00075_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」3_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅰ)_人生を送る上でも、目的をはっきりさせるべし_20180720

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前稿においては、
「常識」
の多義性、曖昧さをお伝えしつつ、
「常識」
に漫然と従う危険性と、
「常識」
はわきまえつつ、盲目的に従うことなく、
「美意識と哲学をもって決断し、行動すべし」
ということをお話しました。

本稿では、物事の目的を明確にすることの重要性をお話します。

こういう言い方をすると、
「そんなの、あったりまえだし、わかってるよ。何、つまんないこと言っているの?」
というツッコミが入りそうですが、目的を明確にして、目的から逆算して、最大の効果を達成するために最小限の犠牲を考えながら行動している方は、あまりお見かけしません。

といいますか、日本人のほとんどの方々は、あまり目的を意識せず、同調圧力や常識に従いながら、周りを見ながら、波風立てず、退屈で陳腐な人生を送っているのではないでしょうか。

このことは、企業や国家という組織においても同様です。

今から70数年前、日本は、太平洋戦争という、日本史上最大かつ空前の
「公共事業」
を遂行しました。

この
「公共事業」
がシビしびれるくらい無残に失敗したのは、歴史上の事実として、皆様ご存じかと思います。

この失敗の原因ですが、これは、
この日本史上最大かつ空前の「公共事業」
の目的があいまいだったからではないか、と推察します。

「大東亜共栄圏」
とか
「鬼畜米英」
とか
「八紘一宇」
とかが、目的を推察するためのキーワードとして掲げられますが、私には何のこっちゃわかりませんし、いまだに意味不明です。

ちなみに申しますと、私は東大文一(正式には、東京大学教養学部文科一類)に現役で合格しています。

そこそこ難しい試験(少し謙遜が入っています)を一発でパスしました。

まあ、そこらへんの方々より、ほんの少しだけ高い国語読解能力(少し謙遜が入っています)をもっている、と勝手に思ってはいます。

そんな私が、
太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の「公共事業」の目的
については、調べても、何度聞いても、わからない。

それは、
私がアホなのか、
「語られている内容」か「語っている人間」のいずれかあるいは双方が混乱しているからなのか、
どちらかではないか、
と、高度の蓋然性をもって推測されるところです。

たしかに、私は、さほど賢くありませんが(少し謙遜が入っています)、かといって、
「スゲー、アホ」
というわけでもありませんので、
「世の中の概念等で、自分が聞いて理解できない内容」
に触れた場合、
「『理解できない私がアホ』という蓋然性は乏しく、『(私が理解できない話に接した場合)話している奴がアホか、話している内容がアホか、その双方の可能性が高い』」
と合理的に推測してジャッジしながら、生きてきました。

50年近く、この偏見・決めつけで生きてきましたが、このジャッジが狂ったことはほとんどありません。

話はそれましたが、
太平洋戦争という「公共事業」の目的
とされた、
「大東亜共栄圏?」
「鬼畜米英?」
「八紘一宇?」
ってやっぱり、まるで意味不明です。

大東亜共栄圏を作り上げるためにアジア各国に進出した、といわれていますが、
「隣の家の住人と仲良くしたいので、凶器をもって、押し入って、居座りました」
ってことですよね、やっぱり意味わかりません。

東大文一に現役合格した人間の国語読解能力を駆使しても理解できないって、相当混乱した内容です。

目的が不明確、目的とやっていることが違う、あるいはチグハグ。

こんなプロジェクト、失敗するに決まっています。

で、やっぱり、失敗しましたよね。

原因として考えられるのは、昔の日本人は、知的ではなかったのではないでしょうか。

少なくとも、私個人の感想ないし印象としては、知性や教養や思考能力がかなりひどいレベルだったのではなかろうかと思います。

そりゃ、大変な苦労はされたと思いますし、大変な目に遭われたことは否定しません。

ですが、それは、よくわからない目的のため、目的合理性もなく(といいますか、目的自体が狂っていたのですから、目的合理性も何もあったものではありませんが)、ただただ、時間と労力とカネと生命という貴重な資源を無益に費消した挙句、無残な失敗で死に体になった、というのが実体だと思うのです。

私個人に関しては、人生を送る上でも、目的をはっきりさせています。

「人生を楽しむこと」
が、私の人生においては、生きる目的です。

生きていく上での活動や行動は、すべからく、
「人生を楽しむこと」
「楽しい人生を送ること」
のための手段であり、各種活動や行動の選択においては、
「人生を楽しむ」
ために有益かどうかだけで判断します。

お金を稼ぐのは、
「人生を楽しむ」
ための手段。

「お金を稼ぐために、つまらない人生を送る」
なんて、本末転倒もいいところです。

仕事をしたり、新しいことを学ぶのも、
「人生を楽しむ」
ための手段です。

どんなにお金がもらえたり、褒められても、
「つまんない仕事をしたり、つまんない勉強をさせられた挙句、貴重な時間を浪費する」
なんて、本末転倒です。

では、どんな人生が、楽しい人生といえるのでしょうか?

この点については、いろいろ議論があり得るところですが、東大卒の知性と教養と思考力をフル回転して、たどり着いた、普遍的でみなさんにも納得できるような形で、整理した定義がございますが、紙幅の関係で、本稿ではこのあたりとし、続きは、次稿以降で述べて参りたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.131、「ポリスマガジン」誌、2018年7月号(2018年6月20日発売)

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