行が、国政レベルで平然と行われ、かつ最高裁に聞いても
「別に問題ない。これがワシらの良心じゃ。黙ってしたがっておれ」
という態度が貫かれるのです。

以上のとおり、裁判官は、日本国における最高・最強の権力を保持しながら、誰の指図を受けることなく、自由気ままに、個性を発揮することが憲法によって保障されており、この点において、個性の発揮が極限まで否定される行政官僚とはまったく異なるのです。

無論、最近では、投票格差の問題を是正するため立ち上がった弁護士グループの尽力で、ようやく、この問題が改善される動きが芽生えつつあります。

しかしながら、気が遠くなるような時間と多大なエネルギーと莫大なコスト(関わっている弁護士は手弁当参加であり、実費等もカンパで賄われているようです)をかけ、耳が痛くなるほど連呼しないと、「少数決ではなく、多数決こそが民主主義」という、小学生でも理解できる単純な理屈を実現してくれない。

これが、
「法の番人」
の実体です。

刑事事件や重大な憲法問題ですら、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されているのをいいことにありえない異常を何十年単位で放置するわけですから、そこらへんの民事事件の扱いなど、推して知るべしです。

法律というと、
社会「科学」
と分類されてはいるものの、単なる制度や取決めに過ぎず、集団的自衛権の議論の迷走ぶりをみてもわかるとおり、立場や時代や解釈者によってどのようにも使われます。

その意味では、法律は、
「サイエンス」
ではなく、
「イデオロギー」
なのです。

しかも、
「イデオロギー」
たる法律を解釈運用するのは、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されている、いわば
「独裁者」
たる裁判官。

「真理探求に謙虚な姿勢の科学者が、サイエンスを扱う」
のとは180度異なる、
「独裁者がイデオロギーを、自由気ままに振りまわす」
というのが司法という権力の実体です。

司法権力がこれだけの強力な独裁権力ですから、他の国家主権である行政権と摩擦を起こしたり、大喧嘩をするのは、当然の成り行きといえます。

以上のように、国家三権の本質的特徴を十分見てまいりましたので、次回以降、徐々に、話をチザイに戻してまいりたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.087、「ポリスマガジン」誌、2014年11月号(2014年10月20日発売)

00191_チエのマネジメント(11)_20141020

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」、
「チエ」
すなわち、情報、技術、ブランドといったソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)の11回目です。

話は
「チザイ」、
すなわち知的財産権の話から、立法・司法・行政という国家三権とその機能分担(三権分立)の話に広がり(脱線し)、これがひどくなる一方ですが、あえて空気を読まず、脱線話を続けたいと思います。

前回は、法を執行する二つの国家機関である裁判所と行政機関(いずれも極めて似通った存在ですが)を比較しながら、お話を申し上げましたが、今回、さらに、この話を掘り下げていきます。

(17)違憲立法審査権が通常裁判所に帰属するという意味

前回
「日本は、イギリスやアメリカと同様、通常裁判所に違憲立法審査権を付与しています。このような意味において、裁判所は、通常司法権のほか、『違憲立法審査権という、立法権力や行政権力も凌駕するもっとも強力な国家権力』を保持しており、わが国において『最強の権力集団』ということができるのです」
と言いましたが、これはよく考えてみると、相当特異なシステムといえます。

くだらない民事の揉め事や離婚の話、窃盗や詐欺など刑事事件の面倒をみている国家機関が、国会の立法権限や行政官庁の法執行をぶっ飛ばすようなラディカルな事件を裁いてしまう、ということですから、ある意味無茶苦茶なシステムです。

実際、例えば、東京地裁の例でいうと、民事1部から3部および38部は行政部と呼ばれ、日本国が被告となるような行政事件や立法に絡む事件を専門的・集中的に審理するのですが、当該部においても通常事件も割り当てられますので、
「午前中は、国土交通大臣を被告とする国家賠償請求事件、午後は貸金と契約違反と近隣紛争」
なんて形で、
「国を揺るがすような大事件」

「犬も食わない、ネコもまたぐような民事の揉め事」
が同じ裁判官によって同じ法廷で裁かれていることがあるのです。

いずれにせよ、裁判所が日本国の中でもっとも強力な権力を有することは明らかであり、裁判所の前では、首相だろうが、大臣だろうが、民事トラブルの当事者や泥棒や詐欺師と同様、等しく裁判官にひれ伏し、そのご託宣を仰がなければならないのです。

(18)上司もなく、やりたい放題の裁判官

行政官は、
「法律による行政」
「絶対的上命下服」
の2つの原理で厳しく規律されています。

行政官が仕事に個性を発揮するということは、法律の軽視や指揮命令の混乱につながるため、厳しく禁じられ、ひたすら個性を埋没させ、私情を排して公正・公平な法を実現します。

行政官以上に強大な権力を振るう裁判官は、行政官僚と同様あるいはそれ以上の規律に服すると思うのが素直で自然ですし、
「裁判官は、さぞ規律がしっかりしており、何から何までルールで雁字搦めにされ、個性の発揮は忌避され、人間性が否定された機械のような仕事が求められるのであろう」
というのが一般の方の印象だと思われます。

前回
「行政官と裁判官は、バックグラウンドも出身大学も試験科目も酷似している」
などといいましたが、この点からも、裁判官と行政官の仕事の哲学やスタイルが同じと考えるのが自然です。

しかし、事情はまったく逆で、裁判官は、上司もおらず、個性と私情を発揮して、差し詰め
「やりたい放題」
といったところなのです。

しかも、この
「裁判官が、個性の赴くまま、やりたい放題で仕事してもいい」
という業務指針は、憲法に明記されているのです。

憲法76条3項をみると、
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とあります。

裁判官が、その職務権限を行使するにあたっては、外部の権力や裁判所内部の上級者からの指示には一切拘束される必要がない、と憲法で保障されているのです。

例えば、行政官が、
「この法律は、私の良心や憲法解釈に反するので、個人の判断として執行をしません」
とすると大問題となります。

ところが、裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持したりすることができるのです。

こういう言い方をすると、
「カタくてマジメそうな裁判所がそんないい加減なことをしないでしょう」
という声が聞こえてきそうですが、日本の最高裁は、民主主義について非常識ともいえる判断を長年敢行し続けています。

次回は、この
「裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持する」
という例を、具体的にお話しいたします。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.086、「ポリスマガジン」誌、2014年10月号(2014年9月20日発売)

00190_チエのマネジメント(10)_20140920

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」、
「チエ」
すなわち、情報、技術、ブランドといったソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)の10回目です。

話は
「チザイ」、
すなわち知的財産権の話から、立法・司法・行政という国家三権とその機能分担(三権分立)の話に広がり(脱線し)、これがひどくなる一方ですが、あえて空気を読まず、脱線話を続けたいと思います。

6 チエのマネジメント(知的財産マネジメント)に関わるお仕事の作法

(15)役所(行政機関)と裁判所との違い

前回まで、国家三権のうち、国会と行政機関との違いを中心に見てまいりました。

では、同じ法を執行・運用する役所として、役所(行政機関)と裁判所との違いはどうでしょうか。

個性あふれる国会議員の集団とは異なり、
「地味なスーツを着て、眼鏡をかけてて、知的で神経質そうで、あまりパっとしない、無個性なエリート」
の集団として共通する役所と裁判所ですが、似ているからといって、同じというわけではありません。

たしかに、裁判官登用試験である司法試験も、行政官僚登用試験である国家公務員一種法律職の試験も、試験内容としては似通っています。

裁判官の世界でも行政官僚の世界でも東大法学部卒が圧倒的にハバを利かせておりますし、裁判所でも財務省や総務省でも、石を投げれば、たいてい東大卒に当たります。

おそらく、東大卒の人口密度は、千代田区霞が関界隈が日本でもダントツ1位でしょう。

最終的に受けた試験(司法試験と公務員試験)の科目の数や種類が微妙に異なるとはいえ、役人も裁判官も、18歳から22歳まで駒場(東大生は1・2年生をここで過ごす)と本郷(東大生は3・4年生をここで過ごす)で地味な生活を送ってきたものどうし、外見や思考やライフスタイルの面において、非常に似ています。

これほど似通っている
「役所」

「裁判所」
ですが、実際は、両機関はかなり異質です。

さらに言えば、
「役所」

「裁判所」
とが、衆人環視の下、大喧嘩をしたりすることだってあります。

ここから先は、次回以降にお話しいたします。

身近な存在でありながら、どういう活動をしているかよくわからない国家機関である裁判所について連載で解説させていただいています。

前回は、
「国会議員」

「行政官・裁判官」
とを対比する形で議論させていただき、日本という国家を運営しているのが実は霞が関の行政官僚である、という実体を述べさせていただきました。

すなわち、日本という国は、建前でこそ民主国家として
「マジョリティが投票で選んだお調子者や目立ちたがり屋」
が主権者代表として運営するなどと危なかっしいことをいいつつ、その実体は、完全な官僚国家であり、
「小さいころから地味な努力を怠らない、優秀で責任感のある試験エリートたち」
により堅実に運営されているのです。

ところで、日本国家の運営を託された文系試験エリートの二大巨頭である
「行政官」

「裁判官」
ですが、前回述べたとおり彼らは実に近似した存在ですが、実は、まったく違った理念と見識で活動しているのです。

(17)最強の国家権力を保持する裁判所

国家権力の中でもっとも強力な権限は何でしょうか。

法律を作ることや、法律を執行することでしょうか。

こういう問いに対しては、
「主権在民の理念から、主権者代表である国会が有する立法権力が日本国においてもっとも強大な権力である」
という答えが返ってきそうです。

しかしながら、国会の立法といえども憲法に反する内容が定められる可能性も否定できません。

他方、現日本国憲法は、法律に対する優位と最高法規性を宣言しておりますので、憲法に反する法律や行政行為は無効と宣言されるべき必要が存在します。

このように、法律を作る権限(国会が有する立法権力)や法律を執行する権限(内閣を頂点とする行政官庁が有する行政権力)の上に、当該立法や法執行を憲法に照らして審査し、無効と宣言する
「上位の権力」
が想定されるのです。

この権力は、
「違憲立法審査権」
と呼ばれる権力ですが、立憲国家においては、国家運営におけるもっとも強力な権限であると認識されています。

この違憲立法審査権を、どのような国家機関に所属させるかについては一義的なものではなく、各国各様のモデルがあります。

フランスやドイツのように、一般の裁判所とはまったく別系統の
「特別の裁判所」
を創設し、当該特別裁判所に違憲審査を行わせるようなシステムもあります。

日本は、イギリスやアメリカと同様、通常裁判所に違憲立法審査権を付与しています。

このような意味において、裁判所は、通常司法権のほか、
「違憲立法審査権という、立法権力や行政権力も凌駕するもっとも強力な国家権力」
を保持しており、わが国において
「最強の権力集団」
ということができるのです。

以上、法を執行する2つの国家機関である裁判所と行政機関(いずれも極めて似通った存在ですが)を比較しながら、お話を申し上げました。

次回は、さらに、この話を掘り下げていきます。

次回もまだまだ脱線が続きますが、しばらく、この壮大な話にお付き合い下さい。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.085、「ポリスマガジン」誌、2014年9月号(2014年8月20日発売)