00073_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」2_(2)常識や良識にしたがっても何一ついいことはない_20180520

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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そもそも、
「常識」
とは何でしょうか?

「常識」
とは、
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
を指します。

これは、20世紀の天才科学者、アインシュタインの言葉ですが、私も至極納得します。

次に、教育とは何なんでしょうか?

教育の本質は、
「頭脳が未発達で、知性が乏しい、知的水準が未熟な者へ、偏見を植え付けるための『洗脳』」
である、という見方も可能です。

教育とは、社会に適合するためのOS(オペレーション・システム、基本挙動)をダウンロード。

こういう観察をすると、本質がよりクリアにみえてきます。

当該ソフトの是非や有効性は別の問題です。

ダウンロードは、格納先に複製ソフトを移植し、基本挙動を統一させるためのものです。

そのソフトが狂っていたり、間違っていたり、方向性がズレていたら、大変なことになります。

どんなに計算機能が高く、記憶領域の大きなコンピューターであっても、OSがダメであれば、まったく使いものになりません。

コンピューターに間違ったOSをダウンロードしてしまったら、一度、初期化するなりソフトを削除するなりして、正しいOSを入れ直せばいいのでしょうが、人間の場合、間違った教育を受けた人間をロボトミー手術したり…というのは、人権問題を生じかねません。

ですから、教育を受けるのは結構ですが、教育を受ける前に、
「教育」
という名のもとに一体どんな
「洗脳」
が行われているのか、ということをきちんと考えておく必要があります。

そして、
「洗脳」
には、
いい洗脳と悪い洗脳
があります。

ソフトウェアに、機敏で効率的な挙動をするよいソフトと、無駄にリソースを食うばかりで非効率でエラーばかり撒き散らす廃棄物のようなソフトがあるように。

「学ぶ」

「真似ぶ」
から転じたといわれますが、教育の本質をよく表しています。

正しい洗脳、もとい、正しい教育というのは、模範とする人物をベンチマークとして、思考や言葉やビヘイビア、さらには仕草や呼吸の仕方に至るまで、徹底的にコピーすることがその本質です。

「謦咳に接する」
という言葉がありますが、
「間近で咳払いを聞けるだけで幸せであるという意味から、尊敬する人と直接会ったり、話を聞く」
という教育のあるべき姿を表現しています。

自分が目指すスーパースターの近くにいて、咳やくしゃみがかかるところまで接近して濃厚接触し、非認知的能力のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学べ、ということです。

では、一流のビジネスオーナーやビジネスマネージャーを目指す方にとって、正しい洗脳、もとい、正しい教育を受ける環境が存在するでしょうか。

無論、洗脳をしてくださる方、もとい、教えてくださる方が、模倣の対象として憧憬し、敬愛する方であれば問題ありません。

例えば、ビジネスの世界で成功を目指す人にとっては、ビジネス界のトップスター、グーグルやアップルやアマゾンを立ち上げたような方であれば、いいでしょう。

ところが、実際はどうでしょう。

教育現場にいらっしゃる方々、あるいは、皆さんの親御さんとして、皆さんに
「常識」
という名の
「偏見のコレクション」

「洗脳」
いただける方々は、資産も収入もイマイチで、いってみれば、
「経済社会、資本主義社会の弱者(あくまで、経済社会の、という意味です。教育の世界や、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
ではありませんか?

そんな
「弱者(あくまで、『経済社会、資本主義社会の』という意味であり、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
に甘んじている方々から、
「教育」
という名の
「弱者の皆さまが有しておられる偏見のコレクションの洗脳」
を受けた瞬間、自分も
「弱者(前記参照)」
クラス行き、ほぼ確定です。

とはいえ、その種の陳腐でつまんない
「教育」
の価値を頭ごなしに否定し、校舎のガラスを叩き割り、盗んだバイクで走り出し、ラリって死んでしまっては、元も子もありませんので、悪い意味での
「大人」な対応
が必要です。

私自身に関して言えば、
「洗脳」
を受けたふりをしつつ、ココロの奥底では、しょうもないマジョリティの連中の
「偏見」
をおもいっきりディすりながら、
一般的な「常識」
という思想上の害毒による洗脳を拒否し、
「美意識」と「哲学」
という自分なりの非常識を身につけ、生きることが、
「刺激あふれる経済社会、資本主義社会を、自由かつ、愉快かつに泳ぎ渡り、笑いが止まらない、楽しい人生」
を歩むために必要ではないか、と小さい頃から思っていました。

親から
「ったく、お前はホニャララ団の弁護士みたいな減らず口を叩くなぁ」
と言われた
「インテリヤクザのような少年」
でしたから、学業成績という
「テクニカル・エレメント(技術・能力評点)」
においてはこそオール5だったものの、態度や姿勢といった
「アーティスティック・インプレッション(芸術的印象評点)」
はことごとく最悪・最低の評価がつく、特異な成績を拝領してきました。

人生、
「常識」
で決めたら失敗します。

「常識」
という
「マジョリティの有する、成功には有益とは言い難い『偏見』」
をOSとして移植したら、終わるに決まってます。

「常識」
はいろいろです。

「自分が憧れ、敬う、真似ぶべき存在の常識」
であれば意欲的に取り入れるべきですが、それと真逆の人間の雑音など、一切無視していいでしょう。

大きなカネや大きな権利・財産がからむときには、関係者の理性や思惑など、欲望の前に簡単に吹き飛びます。

大きな決定をする際、どんな人間、どんな前提、どんな
「常識」
も疑ってかかるべきです。

その意味では、大事な局面、重要な事柄、人生の岐路において、使うべきモノサシは、
「弱者」
のそれではなく、
「自分が目指すべき人間ならどういうジャッジをするべきか」
という思考の模倣です。

成功したいなら、小さい頃から、マジョリティの雑音を排除し、模倣すべき思考や価値観を選り抜き、これを純化・強靭化していくべきです。

間違っても、
「経済社会、資本主義社会の弱者に甘んじている方々」

「成功には有益とは言い難いバイアスのコレクション」
を盲信して
「成功して、強く、富裕なマイノリティに至るための最短ルート」
を踏み外さないようにすべきでしょう。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.129、「ポリスマガジン」誌、2018年5月号(2018年4月20日発売)

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