00044_「記号」としてのお金、「武器」としてのお金_20071220

もう一昔前、二昔前の話になってしまいましたが、大手放送局のグループ企業の買収騒動に関連し、著名ベンチャー企業の青年社長が証券取引法違反(当時の名称。現在は、金融商品取引法違反)に問われ、有罪判決を受けるというできごとがありました。

最初にお断りしておきますと、ここではいてこの事件の当否を議論するつもりはありません。

私が関心を持ったのは、この青年社長の人生を狂わせた「お金」の意味についてです。

「お金」というのは、その額によって、意味や内容が大きく変わってくるものです。

100万円なり1000万円の現金は、お金は「本来の働き」、すなわち決済手段ないし財産として機能し、持ち主に一定の自由を保障します。

1億円の現金があれば保障された自由の幅は更に拡大されます。保障された自由の大きさは10億円くらいまでは把握できるかもしれません。

しかし、100億円になると「一定の自由の保障」という実感は薄れていき、「記号」としてしか認識できなくなります。

弁護士をしていると、仕事上よく資産家という人種に出逢いますが、保有資産が50億円のお金持ちと、100億円のお金持ちと、150億円のお金持ちとを見比べてみても、資産額のゼロの数やカンマの位置に違いがある以外、それぞれのお金持ちの間に顕著な差異は見出せません。

ゼロの数がさらに増え、1000億円や1兆円の資産となりますと、「記号」という意味を超え、「使い方によっては、戦闘機やミサイルのような働きをする危険な道具」になっていきます。すなわち、この規模の「お金」になると、使う者の意志次第で、歴史ある企業組織を一挙に破壊したり、一国の経済に致命的打撃を与えたりすることが可能になります。

ある人が純粋に利殖目的で金融市場において1000万円程度を運用していても誰も文句をいいません。

10億円程度でも文句をいわれないでしょう。

しかしながら、同じ人が1000億円を運用するとなると、運用方法によっては、その人の真の意図とは別に、運用者の存在自体を脅威と感じる者が出てきます。

すなわち、運用者が単に財産を増やしたいだけであっても、額によっては「危険な武器を振り回している」と判断され、運用者を強制的に排除しようとする動きが生じるのです。

冒頭で有罪判決を受けた青年社長は、当初、保障される自由の幅を広げるためにビジネスというゲームに参加したのだと思います。

ゲームは成功し、保有しているお金は、どんどん成長を遂げ、一生かかっても謳歌しきれないほどの自由を保障する規模になりました。

その後、青年は「記号」と化したお金を使って、ゼロの数を増やすゲームを継続し、アグレッシブに勝ち続けました。青年は最後まで「記号」としてのお金を操り、これを増殖するゲームを続けるつもりだけだったのかもしれません。

しかし、運用資産のゼロの数がある臨界点に達したころから、彼が扱っているお金は「記号」から「危険な武器」に変質していました。

お金が「記号」から「危険な武器」に変わった時点から、このことに気づいて保守的で慎重な取扱いを行うべきであったのかもしれませんが、彼はこれに気づかず、「危険な武器」と化したお金をそれまでの常識を覆すような危険な方法で振り回し続けました。

やがて、このような行動を脅威と感じる勢力が彼に襲いかかり、彼はゲームの場から強制的に排除されました。

私が想像する冒頭の事件の背景はこのようなものです。

「お金」は、規模によってさまざまな力と意味を持ちますが、こういうことを理解している人間はごくわずかです。

この青年社長の次に日本に登場する若き野心家は、このような「お金」の本質を十分理解し、より賢く、巧みに使いこなし、大きな夢を実現してほしいものです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.004、「ポリスマガジン」誌、2007年12月号(2007年12月20日発売)

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