00082_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」10_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅷ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その3:財産があること_(D)「お金の本質的意義と価値と効用」3つ目:「お金」の正体_20181120

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する
「楽しい人生」
については、自由であること(その1)美容と健康を保てること(その2)に加え、その3として、
「財産があること」
も内包すべき要素として必須です。

私の定義する
「楽しい人生」
の内包要素として、その3、
「財産があること」
を挙げました。

ところで、
「財産形成」
というミッションデザインについては、
「楽しい人生のための他の構成要素である、自由や、美容・健康」
と衝突しやすい、あるいは時に人生そのものを狂わしかねない危険がある
ため、前提として弁えておくべき、
「お金の本質的意義と価値と効用」
について、お話ししております。

「お金の本質的意義と価値と効用」
の1つ目としては、自分を救え、解放できること。

すなわち、贅沢ができ、うまいメシを食い、うまい酒を飲み、好きなときに好きなことを好きなだけできる、そんな財力をもつこと、あるいは、そんな贅沢をしなくても、ただただ、いつでも使えるお金が豊富にあるだけで、お金を持っている人間は、人生の苦悩の最も大きな部分を占める
「カネの悩み」
から解放され、自由に生きられるますし、それは、楽しい人生を送る上で重要な前提になります。

「お金の本質的意義と価値と効用」
の2つ目としては、他者を救え、解放でき、遂には神に近づけること。

すなわち、
「救うべきで、かつ救う価値のある他者」
に、強力で即効性のある救いの手を差し伸べて、救って差し上げる、という
「神業」
をなすにも、お金は強力なツールになりますし、神として振る舞えれば、人生はさらに楽しくなります。

だから、お金は、楽しい人生のための重要なツールとして、必要になってきますし、カネを稼ぎ、カネを貯めることは、楽しい人生を送るためには、大いに推奨されるところです。

とはいえ、財産をしこたま貯め込むだけで、まったく使えない、というのも味気ない、というか人生を楽しんでいる、とは言えません。

ここで、大きな魔力ともいうべき力をもつ
「お金」
の正体を考えてみましょう。

お金というのは、ただの、紙切れであり、記号であり、取り決めであり、幻想です。

例えば、千円札や五千円札や一万円札というものは、JASDAQに上場している某株式会社(日本銀行は、証券コード8301で、東証1部でも2部でもなく、新興市場であるJASDAQに株券上場している一民間会社です)が発行している手形の如き紙片であり、
「日本及び世界中の人が、この『JASDAQに上場している某株式会社が発行している手形の如き紙片』に一定の価値(90ドルなり77ユーロなり65ポンドなり)があるはずだ」
という
「共同幻想」
を抱くことで成立している
「一定の形而上の価値空間における、価値表章道具」
に過ぎません。

最近では、ビットコインという名の下に、新たな価値空間や、当該価値空間における価値表章道具が突如創造され、瞬く間に浸透して一般化しています。

このことを考えても、
「マネーの世界」
というものが、実は、かなりイージーに作り上げられる幻想空間である、ということが改めて確認できる事象です。

無論、崩壊したり無くなったりするのも割とすばやく、あっけなく起こったりするかもしれませんが。

こういう事例は、
「マネーないしマネーに関わる営みの本質が、情報産業でありバーチャル空間創造事業の一種である」
という一面を如実に表わしています。

なお、千円札や五千円札や一万円札が、
「東証1部でも2部でもなく、新興市場であるJASDAQに株券上場している一民間会社の発行している紙切れ」
などというと、
「この弁護士はバカで、モノを知らんな。通貨を発行しているのは、日本国政府であって、そんな、JASDAQに上場しているショボイ企業とちゃうぞ!」
という声が聞こえてきそうです。

しかし、お持ちの紙幣を、目クソをしっかりかっぽじりあそばして、よくご高覧ください。

偽札でない限り、お持ちの紙幣の発行体は、
「株式会社日本銀行(JASDAQ:8301)」
という民間企業であることが明記されていることをご確認いただけるかと存じます。

そういうと、
「んなもん、何の違いがあるねん! 日銀も日本国政府も一緒やんけ!」
とか、おぬかしあそばされそうです。

ここまで無知だと、さすがに矯正のしようがありません。

小学校か中学校の社会の教科書から勉強し直してください。

日本国政府と日銀は別の組織であり、ミッションもガバナンスも別のものです。

(日銀とは全く別組織の)日本国政府が発行できるのは、500円玉を筆頭にしたコインだけです。

コインとは、
「補助通貨」
といわれますが、
「取引決済1回につき20枚までしか提供できない」
という制限が付された、決済道具としては相当ポンコツなものです。

国の借金(正確には、国債及び借入金並びに政府保証債務現在高)が1000兆円超えたとか超えないとかで、ギャーギャー騒がれているようですが、法律を改正して、
「取引決済1回につき20枚までしか提供できない」
という制限を取っ払ってしまって、1000兆円分の500円玉を製造して、これを、某JASDAQ上場企業の日本橋の本店に持っていけば、国の借金なんて一挙に返済できちゃいます。

ちなみに、政府の債務といっても、反対側の債権を保有しているのは、日本の企業(たいていは一般の銀行ですが、JASDAQ8301の特殊銀行業を営む某企業が自分で買う場合を含む)や個人です。

日本国を1つの家族として考えると、お父さん(日本国政府)が1000万円の借金を負っているといっても、
「借りた先は、サラ金でも闇金でも銀行でもなく、いや、家庭の外にいる親類縁者ですらなく、一緒に暮らすお母さんのへそくりから借りてます」、
というのと同じです。

確かに、お父さんは、お母さんに頭が上がらず、いじけていますが、
「家庭全体が危機に瀕しているとか、借金取りに追われて夜逃げしなきゃいけないとか、破産して全員クビつる」
とかそんな話ではありません。

なお、この
「日本」というご家庭全体
では、貯金が328万円あります(対外純資産は2017年末で328兆円です)。

「お父さんがお母さんから1000万円超借金しているが、家族全体で貯金が328万円ある」
なんて話だと、カネがあるのかないのかわからない、なんともビミョーな貯金額ですが、なんと、この貯金額、世界一なんです(日本の対外純資産額は、2位のドイツを70兆円以上引き離し、ダントツの世界一)。

話は脱線しましたが、お金を貯めることは多いに価値と意味がありますが、お金の本質は、紙切れなり金属の塊によって表章される
「幻想価値空間」
の道具に過ぎません。

賭博場のポーカーチップや、パチンコホールのパチンコ玉と同じであり、大事に貯め込むというのは本来の効用のあり方ではなく、使ってこそのものです。

したがって、お金とのお付き合いにおいては、
「上手に使う」
ことも楽しい人生を送る上で重要なスキルと位置づけられます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.135、「ポリスマガジン」誌、2018年11月号(2018年10月20日発売)

00081_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」9_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅶ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その3:財産があること_(C)「お金の本質的意義と価値と効用」2つ目:「お金があると、自分も救えるほか、他人も救えるし、突き詰めると、神になった気分さえ味わえる」_20181020

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する
「楽しい人生」
については、自由であること(その1)美容と健康を保てること(その2)、に加え、その3として、
「財産があること」
も内包すべき要素として必須です。

私の定義する
「楽しい人生」
の内包要素として、その3、「財産があること」を挙げました。

ところで、
「財産形成」
というミッションデザインについては、
「楽しい人生のための他の構成要素である、自由や、美容・健康」
と衝突しやすい、あるいは時に人生そのものを狂わしかねない危険がある
ため、前提として弁えておくべき、
「お金の本質的意義と価値と効用」
について、お話ししております。

自分が自由を享受しても、それはそれでハッピーですが、更に有り余るお金があると、お金の本質的効用の2つ目を享受できます。

有り余るお金があると、他者を救えます。

すなわち、お金があると、他者が抱えているたいていの課題が解決できてしまうんです。

例えば、ここに、平均的所得の夫と専業主婦の夫婦がいたとします。

夫婦仲がものすごく悪く、お互い、相手のことを
「こんなヤツ、とっとと消えていなくちまったらいいのに」
と思って、何年も罵り合っている夫婦だとします。

この夫婦を、一瞬で仲良くさせるのはさほど難しいことではありません。

「君たちにそれぞれ3億円ずつやるから、今すぐ喧嘩をやめて仲良く暮らせ。今後喧嘩したり、言い合いしたら、理由の如何を問わず、1回につきそれぞれから5000万円ずつ取り上げる」
といって3億円ずつプレゼントするのです。

無論、
「そんなはした金で喧嘩を止めてたまるか」
という稀有な夫婦が絶対いないとは言いませんが、たいていのご夫婦は、にっこりえびす顔でお金を受け取って、その後は円満に暮らしてくれると思います。

要するに、お金があると、他人の悩みのほとんど(全部とはいいません)を解決して、救ってあげることができます。

他人の悩みを解決できるって、当該他人にとっては、
「神様」
と同じです。

(自分自身がままならぬような状況の方は別として)自分が自由になったあとは、人間誰しも神に憧れ、神を目指すようになると思います。

無論、
「そんなの目指さない」
という方もいるでしょうが、まあ、少数派でしょう。

実際、マイクロソフトをはじめとした巨額の富を築いたベンチャー企業の創業者は、自分が死ぬほどハッピーになって、贅沢も一通り味わったあとは、たいてい財団を作って、
「神様業」
に乗り出します。

「カネがあれば、自分を救えるし、さらにもっとカネがあれば、困っている他人を救え、さらにさらに有り余るカネがあれば、神様の気分すら味わえる」
これが、お金の本質的効用の2つ目です。

無論、前述のマイクロソフト創業者等のような大金持ちを除き、見ず知らずの赤の他人に適当にお金をばらまくような人はいませんが、普通の家庭であれば、子や孫(「他人」といえば「他人」です)のために、一生懸命お金を使わず置いておく、というお年寄りはたくさんいます。

将来、子供や孫が困ったとき、自分ががんばっても大した助けにならないが、お金を渡して悩みをなくしたり、少なくしたりして、救ってあげることができるかもしれない。

そして、将来はわからないし、子や孫が将来どんな苦境に立つか、知ることはできない。

だったら、渡せるお金は、多ければ多い方がいい。

このようなお金の本質的効用が前提認識としてあるからこそ、お年寄りは、どんなに
「そんなにお金を貯め込んでもお墓までもっていけないよ」
と嫌味を言われても、お金を極力使わず、できるだけ、多くのお金を貯めて、子孫に遺そうとするのです。

この
「清らかで無私のメンタリティ」
は、もはや、
「神レベル」
です。

それをもらった子や孫が、感謝の念をもって神のように崇拝してくれるかどうかは別ですが。

ともあれ、自分が自由になり、
「救うべき義理があり、救うに値する人間」
を神のように救ってあげられる、ということができれば、人生、楽しいに決まっています。

贅沢したいとか、無駄使いしたいとか、そんな動物的で即物的な欲求もさることながら、
「自由に生き、助けたい人を助けることで、精神的に充足感を味わう」
ということを通じて楽しい人生を送るために、お金は必須の前提になるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.134-3、「ポリスマガジン」誌、2018年10月号(2018年9月20日発売)

00080_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」8_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅵ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その3:財産があること_(B)「お金の本質的意義と価値と効用」1つ目:「お金があると、自分が自由になれる」_20181020

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する
「楽しい人生」
については、自由であること(その1)美容と健康を保てること(その2)、に加え、その3として、
「財産があること」
も内包すべき要素として必須です。

私の定義する
「楽しい人生」
の内包要素として、その3、
「財産があること」
を挙げました。

ところで、
「財産形成」
というミッションデザインについては、
「楽しい人生のための他の構成要素である、自由や、美容・健康」
と衝突しやすい、あるいは時に人生そのものを狂わしかねない危険がある
ため、前提として弁えておくべき、
「お金の本質的意義と価値と効用」
について、お話ししてまいります。

「お金の本質的意義と価値と効用」
の1つ目は、
「お金があると自分が自由になれる」
「お金があると、預金通帳にマルがたくさん記録されていると、本当にただそれだけで、えもいわれぬ余裕が生まれる」
「お金があると、様々な拘束や鬱屈や不安やストレスが無くなり、魂が解放される」
という、実に不思議な効果があることです。

すなわち、お金を豊富に保有することで、飢餓や欠乏から自由になることができますし、
「カネで済ませられることを、カネを払って、とっとと済ます」
ことで、いろいろな面倒からも解放されます。

お金は腐りませんので、カネがあるからといって、別に無理して、今すぐ使う必要はありませんので、時間的プレッシャーとも無縁です。

お金が懐にあるだけで、余裕ができ、冗長性が確保でき、焦りからくる失敗とは無縁になれます(そもそも、人生の失敗のほぼすべては、焦りからくる愚劣な判断か行動によるものであり、焦りのほぼすべては冗長性の欠如〔時間的冗長性の欠如だったり、経済的冗長性の欠如だったり、精神的冗長性の欠如だったり、そのいずれか又は全ての欠如だったり〕に由来します)。

要するに、お金があることにより、自らを、物質的にも精神的にも自由にすることができ、焦らず、ゆったりとした人生を送ることができる。

同じ年齢、同じ経歴、同じ職業、同じ容姿で、同じような家に住み、同じようなご飯を食べ、同じような家庭環境で、同じような生活レベルで、同じようなライフスタイルの人間が2人いたとします。

片方の人間の預金通帳には10万円しかなく、もう片方の人間の預金通帳には10億円の残高がある。

10万円の方は、どことなく、自信なさげで、焦っていて、不安で、ストレスが溜まり、人生幸せじゃなさそう。

10億円の人は、余裕があり、自由で、ストレスがなく、幸せそうです。

言っときますけど、生活レベルは同じで、どっちもそんなに贅沢していないんですよ。

10億円の人も、毎日、ドンペリやモンラッシェやシャトー・オー・ブリオンを空けて、フカヒレやらキャビアやら松茸やら松坂牛やら大間の大トロを食っているわけじゃないんですよ。

ただ、今すぐ使わないお金が使えないほど懐にたんまり入っているだけ。

ただ、ただ、それだけで、幸せを感じられるんじゃないか。

そんな気がします。

お金って、もっているだけで、リラックスさせ、自由と解放感と安らぎを味あわせてくれ、しみじみとした幸せな気分を感じさせてくれる。

これが、お金の本質的効用の1つ目です。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.134-2、「ポリスマガジン」誌、2018年10月号(2018年9月20日発売)

00079_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」7_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅴ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その3:財産があること_(A)概説_20181020

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する
「楽しい人生」
については、自由であること(その1)美容と健康を保てること(その2)に加え、その3として、
「財産があること」
も内包すべき要素として必須です。

財産があることも、当然、
「楽しい人生を送る」
上での前提条件になりますね。

贅沢ができ、うまいメシを食い、うまい酒を飲み、好きなときに好きなことを好きなだけできる財力をもつことは
「楽しい人生」
には絶対不可欠です。

もちろん、
「好きなときに好きなことを好きなだけ」
といっても、贅沢の中身や程度や、懐具合によって、人それぞれですし、贅沢や美食も
「体を壊さない程度」
をわきまえておかないと、美容と健康を損ねかねません。

また、世の中には、カネを稼ぐために、仕事に邁進し、奴隷のように自由と時間を奪われたりすることを受け入れたり、美容と健康を犠牲にする方や、さらには、入院したり、病気で死ぬまで、頑張る方がいらっしゃいます。

確かに、財産をもつことも大切ですが、
「カネを稼ぐために自由と美容や健康をすべて犠牲にして死んでいく」
という人生設計ってどうなんでしょうか?

目的合理性という点で、相当混乱されているのではないでしょうか?

自由と時間を奪われ、美容と健康を損ねてまで、果たすべき仕事や、形成すべき財産って、私にはまったく想像できません。

要するに、バランスが大事なのですが、お金があれば、バランスのとり方のバリエーションも豊富になりますので、お金がありすぎて困る、というものでもありません。

ちなみに、私も含め、世の中の人は、なんで、あんなに、皆、お金が好きなんでしょうか?

「皆が大好きで大好きなお金」
は、大好きなあまり、時に、自由や、美容・健康を損ね、さらには人生まで損ねあるいは狂わせてしまう
「魔力」
を持っています。

この
「お金の魔力」
を克服して、自由や、美容・健康を損ね、さらには人生まで損ねあるいは狂わせてしまわないためにも、お金の本質的意義と価値と効用をここでしっかりと整理して、把握しておくことが必要かと思います。

次稿以降で、兎角、
「楽しい人生のための他の要素である、自由や、美容・健康」
と衝突しやすい、あるいは時に人生そのものを狂わしかねない、
「財産形成」
というミッションデザインに際して弁えておくべき、
「お金の本質的意義と価値と効用」
について、お話ししてまいります。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.134-1、「ポリスマガジン」誌、2018年10月号(2018年9月20日発売)

00078_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」6_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅳ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その2:健康であること_20180920

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する
「楽しい人生」
については、自由であること(その1)に加え、その2、
「健康であること」
も内包すべき要素として必須です。

すなわち、美容と健康を保つことも
「楽しい人生」
には必須です。

世の中には、仕事や、志のために、美容と健康を犠牲にする方や、さらには、入院したり、病気で死ぬまで、頑張る方がいらっしゃいます。

それって、人生の目的をしっかり考えられて、人生設計されているんでしょうか?

目的合理性という点で、相当混乱されているのではないでしょうか?

美容と健康を損ねてまで、果たすべき仕事や、志って、私にはまったく想像できません。

とはいえ、バランスも大事ですね。

「健康のことがことのほか大事で、健康のためなら、あらゆる犠牲を厭わず、健康を追求する」
という、度の過ぎた健康オタクという人種がいらっしゃるようです。

その方々の口癖は、
「健康のためなら死んでもいい」。

無論、健康も重要ですが、
「健康を求めて、健康を害するぐらいストイックな人生を送る」
というのも不健全です。

ちなみに、
「健康のためなら死んでもいい」
という人生訓を実践して、本当に、健康をストイックに追求して死んだ人がいます(この話をすると、まず、「ウソやろ」というツッコミが入ります)。

マッスル北村こと北村克己氏です。

東京大学理科II類に入学して中退後、さらに東京医科歯科大学医学部入学するという学歴エリート街道を突っ走りながら、ボディビルにのめり込み医者の道をあきらめ、WABBA 太平洋世界選手権総合優勝などの輝かしい成績を収めた伝説のボディビルダーですが、2000年8月3日、ボディビルの世界選手権に参加するべく、脂肪を極限まで落とすために20kgの急な減量を行った結果、異常な低血糖状態となり、急性心不全を引き起こし死亡されました(享年39歳)。

亡くなる数日前にも北村は倒れて救急車で運ばれており、この時は処置が間に合い、一命を取り留めていたものの、
「めまいがしたら飴を舐めて。飴1個でいいから」
と心配して懇願する妹さんに対して
「僕は、そんなわずかなカロリーすら摂取したくないんだ」
と断るストイックぶりで拒絶し、その結果、壮絶な最期を遂げられました。

「『健康のためなら死んでもいい』とか言うけど、ホンマに死んだ奴、おらんやろ」
とか思っておられる皆さん、ホンマに
「健康のために死んだ人」
いるんでございますよ。

ちなみに、この
「健康のためなら死んでもいい」
の亜種として、
「平和が大好き。平和こそすべて。平和が好きで好きでたまらなく、寝ても覚めても平和のことを考え、行動し、また、平和実現のためにはあらゆる障害をものともせず積極的に行動する」
という方もいらっしゃいます。

そんな方々をみていると、
「平和のためなら、戦争も辞さない」
という勢いで過激な行動をされることもあるようです。

こちらも、方向性とバランスを著しく喪失しているような気がします。

「健康な人生」
の中身ですが、フィジカルな健康に加え、
「精神的健康」
を維持することも重要です。

「死ぬよりツラいのは、自分にウソをついて生きること」。

これはある映画で、性同一性障害の方がおっしゃった述懐です。

私は、幸いこの種の障害とは無縁ですが、言いたいことやお気持ちは何となく、わかります。

自分にウソをつかず、自分らしく生きることは、精神を健康に保つ上で絶対的に重要だと思います。

すなわち、
「精神を健康に保つ」
ということは、
「生きることそのもの」
だといえるのではないでしょうか。

精神的健康を害すると、体内に悪質なストレスがたまり、血がドロドロになって、代謝が不活発になり、3ヶ月に1歳年をとり、免疫が低下し、がん細胞が増殖し、美容・健康を害しはじめ、肌が荒れ、終には悪相になります。

政治家や犯罪者が、みな同じような顔をして、同じように不健康で、同じように良い死に方をしないのは、他人にも、家族にも、自分にも、ウソをついて、偽った人生を送っておられるからではないでしょうか。

いずれにせよ、美容と、肉体的健康と、精神的健康とを大事にすることは、
「楽しい人生を送る」
ためには、必須の要素となると思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.133-2、「ポリスマガジン」誌、2018年9月号(2018年8月20日発売)

00077_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」5_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅲ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その1:自由であること_20180920

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です。

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話したいと思います。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介いたします。

私の定義する
「楽しい人生」
としては、まず、その1として、
「自由であること」
が要素として必要です。

イヤなことを強制されたりせず、好き勝手でき、なにか自分のしたいことを邪魔されたり、ブツブツ文句を言われたりしない、というのが
「楽しい人生」
の重要な要素です。

懲役刑という刑罰は、
「自由」
という人間の根源的欲求を奪うものであり、自由が奪われることに対する圧倒的忌避感が刑罰の意義を構成し、社会秩序を支えています。

カタギとして娑婆で普通に生きていると、なかなか
「自由」
のありがたみが体感できませんが、このような逆説的な想像を行えば、自由の意義と価値と重要性は、皆さん、ご納得いただけるものと思います。

軍隊や、軍隊的秩序を有する組織、例えば、スポーツチームや宗教団体や企業や暴力団や暴走族や学校や趣味の集まりやPTA等も、多かれ少なかれ組織の構成員となることと引き換えに自由を奪われることになります。

無論、人と交わったり、人間関係が広がることにより得られるメリットや潤いも大きいですが、度を越せば、楽しい人生が送れなくなり、何のために生きているのかわからなくなります。

例えば、
「中央官庁にキャリア官僚として就職すること」
に多大なメリットを感じ、このメリットによって
「笑いが止まらない、シビれるくらい楽しい人生」
を送れる、と考える東大生等もいるようです。

しかしながら、中央官庁は、言わずとしれた、我が国最凶のブラック企業。

入省(入庁)と引き換えに、私生活の基盤が破壊されるくらい、忙しく、自由を喪失することになることはほぼ確実であり、私個人としては、
「官僚になったら、絶対、愉快な人生を送れない」
と判断し、
「官僚とか、マジ勘弁」
と結論づけています。

「どの程度の自由を売り渡して、収入を始めとする生活基盤や人間関係や各種安全保障を手に入れるか」
は、人それぞれですが、いずれにせよ、自由がある限界以上に喪失すれば、楽しい人生を送る基盤が破壊されるので、この
「トレードオフ」課題
は、就職や転職の際、真剣に考える必要があります。

ちなみに、私個人としての印象で言えば、
「この世でもっとも自由が奪われる営み」
は、
「出生から幼少期までの育児」
です。

世のお母様方は、本当に、大変なご苦労をされています。

「母になる」
という覚悟は、懲役5年の刑期で服役するくらいの厳しい意思決定です。

ときどき、育児放棄をしたり、挙げ句の果には、邪魔に感じて子供を殺してしまう方もいるようですが、おそらく、
「母になる」
という決意をする段階で、
「母になることの延長線上にある、育児活動に伴う、自由な生活基盤の根底的な破壊」
という過酷な未来を想像できなかったんだと思います。

まあ、われわれ男性としても、社会全体としても、もっともっと、この状況を理解し、支えていくべきでしょうね。

いずれにせよ、楽しい人生には自由が欠かせませんし、生活の糧を得たり、浮世の義理を果たすために、自由を放棄する場面では、
「どのくらいまで、不自由を容認するか」、
言葉を変えれば、
「人生をつまんなくするか」
を、具体的に考えながら、意思決定をすることが必要になります。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.133-1、「ポリスマガジン」誌、2018年9月号(2018年8月20日発売)

00076_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」4_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅱ)_太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の「公共事業」の無目的性といい加減さ_20180820

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前稿においては、
「人生」
という、
「この世のすべての方にとって最も重大で重要なプロジェクト」
についても、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

ここで、少し補足(というか、脱線)しておきたいと思います。

前稿では、
「太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の『公共事業』が遂行され、シビれるくらい無残に失敗した」
という歴史上の事実をご紹介し、この大失敗の原因として、
当該「公共事業」の目的があいまいだったからではないか、
という見解を披瀝しました。

太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の「公共事業」の目的については、
私は、調べても、何度聞いても、わからないのですが、これは、私(ちなみに、私は東京大学文科一類に現役合格しており、同試験に合格する程度において、相応の国語読解能力は具備しております)が相当アホなのか、
「語られている内容」か「語っている人間」のいずれかあるいは双方が混乱しているからなのか、
との推測を前提とし、私なりの愚見として、
「太平洋戦争という『公共事業』を遂行していた方々が、何のために、こんなリスキーなプロジェクトをしているのか、はっきりとした目的もわからず、相当混乱されていた状態で、事業を遂行していた可能性が高い」
との意見をご紹介しました。

ちなみに、私が敬愛する昭和天皇陛下は、どうやら、戦争が始まる前から、これと同じ見解に立ち、相当な危惧をお持ちであったようです。

記録には、開戦に先立つ1941年11月2日の御前会議で、東条英機氏との緊張あふれるやりとりが残されています。

東条英機氏とは、軍人で、太平洋戦争開戦当時の総理大臣、すなわち、
戦争という「公共事業」
をおっぱじめた実務の最高責任者。

ちなみに、お亡くなりになった、昭和のアイドル歌手の「西城秀樹」とは、まったく無関係です。

当時の御前会議(真珠湾攻撃の直前も直前。開戦前ギリギリの時期での会議です)において、

昭和天皇「(開戦の)大義名分ヲ如何ニ考フルヤ」
東条英機「目下研究中デアリマシテ、何レ奏上イタシマス」

という応答があったそうです。

これはひどい。

本当にひどい話です。

プロジェクトオーナーから
「近々開始する予定で、決裁を求めてる事業だけど、この事業の目的って、一体何? 何のためにこんな危険な大事業やるの?」
と聞かれて、プロジェクトの総責任者であるマネージャーが
「今、目的を研究しています。目的がわかれば、いずれ、報告します」
と平然とぬかしている状況。

こんなプロジェクト、始まる前から失敗すること、確定です。

おそらく、陛下も、
「お前ら、どうせ目的とかもはっきりしない、いい加減で、適当な考えで、ヤバい博打をするつもりだろ。目的をはっきり聞かせろ。答えられんだろうが」
という危惧感をもちながら、怒りと侮蔑をもって、あえて諮問されたのだと思います。

それを、ぬけぬけと
「目的は後から考えます。思いついたら、そのうち報告します」
という返答をするような舐め腐った態度自体、
太平洋戦争という「公共事業」
を遂行した実務責任者や幹部連中のいい加減さ、デタラメさを雄弁に物語っています。

私は、戦争犯罪や、これに伴う軍事裁判という茶番については、かなり疑問に思うところがありますが、
「戦争をおっぱじめた方々の、背信的なまでの愚かさ、いい加減さと、プロジェクトオーナーから指摘された本質的な疑義をはぐらかして恥じない、図々しさ、ふてぶてしさ」
は、もはや犯罪的なレベルです。

彼らの最期については、このような
「犯罪的な愚劣さと驕傲不遜さ」
について厳しい責任を負わされた、と考えれば、それはそれで止む得ない、と思うところです。

ちなみに、この東条英機氏(くどいようですが、昭和のアイドル歌手の西城秀樹さんとはまったく無関係の御仁です)の最期ですが、
「絶望的なまでに情けない小物」
にふさわしい結末でした。

東条英機氏は、1941年1月8日に陸軍大臣として、
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
という、誠に勇壮にしてご立派な訓令(陸訓一号)を示達されました。

戦国・江戸期には、元服(成人式)を迎えると武士の子は切腹の作法を教えられていたようでしたので、自決の方法は、昔であれば、兵士たるもの、10代の少年でもわきまえていたものです。

したがって、戦国・江戸期においては、自決という作法は
「大人の兵士たるもの、切腹如き、プロの兵士としての初歩の初歩であり、きちんとできないと、死ぬほど、いや死ぬ以上に恥ずかしい」
とされていたものです。

しかしながら、
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
という、誠に勇壮にしてご立派な訓令を他人に堂々と示達された、東条英機元陸軍大将閣下、敗戦直後、ピストル自殺を図りましたが、むちゃくちゃ鈍臭かったのか、覚悟が足りなかったのか、生への執着があったのか、よくわかりませんが、何と、自決に失敗しちゃいました(吉本新喜劇なら、全員コケるところです)。

ちなみに、同時期(敗戦直後)、やんごとなきお公家様ご出身の近衛文麿閣下は、壮絶なピストル自殺をなされ、見事な最期を遂げられました。

お公家様で、非戦派で、最期まで日米開戦を止める努力をされた平和主義者の近衛文麿閣下が、見事な最期を遂げながら、前述のように目的も明らかにしないまま無定見に戦争をおっぱじめた開戦当時の実務の最高責任者であり、日本国民に
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
などと命じていた張本人である東条英機元陸軍大将閣下が無様にも自決に失敗する、というのは本当に悪い冗談のような話です。

結局、
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
とのたまった東条英機氏、
「生きて虜囚」
となって、東京裁判に引っ張り出され、犯罪者として、首をくくられて殺され、
「辱めを受ける」
という
「口先だけの小物」
にふさわしい呆れ果てた最期でした。

「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
って、ったく、どの口が言う。

お前が言うなよ。

「昭和天皇陛下の、戦争や戦争を遂行している実務責任者に対する根源的な不信と懐疑、また、精一杯の皮肉と嫌味をもって、暴走する狂気の臣下を、知性でもって抑えようと努力なされた事実」
は、歴史上の記録が雄弁に物語っており、このエピソードから伺い知ることのできる陛下の知性とヒューマニズムに対しては、深い敬服の念を感じざるを得ません。

いずれにせよ、
「大きな事業、かけがえのない貴重な資源を投入して行う冒険的事業」
については、目的をはっきりさせることが重要である反面、
「事業に関わる人間の多くは愚劣であり、目的をはっきりさせないまま、ノリと勢いと直感とアツい気持ち、フワフワした高揚感だけで、プロジェクトをおっぱじめて、結果、無残に失敗する事例」
が今も昔も多く存在し、後を絶ちません。

ここまでの話を前提とすると、
「バッカだなあ。目的不明なまま、適当に何かをおっぱじめても失敗するに決まってんじゃん」
と思われるかもしれませんが、皆さんも、大丈夫ですか?

人生を送る、というプロジェクトは、
「『時間』という取り返しのつかない、かけがえのない貴重な資源」
を投入して行う、私たちにとって
「一世一代の大博打」
とも言える、しびれるくらい大事なプロジェクトです。

皆さん、人生の目的ははっきりしていますか?

目的から逆算した、無駄のない、意味のある、理にかなった、豊かで実りある人生を送っていますか?

「あなたの人生の目的は何? 何が楽しくて生きてるの? ちゃんと目的もって生きている? 意味や目的も推測できないようなこと、いろいろやってるようだけど、それって、全部、無駄で愚劣なことじゃない? なんで、そんな時間の浪費みたいなことやって、勝手に不安に陥って、落ち込んで、悩んじゃってんの? あなたの人生の目的を言ってごらん」
と問われて、
「目下研究中デアリマシテ、何レ奏上イタシマス」
なんて感じで、いい年こいて、いつまでも、痛々しく
「自分探し」
とかやっちゃっていませんか?

もしそうだったら、東条英機のこと、あまり批判できませんよね。

さて、かなり脱線してしまいましたが、人生の目的の設定、という課題対処に戻りましょう。

私個人としては、人生を送る上でも目的をはっきりさせるべきである、と考えており、自分なりに、しっかりとした目的を設定しています。

私の人生においては、
「人生を楽しむこと」
が生きる目的です。

では、もう少し具体的にお話をすすめましょう。

「人生を楽しむこと」
が生きる目的であるとして、次に、
「『楽しい人生』とはなんぞや? その定義はどうなっているんだ?」
という話に至ります。

無論、生きる目的は、人それぞれで、いろいろ異論はあるかもしれません。

そこで、次稿以降において、東大卒の知性と教養と思考力(無論、たいしたものではありませんが)をフル回転して、たどり着いた、普遍的でみなさんにも納得できるような形で、整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義をご紹介したいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.132、「ポリスマガジン」誌、2018年8月号(2018年7月20日発売)

00075_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」3_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅰ)_人生を送る上でも、目的をはっきりさせるべし_20180720

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前稿においては、
「常識」
の多義性、曖昧さをお伝えしつつ、
「常識」
に漫然と従う危険性と、
「常識」
はわきまえつつ、盲目的に従うことなく、
「美意識と哲学をもって決断し、行動すべし」
ということをお話しました。

本稿では、物事の目的を明確にすることの重要性をお話します。

こういう言い方をすると、
「そんなの、あったりまえだし、わかってるよ。何、つまんないこと言っているの?」
というツッコミが入りそうですが、目的を明確にして、目的から逆算して、最大の効果を達成するために最小限の犠牲を考えながら行動している方は、あまりお見かけしません。

といいますか、日本人のほとんどの方々は、あまり目的を意識せず、同調圧力や常識に従いながら、周りを見ながら、波風立てず、退屈で陳腐な人生を送っているのではないでしょうか。

このことは、企業や国家という組織においても同様です。

今から70数年前、日本は、太平洋戦争という、日本史上最大かつ空前の
「公共事業」
を遂行しました。

この
「公共事業」
がシビしびれるくらい無残に失敗したのは、歴史上の事実として、皆様ご存じかと思います。

この失敗の原因ですが、これは、
この日本史上最大かつ空前の「公共事業」
の目的があいまいだったからではないか、と推察します。

「大東亜共栄圏」
とか
「鬼畜米英」
とか
「八紘一宇」
とかが、目的を推察するためのキーワードとして掲げられますが、私には何のこっちゃわかりませんし、いまだに意味不明です。

ちなみに申しますと、私は東大文一(正式には、東京大学教養学部文科一類)に現役で合格しています。

そこそこ難しい試験(少し謙遜が入っています)を一発でパスしました。

まあ、そこらへんの方々より、ほんの少しだけ高い国語読解能力(少し謙遜が入っています)をもっている、と勝手に思ってはいます。

そんな私が、
太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の「公共事業」の目的
については、調べても、何度聞いても、わからない。

それは、
私がアホなのか、
「語られている内容」か「語っている人間」のいずれかあるいは双方が混乱しているからなのか、
どちらかではないか、
と、高度の蓋然性をもって推測されるところです。

たしかに、私は、さほど賢くありませんが(少し謙遜が入っています)、かといって、
「スゲー、アホ」
というわけでもありませんので、
「世の中の概念等で、自分が聞いて理解できない内容」
に触れた場合、
「『理解できない私がアホ』という蓋然性は乏しく、『(私が理解できない話に接した場合)話している奴がアホか、話している内容がアホか、その双方の可能性が高い』」
と合理的に推測してジャッジしながら、生きてきました。

50年近く、この偏見・決めつけで生きてきましたが、このジャッジが狂ったことはほとんどありません。

話はそれましたが、
太平洋戦争という「公共事業」の目的
とされた、
「大東亜共栄圏?」
「鬼畜米英?」
「八紘一宇?」
ってやっぱり、まるで意味不明です。

大東亜共栄圏を作り上げるためにアジア各国に進出した、といわれていますが、
「隣の家の住人と仲良くしたいので、凶器をもって、押し入って、居座りました」
ってことですよね、やっぱり意味わかりません。

東大文一に現役合格した人間の国語読解能力を駆使しても理解できないって、相当混乱した内容です。

目的が不明確、目的とやっていることが違う、あるいはチグハグ。

こんなプロジェクト、失敗するに決まっています。

で、やっぱり、失敗しましたよね。

原因として考えられるのは、昔の日本人は、知的ではなかったのではないでしょうか。

少なくとも、私個人の感想ないし印象としては、知性や教養や思考能力がかなりひどいレベルだったのではなかろうかと思います。

そりゃ、大変な苦労はされたと思いますし、大変な目に遭われたことは否定しません。

ですが、それは、よくわからない目的のため、目的合理性もなく(といいますか、目的自体が狂っていたのですから、目的合理性も何もあったものではありませんが)、ただただ、時間と労力とカネと生命という貴重な資源を無益に費消した挙句、無残な失敗で死に体になった、というのが実体だと思うのです。

私個人に関しては、人生を送る上でも、目的をはっきりさせています。

「人生を楽しむこと」
が、私の人生においては、生きる目的です。

生きていく上での活動や行動は、すべからく、
「人生を楽しむこと」
「楽しい人生を送ること」
のための手段であり、各種活動や行動の選択においては、
「人生を楽しむ」
ために有益かどうかだけで判断します。

お金を稼ぐのは、
「人生を楽しむ」
ための手段。

「お金を稼ぐために、つまらない人生を送る」
なんて、本末転倒もいいところです。

仕事をしたり、新しいことを学ぶのも、
「人生を楽しむ」
ための手段です。

どんなにお金がもらえたり、褒められても、
「つまんない仕事をしたり、つまんない勉強をさせられた挙句、貴重な時間を浪費する」
なんて、本末転倒です。

では、どんな人生が、楽しい人生といえるのでしょうか?

この点については、いろいろ議論があり得るところですが、東大卒の知性と教養と思考力をフル回転して、たどり着いた、普遍的でみなさんにも納得できるような形で、整理した定義がございますが、紙幅の関係で、本稿ではこのあたりとし、続きは、次稿以降で述べて参りたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.131、「ポリスマガジン」誌、2018年7月号(2018年6月20日発売)

00074_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」2_(3)正しい「非常識」の具体例いくつか_20180620

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前稿においては、
「常識」
とは
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
であり、教育という一種の
「常識」洗脳
の結果、脳内に汚染された常識や良識にしたがってもいいことは1つもありません、というお話をしました。

では、世知辛い世の中を渡っていくために理解しておくべき
「正しい『非常識』」
とは、具体的どのような認識や解釈なのでしょうか。

本稿においては、その具体例をいくつか列挙しておきます。

なお、これらの
「正しい『非常識』」
は、私が有しているものではなく、又、身につけることを推奨するものでもありませんが、
「過酷な資本主義社会のプレーヤーには身につけ実践している方が多く、その方々は、競争の勝者となっているという現実を理解すべきである」
という逆説的な趣旨で紹介します。

1 法律に書いていないことは、すべてやっていいこと

2 民主主義の基本は、「大多数の地味な素人」が、「声のデカイ、目立ちたがり屋の素人」を選んで、後者に法律を作らせる、という、ある意味無茶苦茶な制度。
「声のデカイ、目立ちたがり屋の素人」が作った法律には間違ったものが相当あるので、全部、馬鹿正直に守っていたら、人生バカをみる。
そんなもの、ときには軽視していいし、人生、大事なことを決めるときには、自分の美意識や哲学に従った方がいい。
ただ、法律やルールを墨守する必要はないが、軽視するときは、それなりのリスクを伴うことを意識して、賢く軽視すべき

3 自分に都合の悪いことや疚しいことはすべて忘れてしまうか、うやむやにしてやり過ごす。
露見しなければ、法制度上、やがて時効が完成し、なかったことになる

4 痕跡や証拠がなければ、どんなに不適切な行為を行っても、わざわざ自分から言い出さない限り、責められることはない

5 人間は、決して法律は守れない。生きている限り、皆、法律や約束を破らざるを得ない

6 相手の無知は利用していい。
利害の対立する相手に、わざわざ、自分が不利になることを教えてやる必要はない。
美しい誤解はそのままにしておいていい

7 ダマす人間は良くない。
他方で、欲得にかられてダマされる被害者も悪い。
欲に目がくらんでダマされた人間が世間に訴えても、誰も、指一本動かさないし、相手にしない

8 裁判所の擁護する価値は、自己責任、自業自得、因果応報であり、責任追及する被害者に過酷なまでの手続負担を課し、「やられたらやられ損」「加害者を助け、被害者を挫く」を過酷までに徹する。
痕跡を残さず、露見せず、追及されることがなく、時効完成を迎えた悪事は、世の中に相当数はびこっているが、それが逐一問題にされたり責任追及されることはない

9 経済社会において、「誠実」とは「近い将来における破産」を、「露見するウソ」とは「将来における破産」を意味する。
企業が継続的に発展する事業を展開するためには、すぐバレるようなウソをつかず、かといって、馬鹿正直になってもいけない

10 客商売とは、すぐバレるようなウソつきでもなく、かといって、馬鹿正直でもない、「絶妙なウソ」を、真顔で、絶妙につくこと。
すなわち、「感情に左右される限定合理性しかもたない大衆が勝手に誤解してくれるような『美しい誤解のタネ』を散りばめた、何もしなくても勝手に消費者に気に入られ売れていく商品・サービス」を創りだすことがコンシューマービジネスの基本。
若者や子どもに人気を博する商売は、いずれもこの基本を忠実に守って、成功を収めている

11 他方、商売でもっとも難しいのは、子ども(や子どものような無知で無垢で善良で純粋な大人を含む)をダマして気に入られること。
子どもは、理屈を受け容れないし、好き嫌いで判断するし、絶対に我慢などしない。
ただ、一度でも気に入ると、行列を作って何時間でも立ったまま待ちつづけ、くだらないガラクタに対して、いくらでもカネをつぎ込んで、延々と買い続けてくれる

以上は、ほんの一例に過ぎません。

我々が帰属する自由主義社会の大前提は、
「法律に明確に書いていない限りどんなことでもやりたい放題」
というものです。

すなわち、法律が形式的に存在していて、仮にこれに抵触しても、即座に責任を追及して追い回され、社会から放逐される、ということとはイコールではありません。

たまに、
「証拠や痕跡を明確な形で残してしまい、当局やマスコミを無駄に挑発し、弁解や抗弁に失敗し、公式に非難・責任追及されてしまう」
などというドン臭い状況に陥る方もいますが、そんな下手を打たない限り、何をやっても自由であり、滅多なことでは非難されたり、社会から放逐されたりしません。

金持ちや政治家で、お金に余裕があっても、国民年金を払っていない人間が多い、と聞きます。

問題となったのは2004年ごろですが、小泉内閣所属の大臣では、F田康夫(官房長官)、T中平蔵(金融経済担当相)、T垣禎一(財務相)、M木敏充(沖縄北方担当相)、その後の麻生内閣では、N川昭一(経済産業相)、A生太郎(総務相)、I破茂(防衛庁長官)が国民年金を払っていなかった、と報道されました。

なぜ、払わなかったのか?

「国民年金制度が、日本最大の投資詐欺のねずみ講である」
ということをわかっていたからではないでしょうか?(法律を制定するという役目を担う政治家を志す方が法律を無視するわけはなく、また、前記の方々はいずれも財政的・財産的に相応の豊かさをおもちであり、国民年金を支払わなかったのは、当該年金制度に対する強い忌避感が表れたことによるものとしか推測できません)

一般にマルチや投資詐欺は犯罪、とされます。

投資運用はまったくしないか、やるとしてもお座なりにしかせず、基本的な構造としては、新しく参加した人間が拠出したカネを、ねずみ講の古参の参加者に配る。

当然ながら、新しく参加する人間が減ると、ねずみ講は破綻します。

積立方式(若い現役時代に払い込んだ金を積み立て、老後にそのお金を受け取る仕組み)ではなく、賦課方式(働く現在現役の人が払い込んだ金を現在の高齢者に支給する)を採用する我が国の国民年金制度は、要するに、これと同じで、ねずみ講の本質をもちながら、この本質を伝えず、運営しています。

年金制度が破綻するのは、その本質や投資詐欺的な構造にあり、ある意味必然です。

この程度のことは、たいていの上流階級の人間は知っています。

だからこそ、知っている人間は、ありあまるカネがあっても、破綻する危険のある詐欺マルチに加入したくないので、払うことを忌避したのだ、と推測されます。

知らないのは、マジョリティの皆さんだけですし、また、知っていても国民年金を支払い続けてしまうのは、私のような、
「度胸のない小心者」
だけです。

国民年金は、マルチやネズミ講の構造を内包していても、国家が公認している合法的なものであり、しかも、支払を忌避することは犯罪とされます。

堂々と支払いを忌避しても、罪に問われないのは、前述のような政治家くらいで、そんじょそこらのマジョリティが支払いを忌避すると、何をされるかわかりません。

無論、
「度胸のない小心者」
の私は、構造を解明したり矛盾を指摘することはしますが、決して、不払いを推奨するものではありません。

いずれにせよ、知らずに態度決定するのは実に愚かなことであり、本質を理解することは意義ある人生を送る上で重要です。

フランシス・ベーコンの言ったとおり、まさに
「知は力」
なのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.130、「ポリスマガジン」誌、2018年6月号(2018年5月20日発売)

00073_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」2_(2)常識や良識にしたがっても何一ついいことはない_20180520

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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そもそも、
「常識」
とは何でしょうか?

「常識」
とは、
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
を指します。

これは、20世紀の天才科学者、アインシュタインの言葉ですが、私も至極納得します。

次に、教育とは何なんでしょうか?

教育の本質は、
「頭脳が未発達で、知性が乏しい、知的水準が未熟な者へ、偏見を植え付けるための『洗脳』」
である、という見方も可能です。

教育とは、社会に適合するためのOS(オペレーション・システム、基本挙動)をダウンロード。

こういう観察をすると、本質がよりクリアにみえてきます。

当該ソフトの是非や有効性は別の問題です。

ダウンロードは、格納先に複製ソフトを移植し、基本挙動を統一させるためのものです。

そのソフトが狂っていたり、間違っていたり、方向性がズレていたら、大変なことになります。

どんなに計算機能が高く、記憶領域の大きなコンピューターであっても、OSがダメであれば、まったく使いものになりません。

コンピューターに間違ったOSをダウンロードしてしまったら、一度、初期化するなりソフトを削除するなりして、正しいOSを入れ直せばいいのでしょうが、人間の場合、間違った教育を受けた人間をロボトミー手術したり…というのは、人権問題を生じかねません。

ですから、教育を受けるのは結構ですが、教育を受ける前に、
「教育」
という名のもとに一体どんな
「洗脳」
が行われているのか、ということをきちんと考えておく必要があります。

そして、
「洗脳」
には、
いい洗脳と悪い洗脳
があります。

ソフトウェアに、機敏で効率的な挙動をするよいソフトと、無駄にリソースを食うばかりで非効率でエラーばかり撒き散らす廃棄物のようなソフトがあるように。

「学ぶ」

「真似ぶ」
から転じたといわれますが、教育の本質をよく表しています。

正しい洗脳、もとい、正しい教育というのは、模範とする人物をベンチマークとして、思考や言葉やビヘイビア、さらには仕草や呼吸の仕方に至るまで、徹底的にコピーすることがその本質です。

「謦咳に接する」
という言葉がありますが、
「間近で咳払いを聞けるだけで幸せであるという意味から、尊敬する人と直接会ったり、話を聞く」
という教育のあるべき姿を表現しています。

自分が目指すスーパースターの近くにいて、咳やくしゃみがかかるところまで接近して濃厚接触し、非認知的能力のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学べ、ということです。

では、一流のビジネスオーナーやビジネスマネージャーを目指す方にとって、正しい洗脳、もとい、正しい教育を受ける環境が存在するでしょうか。

無論、洗脳をしてくださる方、もとい、教えてくださる方が、模倣の対象として憧憬し、敬愛する方であれば問題ありません。

例えば、ビジネスの世界で成功を目指す人にとっては、ビジネス界のトップスター、グーグルやアップルやアマゾンを立ち上げたような方であれば、いいでしょう。

ところが、実際はどうでしょう。

教育現場にいらっしゃる方々、あるいは、皆さんの親御さんとして、皆さんに
「常識」
という名の
「偏見のコレクション」

「洗脳」
いただける方々は、資産も収入もイマイチで、いってみれば、
「経済社会、資本主義社会の弱者(あくまで、経済社会の、という意味です。教育の世界や、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
ではありませんか?

そんな
「弱者(あくまで、『経済社会、資本主義社会の』という意味であり、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
に甘んじている方々から、
「教育」
という名の
「弱者の皆さまが有しておられる偏見のコレクションの洗脳」
を受けた瞬間、自分も
「弱者(前記参照)」
クラス行き、ほぼ確定です。

とはいえ、その種の陳腐でつまんない
「教育」
の価値を頭ごなしに否定し、校舎のガラスを叩き割り、盗んだバイクで走り出し、ラリって死んでしまっては、元も子もありませんので、悪い意味での
「大人」な対応
が必要です。

私自身に関して言えば、
「洗脳」
を受けたふりをしつつ、ココロの奥底では、しょうもないマジョリティの連中の
「偏見」
をおもいっきりディすりながら、
一般的な「常識」
という思想上の害毒による洗脳を拒否し、
「美意識」と「哲学」
という自分なりの非常識を身につけ、生きることが、
「刺激あふれる経済社会、資本主義社会を、自由かつ、愉快かつに泳ぎ渡り、笑いが止まらない、楽しい人生」
を歩むために必要ではないか、と小さい頃から思っていました。

親から
「ったく、お前はホニャララ団の弁護士みたいな減らず口を叩くなぁ」
と言われた
「インテリヤクザのような少年」
でしたから、学業成績という
「テクニカル・エレメント(技術・能力評点)」
においてはこそオール5だったものの、態度や姿勢といった
「アーティスティック・インプレッション(芸術的印象評点)」
はことごとく最悪・最低の評価がつく、特異な成績を拝領してきました。

人生、
「常識」
で決めたら失敗します。

「常識」
という
「マジョリティの有する、成功には有益とは言い難い『偏見』」
をOSとして移植したら、終わるに決まってます。

「常識」
はいろいろです。

「自分が憧れ、敬う、真似ぶべき存在の常識」
であれば意欲的に取り入れるべきですが、それと真逆の人間の雑音など、一切無視していいでしょう。

大きなカネや大きな権利・財産がからむときには、関係者の理性や思惑など、欲望の前に簡単に吹き飛びます。

大きな決定をする際、どんな人間、どんな前提、どんな
「常識」
も疑ってかかるべきです。

その意味では、大事な局面、重要な事柄、人生の岐路において、使うべきモノサシは、
「弱者」
のそれではなく、
「自分が目指すべき人間ならどういうジャッジをするべきか」
という思考の模倣です。

成功したいなら、小さい頃から、マジョリティの雑音を排除し、模倣すべき思考や価値観を選り抜き、これを純化・強靭化していくべきです。

間違っても、
「経済社会、資本主義社会の弱者に甘んじている方々」

「成功には有益とは言い難いバイアスのコレクション」
を盲信して
「成功して、強く、富裕なマイノリティに至るための最短ルート」
を踏み外さないようにすべきでしょう。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.129、「ポリスマガジン」誌、2018年5月号(2018年4月20日発売)