00054_罪を憎んで、人も憎む_20090120

「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、これは性善説で有名な孔子の教えに由来するものだそうです。

「罪を犯すにはそれなりの理由がある、故に、罪を犯した人間をいたずらに罰するのではなく、むしろ、生来善である人間が、何故に罪を犯すに至ったのか、その動機や背景を問え」
という意味であるといわれておりますが、私は、この言葉が大嫌いです。

人間は、自由な意志をもち、ゆえに自分の行動なり人格に対して責任を持ちます。そして、社会は、このような
「自己規律のできる人間」
を主要な構成員として成り立っております。

他方、未成年者や、認知能力・精神活動に問題を抱えた成人といった、自己規律が困難な方々は、適切な保護監督者の支配規律の下、家庭や学校や精神病院に隔離され、社会参加の全部または一部が否定されます。

このような言い方をすると、
「家庭や学校や精神病院と、刑務所が同じであるという意味か」
と各方面からお叱りを受けそうですが、これは
「意味や目的はさておき、機能面、結果面だけ捉えると、同じような働きをしてる」
と答えるほかありません。

「成人同様の体格・精力をもちながら、自己規律が不十分な思春期の15歳前後の若者が、仕事もせず、ブラブラした状態で町中にあふれ返っている状況」
や、
「認知症の老人や精神疾患を抱えた方々がそこらを気ままに徘徊する状況」
というのを想像してみてください。

本来適切な場所において、適切に収容されるべき方々を無秩序に社会参加させると、社会運営に少なからず影響を及ぼすことは明らかです。

子供の人権や認知症・精神病患者の人権を尊重する立場の方々も、まさか
「子供や認知症・精神病患者を無制限に社会に解き放て」
というご主張をされているわけではないはずです。

「社会を適切かつ健全に運営する」
という点からみれば、学校は教育機関であると同時に隔離施設であり、認知症患者をケアする施設や精神病院も治療施設であると同時に収容施設としての意義を有するとの現実を直視せざるを得ません。

話がややそれましたが、自由な意志と自己規律が可能な者として社会参加した成人が犯罪を行い、被害者の人権を否定し、あるいは社会に脅威を与えた場合、同害報復の観点からしかるべき応報刑が執行されるべきことは当然の理です。

「社会が悪い」
とか
「法律をよく知らなかった」
とかいった戯言は、未成年者や認知・精神活動に問題を抱えた方々の弁解としては許されてしかるべきでしょうが、
「自由な意志と自己規律ができる大人として社会参加を許された者」
がなすべき弁解としては考慮すべきではありません。

何より、自ら進んで犯罪を行うという選択により他者の人権や法の尊厳を否定しておきながら、責任を取る場面において自分の人権や法の保護を声高に求めるという卑劣な態度は、
「いい大人」
の行動としてはあまりにも見苦しいですし、こんな無責任な大人が増えれば社会が機能停止に陥ります。

最近、
「自分のケツを自分で拭ける年齢の、いい大人」
が罪を犯しておきながら、処罰を受ける段階になって、
「世間が悪い、社会が悪い、育ちが悪い、あのときはテンパっていた」
等と見苦しい弁解をするケースが多くみられます。

そして、刑事裁判官も上記のような「程度の悪い弁解」を素直に受け容れ、処罰を甘くすることを平気で行います。

子供を甘やかすとロクな大人にならないのと同様、大人を甘えさせてもロクな社会は築けません。

罪も憎いですが、何よりまず憎むべきは、
「自由な意志の下、他者の人権や法の尊厳を否定し、社会に脅威を与えた犯罪者個人そのもの」
です。

自己責任・自己規律の精神に満ちた健全で力強い社会を創造するためにも、
「犯罪者の人権」
等といった空疎なイデオロギーに振り回されることなく、
「罪を憎み、それ以上に、犯罪者個人も憎悪する」
という当たり前のことが適切に行われるべきではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.017、「ポリスマガジン」誌、2009年1月号(2009年1月20日発売)

00053_「自由」なんて代物、ほんとに必要?要らないし、あっても困るし、あったら不幸になるかもよ_20081220

こういう寓話があります。

ある国では奴隷制度を採用していました。奴隷階級の者は、土地に縛りつけられ、差別され、農作業や家事を手伝わされる毎日でした。もちろん、奴隷に自由はありません。

とはいえ、あまり過酷な労働を課すと、奴隷も死んでしまいます。

支配階級からすると、奴隷も機械も同じですから、オーバーヒートするまで使い続けた結果壊してしまっては、大事な資産を失うことになります。

特に、難しい作業をさせる奴隷は、ある程度教育や訓練が必要です。

奴隷への教育や訓練は投資と同じです。高額の投資をした奴隷は、チューンナップした高級車と同じようなものですから、支配階級も雑には扱わず、非常に丁寧に扱い、長く愛用します。

奴隷には自由はありませんでしたが、かといって、病気や怪我をさせられるわけではなく、「普通に暮らせる」といえば「普通に暮らせる」毎日でした。

あるとき、若い王子が父の後を継いで王位につきました。

新しい王は、若いころ奴隷制を廃止した国に留学した経験があり、留学先の進んだ社会の様子をみていたことから、この国の奴隷制度を非常に遅れた制度と考えていました。

新しい王は、自由が与えられない奴隷たちを不憫に思い、奴隷解放を宣言します。

しかし、奴隷解放に対して猛烈な反対の声が上がりました。

反対をしたのは、奴隷たちでした。

新しい王に対し、
「今までご主人様のところで仕事と生活が保障されていた。お前が余計なことをしてくれたおかげで、明日からの生活の展望がなくなり、路頭に迷ってしまうことになるじゃないか。早く奴隷制度を復活させろ」
と。

ブラックな笑いを誘う寓話ですが、私は奴隷制維持を望んだ奴隷達は非常に賢明であると思います。

「自由」というのは「自由」を使いこなせる人間にとっては非常に価値のあるものですが、今まで「自由」というものを知らず、「自由」を使いこなす自信のない人間にとっては、厳しく、凶暴な理念です。

「自由」を使いこなすには、

・創造的知性と圧倒的な情報量、
・タフでクレバーなメンタリティ、
・生き馬の目を抜く敏捷さと他人を出し抜く度胸

といった資質・能力が必要です。

こういうものを持ち合わせない一般人にとっては、「自由」がもらえるといっても、

・試行錯誤する自由や失敗する自由、
・失敗してもお節介を焼かれずほっといてもらえる自由、
・適切な情報が与えられない状態で放置される自由、
・騙される自由

といったもので、与えられても困るような代物ばかりです。

1990年代、

「日本には自由がない」
「規制ばかりで何にもできない」
「行政が何から何まで指導する」

といった不満の声が日本社会に渦巻いておりました。

このような声を受けて橋本政権から小泉政権にかけて、徹底した規制緩和が行われ、日本に待望の「自由」が訪れました。

・不要な従業員をリストラする自由、
・非正規社員を徹底的に安くこき使う自由、
・法の不備をついてこっそりと大量に株を買い集める自由、
・魅力的な企業をカネにあかせて買いたたく自由、
・富めるものが富を増やす自由、それに、
・貧しいものを放置する自由。

自由は格差を生み、格差を広げます。

自由と格差があふれる現代の日本社会は、かつての日本人が望んだ理想の社会のはずでした。

ところが、最近、格差社会の解消や、自由な取引の結果当事者間に不公正が生じる取引について規制を求める声が上がり始めています。

日本社会のこういうアホさをみるにつけ、
「自由などあっても能力のない自分たちには使いこなせない」
と冷静な判断が出来、
「自由なんか要らないから、とにかく奴隷制を維持し、今の安定した生活を保障してくれ」
と求めた前述の奴隷たちは、実は我々よりはるかに現実的で賢明であったと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.016、「ポリスマガジン」誌、2008年12月号(2008年12月20日発売)

00052_成功者たちは“現”のつくものを大事にする_20080220

ローマ帝国の礎を作ったユリウス・カエサルはかつてこのようにいったそうです。

「人は、自分の見たいと思う現実しか見ない」

人間心理の天才カエサルらしい言葉ですが、マジョリティの思考や行動をみていると、つくづく納得させられる一言です。

私は、友人や知人等含め
「『その他大勢』から抜きん出て、人の上に立つ成功者やリーダーといった方々」
の行動や哲学に直接触れる機会に恵まれています。

このような経験に基づく実感ですが、成功者やリーダーといわれる人たちは、例外なく徹底したリアリストで、自分の見たいと思う現実、すなわち自分の主観を排除して、物事を客観的に観察し、徹底して現実に即したジャッジをしているように思えます。

そして、そんな成功者たちが最も大事にするものは、「現」のつくものです。

現実、現場、現物、現金。

成功者たちはこれらを決しておろそかにしません。

逆に、失敗する人たちの特徴は、これとまったく逆です。

つまらない現実よりも、根拠のない、壮大な計画が大好きで、いつもこれに振り回されています。

また、遠くて汚くて細かい話ばかりの現場は大嫌いで、綺麗な机の上で遠大で抽象的な話をしたがります。

現物を直接手にして右から左に動かす取引は、たとえそれなりに儲かっていても、「手間がかかり、利益も少ない」といっては突然放棄してしまい、ソフトウェアやネットビジネスやM&Aのような、実感のないビジネスで大きく儲けることを夢みます。

さらに、現金と債権は常に同じと考えており、ろくに信用管理・債権管理をせず、商品やサービスを提供し、請求書を送っただけで、現金を手にしたのと同じと考えています。

いうまでもなく、「現」を大事にせず、地に足のつかない話を追いかけるような方々はすべからく失敗し、最後には、時間も労力も無駄にし、財産をなくします。

私もこの職業に付く前は、
「お金持ちやリーダーというのは、綺麗なオフィスの高価な机の上で、大所高所の議論をし、適当な指示を伝えるだけだ」
などと勝手な想像をしていました。

しかし、実際には、優秀なリーダーになればなるほど、常に正確な情報を大量に収集し、これらを緻密に整理し、自分の主観を交えず多方面からの意見を得て客観的に分析・検証し、現場に出向き、最前線に立ち、末端に至るまで事細かな指示を出し、経過や進捗を頻繁にチェックします。

また、何代も続く資産家ほど、暮らしぶりは質素で、資産の運用方法は保守的で、現実味の話には一切踊らされませんし、いざ投資をするときもリスクを入念に調べあげ十重二十重にリスクをヘッジします。

「子供にはゆとりの心や情操教育が必要」
などいわれることがありますが、成長期の脳の活動を休止させ、夢や幻想やファンタジーばかり教え込むと、現実と架空の区別ができず、現実を軽視するような人間しかできなくなります。

国際ビジネスや金融の世界で圧倒的なリーダーシップを誇るユダヤ民族は、子供に過酷な現実とこれに対する現実的な対処方法を、また、何より、現物や現金を大事にする生き方を教えるなどとも聞きます。

正面から現実を直視することは精神的には大変つらいときもありますが、私としても、優秀なリーダーたちを見習い、
「自分の見たいと思う現実」
を極力排し、
「現」のつくものを大切にして、地味ながら堅実に成長・成功していきたいと思っています。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.006、「ポリスマガジン」誌、2008年2月号(2008年2月20日発売)

00051_「バカ」にされない人生を送るために

私は、あまり頭がよくありませんし、モノを知りません。

一応、東大は出てますが、世の中の事象はあまりに多く、東大出ごときの頭脳や知見では、森羅万象全てを理解するなんて到底不可能です。

したがって、「自分はバカである」という自覚は持っています。

ただ、卑屈にはなっていません。

自分も結構なバカですが、経験上、世の中には、「私と同じレベルの、頭がよくなく、モノを知らない人たち」が結構な数いらっしゃる、ということを知っているからです。

簡単にいうと、「そりゃ、自分も相当バカだけど、他にもバカは多いし、自分だけってわけじゃないから、別に問題なくね?」ということです。

私は、「自分はバカである」という自覚はあるものの、不思議とあまりバカにされた経験はありません。

むしろ、他の方々からは、
「こいつはそれなりに頭がいい」
「意外とデキる」
「アホそうだけど、不思議とモノを知っている」
「話し方はバカっぽくて、残念だけど、本質をわかっているし、外していない」
と思われているようです。

これはどういうことなんでしょうか。

私は、バカですが、自覚あるバカです。また、バカであることに卑屈になったり悩んだりしないバカであり、「卑屈さをもたず自分に自信もありますが、傲慢さとは無縁の、謙虚なバカ」です。

ですので、間違ったりして、バカを指摘されたら、すぐバカを認め、バカの原因を教えてもらい、バカを都度都度直します。

そうやって、東大も合格しました。

東大に合格するまで、模試や練習問題で、ものすごい数間違えました。ただ、その度、間違ったことを認め、間違いを知り、その原因を理解し(その原因すらわからない場合、自分より賢い人に頭を下げて教えてもらい)、矯正しました。

この、単純なことを繰り返せば、東大に合格しちゃいました。

東大なんて、そんなものです。バカな私でも合格できちゃいます。

そういう意味では、伸びしろのある、進歩するバカです。

自分の自覚(「私はバカである」という認識)とは別に、他者からバカにされない、いやむしろ、平均以上に知能が高いとみなされる人生を歩めている。

そういう意味では、幸いなことに、バカではあるものの、バカにされずに人生を送れているようです。

「バカ」にされない人生を送りたい、と考える人は結構多いようです。皆、どうやったら、「バカ」にされない人生を送れるか、ということをかなり真剣に考えているようです。

そこで、「バカ」な私なりに考えた、「バカ」にされない人生を送る方法をご教示申し上げたいと存じます(とはいえ、所詮、バカであることを自覚している私が考えたことです。多分に間違いや勘違いがあるかもしれませんので、その点は、割り引くなり、皆さんなりに修正するなり、つまみ食いして聞いてください)。

「バカ」にされない人生を送ることなんで、実に簡単です。

「バカ」を直せばいいんです。

じゃあ、「バカ」を直すのはどうすればいいのか?

「バカ」なんて簡単に直せます。

「バカ」を認めればいいんです。

自分が無知で、愚かで、間抜けで、非論理的で、情緒的で、不合理で、説明できない思考や行動をとっていることを、正面から認めればいいんです。

「バカ」を認めて、その原因を探り、原因を修正ないし矯正すればいいんですから。

すなわち、「バカ」にされないためには、「バカ」を直せばよく、そのためには、「バカ」を認めればいいんです。

「自分がバカであること」を素直に認めれば、原因にたどり着けますし、バカのグラウンド・ゼロ(爆心地)さえ見つかれば、修正さえすればバカを簡単に直せます。

バカを直せれば、バカにされずに生きていけます。

ところが、この
「自分がバカであることを素直に認めること」
が、結構難しいようです。

「自分がバカであること」をなかなか認めることができない。

そんな単純なことができないのが原因で、多くの人がバカを直せず、バカが直らないまま、バカにされて生き続ける苦痛を味わいます。

「自分がバカであることを素直に認めること」
なんて、簡単なんですけどね。

何がそんなに難しいんでしょう。私には全くわかりません。

私に関して言えば、ですが、「自分がバカであることを素直に認めること」は簡単であり、苦痛でもなんでもなく、本当に大したことではありません。

「自分がバカであることを素直に認めること」は、別に自分の尊厳の破壊することを意味しません。

前述のとおり、「自分はバカである」という自覚は持っています。だからといって、「自分には尊厳がない」ということと同義ではありません。

一応東大出てますし、自分と同じくらい、あるいは自分より、モノを知らないし、自分より知能や計算が働かない人はたくさんいますし、自分がバカだからといって、別に卑下する必要がない。

だいたい、 世の中の事象はあまりに多く、私の如き「東大卒風情」の頭脳や知見では、森羅万象全てを理解できませんから。

知らないことの一つや二つ、百や千、万や億あっても、全く不思議ではありません。

だから、自分がモノを知らず、論理や仕組みを理解できず、頭が働かないことを、何の抵抗もなく認めることができます。そして、バカであることを認めたからといって、自分の尊厳が破壊されるわけでもありません。

いずれにせよ、自分に自信をもつことです。

ただ、自信を持つからといって、傲慢になる必要はありません。

自分には自信をもちます。堂々と、自分がバカであることを認めます。

それと同時に、謙虚に、知らないこと、わからないこと、理解できないことの存在を認めることです。

そうすることによって、自分が「バカ」であることを素直に認められますし、バカを素直に認められれば、妙な情緒や精神的抵抗もなく、原因にたどり着けます。

原因さえわかれば、修正すればいいだけです。

バカなんて、そうやって簡単に直すことができます。

自分がバカであっても、バカを都度都度直せば、バカはどんどん直りますし、バカが直れば、バカにされずに生きていけます。

どうです?

簡単でしょ。

簡単なはずです。

私のような「バカ」にも簡単にできるくらいですから。

00050_「バカ」を「バカ」呼ばわりする前に

「バカ」「アホ」「低能」
他者の知的水準の低さを貶す言葉はたくさんあります。

ただ、この
「バカ」「アホ」「低能」
といった抽象的な評価概念を一方的も押し付けられても、言われた方は非常に困ります。

「バカ」「アホ」「低能」
というのは、最終評価であり、三段論法においては、いくつかの前提を経由してはじめて導かれるものです。

すなわち、
誰かを「バカ」と評価するためには、
「本来、こう考えるべき、こう答えるべき」という大前提があり、
「にもかかわらず、こいつは、こう考えた、こう答えた」という小前提があり、
「だから、こいつはバカだ」という結論としての評価が下される、
という論理構造が、前置・先行されるているはずです。

こういう評価の前提たる論理を経由せず、いきなり誰かを
「バカ」
と呼称するのは、暴力的で非知的な差別ないし侮辱であり、逆に
「理由もなく他社を『バカ』と呼称した人間」
の方が、その教養や品位が問われることになります。

「バカ」
という結論や評価帰結自体には、あまりさしたる意味はありません。

むしろ、
「本来、どうすべきであった」という大前提や、
「にもかかわらず、こんなことをやらかした、こうすべきことをしなかった」という小前提
の方がはるかに大事です。

すなわち、算数の問題を解けずに0点取った人間をバカと評価し結論づけ、バカ呼ばわりすることよりも、バカという結論・評価を導いたいくつかの前提事情、
「三角形の内角の和は180度と考えるべきところ、あなたは、三角形の内角の和が360度と考えていた」
ということを確認することの方が、バカを治し、世の中からバカを減らすことに貢献しますし、社会的にも尊い意義があります。

子供や後輩や部下をバカ呼ばわりする前に、
「本来、どうすべきであった」という大前提や、
「にもかかわらず、すべきことをしなかった」という小前提、
をお互い確認していきましょう。

そうすると、
「心あるバカ」
は、素直に愚かさを認め、バカを治しますし、こういう社会的意義ある運動が広がれば、この世からどんどんバカが減っていき、いずれ、
「バカというバカが完全に駆逐された、素晴らしい社会」
が訪れるようになるでしょう。

ただ、世にも恐ろしい存在を忘れてはいけません。

「バカなことを考えたり、バカなことをしたが、その根源的原因を指摘されてもなお、愚かさを認めず、自らの愚かさを矯正しない、筋金入りの、ハードコア・バカ」
の存在です。

こういう方々は、バカを認めないし、すっとぼけますし、バカを指摘されたら逆ギレして反抗し、
「自分のせいではない、親が悪い、教師が悪い、社会が悪い」
と外罰的非難をして自己保存を試みます。

過剰なプライドのため、負けを素直に認められず、最後まで自分が正しかった、と頑強に主張し続ける、年齢に関係なく存在する(ご高齢の方のほうが多いかもしれません)、正真正銘のバカのことです。

ただ、ありがたいことに、こういう
「本物の、筋金入りの、ハードコア・バカ」
は、どこかで問題を起こし、社会が勝手に駆逐・排除してくれます。

そもそも、現代経済社会の本質的構造である
「市場における自由な競争経済を前提とした資本主義社会」
においては、
「売れないのは客が悪い、市場が悪い」
と逆ギレするような人間は、自然に淘汰され、社会の底辺に叩き落とされるような仕組を内在しております。

したがって、このハードコア・バカは、無理に駆逐しなくても、社会の仕組によって自然に淘汰されるのを待てばいいだけです。

むしろ、 バカを認めないし、すっとぼけ、バカを指摘されても逆ギレして反抗する、
「自分のせいではない、親が悪い、教師が悪い、社会が悪い」
と外罰的非難をして自己保存を試みる、そういった行動属性を有する、
「バカなことを考えたり、バカなことをし、その根源的原因を指摘されてもなお、愚かさを認めず、自らの愚かさを矯正しない、筋金入りの、ハードコア・バカ」
に遭遇した場合の、安全保障上の関係構築が重要です。

そういう方々に遭遇したら、

1 全速力で逃げて距離を置くこと

それと、

2 目が合ったり、触れ合ったりしてしまう場合でも、決して「バカ」にしないこと

です。

このことは、人生の安全保障上、絶対的に必要だと考えます。

00049_自分を信じるな!_20081120

よく、テレビのドラマ等で、デキの悪そうな教師がデキの悪そうな生徒に対して
「最後まで自分を信じるんだ!」
というセリフを言うシーンが出てきます。

私個人としてはこの言葉が大嫌いで、
「自分の能力を安易に信じる」
という思考こそが人間の知的成長の最大の妨げであると思っています。

大きなプロジェクトをきちんと仕上げようとしても、集中力・爆発力だけではうまく行かないのが世の常です。

大事をなす過程では、常に、試行錯誤につきまといます。

「自分のやり方がきちんとした方向性に沿っているのか」

「ひょっとしたらこの方法は間違っているのではないか」

「もっといい方法や効率的な方法がないか」

と自分のやり方を常に疑い、客観的視点から多面的に検証し、漏れや抜け、独善に陥る事を極力排除しないと、大事を成し得ません。

客観的情報の収集とこれらの多面的分析を軽視し、戦理を無視した杜撰な戦略と主観的精神力だけで乗り切ろうとして太平洋戦争において日本軍は無残に敗戦しましたが、「自分を強く信じるあまり大失敗した例」は歴史上枚挙に暇がありません。

私が知っている、東大や京大に現役合格したり、司法試験や国家公務員試験といった難関国家試験に若くして合格するようなタイプの人間は、「鼻持ちならない自信家」というタイプはみかけず、ほぼ例外なく、自分の能力を全く信じていない、臆病な連中ばかりです。

むしろ、「自分のやってきたことが完全とは言い難いのではないか」と疑問をもち続け、どんなに合格可能性が高くても試験当日まで努力を怠らない、心配性の小心者がほとんどです。

さらに言えば、試験の最中においても、目の前の問題に設問者の悪意のひっかけや罠があることを疑い、問題を甘くあるいは軽く解釈することはなく、また自分の作成した解答にケアレスミスがありうることを危惧し、時間の許す限り、検証や再計算を怠りません。

近代哲学の巨人ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」(cogito, ergo sum.英語では “I think, therefore I am.”)と名言を残し、懐疑をするのが人間の本質である、と喝破しました。

この名言は「『一切の疑問をもたずひたすら信じること』が是とされた中世社会」から近代社会へ脱皮するスピリットを体現したものですが、

「考えることは疑うことであり、信じることは考えないこと」

なのです。

現在日本の産業界において蔓延する製品データ改ざん等の報道をみていると、事件の関係者は口を揃えて
「まさかそんなことがあるとは思っていなかった」
「現場を信じていたのに裏切られた」
等と言います。

しかし、「最後まで自分を信じないし、他人などもっと信じない」ことを信条として、受験戦争を勝ち抜き、疑うことを第二の天性としてきたタイプの人間からみると、「信じる」という言葉を多用する人間の知的レベルは無知蒙昧な中世の民と同じと言わざるを得ません。

むしろ、

「自分の能力など信じるな。他人はもっと信じるな。知性をフル活用して、最後まで疑え」

というのが、過酷な現代社会を生き抜かなければならない若い人たちへの正しいエールなのではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.015、「ポリスマガジン」誌、2008年11月号(2008年11月20日発売)

00048_リゾートライフってそんなに楽しいですか?_20081020

リゾートに関して、前から思っていることを述べてみたいと思います。

夏になると、都会に住む多くの日本人が、高いお金を使って、混雑した飛行機に搭乗し、こぞって人里離れた田舎に行き、刺激のない時間を過ごされますが、あれって、本当に楽しいのでしょうか。

私は、基本的に、田舎で過ごすより、都会で過ごす方が好きです。

ゴルフをするなら、長時間かけて沖縄やオーストラリアとかまで行って閑散としたゴルフ場でやるより、東京近辺のゴルフ場でプレーし、終わったらすぐに都心の家に帰れる方を選びます。

泳ぐにしても、「わざわざ遠くに行って、ギラギラ照りつける太陽の下、不愉快な砂を気にしながら、まずくて不衛生な海の家の食事に辟易しながら、ヌルヌルして塩っぱい海水で泳ぐ」のよりも、「ニューオータニやオークラのプールで、美味しい肴とカクテルを片手に、快適に過ごし、飽きたら、すぐに都心で遊ぶ」方がはるかにいいと思っています。

無論、スキーやゴルフやサーフィンやウィンドサーフィンやスキューバダイビングといった、特定のロケーションでしか味わえない特異な体験を楽しむためには、遠方のリゾート地まで出向く、ということも理解できます。

雪質の悪い人工雪のゲレンデでスキーをしたり、波がないあるいは風がない海でサーフィンやウィンドサーフィンをしたり、濁って何にも見えない海でダイビングをしてもつまんないですから。

とはいえ、この種のレジャーを楽しむにしても、せいぜい3日で十分です。

それ以降は、都会が恋しくなります。

定年退職した後、今までやりたくてもなかなかできなかった「ゴルフ三昧」の日々を楽しむべく、東南アジア等に移住するシニアの方がいらっしゃるようですが、一月くらいで飽きて、望郷の日々を過ごす、なんてケースもよくあるようです。

どんなに好きなレジャーを、どんなに素晴らしい環境で頼んしでも、最初の3日こそ楽しかったですが、それ以降は限りなく苦痛なんじゃないでしょうか。

例えば、セントアンドリュース・オールドコースや、オーガスタナショナル等で、「何日でもゴルフを楽しんでいい」というオファーがあっても、これらの場所は、ゴルフ以外は、ほぼ何もいないド田舎です。

私は、せいぜい5日くらいで、完全に飽きてしまう自信があります。

おそらく、私と同じように、「リゾートでのバカンスも3日超えたら苦痛」と考える日本人の方は、実は多いのではないかと思います。

鬼界ヶ島に流された俊寛や、隠岐島に流された後醍醐天皇等歴史の例をひもとくまでもなく、日本では、「人里離れた田舎に行き、刺激のない時間を過ごす、リゾートライフ」
という代物は、
「島流し」
と呼ばれていました。

都会に住んであくせく働く現代の日本人にとっては憧れの
「海のきれいなビーチリゾートで、好きなだけのんびり過ごせ」
という
「休暇命令」
ですが、かつては死罪の次に重い刑罰。

俊寛などは、
「青い海に浮かぶ珊瑚礁の島でゆっくり過ごしてこい」
と命じられただけですが、かなりヘコんでしまい、最後は食を絶って自害したとか。

でも、私は、なんとなく、わかるような気がします。

といいますか、

「労働=罰」

「仕事もせずのんびり過ごすこと=幸せ」

という考え方は、最近になって欧米から輸入されたものであり、我々日本人のDNAはこの考え方にどこかで拒絶反応を起こしているのではないでしょうか。

哲学史的な話をすれば、西洋社会における労働は罰として考えられていました。

旧約聖書において、アダムとイブが、神様の言いつけに反して、知恵の実であるリンゴを食べ、この罰として、
「男は労働という苦役を、女は出産という苦役を課せられた」
という経緯が書かれており、西洋における
「労働=罰」
の考え方はこれがバックボーンになっているようです。

ですが、日本人の労働観は、西洋社会のものとは異なります。

「労働というのは、神様の国づくりをお手伝いすることであり、これに参加できることは一種の喜びだった」
という考え方があるようです。

この考え方からすると、
「みんなと一緒に、神様の近く(天皇のいる都)で働くことこそが幸せ」
なのであり、
「一人、田舎でリゾートライフ」
は刑罰であるという話も理解できます。

最近、夏休みを都心で過ごす方が増えたと聞きます。

私も、お盆の時期は、オフィスでスローに過ごし、仕事は早めに切り上げ、人口が減少した都会で快適に遊ぶのが、最高に贅沢な夏の過ごし方だと感じています。

夏を都会で過ごすのは、原油高とか不景気とかによる一時的なものではなく、「実はリゾートライフが嫌い」な我々日本人の本質にフィットした休暇のあり方として今後も根付いていくのではないか、と勝手に思っています。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.014、「ポリスマガジン」誌、2008年10月号(2008年10月20日発売)

00047_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術

(1)報告する

(2)連絡する

(3)相談する

(4)企画する、考える

(5)段取りを組む、実施する

(6)整理する、評価する

(7)改善する、改革する

(8)関係構築をする、交渉する

00046_機能的非識字(機能的文盲)というものをご存知でしょうか?

字が読めない人のことを文盲といいます。

文明社会においては、学校教育制度が普及し、この文盲は駆逐され、
「字が読めない知能水準の方々」
の存在は一定の文明をもつ社会においては完全に撲滅できた、と考えられてきました。

ところが、わが国を始めとした先進諸国で、新たなタイプの文盲が静かに増えている、という話があるようです。

機能的非識字(機能的文盲)とは、
文字自体を読むことはできても、文章の意味や内容が理解できない状態、
と定義されます。

「言葉はわかっても、話が通じない、特異な知能水準の方々」
という意味なんでしょうが、そんなに珍しいとは思いません。

経験上の認識として、
「言葉はなんとなく通じているが、話はまったく通じない(し、気持ちや感受性は全く共有できない)」方々
は、社会には相当はびこっていると思います。

実際、かなり年を取った方でも、知ったかぶり、知っているつもり、で、まったく誤解したまま改善もせず矯正もされず、死ぬまで治らない、という方、結構います。

上の世代のオジサマ方が、思いっきり誤解した内容を、ペラペラ喋っておられる状況に遭遇したりもします。

そんな時、私が丁寧に間違いを指摘し、矯正して差し上げると、たいてい逆ギレされてしまいます。

ですので、知ったかぶりや知ったつもりや機能的非識字の方で、ある程度ご高齢の方を、無理に矯正して差し上げようとすると、却って身に危険が生じかねません。

私も、少し前に、
「口は災いのもと」
「余計な一言は言わない」
という社会の不文律の意味するところがわかるようになりましたので、最近では、この種の矯正活動は控えるようにしてます。

ところで、この、 機能的非識字(機能的文盲)の増殖ですが、社会問題とされているようです。

すなわち、
「結果として、機能的非識字者は契約書の理解や、書籍・新聞記事の読解が完全にできておらず、社会や政治への参加に支障をきたしていたり、酷い場合には日常生活にも問題が生じている。さらに、周りの人間のみならず、当の本人すらも見かけの識字能力に問題がないがために、機能的非識字によって支障が出ているということが把握されない(自覚していない)という問題を抱え、識字率の高い先進国であっても一定以上の機能的非識字者が存在することが指摘されている」
という形で、改善すべき社会課題として語られているようです。

しかし、この改善の動きは、努力してどうにかなるものではなく、改善できず、無残なまでの失敗に終わるでしょう。

一般の方々は、新聞は読みません。

せいぜい見るのは見出しくらい。

テレビすら
「長すぎる」
と忌避し、3分くらいの動画をyoutubeで見るのが限界です。

ある程度の思想や概念を伝える長い文章は、機能的非識字の方々の平均的知能と平均的忍耐力を大幅に超えるているようで、ネットで一定の長さの文章を掲載しても、まず読まれることはなく、大多数の方々にとって、ツイッターに収まる程度の文章しか伝わりません。

文章が届けばまだいい方です。

文字や文章すら忌避するインスタグラムやティックトック利用層には、思想内容を文章で伝えることはできず、写真や動画しか受付ません。

ひょっとしたら、世界の文明レベルは、象形文字の時代に退嬰しはじめているのかもしれません。

新聞を読まず、テレビしか観ない子供や平均的日本人に、
「なぜ、新聞を読まない。新聞を読まずにバカになったことは嘆かわしいことだ。新聞を読まなくなったバカな連中が、再び新聞を読めるようになるよう、再教育をすべきだ」
ということを主張する人間がいたとしたら、当該主張者の方が、ホンモノのアホか狂人でしょう。

「どんな知的水準であれ、それなりに社会生活が営める」
「バカでも抹殺されず、普通に生かされる」
ということこそが、社会の進歩であり、文明化です。

昔は、社会が貧しかったので、字が読めない人間は、社会で生きていくことはできませんでした。

字が読めない、文書が読めない、文書が書けない人間が、そのまま社会に出たら、パワハラにあって、罵声を浴びせられ、矯正されました。

一昔前の日本は、そんな、余裕のない、遅れた、未開で野蛮な社会でした。

ところが、現代は、人手不足ということもありますが、社会が進んだおかげで、機能的非識字であれ、社会で普通に暮らせるよにうになりました。

会社で、新入社員が、
「文章が読めない」
「文章が書けない」
からといって、その程度のことでガミガミ怒り出す、狭量で人権感覚がない人間は、逆に、パワハラ上司として会社や社会から排除されます。

社会にバカがはびこったら、バカを減らすより、バカに併せて社会システムを変えるべきです。

ポリシーと現実がぶつかったらどうするか?

「ポリシーをもって現実を変える」
のは、知能未熟なバカのやることです。

知的な大人は、
「現実に併せて、ポリシーの方を変える」
ということで課題解決します。

一度増えたバカは減りません。それどころか、ドブネズミやウィルスのように増殖していきます。

バカの増殖過程をみていきたいと思います。

子供は親をみて、これをロールモデルとして成長していきます。

バカな親が生んだ子供は、バカな親をみて、これをロールモデルとして成長していきます。

ここに、「本を一切読まない人間」がいたとします。

「本を一切読まない人間」は、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて人生を過ごします。

実際、本屋がない、あるいは少ない地域であっても、国道沿いには、飲食店や居酒屋、ゲームソフトの販売店やビデオ販売店が乱立していますので、まともに本を読まなくても、普通に生きていくことは可能です。

飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間は、やがて親になり、子供を教育する立場につきます。

しかし、「飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間」が子供たちに本の価値を伝えることはできるはずもなく、こうして、「本を一切読まない人間」は拡大再生産されていきます。

こうして世代更新すると、バカはマジョリティになります。

マジョリティになったバカはパワーを持っています。

「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、“歴史的な 力”である」

これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社、1993年 、163頁)で引用していた一文ですが、
「馬鹿を馬鹿にする恐ろしさ」

「増殖してしまった馬鹿に対する、安全保障上の対処哲学」
が凝縮されています。

「小賢しい正しさ」
は、
「数の結束とパワーをもち、増殖を続けるバカ」
の大きな声には、決して敵いません。

「社会において増殖し、一定の数にいたり、もはやパワーをもった機能的文盲」
を改善や矯正しようとしたり、駆逐しようとする努力は、無駄に終わるでしょう。

バカチョンカメラ、漫画やアニメ、交通標識、ピクトグラム。

日本では、
「増殖し、マジョリティとなったバカ」
と向き合ったり、矯正したりしようとせず、
「知能水準は期待できないし、我慢もしない」
ことを前提として、そんな方々でも、容易に理解し、簡単に扱える様々なツールやシステムを開発してきました。

現段階では、機能的文盲が増えつつある、という程度の話ですが、
「新聞からテレビへ、テレビからyoutubeへ」
「ネット記事からツイッターへ、ツイッターからインスタグラムやティックトックへ」
という
「文字によるコミュニケーション文化の後退」
のトレンドをみる限り、機能的文盲どころか、そのうち、ホンモノの文盲も増殖しはじめ、文盲がマジョリティとなり、存在感とパワーを持ち始める日が来るかもしれません。

機能的文盲が増えたなら、機能的文盲を改善・駆逐するより、
「機能的文盲のレベルに合わせた、咀嚼に咀嚼を重ね、字が嫌いで、我慢も嫌いなマジョリティでも、一瞬で判るような話の仕方」
をすべきであり、そのような咀嚼が困難な難しい話を機能的文盲の方にすること自体、控えるべきです。

機能的文盲のみならず、さらにホンモノの文盲が増えたなら、字を使わず、写真や動画や象形文字を使って、思想内容を伝えるべきです。

それが、正しい社会のあり方です。

でも、私個人としては、自分や自分の周りの人間には、
「機能的文盲にならないようしっかりと知的鍛錬を怠るな」
という教育や指導を続けるつもりです。

バカが嫌い、とか、バカになりたくない、とか、そんな無礼な理由ではありません。

単なるマイノリティー指向の天の邪鬼ゆえです。

え?

話が長いし、マジョリティをバカにしているって?

大丈夫です。

私がするような、こんな長ったらしい話、機能的非識字の方は、どうせ、わかりませんし、読みもしませんし、興味すら持たないでしょうから。

00045_格差社会は悪しきものか_20080120

最近、「日本において格差社会が広がりつつある」などといわれます。

そして、このような格差社会問題が報道される際、必ず、「格差社会は悪しきものであり、弱者は保護されるべし」という趣旨の論調が含まれます。

経済学者の森嶋通夫氏はかつて「私は弱い善人が、もっとも嫌いだ」といったそうです。

私としても、「格差社会をすべからく否定し、弱者を無制限に保護すべし」という議論には同調できません。

我が日本国は、人それぞれの個性を尊重し、自由競争を是とする社会体制を堅持してきました。

他方、ソヴィエト連邦その他の共産主義国家は、個人の尊厳よりも国家の管理を優先し、自由競争を徹底して否定した社会体制を構築しましたが、このような壮大な社会実験が無残な失敗に終わったことは、誰しも知っていることです。

「個性を尊重し、自由競争を是とする社会」は、当然ながら、結果の不均衡すなわち格差をもたらしますが、これは体制選択上予定された結果であって、むしろ好ましい状況です。

こういうことをいうと、「憲法14条は平等を保障している。格差社会はおかしい」などという異論が出てきます。

しかしながら、これはあまりにバカげた意見です。

憲法が保障しているのはあくまで「法の下の」平等です。

「法の下の平等を保障する」というのは、「経済的不平等を容認する」のと同義であり、憲法は格差社会を容認しているのです。

現実をみても、「弱者」といわれる方々の中で「幼少時から蛍雪を友とし、学生時代は寸暇を惜しんで勉学に励み、社会人になっても睡眠時間を惜しんで資格取得に努め、貧困から脱するためのありとあらゆる努力をしたにもかかわらず、なお赤貧にあえいでいる」という方はあまりみかけません。

むしろ、「弱者」といわれる方は、「勉学をはじめとしたさまざまな苦労を徹底して回避し、欲望や誘惑に弱く、迷えば楽な方を選び、人と同じようなことを、人並みあるいはそれ以下の程度にやってきた。かつてはそれでもそこそこ並みの生活ができたが、景気が悪くなって能力主義が横行した途端、生活水準が落ちた。こんな格差社会にしたのは俺ではなくて社会が悪い」という身勝手な考えをお持ちの方々がそれなりの数、いらっしゃるような気がします。

他方、格差社会の勝ち組といわれる方々に対しては「時勢に乗じて上手くやりやがって」というやっかみまじりの評価がよくなされますが、これはバイアスがかかったものです。

私は、経営トップ等の「強者」の方と身近に接する機会が多いのですが、「強者」の方々は、実によく働いておられます。

「弱者」の方がネットカフェ等で眠っておられる間も、「強者」は、不眠不休で、市場を予測し、企画を練り上げ、営業の前線に出て、組織内部を統制する方法を思案し、やる気のない人間やできない人間のクビを切る算段を整え、クレームや訴訟に対応し、自社の株価や自分の資産の価値を維持・向上する方法を模索しています。

無論、格差が世代承継され、貧困が再生産されるような社会が健全ではないことは承知しています。 しかし、自由競争の結果として生じた「健全な格差」までも否定し、これまでの身勝手な生きざまを検証することなく「弱者」といわれる方々を一切合切保護すべしだ、という論調にはどうしても賛同できないのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.005、「ポリスマガジン」誌、2008年1月号(2008年1月20日発売)