00192_チエのマネジメント(12)_20141120

連載シリーズ
「仕事のお作法」

「お仕事・各論編」、
「チエ」
すなわち、情報、技術、ブランドといったソフト資産全般の経営資源マネジメント(知的財産マネジメント)の12回目です。

話は
「チザイ」、
すなわち知的財産権の話から、立法・司法・行政という国家三権とその機能分担(三権分立)の話に広がっておりますが、今回、さらに、この脱線話を掘り下げていきます。

前回
「裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持する」
ということがありうる、ということをお話しましたが、今回は、具体的な事例に基づいて詳しくお話しいたします。

(18)上司もなく、やりたい放題の裁判官(承前)

確かに、憲法76条3項には
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
とありますし、裁判官が、その職務権限を行使するにあたっては、外部の権力や裁判所内部の上級者からの指示には一切拘束される必要がない、と憲法で保障されていることはわかります。

とはいえ、
「裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持する」
ということがありうる、とまで言ったりすると、
「カタくてマジメそうな裁判所がそんないい加減なことをしないでしょう」
という声が聞こえてきそうです。

しかしながら、日本の最高裁は、民主主義について非常識ともいえる判断を長年敢行し続けています。

例を用いてお話しします。

東京都内の私立小学校で学級委員を決める際、クラスの担任が、
「港区と千代田区から通っている生徒に5票与え、中央区と渋谷区から通っている生徒には3票、足立区と台東区に通っている生徒には2票、川崎市から通っている生徒に1票という形で付与する」
と発表し、生徒の住所地によって票数を露骨に差別したとします。

もし、実際こういう非民主的な教育運営している教師がいたら、気でも狂ったのではないかと思われ、即座にクビを切られるでしょう。

しかしながら国政レベルにおいては、このような
「気でも狂ったか」
と思われる行為が平然と行われ、最高裁もこれを変えようとはしません。

すなわち、国会議員を選ぶ選挙においては、投票価値が平等ではなく、鳥取県や島根県の方々は5票与えられる反面、東京都民や神奈川県民には1票しか与えられない、という異常な状況が長年続いております。

このような
「『多数決』ならぬ『少数決』による、非民主的な国民代表選出制度」
の違憲無効性が最高裁で度々審理されていますが、
「素性も選任プロセスもよくわからない最高裁の15人の老人たちの思想・良心」
に照らせば、このような制度も
「違憲ではない」
とされ、投票価値の不平等は延々と放置され続けているのです。

小学生の学級委員の選出ですら許されない非民主的蛮行が、国政レベルで平然と行われ、かつ最高裁に聞いても
「別に問題ない。これがワシらの良心じゃ。黙ってしたがっておれ」
という態度が貫かれるのです。

以上のとおり、裁判官は、日本国における最高・最強の権力を保持しながら、誰の指図を受けることなく、自由気ままに、個性を発揮することが憲法によって保障されており、この点において、個性の発揮が極限まで否定される行政官僚とはまったく異なるのです。

無論、最近では、投票格差の問題を是正するため立ち上がった弁護士グループの尽力で、ようやく、この問題が改善される動きが芽生えつつあります。

しかしながら、気が遠くなるような時間と多大なエネルギーと莫大なコスト(関わっている弁護士は手弁当参加であり、実費等もカンパで賄われているようです)をかけ、耳が痛くなるほど連呼しないと、「少数決ではなく、多数決こそが民主主義」という、小学生でも理解できる単純な理屈を実現してくれない。

これが、
「法の番人」
の実体です。

刑事事件や重大な憲法問題ですら、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されているのをいいことにありえない異常を何十年単位で放置するわけですから、そこらへんの民事事件の扱いなど、推して知るべしです。

法律というと、
社会「科学」
と分類されてはいるものの、単なる制度や取決めに過ぎず、集団的自衛権の議論の迷走ぶりをみてもわかるとおり、立場や時代や解釈者によってどのようにも使われます。

その意味では、法律は、
「サイエンス」
ではなく、
「イデオロギー」
なのです。

しかも、
「イデオロギー」
たる法律を解釈運用するのは、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されている、いわば
「独裁者」
たる裁判官。

「真理探求に謙虚な姿勢の科学者が、サイエンスを扱う」
のとは180度異なる、
「独裁者がイデオロギーを、自由気ままに振りまわす」
というのが司法という権力の実体です。

司法権力がこれだけの強力な独裁権力ですから、他の国家主権である行政権と摩擦を起こしたり、大喧嘩をするのは、当然の成り行きといえます。

以上のように、国家三権の本質的特徴を十分見てまいりましたので、次回以降、徐々に、話をチザイに戻してまいりたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.087、「ポリスマガジン」誌、2014年11月号(2014年10月20日発売)