身内の不幸があり、悲しみに暮れている最中。 実家を仕切っている兄弟姉妹や親族から、突然こんな連絡が来ることがあります。
「親父には銀行のローンが残っている。急いで処理しないと借金が膨らんで、お前たちにも迷惑がかかる。だから、とりあえずお前の実印と印鑑証明を今すぐ送ってくれ」
たとえば、あなたが弟の妻だったとしましょう。
義父が亡くなり、実家を継いだ義兄夫婦から、あなたの夫(弟)宛てに急な連絡が入りました。
夫は、
「兄貴がそう言うなら、早くハンコを届けないと」
と、言われるがまま従おうとしています。
しかし、妻であるあなたから見れば、不自然です。
なぜなら、義兄夫婦はプラスの財産がどれくらいあるのかを一切教えてくれないからです。
「こちらで全部うまくやっておくから、余計な心配はするな。みんなのためだ」
の一点張りです。
借金の存在だけを強調され、全体像がわからないまま急かされる。
この圧倒的な
「情報格差」
の中で、トラブルを避けるためにさっさと相続放棄をすべきか、それとも自分でお金をかけて弁護士を雇い、財産調査に動くべきでしょうか。
結論から言えば、どちらも不正解です。
あなたが夫を説得して、今すぐやるべきことは、実は
「何もしないこと」
なのです。
「みんなのためだ」
と急かしてくる義兄夫婦を前に、どうして
「何もしない」
のが最強の戦術になるのか。
兄弟間の心理と、交渉というものを俯瞰してみましょう。
まず、義兄が財産の全容を隠している以上、遺産が
「プラス(もらえる)」
なのか
「マイナス(借金を被る)」
なのか、現時点では正確にはわかりません。
しかし、プロの視点からすれば、答えはすでに出ています。
十中八九、プラスです。
なぜそう言い切れるのか。
情報をすべて握っている義兄自身の
「行動」
が、真実を雄弁に物語っているからです。
ここで少し立ち止まって考えてみてください。
もし本当に、遺産が借金まみれだとしたら、実情を知っている人間は真っ先に
「相続放棄」
をするはずです。
それが合理的な判断というものです。
ところが義兄は放棄もせず、わざわざ弟を巻き込んでまで
「ハンコをくれ」
と必死に執着している。
この執着心こそが、銀行のローンを差し引いても、義兄の手元に残る
「プラスの財産」
が存在することの、何よりの証明なのです。
義兄は
「情報格差」
を武器にこちらをコントロールしようとしていますが、皮肉なことに、その焦りと執着こそが、隠された財産の存在を自ら暴露しているわけです。
人は、自分だけの身勝手なメリットを追求するときほど、
「みんなのため」
「あなたに迷惑をかけないため」
という、綺麗で道徳的な
「大義名分」
で本音を覆い隠す傾向があります。
「急がないとローンが大変なことになる」
という言葉は、弟夫婦を不安にさせ、思考を停止させ、自分の思い通りにハンコを押させるための、計算された言葉に過ぎません。
感情に流されず、大義名分の奥にある
「財産を独り占めしたい」
という生々しい本音を、静かに、冷静に観察することです。
では、具体的にどう対処すべきか。
こちらから費用をかけて財産調査に動くのは、悪手です。
情報を握っている義兄にウソをつかれたり、はぐらかされたりして、時間と費用を浪費するのがオチです。
あなたが取るべきスタンスは、
「動かず、義兄にボールを投げたまま放置する」
ことです。
義兄が
「遺産を独り占めする」
というゴールにたどり着くためには、どうしても
「弟の実印と印鑑証明」
という鍵が必要です。
あなたたちが動かない限り、義兄は自分のメリットを永遠に確定できません。
義兄が
「ハンコを送れ!」
と急かしてきても、
「全容がわからないので、協力できません」
と涼しい顔で突っぱねる。
するとどうなるか。
焦った義兄は、自分の目的を達成するために、しぶしぶ
「実はこれだけの財産があって、お前にはこれだけ渡すから、協力してくれ」
と、隠していた情報と本音を自ら開示してくるようになるでしょう。
義兄が具体的な分配案を提示してきて、それがあなたたちにとって納得できるものであれば、その時に初めて協力すればいい。
納得できなければ、協力を断り続ければよいだけです。
「何もしない」
ことは、決して逃げや怠慢ではありません。
情報格差の劣位に置かれた者が、主導権を静かに奪い返すための、知的な戦略です。
交渉とは、声を荒げた者が勝つゲームではありません。
焦らず、動じず、相手に
「次の一手」
を打たせ続ける。
その忍耐力を持った者が、最終的に有利な条件を手にするのです。
ただし、冷静になったあとで、もうひとつ問うべきことがあります。
義兄の妻は、長年にわたって親の介護を担ってきたのではないか、と。
もしそうであれば、義兄が
「財産を多く受け取ろうとしている」
背景には、その苦労への、ゆがんだかたちでの
「精算」
が混ざっているかもしれません。
戦略的に正しいことと、人として筋の通ることは、必ずしも一致しない。
情報格差を冷静に読み解く眼を持ちながら、同時に、相手の
「見えていない文脈」
にも想像を働かせる。
その両方を持てた時に、交渉ではなく、真の意味での
「話し合い」
が始まります。
悲しみの中にあっても、冷静な観察眼だけは手放さないことです。
しかし、観察の先に何を見るかは、あなた次第です。
著:畑中鐵丸