00067_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(1)_20091020

去る8月(注:本コンテンツは2009年8月時点で書かれています)の総選挙で民主党が圧勝しました。

いよいよ、「民主の時代」到来です。

わが国では、小学校以来「民主主義一神教」ともいうべき形で「組織運営上の絶対原理」として教授されることの多い民主主義ですが、民主主義を運用する上では「民主主義には暴力的側面がある」ということも同時に理解・認識しておくべき必要があり、今回から連載の形で民主主義を再検証してみたいと思います。

「民主主義を再検証する議論」と聞くと、何か目新しい議論をしているかのように思われがちですが、民主主義の限界論については、数千年前にすでに古代ギリシアで議論されていたようです。

以下、塩野七生著「サイレント・マイノリティ」(新潮社)に「古代ギリシアのアテナイに生きたらしい(なにしろ作者不明なので)ある反民主主義者が書き遺した」として書かれている文章を転載します。
(以下、転載)

世界中の思慮深き人はみな、民主主義の敵である。なぜなら、思慮深き人の特質が首尾一貫した思想にあり、不正を憎むことにあり、改善へのたゆまない努力にあるとすれば、大衆の特質は、無知にあり無秩序にあり優れた者への嫉妬にあるからである。貧困は不名誉な行いに走らせ、教育の欠陥は、俗悪と無作法をはびこらせる。そして、大衆は常に多数なのである。
(中略)
集会は、より低い知的水準にある者たちに自由に発言を許してこそ、理想的なものになるものだ。なぜなら、思慮浅き人々は、自分たちの利益になることしか提案しないからである。
(中略)
民主主義が、自由よりは暴力と近いという真実に気づいていない。
(中略)
民主主義の根本原理である多数決は、五十パーセントプラス一票を獲得した側が、思い信じることを強行するものだからだ。少数派の意見も尊重せよ、などということは、だから、民主主義の根本原理に反することなのである。
(中略)
自由と平等は絶対に両立しえない。
(中略)
民主主義者たちは、自由よりも平等のほうを好むものだからだ。
(中略)
平等の概念を急進化したプロレタリア独裁を思い出すだけで充分だ。
これが、個々人の自由の破壊にどれだけ貢献したかを考えるだけで、それ以上の説明の要もないだろう。
(中略)
思慮浅き人々は、人民自体が法である、という彼らの宣言にみられるように、法を尊重しない。

(転載終了)

「民主主義=絶対善」「人民の中に常に真実あり、世論こそ法なり」「エリートのイニシアチブによる寡頭制=不平等であり、絶対許せない」という考えは、戦後の一時期に、特定の思想傾向を有する団体やマスコミが、初等教育の場や統治システムやその形成過程に関する歴史を良く知らないマジョリティ向けに偏頗的に広めたものと思われますが、これも一つのイデオロギーに過ぎません。
にもかかわらず「民主主義一神教」に長期間毒され、民主主義以外の統治原理の存在を知らない信者たちは、民主主義が統治手段に過ぎないことや民主主義の負の側面があることをなかなか認めたがりません。

政権交代は多いに結構ですが、「民主主義一神教」が、弁証が不可能な絶対真実としてこの国を席巻し、他の議論が圧殺されるとすれば、それはそれで考えものです。

「反民主主義」が正しいというわけでもありませんが、私としては、民主主義という仕組は、他の統治原理とも相互補完させつつ、試行錯誤や止揚によって「よりよき統治システム」が模索され続けられるべきだと思うのです。

民主主義再検証は次回も続けたいと思います。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.026、「ポリスマガジン」誌、2009年10月号(2009年9月20日発売)

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