00074_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」2_(3)正しい「非常識」の具体例いくつか_20180620

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前稿においては、
「常識」
とは
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
であり、教育という一種の
「常識」洗脳
の結果、脳内に汚染された常識や良識にしたがってもいいことは1つもありません、というお話をしました。

では、世知辛い世の中を渡っていくために理解しておくべき
「正しい『非常識』」
とは、具体的どのような認識や解釈なのでしょうか。

本稿においては、その具体例をいくつか列挙しておきます。

なお、これらの
「正しい『非常識』」
は、私が有しているものではなく、又、身につけることを推奨するものでもありませんが、
「過酷な資本主義社会のプレーヤーには身につけ実践している方が多く、その方々は、競争の勝者となっているという現実を理解すべきである」
という逆説的な趣旨で紹介します。

1 法律に書いていないことは、すべてやっていいこと

2 民主主義の基本は、「大多数の地味な素人」が、「声のデカイ、目立ちたがり屋の素人」を選んで、後者に法律を作らせる、という、ある意味無茶苦茶な制度。
「声のデカイ、目立ちたがり屋の素人」が作った法律には間違ったものが相当あるので、全部、馬鹿正直に守っていたら、人生バカをみる。
そんなもの、ときには軽視していいし、人生、大事なことを決めるときには、自分の美意識や哲学に従った方がいい。
ただ、法律やルールを墨守する必要はないが、軽視するときは、それなりのリスクを伴うことを意識して、賢く軽視すべき

3 自分に都合の悪いことや疚しいことはすべて忘れてしまうか、うやむやにしてやり過ごす。
露見しなければ、法制度上、やがて時効が完成し、なかったことになる

4 痕跡や証拠がなければ、どんなに不適切な行為を行っても、わざわざ自分から言い出さない限り、責められることはない

5 人間は、決して法律は守れない。生きている限り、皆、法律や約束を破らざるを得ない

6 相手の無知は利用していい。
利害の対立する相手に、わざわざ、自分が不利になることを教えてやる必要はない。
美しい誤解はそのままにしておいていい

7 ダマす人間は良くない。
他方で、欲得にかられてダマされる被害者も悪い。
欲に目がくらんでダマされた人間が世間に訴えても、誰も、指一本動かさないし、相手にしない

8 裁判所の擁護する価値は、自己責任、自業自得、因果応報であり、責任追及する被害者に過酷なまでの手続負担を課し、「やられたらやられ損」「加害者を助け、被害者を挫く」を過酷までに徹する。
痕跡を残さず、露見せず、追及されることがなく、時効完成を迎えた悪事は、世の中に相当数はびこっているが、それが逐一問題にされたり責任追及されることはない

9 経済社会において、「誠実」とは「近い将来における破産」を、「露見するウソ」とは「将来における破産」を意味する。
企業が継続的に発展する事業を展開するためには、すぐバレるようなウソをつかず、かといって、馬鹿正直になってもいけない

10 客商売とは、すぐバレるようなウソつきでもなく、かといって、馬鹿正直でもない、「絶妙なウソ」を、真顔で、絶妙につくこと。
すなわち、「感情に左右される限定合理性しかもたない大衆が勝手に誤解してくれるような『美しい誤解のタネ』を散りばめた、何もしなくても勝手に消費者に気に入られ売れていく商品・サービス」を創りだすことがコンシューマービジネスの基本。
若者や子どもに人気を博する商売は、いずれもこの基本を忠実に守って、成功を収めている

11 他方、商売でもっとも難しいのは、子ども(や子どものような無知で無垢で善良で純粋な大人を含む)をダマして気に入られること。
子どもは、理屈を受け容れないし、好き嫌いで判断するし、絶対に我慢などしない。
ただ、一度でも気に入ると、行列を作って何時間でも立ったまま待ちつづけ、くだらないガラクタに対して、いくらでもカネをつぎ込んで、延々と買い続けてくれる

以上は、ほんの一例に過ぎません。

我々が帰属する自由主義社会の大前提は、
「法律に明確に書いていない限りどんなことでもやりたい放題」
というものです。

すなわち、法律が形式的に存在していて、仮にこれに抵触しても、即座に責任を追及して追い回され、社会から放逐される、ということとはイコールではありません。

たまに、
「証拠や痕跡を明確な形で残してしまい、当局やマスコミを無駄に挑発し、弁解や抗弁に失敗し、公式に非難・責任追及されてしまう」
などというドン臭い状況に陥る方もいますが、そんな下手を打たない限り、何をやっても自由であり、滅多なことでは非難されたり、社会から放逐されたりしません。

金持ちや政治家で、お金に余裕があっても、国民年金を払っていない人間が多い、と聞きます。

問題となったのは2004年ごろですが、小泉内閣所属の大臣では、F田康夫(官房長官)、T中平蔵(金融経済担当相)、T垣禎一(財務相)、M木敏充(沖縄北方担当相)、その後の麻生内閣では、N川昭一(経済産業相)、A生太郎(総務相)、I破茂(防衛庁長官)が国民年金を払っていなかった、と報道されました。

なぜ、払わなかったのか?

「国民年金制度が、日本最大の投資詐欺のねずみ講である」
ということをわかっていたからではないでしょうか?(法律を制定するという役目を担う政治家を志す方が法律を無視するわけはなく、また、前記の方々はいずれも財政的・財産的に相応の豊かさをおもちであり、国民年金を支払わなかったのは、当該年金制度に対する強い忌避感が表れたことによるものとしか推測できません)

一般にマルチや投資詐欺は犯罪、とされます。

投資運用はまったくしないか、やるとしてもお座なりにしかせず、基本的な構造としては、新しく参加した人間が拠出したカネを、ねずみ講の古参の参加者に配る。

当然ながら、新しく参加する人間が減ると、ねずみ講は破綻します。

積立方式(若い現役時代に払い込んだ金を積み立て、老後にそのお金を受け取る仕組み)ではなく、賦課方式(働く現在現役の人が払い込んだ金を現在の高齢者に支給する)を採用する我が国の国民年金制度は、要するに、これと同じで、ねずみ講の本質をもちながら、この本質を伝えず、運営しています。

年金制度が破綻するのは、その本質や投資詐欺的な構造にあり、ある意味必然です。

この程度のことは、たいていの上流階級の人間は知っています。

だからこそ、知っている人間は、ありあまるカネがあっても、破綻する危険のある詐欺マルチに加入したくないので、払うことを忌避したのだ、と推測されます。

知らないのは、マジョリティの皆さんだけですし、また、知っていても国民年金を支払い続けてしまうのは、私のような、
「度胸のない小心者」
だけです。

国民年金は、マルチやネズミ講の構造を内包していても、国家が公認している合法的なものであり、しかも、支払を忌避することは犯罪とされます。

堂々と支払いを忌避しても、罪に問われないのは、前述のような政治家くらいで、そんじょそこらのマジョリティが支払いを忌避すると、何をされるかわかりません。

無論、
「度胸のない小心者」
の私は、構造を解明したり矛盾を指摘することはしますが、決して、不払いを推奨するものではありません。

いずれにせよ、知らずに態度決定するのは実に愚かなことであり、本質を理解することは意義ある人生を送る上で重要です。

フランシス・ベーコンの言ったとおり、まさに
「知は力」
なのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.130、「ポリスマガジン」誌、2018年6月号(2018年5月20日発売)

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