00086_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」14_(5)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅹ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その4:尊厳があること_20190820

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する
「楽しい人生」
については、自由であること(その1)美容と健康を保てること(その2)財産があること(その3)に加え、その4として、
「尊厳があること」
も内包すべき要素として必須です。

要するに、ナメられないこと、威張れることも、
「楽しい人生」
には不可欠の要素です。

そこそこの社会的地位をもち、他人から一目置かれ、粗略に扱われないこと、劣等感をもたないこと、劣等感をもたずに生きられるだけの評価基盤をもつことが重要になります。

ただ、尊厳をもっているとか、一目置かれるとか、ナメられないといった、評価基盤は、人によって尺度が異なります。

ある人は、
「カネをもっているだけで尊敬に値するので、金持ちはすべからく尊敬に値する」
という言い方をするかもしれません。

ある人は、
「自社が上場して、はじめて社会的に認知されるので、株式を公開する企業のトップであることを尊厳獲得の条件」
と考えるかもしれません。

ある人は、
「学歴や受験偏差値こそがすべてで、東大卒、それも、文一か理三に入らないと、一生恥ずかしい思いをする」
といって受験競争に奔走するかもしれません。

また、
「顔の美醜」
「身長やスタイル」
「立ち居振る舞い」
といった評価もあるかもしれません。

あるいは、
「オリンピックに出場すること」や、
「オリンピアンだけではダメで、メダリストになること」、
さらには、
「ロータリークラブやライオンズクラブにおいて地域のトップになること」や、
「勲章をもらうこと」等
といった形で、実に様々な評価基準があります。

他方で、
「オリンピック選手でもお勉強はイマイチだからたいしたことない」
とか、
「東大出てもしがない勤め人でさほど裕福ではないから尊敬に値しない」
とか、
「株式公開したか何か知らないけど破産歴があったり前科があるのであの人はまったくしょうもない」
とか、尊厳を高める評価もあれば、尊厳を貶める評価もあり、絶対的な基準があるわけでもありません。

私独自の見解でいいますと、
「ある程度は気にしたほうがいいが、あまり気にしすぎるな」
というものです。

世の中に
「尊厳をもっているとか、一目置かれるとか、ナメられないとか」
評価されるための絶対的かつ唯一の基準があるわけではない以上、所詮、相対的なもので、自己満足さえ得られれば十分なはずです。

すなわち、
「一目置かれたい」
「ナメられたくない」
ために、一定の地位獲得のため、ストレスをかかえ、眦を決して東奔西走するなんて、
「楽しい人生」
とはいえません。

当たり前ですが、地位や肩書は、無いより有るに越したことはありません。

ですが、前述のとおり、
「尊厳をもっているとか、一目置かれるとか、ナメられない」
といった評価をされるための
「絶対的かつ唯一の基準」
があるわけではないわけですから、こんなものマニアックコレクターのように、収集し出したらキリがありません。

もちろん、何かに一生懸命取り組んで、きちんと結果が出せ、特定の肩書や地位として結実し、そうしているうちに、別のことに興味をもちはじめ、やはりのめり込んでいった結果、また、別の肩書や地位が獲得でき、という形で、
「楽しい人生」
を送る過程で、結果として地位や肩書がくっついてきたということはあるでしょう。

ですが、
「たかが肩書や地位」
を獲得するために、究極かつ絶対的かつ唯一無二の目的である
「楽しい人生」
を放棄して、ストレスを抱え、狂奔狂騒し、大切に使うべき、お金やエネルギーや時間や機会を喪失するなんて、あまりに寂しい人生です。

私個人については、知的好奇心が強かったため、学問で身を立てることを志し、比較的好きで得意な勉強に没頭する機会と環境に恵まれ、東大文一に現役で入学し、在学中に司法試験に最終合格して、若くして法曹資格を得て、二十代から
「先生」呼ばわり
される僥倖に恵まれ、もうお腹いっぱい、十分です。

ところが、同じように若いころから弁護士をやっている方々の中には、
「会計士になりたい」、
「起業したい」、
さらには「起業した会社を上場させたい」、
「学者になりたい」、
「教授になりたい」、
「小説家になりたい」、
「政治家になりたい」、
「勲章がほしい」と、
いろいろな肩書を得るために、余裕のない生活を送り、無理をしてストレスが蓄積し、不健康になって、そのうち病気になったり、早死したりする方もいます。

もちろん、やりたいことや別の興味が湧いてきて、本人も人生を楽しむために納得して、別のことを始めて、嬉々としてのめり込んでいて、しかも得意でサマになっているのならいいのですが、
「一目置かれたい」
「ナメられたくない」
に、地位や肩書獲得が自己目的化しているとしか思えない方もいます。

こういう方をみていますと、やはり、人生、
「楽しい人生を送る」
という明確な目的意識と、
「地位や肩書など、楽しい人生を送るために、粗略に扱われることを防ぐ、ちょっとしたアクセサリー程度」
という手段としての価値序列をはっきりしておくべきだな、と再認識させられます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.144、「ポリスマガジン」誌、2019年8月号(2019年7月20日発売)