00043_勉強嫌いの経済学部生の子供に、退屈な経済学を学ばせるには?

経済学の話です。

きっかけは、ある経営者のご子息のご相談。

なんでも、某大学経済学部に入ったものの、全く勉強する気が起きない、とのこと。

そもそも、なんでこんなもの勉強するのか?
こんなこと勉強して何の役に立つのか?
何が面白くて、こんな無意味で、抽象的なことを議論しているのか?
こんな学問、なんでできたのか?

こんな疑問ばかりが頭にうずまき、また、特有の抽象性や無味乾燥さから、経済原論の段階で躓いてしまい、最後には、大学そのものにも嫌気がさし、どうにもこうにもならない、という相談です。

弁護士ないしビジネスコンサルタントとしてではなく、経済評論家として、何か、解決のヒントでもくれ、ということでした。

確かに、ご子息の疑問というか悩みというかツッコミはそのとおりです。

経済学に限らず、勉強というか、学問なんて、そもそも接点持つだけでも苦痛です。

何か、しびれるくらい得なことやメリットがあって、イヤイヤながら、なんとか付き合えるような代物。

私も、大学受験に関して言えば、好きな英語や社会はなんとかテンションが維持できましたが、数学や物理については、死ぬほど嫌いで、大学に合格するために仕方なくやっていました。

結果、合格して3時間後にはすべてキレイさっぱり忘れていました。

やってても、意味や目的や価値が感じられないと、ハイコスト・ノーパフォーマンスの無意味な苦役として、忌避する気持ちはよくわかります。

といいますか、そもそも、経済なんて、知ったり、学んだりする必要あるのでしょうか?

「日本経済新聞」
という新聞がありますが、そもそもあの新聞って、誰が、どんな目的で、何が楽しくて、飽きもせず、毎日一生懸命読んでいるのでしょうか?

よほど楽しいことや、興味のあることや、自分にとって必要なことが書いてある、ということなのでしょうか?

その
「よほど楽しいこと」
「興味のあること」
「自分にとって必要なこと」
って何なのでしょうか?

話はガラリと変わります。

競馬の話です。

私は、競馬はやりません。

何十年も前に友人に連れられて京急だかモノレールだかに乗って競馬場に行って、馬券を買って、レースを観たことはあります。

ですが、何が楽しいのかまったくわからず、それ以来、まったく競馬とは接点がありません。

駅の売店や、コンビニに行くと、競馬新聞とか、競馬ブックといった競馬ファンのための新聞が置いてあるのを目にします。

これら特殊な新聞は、一見して読む気が失せるくらい小さい字で、暗号や記号や呪文のような難解で判読不能なデータがぎっしりつまっており、競馬に興味のない私にとっては、全く用のない新聞です。

ですが、競馬をやる人にとっては、大事な情報源のようで、
「(こう言っては失礼ですが、)普段、本とか新聞とかあまり読まなさそうなオジサンたち」

「徳川埋蔵金の在り処を示した地図」
「ナチスの隠れた財宝が隠された場所に導く暗号文」
を見るかのように、買って手にした瞬間、目を皿にして必死に読んでいる姿をみかけます。

もし、競馬に興味のない私に、
「競馬新聞とか競馬ファンとかを、きっちり読んで、理解しておけ」
と言われると、とんでもない苦役となります。

理解が困難ということもさることながら、競馬をやらない私にとって、無意味で無価値で無用なデータを目にすることそのものが、とんでもなく退屈で苦痛です。

他方、私は株や指数先物といった投資活動はやっています。

無論、暇つぶしのゲーム感覚で、お小遣い稼ぎの趣味程度ですが。

私にとって、日経新聞や日経ベリタスは、日々刻々と変化する投資に関する貴重な情報がぎっしりつまっており、新聞が届けられたらすぐに目を通します。

最近では、ネットで朝4時には紙面更新されますので、早く起きたときなどは、新聞取りに行かなくても、ベッドの中でスマホでブラウズできたりもしますし、非常に便利になっています。

市場の動向や、市場に影響を与える政治動向や事件や騒動、また、これらイベントがどのように関連し、影響を与えあって、どのようなインパクトをもたらすか、といった、事象解明に関する解説記事を含め、毎日、ほぼすべてに目を通します。

競馬ファンが競馬に興じる際に、予測の根拠となる最新のデータや解析結果を強い興味をもって追い求めるのと同様、私も、日経新聞から、強い興味と探究心をもって、情報を入手し、読解に努めます。

年配のサラリーマンの方が、若いサラリーマンに
「社会人になったら、日経新聞くらい読まなきゃ」
と諭す姿を見かけることがあります。

いや、普通、読まないでしょ。

大学出たばかりで、企業社会も経済も知らず、投資にも縁がない、社会人1年生にとって、日経新聞など、競馬をやらない私にとっての競馬新聞と同じです。

「社会人になったから」
という理由だけで、経済に縁のない人間にとっての無意味な暗号や記号や呪文な羅列のような
「日経新聞を読め」
というのはあまりにも無理があります。

私がもし
「あなたも、大人になったんだから、競馬新聞くらい読まないと」
と言われたら、感覚遮断して無視します。

私ならこう言います。

「社会人になったら、勉強と思って、FXでも指数CFDでもいいから、マーケット環境と紐づく投資をやってみたら? 最初は、勘で適当にやったらいいよ。そのうち、欲が出て、儲けたい、損を避けたい、と思ったら、自然と勉強したくなるから、そうなったら、日経新聞とか読んでみたら。より深く、投資を楽しめるよ」
と。

要するに、何のメリットも意味も価値も脈略も目的もなく、
「経済を勉強しろ」
「日経新聞を読め」
という指示は、
競馬に興味のない私に
「競馬新聞や競馬ファンをがんばって読め」
というのと同じ指示であり、プロジェクトの設定と構造において、本質的な無理があるのです。

構造上、本質上の無理がある、ということは、
「降りのエスカレーターを昇れ」
というのと同様、一過性の実現は可能であっても、持続可能性がなく、そのうち破綻します。

経済学とは、私なりの理解で言えば、
「一定の地域ないし社会集団において、限られた資源をうまく活用して、そこにいる連中全員を、食わせ、幸せにする、あるいは、当該地域ないし集団をリッチにする」
というゲームミッションを達成するための、ゲーム戦略の体系です。

「集団構成員が、おのおの欲の赴くまま、市場における交換を通じて、富を増殖する自由なゲームに興じさせれば、構成員が豊かになり、国全体もリッチになる」
という戦略の流派があったり、
「市場が失敗することもあるから、集団構成員に好き勝手にさせるのではなく、大きな破滅に至らないように、ちょいちょい政府がお節介をした方がいい」
という流派があったり、
「集団構成員に勝手なことをさせたら、絶対大きな破滅に至り、うまくいかない。政府が完璧な計画を策定し、構成員の自由を否定して、徹頭徹尾、政府の指示どおりさせた方が、皆が幸せになる」
という流派があったり、また、最近では、
「今まで、集団構成員は、皆、『頭がよくて、合理的な行動をする』と思っていたが、意外と、馬鹿ばっかだし、アホなことばかりやってる。『なんだかんだ言って、結局、皆、バカばっか』という前提で社会システムを設計した方が、最適な資源配分や国富増大が可能となる」
という流派が出てきたりしています。

しかし、こんな
「ゲーム戦略の体系」
をガチで学ぶ必要性があるのは、ゲームプレーヤー、すなわち、当該地域を支配するエスタブリッシュメントである、日銀関係者か政府関係者くらいです。

したがって、日銀に入ろうとか、国家公務員総合職試験に合格して、財務省や経済産業省等にでも入ろうというなら、経済学は必要であり重要ですが、それ以外の仕事につくなら、経済学、
「一定の地域ないし社会集団において、限られた資源をうまく活用して、そこにいる連中全員を、食わせ、幸せにする、あるいは、当該地域ないし集団をリッチにする」
というゲームミッションを達成するためのゲーム戦略の体系を、必死こいて学ぶ必要性は乏しいです。

もちろん、
「日銀行員や公務員を目指さないなら、経済学の勉強は不要」
とまでは断言しません。

すなわち、派生的・副産物的な使い方として、経済学の考え方を使ってビジネス課題を解決することは可能ですし、前述のとおり、投資家がマーケットの行く末を予測する際、政府や中央銀行の行動の意味や動機や背景を分析する際の説明原理としても有用性があるからです。

こう考えると、最初の
「悩める大学経済学部生」君
への悩みの処方箋はぼんやりと見えてきます。

「悩める大学経済学部生」君

「経済学をやることに意味や価値を感じられない」
という気持ちは、実に、素直であり、至極真っ当です。

この「悩める大学経済学部生」君、
お父さんの会社を継ぐわけであって、別に、日銀に行くわけでもなく、公務員を目指しているわけでもなく、経済学を使った課題解決をするようなプロジェクトをするかどうかもわからず、投資の「と」の字も知らない。

そんな彼に、経済原論を学べ、金融論を勉強しろ、財政学、公共経済学、国際経済学、国際貿易論、国際金融論を勉強しろ、日経新聞を読め、なんて言うのは、競馬をやらない私に競馬新聞を読め、というのと等しい、持続不能に陥ることが明らかな、無意味な苦行を強制しているのと同じです。

彼に必要なのは、気合や根性や精神論を説いて、
「経済学を勉強せねばならない」
という行動に追い込むことではありません。

気合なんて無意味で、無価値で、無用です。

学ぶことの意味や目的を与え、
「勉強して、知見を増やしたら、ますます、楽しくなる」
という自然な動機形成ができるような環境を与えることが必要です。

競馬が好きそうだけど、純文学や哲学書や学術書とか絶対読まなさそうなオジサンも、競馬新聞とか競馬ブックは真剣に読みます。

考えようによっては、競馬新聞も競馬ブックも、一見して読む気が失せるくらい小さい字で、暗号や記号や呪文のような難解で判読不能なデータがぎっしりつまっています。

競馬をやらない一般人にとって、この特殊な文字や記号の羅列が盛り込まれた新聞を読むのは、マルセル・プルーストやミシェル・フーコーを読んだり、IPS細胞に関する学術論文の読解に匹敵するくらいのリテラシーとエネルギーが必要となります。

「欲や興味というのは、すさまじいエネルギーを生み出す」
ということをしみじみ感じます。

「純文学や哲学書や学術書とか絶対読まなさそうなオジサン」
をして、
「これに匹敵する難解なデータが詰まった抽象的な文字が踊っている新聞」
に没頭させる情熱と探究心とリテラシーを身につけさせるわけですから。

で、相談に訪れた方にこのようにお答えしました。

これは現実的ではないかもしれませんが、
「ご子息が公務員を目指すように誘導してみること」
を選択肢としてお伝えしました。

「官僚はかっこいい」
「官僚は日本を動かす」
「官僚になれば、民間企業ではできない、大きな仕事ができる」
とかなんとか、陳腐なものも含めて、
「公務員になりたい!」
という意識づけ、動機づけに成功すれば、彼は、
「日本という国家運営に携わる者として、限られた資源をうまく活用して、日本人を、食わせ、幸せにする、あるいは日本をリッチにする」
というゲームミッションを達成するためのゲーム戦略の体系を学ぼう、という意欲や動機を持ってくれるかもしれません。

意欲や動機が芽生えればしめたもの。

国家公務員になろうとすると、公務員試験総合職(経済区分)として、国際経済学や経済政策、経済史、統計学・計量経済学といった試験科目が設定されており、志望する者が
「ゲームミッションを達成するためのゲーム戦略の体系」
を学ぶことを要求しています。

そして、こういう志を持つ人間のため、各種公務員試験予備校が、
「試験に合格する」
という目的に対して徹底した合理的な方法論や伝授ノウハウを確立しており、一定のお金があれば、合理的でわかりやすく、
「合格」
という現世利益に直結する教授環境が整ったところに通うことで、勉強そのものの苦痛を和らげることができます。

もう1つの選択肢としては、彼に、一定の運用資金を与え、
「株でもFXでも指数先物でもいいから、ゲーム感覚で、投資をやってみて、金を増やしてみろ」
と誘導することです。

投資活動を行えば、必然的に、ゲーム環境を構成する市場動向や経済の動き、これらの動向等を暗示する指標やその意味・解釈、さらにこれらの動向の背景原理やメカニズムといったものに関心持たざるをえません。

もちろん、この種のことを深く勉強せず、
「上がるか、下がるか」
「上がると思ったら買い、下がると思ったら売る」
という単純なバイナリーオプションゲームとして、場当たり的にやっても楽しいですし、最初はそれでもいいのですが、勝率を上げるには、市場や経済のことを知りたくなるはずです。

人間、年齢や立場に関係なく、生きている限り、欲はあるはずであり、金に興味のない人間はいません。

その意味では、
「投資で金を増やす」
という活動について、適切な誘導の下、きちんとエントリーさえできれば、その奥深さに魅了される可能性は高いと思います。

いぜれにせよ、
「気合でがんばれ」
「精神論で乗り切れ」
というのは、絶対うまく行きません。

動機やメリット・利害を適切に設計しないと、根源的な不愉快さを内在する勉強を建前や空疎な倫理観で強制しても、持続可能性がなく、そのうち頓挫します。

現代の
「経済社会のゲーム環境設計」
に関する考え方も同様です。

消滅したソビエト連邦をはじめとする社会主義国において、
「政府が生産計画を策定し、国民を統制下に起き、計画にしたがって生産活動に従事すれば、皆が幸せになる」
という理屈をもとに、欲や自由という人間のもつ根源的な動機を否定し、ひたすら政府の計画に盲従させる、という国家運営が壮大な社会実験として行われましたが、これが無残で悲惨な形で崩壊したのは、歴史上の事実としてよく知られているところです。

「国民を縛り付けず、むしろ『少しでも多く儲けたい』『もっとうまく、早く金を増やしたい』『今日よりも明日、明日よりも明後日には、より多くのお金を得て、楽しく幸せに暮らしたい』という欲望に忠実に行動させ、自由な市場で活発な競争をさせれば、国民も社会全体も、自己増殖的にリッチに、幸せになる」
という経済社会設計の優位性は、理論的にも実証的にも明らかになっています。

学問も、勉強も、仕事も、うまくいかないのは、
「気合や根性やよくわからない常識を振り回したり、意味不明なプレッシャーで、乗り切らせようとしたり、強制したりしようとするから」
という場合が多いです。

「計画通り仕事をしないと、極寒の僻地に送って、労働教化刑食らわせるぞ」
なんて脅されたら、一瞬仕事を頑張るかもしれません。

ですが、目を離せばすぐサボりだしますし、24時間監視するなど困難ですから、一過性の実現可能性はあっても、持続可能性がありません。

俗に、
「好きこそものの上手なれ」
などといいますが、先程の競馬ファンの行動をみていますと、
「欲こそものの上手なれ」
とも言えるのではないでしょうか。

ご子息が経済学に興味をもってくれるかどうかは定かではありませんが、とにもかくにも、ご相談者の社長さんは、
「官僚とかは無理だけど、投資ならやらせてみるか」
と納得して、帰られました。

皆さんも、うまくいかないことがあれば、欲の充足を目的においた、ゲーム設計をしてみられたらいかがでしょうか。

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