00045_格差社会は悪しきものか_20080120

最近、「日本において格差社会が広がりつつある」などといわれます。

そして、このような格差社会問題が報道される際、必ず、「格差社会は悪しきものであり、弱者は保護されるべし」という趣旨の論調が含まれます。

経済学者の森嶋通夫氏はかつて「私は弱い善人が、もっとも嫌いだ」といったそうです。

私としても、「格差社会をすべからく否定し、弱者を無制限に保護すべし」という議論には同調できません。

我が日本国は、人それぞれの個性を尊重し、自由競争を是とする社会体制を堅持してきました。

他方、ソヴィエト連邦その他の共産主義国家は、個人の尊厳よりも国家の管理を優先し、自由競争を徹底して否定した社会体制を構築しましたが、このような壮大な社会実験が無残な失敗に終わったことは、誰しも知っていることです。

「個性を尊重し、自由競争を是とする社会」は、当然ながら、結果の不均衡すなわち格差をもたらしますが、これは体制選択上予定された結果であって、むしろ好ましい状況です。

こういうことをいうと、「憲法14条は平等を保障している。格差社会はおかしい」などという異論が出てきます。

しかしながら、これはあまりにバカげた意見です。

憲法が保障しているのはあくまで「法の下の」平等です。

「法の下の平等を保障する」というのは、「経済的不平等を容認する」のと同義であり、憲法は格差社会を容認しているのです。

現実をみても、「弱者」といわれる方々の中で「幼少時から蛍雪を友とし、学生時代は寸暇を惜しんで勉学に励み、社会人になっても睡眠時間を惜しんで資格取得に努め、貧困から脱するためのありとあらゆる努力をしたにもかかわらず、なお赤貧にあえいでいる」という方はあまりみかけません。

むしろ、「弱者」といわれる方は、「勉学をはじめとしたさまざまな苦労を徹底して回避し、欲望や誘惑に弱く、迷えば楽な方を選び、人と同じようなことを、人並みあるいはそれ以下の程度にやってきた。かつてはそれでもそこそこ並みの生活ができたが、景気が悪くなって能力主義が横行した途端、生活水準が落ちた。こんな格差社会にしたのは俺ではなくて社会が悪い」という身勝手な考えをお持ちの方々がそれなりの数、いらっしゃるような気がします。

他方、格差社会の勝ち組といわれる方々に対しては「時勢に乗じて上手くやりやがって」というやっかみまじりの評価がよくなされますが、これはバイアスがかかったものです。

私は、経営トップ等の「強者」の方と身近に接する機会が多いのですが、「強者」の方々は、実によく働いておられます。

「弱者」の方がネットカフェ等で眠っておられる間も、「強者」は、不眠不休で、市場を予測し、企画を練り上げ、営業の前線に出て、組織内部を統制する方法を思案し、やる気のない人間やできない人間のクビを切る算段を整え、クレームや訴訟に対応し、自社の株価や自分の資産の価値を維持・向上する方法を模索しています。

無論、格差が世代承継され、貧困が再生産されるような社会が健全ではないことは承知しています。 しかし、自由競争の結果として生じた「健全な格差」までも否定し、これまでの身勝手な生きざまを検証することなく「弱者」といわれる方々を一切合切保護すべしだ、という論調にはどうしても賛同できないのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.005、「ポリスマガジン」誌、2008年1月号(2008年1月20日発売)

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