00070_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(4・完)_20100120

今回で「『民主』の時代を考える」シリーズは最終回です。

民主主義についてあれやこれやとケチを付けてきましたが、筆者としては、民主主義がダメで専制君主制がいい、と主張したいわけではありません。

「民主主義」というのは、意思決定のための手段ないし道具としての意味しかなく、それ自体が特別に何か目的や価値をもっているわけではありません。

例をとって考えてみましょう。
国民の大多数が、「ユダヤ人を排除せよ」「ユダヤ人を強制収容所に入れて殺してしまえ」という意思をもち、この民主主義的意思が政治過程において適正に表明されたとしましょう。
この場合、民主主義を貫けば、このような常軌を逸した政治的意思が正当性を有することになります。実際、ある時期、ある国において、民主主義の名の下に、少数民族が相当数生命を奪われたということがありました。

現在の日本においても、国民の大多数の意思としては「税金はできるだけ払いたくないが、新型インフルエンザ対策(注:本コンテンツは2009年12月ころに執筆されています)を始めとした各種行政サービスは充実してほしい」という無茶苦茶なものであり、民主主義をまともに取り合っていれば、およそ国家運営など不可能になってしまいます。

そもそも民主主義というものは「多数存在しうる政治的意思決定の方法の一つ」に過ぎません。
にもかかわらず、「知能の高低に関わらず、誰もが、責任を取らされることなく、政治的意思決定に参加できる」というマジョリティにとっての安直さ故に、戦後来、民主主義に対する信仰が「他の政治的意思決定の存在を許さない、排他的な一神教」として日本社会に過度に蔓延したよう
な気がします。
では、民主主義が手段概念、道具概念とした場合、目的概念は何なのでしょうか。

わが国の憲法が標榜するところからは、民主主義が奉仕すべき価値とは、個人の人権保障であり、リベラリズムの実現であると解釈されます。
すなわち民主主義とは、個々人の人権という価値を実現するために奉仕するための下位概念であり、「民主主義によって少数者の人権が侵害される」というさきほど例に挙げた状況は「手段が目的を害するものであり、本末転倒の事態として許されない」ということになります。

裁判所という国家機関は、非民主的に運営されています。「司法権」という国家三権の中でもっとも重要な権力を自由に振るうことができる最強の機関であるにも関わらず、裁判官選出にあたって選挙など一切されず、試験で選抜されたエリートのみによって寡頭的かつ秘密裡に運営されており、民主主義からすると実に噴飯ものの組織です。

このようなことが許されるのは、司法権力を行使する裁判所は、リベラリズムを実現し、少数者の人権を保障する最後の砦だからです。
裁判所は、立法過程・行政過程を支配する多数派の横暴から阻害された少数派の人権を救済することが期待される機関であり、多数派に汚染されることなく「数」ではなく「理非」により国家の意思を示すことが期待されているの
です。

だからこそ、裁判所は、民主的であってはならず、「マジョリティの意思に左右されることなく理非を貫けるエリートによる寡頭運営」が必要なのです。

このように、民主主義は下位概念・手段概念に過ぎず、自由主義・人権保障という目的に奉仕すべきもので、価値実現のためのツールとして全体バランスの中で限定的にのみ用いられるべきということになります。

単純な民主主義ではなく、自由主義のための謙抑的な民主主義、「自由民主主義(リベラルデモクラシー)」というのが現代社会において求められる民主主義のあるべき姿といえます。
というわけで、「自由民主党」という政党は、実に素晴らしいネーミングの党だったのですが、名前負けしていたせいか、国民から見放され、現在塗炭の苦しみを味わっています(注:本コンテンツは2009年12月ころに執筆されています)。

以上、民主主義についていろいろな面から考察して参りました(あるいはケチを付けて参りました)が、私個人としては、事業仕分けなど自民党政権時代にはなかった画期的な政治運営がなされており、民主党には多いに期待するところであり、「民主主義」の意味を履き違えず、この国をより住みやすい国にしていってほしいと思います。

(完)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.029、「ポリスマガジン」誌、2010年1月号(2009年12月20日発売)

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