00074_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」2_(3)正しい「非常識」の具体例いくつか_20180620

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前稿においては、
「常識」
とは
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
であり、教育という一種の
「常識」洗脳
の結果、脳内に汚染された常識や良識にしたがってもいいことは1つもありません、というお話をしました。

では、世知辛い世の中を渡っていくために理解しておくべき
「正しい『非常識』」
とは、具体的どのような認識や解釈なのでしょうか。

本稿においては、その具体例をいくつか列挙しておきます。

なお、これらの
「正しい『非常識』」
は、私が有しているものではなく、又、身につけることを推奨するものでもありませんが、
「過酷な資本主義社会のプレーヤーには身につけ実践している方が多く、その方々は、競争の勝者となっているという現実を理解すべきである」
という逆説的な趣旨で紹介します。

1 法律に書いていないことは、すべてやっていいこと

2 民主主義の基本は、「大多数の地味な素人」が、「声のデカイ、目立ちたがり屋の素人」を選んで、後者に法律を作らせる、という、ある意味無茶苦茶な制度。
「声のデカイ、目立ちたがり屋の素人」が作った法律には間違ったものが相当あるので、全部、馬鹿正直に守っていたら、人生バカをみる。
そんなもの、ときには軽視していいし、人生、大事なことを決めるときには、自分の美意識や哲学に従った方がいい。
ただ、法律やルールを墨守する必要はないが、軽視するときは、それなりのリスクを伴うことを意識して、賢く軽視すべき

3 自分に都合の悪いことや疚しいことはすべて忘れてしまうか、うやむやにしてやり過ごす。
露見しなければ、法制度上、やがて時効が完成し、なかったことになる

4 痕跡や証拠がなければ、どんなに不適切な行為を行っても、わざわざ自分から言い出さない限り、責められることはない

5 人間は、決して法律は守れない。生きている限り、皆、法律や約束を破らざるを得ない

6 相手の無知は利用していい。
利害の対立する相手に、わざわざ、自分が不利になることを教えてやる必要はない。
美しい誤解はそのままにしておいていい

7 ダマす人間は良くない。
他方で、欲得にかられてダマされる被害者も悪い。
欲に目がくらんでダマされた人間が世間に訴えても、誰も、指一本動かさないし、相手にしない

8 裁判所の擁護する価値は、自己責任、自業自得、因果応報であり、責任追及する被害者に過酷なまでの手続負担を課し、「やられたらやられ損」「加害者を助け、被害者を挫く」を過酷までに徹する。
痕跡を残さず、露見せず、追及されることがなく、時効完成を迎えた悪事は、世の中に相当数はびこっているが、それが逐一問題にされたり責任追及されることはない

9 経済社会において、「誠実」とは「近い将来における破産」を、「露見するウソ」とは「将来における破産」を意味する。
企業が継続的に発展する事業を展開するためには、すぐバレるようなウソをつかず、かといって、馬鹿正直になってもいけない

10 客商売とは、すぐバレるようなウソつきでもなく、かといって、馬鹿正直でもない、「絶妙なウソ」を、真顔で、絶妙につくこと。
すなわち、「感情に左右される限定合理性しかもたない大衆が勝手に誤解してくれるような『美しい誤解のタネ』を散りばめた、何もしなくても勝手に消費者に気に入られ売れていく商品・サービス」を創りだすことがコンシューマービジネスの基本。
若者や子どもに人気を博する商売は、いずれもこの基本を忠実に守って、成功を収めている

11 他方、商売でもっとも難しいのは、子ども(や子どものような無知で無垢で善良で純粋な大人を含む)をダマして気に入られること。
子どもは、理屈を受け容れないし、好き嫌いで判断するし、絶対に我慢などしない。
ただ、一度でも気に入ると、行列を作って何時間でも立ったまま待ちつづけ、くだらないガラクタに対して、いくらでもカネをつぎ込んで、延々と買い続けてくれる

以上は、ほんの一例に過ぎません。

我々が帰属する自由主義社会の大前提は、
「法律に明確に書いていない限りどんなことでもやりたい放題」
というものです。

すなわち、法律が形式的に存在していて、仮にこれに抵触しても、即座に責任を追及して追い回され、社会から放逐される、ということとはイコールではありません。

たまに、
「証拠や痕跡を明確な形で残してしまい、当局やマスコミを無駄に挑発し、弁解や抗弁に失敗し、公式に非難・責任追及されてしまう」
などというドン臭い状況に陥る方もいますが、そんな下手を打たない限り、何をやっても自由であり、滅多なことでは非難されたり、社会から放逐されたりしません。

金持ちや政治家で、お金に余裕があっても、国民年金を払っていない人間が多い、と聞きます。

問題となったのは2004年ごろですが、小泉内閣所属の大臣では、F田康夫(官房長官)、T中平蔵(金融経済担当相)、T垣禎一(財務相)、M木敏充(沖縄北方担当相)、その後の麻生内閣では、N川昭一(経済産業相)、A生太郎(総務相)、I破茂(防衛庁長官)が国民年金を払っていなかった、と報道されました。

なぜ、払わなかったのか?

「国民年金制度が、日本最大の投資詐欺のねずみ講である」
ということをわかっていたからではないでしょうか?(法律を制定するという役目を担う政治家を志す方が法律を無視するわけはなく、また、前記の方々はいずれも財政的・財産的に相応の豊かさをおもちであり、国民年金を支払わなかったのは、当該年金制度に対する強い忌避感が表れたことによるものとしか推測できません)

一般にマルチや投資詐欺は犯罪、とされます。

投資運用はまったくしないか、やるとしてもお座なりにしかせず、基本的な構造としては、新しく参加した人間が拠出したカネを、ねずみ講の古参の参加者に配る。

当然ながら、新しく参加する人間が減ると、ねずみ講は破綻します。

積立方式(若い現役時代に払い込んだ金を積み立て、老後にそのお金を受け取る仕組み)ではなく、賦課方式(働く現在現役の人が払い込んだ金を現在の高齢者に支給する)を採用する我が国の国民年金制度は、要するに、これと同じで、ねずみ講の本質をもちながら、この本質を伝えず、運営しています。

年金制度が破綻するのは、その本質や投資詐欺的な構造にあり、ある意味必然です。

この程度のことは、たいていの上流階級の人間は知っています。

だからこそ、知っている人間は、ありあまるカネがあっても、破綻する危険のある詐欺マルチに加入したくないので、払うことを忌避したのだ、と推測されます。

知らないのは、マジョリティの皆さんだけですし、また、知っていても国民年金を支払い続けてしまうのは、私のような、
「度胸のない小心者」
だけです。

国民年金は、マルチやネズミ講の構造を内包していても、国家が公認している合法的なものであり、しかも、支払を忌避することは犯罪とされます。

堂々と支払いを忌避しても、罪に問われないのは、前述のような政治家くらいで、そんじょそこらのマジョリティが支払いを忌避すると、何をされるかわかりません。

無論、
「度胸のない小心者」
の私は、構造を解明したり矛盾を指摘することはしますが、決して、不払いを推奨するものではありません。

いずれにせよ、知らずに態度決定するのは実に愚かなことであり、本質を理解することは意義ある人生を送る上で重要です。

フランシス・ベーコンの言ったとおり、まさに
「知は力」
なのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.130、「ポリスマガジン」誌、2018年6月号(2018年5月20日発売)

00073_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」2_(2)常識や良識にしたがっても何一ついいことはない_20180520

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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そもそも、
「常識」
とは何でしょうか?

「常識」
とは、
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
を指します。

これは、20世紀の天才科学者、アインシュタインの言葉ですが、私も至極納得します。

次に、教育とは何なんでしょうか?

教育の本質は、
「頭脳が未発達で、知性が乏しい、知的水準が未熟な者へ、偏見を植え付けるための『洗脳』」
である、という見方も可能です。

教育とは、社会に適合するためのOS(オペレーション・システム、基本挙動)をダウンロード。

こういう観察をすると、本質がよりクリアにみえてきます。

当該ソフトの是非や有効性は別の問題です。

ダウンロードは、格納先に複製ソフトを移植し、基本挙動を統一させるためのものです。

そのソフトが狂っていたり、間違っていたり、方向性がズレていたら、大変なことになります。

どんなに計算機能が高く、記憶領域の大きなコンピューターであっても、OSがダメであれば、まったく使いものになりません。

コンピューターに間違ったOSをダウンロードしてしまったら、一度、初期化するなりソフトを削除するなりして、正しいOSを入れ直せばいいのでしょうが、人間の場合、間違った教育を受けた人間をロボトミー手術したり…というのは、人権問題を生じかねません。

ですから、教育を受けるのは結構ですが、教育を受ける前に、
「教育」
という名のもとに一体どんな
「洗脳」
が行われているのか、ということをきちんと考えておく必要があります。

そして、
「洗脳」
には、
いい洗脳と悪い洗脳
があります。

ソフトウェアに、機敏で効率的な挙動をするよいソフトと、無駄にリソースを食うばかりで非効率でエラーばかり撒き散らす廃棄物のようなソフトがあるように。

「学ぶ」

「真似ぶ」
から転じたといわれますが、教育の本質をよく表しています。

正しい洗脳、もとい、正しい教育というのは、模範とする人物をベンチマークとして、思考や言葉やビヘイビア、さらには仕草や呼吸の仕方に至るまで、徹底的にコピーすることがその本質です。

「謦咳に接する」
という言葉がありますが、
「間近で咳払いを聞けるだけで幸せであるという意味から、尊敬する人と直接会ったり、話を聞く」
という教育のあるべき姿を表現しています。

自分が目指すスーパースターの近くにいて、咳やくしゃみがかかるところまで接近して濃厚接触し、非認知的能力のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学べ、ということです。

では、一流のビジネスオーナーやビジネスマネージャーを目指す方にとって、正しい洗脳、もとい、正しい教育を受ける環境が存在するでしょうか。

無論、洗脳をしてくださる方、もとい、教えてくださる方が、模倣の対象として憧憬し、敬愛する方であれば問題ありません。

例えば、ビジネスの世界で成功を目指す人にとっては、ビジネス界のトップスター、グーグルやアップルやアマゾンを立ち上げたような方であれば、いいでしょう。

ところが、実際はどうでしょう。

教育現場にいらっしゃる方々、あるいは、皆さんの親御さんとして、皆さんに
「常識」
という名の
「偏見のコレクション」

「洗脳」
いただける方々は、資産も収入もイマイチで、いってみれば、
「経済社会、資本主義社会の弱者(あくまで、経済社会の、という意味です。教育の世界や、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
ではありませんか?

そんな
「弱者(あくまで、『経済社会、資本主義社会の』という意味であり、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
に甘んじている方々から、
「教育」
という名の
「弱者の皆さまが有しておられる偏見のコレクションの洗脳」
を受けた瞬間、自分も
「弱者(前記参照)」
クラス行き、ほぼ確定です。

とはいえ、その種の陳腐でつまんない
「教育」
の価値を頭ごなしに否定し、校舎のガラスを叩き割り、盗んだバイクで走り出し、ラリって死んでしまっては、元も子もありませんので、悪い意味での
「大人」な対応
が必要です。

私自身に関して言えば、
「洗脳」
を受けたふりをしつつ、ココロの奥底では、しょうもないマジョリティの連中の
「偏見」
をおもいっきりディすりながら、
一般的な「常識」
という思想上の害毒による洗脳を拒否し、
「美意識」と「哲学」
という自分なりの非常識を身につけ、生きることが、
「刺激あふれる経済社会、資本主義社会を、自由かつ、愉快かつに泳ぎ渡り、笑いが止まらない、楽しい人生」
を歩むために必要ではないか、と小さい頃から思っていました。

親から
「ったく、お前はホニャララ団の弁護士みたいな減らず口を叩くなぁ」
と言われた
「インテリヤクザのような少年」
でしたから、学業成績という
「テクニカル・エレメント(技術・能力評点)」
においてはこそオール5だったものの、態度や姿勢といった
「アーティスティック・インプレッション(芸術的印象評点)」
はことごとく最悪・最低の評価がつく、特異な成績を拝領してきました。

人生、
「常識」
で決めたら失敗します。

「常識」
という
「マジョリティの有する、成功には有益とは言い難い『偏見』」
をOSとして移植したら、終わるに決まってます。

「常識」
はいろいろです。

「自分が憧れ、敬う、真似ぶべき存在の常識」
であれば意欲的に取り入れるべきですが、それと真逆の人間の雑音など、一切無視していいでしょう。

大きなカネや大きな権利・財産がからむときには、関係者の理性や思惑など、欲望の前に簡単に吹き飛びます。

大きな決定をする際、どんな人間、どんな前提、どんな
「常識」
も疑ってかかるべきです。

その意味では、大事な局面、重要な事柄、人生の岐路において、使うべきモノサシは、
「弱者」
のそれではなく、
「自分が目指すべき人間ならどういうジャッジをするべきか」
という思考の模倣です。

成功したいなら、小さい頃から、マジョリティの雑音を排除し、模倣すべき思考や価値観を選り抜き、これを純化・強靭化していくべきです。

間違っても、
「経済社会、資本主義社会の弱者に甘んじている方々」

「成功には有益とは言い難いバイアスのコレクション」
を盲信して
「成功して、強く、富裕なマイノリティに至るための最短ルート」
を踏み外さないようにすべきでしょう。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.129、「ポリスマガジン」誌、2018年5月号(2018年4月20日発売)

00072_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」1_(1)世の中、大事な話ほど、本に載っていない_20180420

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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世の中、大事な話、役に立つ話、リアルな現実ほど、本に書いていませんし、新聞やテレビで報道してくれませんし、学校の先生や、(一般のサラリーマンをしている)お父さんやお母さんも教えてくれません。

というか、学校の先生や、(一般のサラリーマンをしている)お父さんやお母さんは、そもそも、大事な話、役に立つ話、リアルな現実をあまり知らずに生きてこられたか、あるいは、
「自由競争による富の獲得・蓄積を目指す資本主義社会の壮絶かつリアルな最前線ないし現場」
を縁遠い存在として距離を置き、
「ビジネスにおいて成功を勝ち取るための重要なリテラシー」
に背を向けて生きてこられた方
が多いのではないでしょうか。

そんな方々(「自由競争による富の獲得・蓄積を目指す資本主義社会の壮絶かつリアルな最前線ないし現場」を縁遠い存在として距離を置き、「ビジネスにおいて成功を勝ち取るための重要なリテラシー」に背を向けて生きてこられた方々)の話を真に受けていては、ビジネスの世界では成功するどころか、失敗し、あるいは、成果を挙げられずに退場させられるか、隅っこで冷や飯を食わされながら飼い殺しにされる地位に追いやられます。

無論、本や新聞をよく読めば、難解な専門用語で書いてあったり、脚注等にものすごくわかりにくく小さく書いてあったり、前後の文脈から行間を推理・解釈するとぼんやりわかる程度に書いてある場合も、あります。

要するに、大事な話、役に立つ話、リアルな現実ほど、マジョリティの目に触れないよう、公式情報からは遮断されているのが現状です。

じゃあ、公式情報として表に出てこない世の中の本質を、どうやって知るか?

それが、知性です。

本当の勉強というのは、この種の知性を身につけることです。

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じて、初めて身につけることのできる、本物の知性です。

そういう情報は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

競争者を増やして、自分たちの快適な地位を脅かすアホがどこにいますか?

本当の処世のためのリテラシーやスキルを身につけるのは、単に、成功している人間のスタイルや外見や表層だけマネてもダメです。

「金運上昇のためには『ワニ革の長財布』『ヘビ革の茶色の財布』(ワニもヘビも食いついたら離さないので、カネをがっちり掴む、という話から)が持つことが大事で、金持ちはだいたいこのことを実践している」
という話を聞いて、若者が、この種の財布を分不相応なまでの大枚をはたいて買ったはいいが、金運は上昇せず、貧困にあえでいる、という話があります。

私は、この話は、半分本当で、半分間違っている、と思います。

私が仕事でお付き合いしたことのある日本有数のお金持ちは、そもそも財布を持っていない、という方が結構いらっしゃいます。

中には、すべて顔でツケが利くのでクレジットカードすら持たず、封筒に1万円札と1000円札が何枚か入っていて、タクシー等を使ってもお釣りを受け取らない、という豪快な方もいます。

その方は、財布を開けて、中身を覗いて、お札を取り出している姿がいかにもみみっちくて不格好だし、財布をポケットに入れると、ズボンやジャケットの形が崩れて見栄えが悪い、と言っていました。

お金持ちの中には、金運上昇を信じて財布にこだわる人もいれば、徹底して無頓着な人もいます。

ただ、財布にヘビがいいとか、ワニがいいとか、黒とか茶色とか、という話のキモは、どんなお金持ちでも、
「人智の及ばない領域」
を認識し、そのことに保守的・謙抑的に捉え、慢心の戒めとしたりしている、ということだと思います。

前述の
「財布をもたない大金持ち」
も、実は、事務所に大きな熊手が飾ってあったり、神棚のお供え物を毎朝とりかえていたり、事務所を風水で設計したりしているかもしれません。

それは、人生いろいろ、スピリチャルいろいろで、資本主義社会で成功される方は、そのあたり、自分なりの哲学や価値観やスタイルを確立して、それぞれに適合した形で実践されている、ということでしょう。

財布を変えただけで金持ちになれる、のであれば、世の中、金持ちで満ち溢れているはずです。

脱線してしまいましたが、本当に大事な話、役に立つ話、リアルな現実というのは、公式情報からはほとんど読み取れません。

また、表層情報に踊らされ、猿真似をして外見だけをなぞってもまったく意味がありません。

資本主義社会において成果を挙げて、居場所を見つけ、事業家として、企業人として、あるいは投資家として、快適で愉快な人生を送るためには、間違いだらけの公式情報を
「ノイズ」
として遮断・排除し、公式には表立って記述・報道されない重要情報を見つけ出し、本質を理解し、自分に適用可能な形で、解釈し、応用していく、そんな知的な力が必要です。

この種の、総合的な情報解釈・運用技術を、インテリジェンスとかリテラシーといったりすることがあります。

一昔前、
「情報」あるいは「情報が格納された媒体」
を保有していることは、それだけで、それらを持たざる者に対して、比較優位に立ち、優越感に浸ることができました。

この種の優越感を前提に、一時、裕福な田舎の農家に百科事典の全巻セットを訪問販売する、というビジネスが展開され、およそ読みもしない豪華で高価ま百科事典が飛ぶように売れたのは、(読んだり、活用したりすることはなくとも、)
「情報」あるいは「情報が格納された媒体」
を保有していることで知的優位性を誇示できる、という社会認識が前提にあったからです。

しかしながら、今や、百科事典に載っているような情報など、インターネットと検索サイトを使えば、瞬時に無料で手に入ります。

弁護士稼業が本業の私ですら、六法も判例集も数年前から購入・保有せず、ネットで使える有料のデータベースサービスに代替しています。

要するに、インターネットの登場によって、情報そのものが陳腐化、無価値化、コモディティ化してしまった現在、決定的な価値と意味をもつのは、information(インフォメーション。情報)ではなく、情報から本質を導き出し、自己のために解釈運用するためのintelligence(インテリジェンス。知識、知恵、智慧)であり、literacy(リテラシー。教養、本質的・機能的理解力)なのです。

したがって、まずは、公式情報を鵜呑みにし、踊らされることではなく、公式情報の裏や行間や、
「偽装のため、難解で抽象的で多義的な言葉でごまかされた部分」等
から、本質を読み取り、自由自在に解釈運用することのできる力が、ビジネス社会や苛酷な競争が所与となる現代社会を生き抜く上では、決定的に重要になります。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.128、「ポリスマガジン」誌、2018年4月号(2018年3月20日発売)

00071“畑中鐵丸”流スピリチャリズム_20100220

ちょっと前(注:2010年2月当時です)に、スピリチャルや風水といった幸福追求の条件・環境を非科学的なものに求めるムーヴメントが起こり、今ではすっかり日本社会に根付いた感があります。

私個人としても、科学では解明できないこの種の見方・考え方に対してアレルギーはなく、むしろ、精神的に豊かな生活をしていく上で、うまく取りいれていきたいと考えています。

とはいえ、本を読んだり、怪しげなセミナーに行って勉強したりする気はさらさらなく、自分が適当かつ勝手に確立した「我流スピリチャリズム」を突き通すつもりです。

今回は、「鐵丸流スピリチャリズム」の一つをご紹介します。

私が実践する「鐵丸流スピリチャリズム」の中に、「不幸のアイテム」を自分の身の回りから排除するということがあります。
「不幸のアイテム」とはどのようなものか、というと、その代表選手はキャラクター系のぬいぐるみです。
「20代前半のお母様と子供だけが暮らしている家賃数万円のアパートの部屋」と「50代の知的でリッチな企業経営者の書斎」とをイメージしてみてください。

「前者には必ずといっていいほどお見かけするものの、後者には絶対存在しないアイテム」があることに気づかれると思います。

すなわち、「20代前半のお母様と子供だけが暮らしている家賃数万円のアパートの部屋」には、ほぼ確実な割合で、アメリカ生まれのネズミをモチーフにしたキャラクターのぬいぐるみや、山梨生まれのネコをモチーフにしたキャラクターのぬいぐるみ等が所狭しと置かれているような気がします。

これらキャラクターは「子供に夢を与える」というお題目で創造されたものだそうですが、私には、なんとも貧乏臭く、子供がこの種の「ケバケバしくて品のかけらもない、見た目に明らかなツクリモノ」に囲まれて育つと、夢はさておき、知性や想像力のカケラもない大人になりそうな感じがしてしまいます。

なお、「夢があふれる子供」というのも、見方を変えれば、現実社会との適応に精神的な障害があるということも言えるのであり、そもそも「夢を与える」というお題目自体、セールストークとしてのすばらしさはさておき、教育理念としては安易に過ぎるのではないかと思うところです。

いずれにせよ、私には、ケバケバしいネズミややたらと顔のデカイネコの類は、「不幸のアイテム」の代表選手であり、「鐵丸流スピリチャリズム」から言えば、こういうアイテムを身の回りから排除するとシアワセがやってくるか、少なくともフシアワセの進行を止めることができる、ということになります。

実際、キャラクター系のぬいぐるみを山のように買い込んで部屋に並べ、ただでさえ狭いアパートを狭くしている母子家庭の母のところには、きちんとした男性が寄りつかないような気がします。

他方、この種のぬいぐるみ類をすべて廃棄し、たとえ安アパートでも、茶室のように「狭いながらも小奇麗で静謐で趣味のいい」感じにしておくと、良縁もめぐってきそうな気がします。

幸・不幸などというのは、所詮、人の器量と努力によって定まるものであり、アイテム一つでどうにかなるものではありませんが、生活環境を「小奇麗で静謐で趣味のいい」ものにしておくというのは、短い人生を豊かに生きるという意味においても実践する価値があると思います。
このように「鐵丸流スピリチャリズム」には、他にも実践可能ないくつかの生活スタイルがあるのですが、文書にして公にするには少し躊躇を覚えるような内容も相当ありますので、割愛させていただきます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.030、「ポリスマガジン」誌、2010年2月号(2010年1月20日発売)

00070_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(4・完)_20100120

今回で「『民主』の時代を考える」シリーズは最終回です。

民主主義についてあれやこれやとケチを付けてきましたが、筆者としては、民主主義がダメで専制君主制がいい、と主張したいわけではありません。

「民主主義」というのは、意思決定のための手段ないし道具としての意味しかなく、それ自体が特別に何か目的や価値をもっているわけではありません。

例をとって考えてみましょう。
国民の大多数が、「ユダヤ人を排除せよ」「ユダヤ人を強制収容所に入れて殺してしまえ」という意思をもち、この民主主義的意思が政治過程において適正に表明されたとしましょう。
この場合、民主主義を貫けば、このような常軌を逸した政治的意思が正当性を有することになります。実際、ある時期、ある国において、民主主義の名の下に、少数民族が相当数生命を奪われたということがありました。

現在の日本においても、国民の大多数の意思としては「税金はできるだけ払いたくないが、新型インフルエンザ対策(注:本コンテンツは2009年12月ころに執筆されています)を始めとした各種行政サービスは充実してほしい」という無茶苦茶なものであり、民主主義をまともに取り合っていれば、およそ国家運営など不可能になってしまいます。

そもそも民主主義というものは「多数存在しうる政治的意思決定の方法の一つ」に過ぎません。
にもかかわらず、「知能の高低に関わらず、誰もが、責任を取らされることなく、政治的意思決定に参加できる」というマジョリティにとっての安直さ故に、戦後来、民主主義に対する信仰が「他の政治的意思決定の存在を許さない、排他的な一神教」として日本社会に過度に蔓延したよう
な気がします。
では、民主主義が手段概念、道具概念とした場合、目的概念は何なのでしょうか。

わが国の憲法が標榜するところからは、民主主義が奉仕すべき価値とは、個人の人権保障であり、リベラリズムの実現であると解釈されます。
すなわち民主主義とは、個々人の人権という価値を実現するために奉仕するための下位概念であり、「民主主義によって少数者の人権が侵害される」というさきほど例に挙げた状況は「手段が目的を害するものであり、本末転倒の事態として許されない」ということになります。

裁判所という国家機関は、非民主的に運営されています。「司法権」という国家三権の中でもっとも重要な権力を自由に振るうことができる最強の機関であるにも関わらず、裁判官選出にあたって選挙など一切されず、試験で選抜されたエリートのみによって寡頭的かつ秘密裡に運営されており、民主主義からすると実に噴飯ものの組織です。

このようなことが許されるのは、司法権力を行使する裁判所は、リベラリズムを実現し、少数者の人権を保障する最後の砦だからです。
裁判所は、立法過程・行政過程を支配する多数派の横暴から阻害された少数派の人権を救済することが期待される機関であり、多数派に汚染されることなく「数」ではなく「理非」により国家の意思を示すことが期待されているの
です。

だからこそ、裁判所は、民主的であってはならず、「マジョリティの意思に左右されることなく理非を貫けるエリートによる寡頭運営」が必要なのです。

このように、民主主義は下位概念・手段概念に過ぎず、自由主義・人権保障という目的に奉仕すべきもので、価値実現のためのツールとして全体バランスの中で限定的にのみ用いられるべきということになります。

単純な民主主義ではなく、自由主義のための謙抑的な民主主義、「自由民主主義(リベラルデモクラシー)」というのが現代社会において求められる民主主義のあるべき姿といえます。
というわけで、「自由民主党」という政党は、実に素晴らしいネーミングの党だったのですが、名前負けしていたせいか、国民から見放され、現在塗炭の苦しみを味わっています(注:本コンテンツは2009年12月ころに執筆されています)。

以上、民主主義についていろいろな面から考察して参りました(あるいはケチを付けて参りました)が、私個人としては、事業仕分けなど自民党政権時代にはなかった画期的な政治運営がなされており、民主党には多いに期待するところであり、「民主主義」の意味を履き違えず、この国をより住みやすい国にしていってほしいと思います。

(完)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.029、「ポリスマガジン」誌、2010年1月号(2009年12月20日発売)

00069_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(3)_20091220

民主主義再検証シリーズ連載三回目です。

今回は、地方自治における直接民主制についてです。

地方自治においては、憲法上、直接民主主義が採用されています。

憲法93条2項をみると、実際、「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」との定めがあります。

これを以て、「日本国憲法が、民主主義というシステムを、絶対的な統治原理として、異議なく、全面的に採用した」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは早計と言えます。

地方自治は上記のとおり直接民主主義が採用されていますが、中央の政治ではどうでしょうか。

憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあり、また、同43条に「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」、同51条には「両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」とあります。

これらの条文は、憲法が間接民主制を原則的な統治原理として採用した根拠と言われるものです。

すなわち、前文では、「日本国民は直接政治行動するな。政治的意思決定は、代表を選んで代表を通してやれ」と規制し、また、43条では「全国民の代表だから、全国民のことを考えて行動すべきであり、島根県や岩手県から選出されたのであってもこれら地域の代表ではなく、地域の利害を超えて日本全体の代表として行動せよ」として、選んだ者と選ばれた者との間の直接の利害関係を分断しています。
さらには、憲法は、51条で「公約違反をしても法的責任は問わないので、代表者は、選挙民の約束など気にせず、自由に気ままに政治的意思決定をしてよい」とさえ言っているのです。

要するに、憲法は、原則として間接民主制を採用して民意を徹底して排除し、地方自治においてのみ例外的かつ限定的に直接民主主義を採用しているのです。

憲法がこのように定めた趣旨ですが、

「財政支出をどうする、国防政策をどうする、社会保障をどうする、といった難しい問題は一般国民が直接議論するなど到底無理であろう。地方自治というのは、村に病院を建てる、近くの川に橋をかける、公民館を改築する、図書館の本を増やす、といった、住民に身近なことを行うものだから、アホな国民でも、この程度であれば、まあ、マトモな判断ができるであろう。仮に、熱狂的な支持の下、地方にミニ・ヒトラーが登場して暴れ出しても、害があれば、中央政府がたたきつぶせばいいだけだし、中央政府さえアホな民意と遮断されていれば、さほど気に病む必要もあるまい。ゆえに、地方自治に限定して、直接民主主義を認めてやることにしよう。とはいえ、地方自治だけだぞ!わかったか、愚民ども!」
という価値判断によるものと思われます。

民主主義を信奉する方々から大きな反発が出てきそうですが、逆の言い方をすれば、そのくらい、憲法は、民意や単純な民主主義を毛嫌いしていると言えるのです。

例えば、大阪府知事や東京都知事が、「オレたちは府民や都民から数百万票単位という大量の支持を得て直接選ばれたもっとも民主的なリーダーであり、島根県や岩手県あたりのしみったれた国会議員とかとはワケが違う。大阪と東京は、中央とは違った観点から、圧倒的な民意を背景に、某国との国交を断絶し、府内・都内の某国民を収監する」なんてやりだしたら、国は大混乱に陥り、大変な事態になります。

直接民主主義という代物ですが、聞こえはいいものの、凶暴で制御できない独裁者を作る危険性がありますし、現在の両自治体の首長の言動をみると(注:2008年11月当時。当時の大阪府知事は橋下徹氏、東京都知事は石原慎太郎氏でした)、前記のようなことを平気でやりかねません。
彼らが、前記のような暴れ方をしないのは、別に彼らに良識があるからというわけではなく、規制装置である憲法が効果的に働いているからにほかなりません。

憲法が直接民主主義という代物を危険視し、その採用場面を徹底して限定したのは、現実的で成熟した価値判断によるものであり、私としても多いに評価すべきであると考えます。
民主主義再検証ですが、次回も続けたいと思います。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.028、「ポリスマガジン」誌、2009年12月号(2009年11月20日発売)

00068_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(2)_20091120

民主主義再検証シリーズ連載2回目です。

今回は、民主主義信奉者にとっての不倶戴天の敵、官僚についてです。

官僚は、民主主義を重視する方々にとっては、忌み嫌われています。

曰く、
「官僚は、選挙で選ばれたわけではなく、ちょっといい大学出て、小賢しく勉強して運も幸いして小難しい試験を合格しただけだってのに、政治家を愚弄し、自分たちが好き勝手国家運営をしていやがる」
「だいたい、官僚の国会答弁って何なんだ。人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて、屁理屈ばかり並べ立てやがって。そのエラそうなしたり顔が気に入らねえんだよ」
「そもそも、官僚支配が悪なのだ。政治主導にしないとおかしい。というより、官僚制度をぶっつぶしてしまえ。そんなものなくても日本は安泰だ。官僚がいなくなれば日本はもっとよくなるぞ」
-などなど。

ですが、翻って考えるに、「官僚による政治支配」はそんなに悪いことなのでしょうか。

そもそも、官僚が政治家をバカにするのは、政治家が圧倒的に勉強不足であるということが大きな原因です。政治家は選挙で選ばれますが、だからといって一般国民から投票を獲得したという事実自体、国家運営についての知識や経験や能力を保障するものではありません。

政治家の中には、元風俗ライターや元ヤンキーや漫才師やこれまで何をやっていたかよくわからないような雑多な人たちがいるわけですが、彼らや彼女たちが議員に当選したからといって、翌日から、突如、政治経済の知識が増えたり、政治意識が高まったりするわけではありません。

「人気だけが取り柄の、漢字すらまともに読めない者もいるような玉石混淆の素人集団」が、「官僚制度打破」のお題目だけでわめいたところで、「ほぼ全員東大卒で、圧倒的な情報と専門性を有している立法・行政のプロ集団」に歯向かって勝てるわけはありません。

「医者がエラそうだから気に食わない」といって医者を片っ端からなくしたところで医療業界がよくならないのと同様、自分たちが選んだ政治家の勉強不足・知識不足を棚に上げ「官僚がエラそうででしゃばってて、気に食わない」という理由だけで優秀な専門家集団をぶっつぶしてしまう、というのは余りに短絡的と言えます。

こういう愚行を実際にやってしまったのが、カンボジアのポルポト政権です。

クーデターによって成立したこの政権は、あまりよくわからない理由で(強いていえば、「自分のいうことにイチイチ反対しやがって、エラそうでウザい」という理由でしょうか)、高級官僚を皆殺しにして、既存の行政システムを破壊して回りました。

その結果国家機能は不可逆的に喪失し、カンボジアの経済社会は今も疲弊に喘いでいます。

そりゃそうでしょう。「一昨日まで田んぼを耕していて、昨日は銃をもたされた、まともに字も読めない連中」が、いきなり官僚の仕事を引き継ぐわけですからうまくいくわけはない。

実際、彼らがやったのは私財の没収、通貨の廃止、高等教育の廃止等であり、理念なき社会基盤の破壊です。

専門知識のない素人が政治を担う怖さがよくわかる話です。

私個人としては、現代の日本の政治・行政システムは非常に完成度が高いものであり、特に変えるべき必要を感じません。

無論、たまに官僚の中に心得違いをする連中が出てくるでしょうし、時代遅れで機能しない制度も出てくるでしょうが、言論の自由が保障されている限り、長期的には淘汰される話です。

「官僚=悪」と決めつけて、官僚システムという「高度なプログラム」全体を破壊するといった愚に走らず、官僚のもっている専門性・技術性を素直に評価した上で、「どうやったら、『バグ』がなくなるか」ということを考えた方が建設的だと思います。

そして、政治の役割は、世界的にみても優秀な官僚たちが行った政策の立案・実行にお墨付きを与えつつ、「ときどき不可避的に発生する、看過できないバグ」を例外管理として処理する、ということで必要かつ十分であると思うのです。 あまり評判の芳しくない民主主義再検証ですが、次回も続けたいと思います。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.027、「ポリスマガジン」誌、2009年11月号(2009年10月20日発売)

00067_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(1)_20091020

去る8月(注:本コンテンツは2009年8月時点で書かれています)の総選挙で民主党が圧勝しました。

いよいよ、「民主の時代」到来です。

わが国では、小学校以来「民主主義一神教」ともいうべき形で「組織運営上の絶対原理」として教授されることの多い民主主義ですが、民主主義を運用する上では「民主主義には暴力的側面がある」ということも同時に理解・認識しておくべき必要があり、今回から連載の形で民主主義を再検証してみたいと思います。

「民主主義を再検証する議論」と聞くと、何か目新しい議論をしているかのように思われがちですが、民主主義の限界論については、数千年前にすでに古代ギリシアで議論されていたようです。

以下、塩野七生著「サイレント・マイノリティ」(新潮社)に「古代ギリシアのアテナイに生きたらしい(なにしろ作者不明なので)ある反民主主義者が書き遺した」として書かれている文章を転載します。
(以下、転載)

世界中の思慮深き人はみな、民主主義の敵である。なぜなら、思慮深き人の特質が首尾一貫した思想にあり、不正を憎むことにあり、改善へのたゆまない努力にあるとすれば、大衆の特質は、無知にあり無秩序にあり優れた者への嫉妬にあるからである。貧困は不名誉な行いに走らせ、教育の欠陥は、俗悪と無作法をはびこらせる。そして、大衆は常に多数なのである。
(中略)
集会は、より低い知的水準にある者たちに自由に発言を許してこそ、理想的なものになるものだ。なぜなら、思慮浅き人々は、自分たちの利益になることしか提案しないからである。
(中略)
民主主義が、自由よりは暴力と近いという真実に気づいていない。
(中略)
民主主義の根本原理である多数決は、五十パーセントプラス一票を獲得した側が、思い信じることを強行するものだからだ。少数派の意見も尊重せよ、などということは、だから、民主主義の根本原理に反することなのである。
(中略)
自由と平等は絶対に両立しえない。
(中略)
民主主義者たちは、自由よりも平等のほうを好むものだからだ。
(中略)
平等の概念を急進化したプロレタリア独裁を思い出すだけで充分だ。
これが、個々人の自由の破壊にどれだけ貢献したかを考えるだけで、それ以上の説明の要もないだろう。
(中略)
思慮浅き人々は、人民自体が法である、という彼らの宣言にみられるように、法を尊重しない。

(転載終了)

「民主主義=絶対善」「人民の中に常に真実あり、世論こそ法なり」「エリートのイニシアチブによる寡頭制=不平等であり、絶対許せない」という考えは、戦後の一時期に、特定の思想傾向を有する団体やマスコミが、初等教育の場や統治システムやその形成過程に関する歴史を良く知らないマジョリティ向けに偏頗的に広めたものと思われますが、これも一つのイデオロギーに過ぎません。
にもかかわらず「民主主義一神教」に長期間毒され、民主主義以外の統治原理の存在を知らない信者たちは、民主主義が統治手段に過ぎないことや民主主義の負の側面があることをなかなか認めたがりません。

政権交代は多いに結構ですが、「民主主義一神教」が、弁証が不可能な絶対真実としてこの国を席巻し、他の議論が圧殺されるとすれば、それはそれで考えものです。

「反民主主義」が正しいというわけでもありませんが、私としては、民主主義という仕組は、他の統治原理とも相互補完させつつ、試行錯誤や止揚によって「よりよき統治システム」が模索され続けられるべきだと思うのです。

民主主義再検証は次回も続けたいと思います。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.026、「ポリスマガジン」誌、2009年10月号(2009年9月20日発売)

00066_成功者たちは割引券や会員証をもたない_20090820

社会的・経済的に成功した方たちと、そうでない方とのライフスタイルや行動哲学で気がついたことを少しお話ししたいと思います。

最近、いろんな小売り店で、お客さんを呼び込もうと割引券や会員証が発行されます。

しかし、社会的に成功した方たちが持っていそうで持っていないものの代表選手が、この手の割引券や会員証の類です。

確かに、さまざまな割引券や会員証を使いこなし、数々の特典をうまく利用している方々は多数いらっしゃいますし、雑誌でも「ポイントやマイルを使いこなせ」等といった特集が組まれることがあります。

割引券や会員証を巧みに使いこなしておられる方々は、一見すると、非常に目先が利いて知能が高いような印象を受けますが、この種の方々で社会的・経済的に成功されているという方はあまりお見かけしません。

成功されている方の財布は実にシンプルな中身で、メジャーなクレジットカードや必要なIDカードの類は別として、小売店の会員証や割引券などほとんどお見かけしません。

私の想像ですが、成功者と呼ばれる方々は、自分の思考や哲学がしっかりしていて、自分の思考や哲学や行動を縛るようなものを自然と忌避するのではないでしょうか。

会員証や割引券があると、知らず知らずのうちに、経済的意思決定が影響を受けます。「安いから」「得だから」という理由で不要なものを買ってしまったり、食事をするのに、割引券が使える店に行くために不要な時間を費消してわざわざ遠回りしてしまったり、実に無駄が生じてしまいます。
それ以上に、常に会員証や割引券に誘導されてしまうと、本当に自分が買いたいものや食べたいもの、行きたいところややりたいことがわからなくなってしまいます。

会員証や割引券などがなくて被る経済的不利益はわずかなものですが、発行企業の思惑にしたがってしまうことは、経済人としての意思決定がゆがめられてしまい、ついには、「意識すらしない形で発行企業の思い通りに動き、消費するだけの人間」に成り下がってしまい、経済人としての自我を喪失する危険があるといえます。

何らかの分野で成功し、一角の地位を築く人たちというのは、マジョリティの人間と比べて感覚が鋭敏であるため、自己の思考や尊厳を脅かすこの種の他律的支配を皮膚感覚で不愉快と感じ、忌避するのでしょう。

私がよく行くある店では、店員の方から精算の度に「会員証をお作りしましょうか」と笑顔で聞かれます。

無論、その店の利用頻度は高く、会員証を作って提示すればささやかな経済的メリットが享受できることは明らかです。
しかし、私は当該会員証を作ることは長らくしませんでした。自己の尊厳とか哲学とかそういった高尚な理由ではなく、財布が分厚くなるのがイヤだったのと、何だか貧乏臭いと思ったからです。

その後、社会的成功者と呼ばれるクライアント企業のトップの方々が前記のように会員証とか割引券を携帯していないことに気づいてから、この種の会員証を作ることを控えるようになりました。

その結果、以前に比べて自分がすごく自由になったような気がしました。
会員証や割引券のように「普段何気なく使っているもので、自分の自由を狭めているようなもの」というのは探してみると結構あると思いますが、そういうものを捨て去ってみると世界が違って見えてくるかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.024、「ポリスマガジン」誌、2009年8月号(2009年7月20日発売)

00065_都市開発後進国ニッポン_20090720

私は、日本は世界で一番すみやすい国だと思っています。

水はおいしい、空気はキレイ。
官僚は公平で優秀。
夜中に酔っぱらって歩いていても襲われることなく、石を投げればミシュランの星がついたレストランに当たる。

しかしながら、日本の街づくりはまったく出鱈目で、こと都市開発に関していえば、日本は後進国の烙印を押されるのではないかと思います。

まず、日本の各都市にありそうでないのが、「近代的都市」とか「高層ビル建設ラッシュ」。

日本の各都市のど真ん中には、ペンシルビルや小さな二階建てがせせこましく存在しますし、駅前の商業地域も零細商店主が、意地になって路面一等地を死守し、高度化・集積化を峻拒します。
このように地方都市の中心部の土地の零細地主が、小さな土地に固執し、極度に排他的なため、地方の駅前再開発は遅々として進まず、現在は予算不足もあり、無残に頓挫してしまっています。

その結果、郊外の分譲住宅地の方が先に開発が進み、モール等の商業集積地帯が次々とでき、郊外の方がはるかにすみやすい開かれた街になっていきます。
実際、地方に行くと、「地方の駅前のシャッター街」も目につきますが、他方で「郊外にモダンで洗練された街並み」が以外に多く存在することに気づきます。

私には、「地方の駅前のシャッター街」は、商業地域の零細地主の土地への執着と排他性が仇になり、自分で自分のクビを締めた結果であり、自業自得としか思えません。
ある地方都市では、かつて強硬に大型スーパーの出店に反対していたにもかかわらず、今となっては、スーパーが撤退しようとすると「生活できない」と大反対する。「一体、どの口が言う」という感じです。

以上のとおり、主に土地収用がネックになり(さらに言えば、都市中心部の零細地主たちの意識の低さが仇となって)、経済大国と評される日本では、街の中心で高層ビルが建設されるのは非常に稀となってしまい、「建設中の建物」といえば、中途半端なショボいマンションか、僻地の無用な「箱モノ」ばかりという状態になってしまっています。

「街の中心部に近代的なビルができる。それだけで話題になり、ビルに人だかりができる」・・・・こういう後進国と同じ現象が普通にみられるくらい、日本は、都市の近代化とは無縁な国なのです。

日本がここまで都市の近代化が遅れてしまうのは、経済合理性を超越して土地に異常なまでに執着する国民性と関係しているのだと思います。
そして、個人的には、都市空間の有効利用のため、都心の土地については私権を大幅に制約し、「再開発のための土地収用」を柔軟に認めた方がよいのではないかと思っています。

「再開発のための土地収用」は、15年ほど前まで「地上げ」と呼ばれ、日本では随分外聞が悪い行為になってしまいましたが、「地上げ」そのものよりも「公共的意味合いをもつ都市空間を個人の都合で合理的利用を峻拒する零細土地所有者や利用権者の自己中心的な態度」の方がはるかに行動として問題があるのではないでしょうか。

ちなみに、お隣中国は土地が公有制なので、街づくりのし易さは日本の比ではないでしょう。

六本木ヒルズのように市街地再開発事業が成功するような稀な場合はさておき、「ネコの額ほどの土地にしがみついて、私利私欲で、限られた都市空間の利用を妨害する、セコくて排他的な、土地中心部の小地主」がいる限り、日本の都市は20年たっても今のように汚いままかもしれません。
アジアには開発独裁に成功している例が多く、バランス感覚に優れた偉大な指導者が出れば、中国はあっという間に、都市空間の創造において日本を追い抜いてしまうかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.023、「ポリスマガジン」誌、2009年7月号(2009年6月20日発売)