00135_「訴えてやる!」と言われた場合の対処法_20211020

今回は、弁護士らしいお話です。

日常の口論でも、喧嘩がエスカレートすると、
「訴えてやる」
「出るとこ出てやる」
「裁判沙汰だ」
といった物騒な言葉が飛び交うことがあります。

こういうおどろおどろしい言葉で詰め寄られた場合、皆さん、どうされますか。

こういう有事における対処法は、意外と知られておらず、無駄にビビって、相手の言いなりになって、詫び状書いたり、念書書いたりして、やがて、そこからズルズルと
「やられたい放題やられていく」
という
「必敗」パターン
にはまり込んでいきます。

え、じゃあ、無視していいのでしょうか。

「無視したら、大変なことになるのじゃないか」
「『訴えてやる』という相手の威嚇を無視して、本当に大丈夫なのか」
「万が一、訴えられたら、より大変なことになって、それこそ地獄を見る羽目になるのではないか」
「とすると、訴えられることを回避するため、相手をなだめ、なんとかその場で話し合う方向で妥協した方がいいのではないか」
「弁護士は、他人事だと思って、いい加減なことを言ってるのではないか」
「というより、弁護士としては、揉め事起こった方が仕事になるから、仕事欲しさに煽ってるのじゃないか」
と無視するという態度決定を否定するいろいろな想像が頭を駆け巡ります。

しかし、民事で揉めて
「訴えてやる」
と言われた場合、弁護士として推奨する正しい対応は、無視であり、
「どうぞ裁判でも何でも、起こしたかったら起こしてください」
という突き放しなのです。

もちろん、本当に訴訟が提起される場合もないとはいえませんが、その確率は極めて低く、こういう
「訴えるぞ」
という脅し文句を絶叫する場合、単なるハッタリとしての捨て台詞であることがほとんどです。

こう言い切れるのは、訴訟の本質に根ざす事情に基づきます。

すなわち、訴訟を提起するといっても、裁判を行う場合、原告の負担があまりにも重く、訴訟を一種の
「プロジェクト」
と考えると、1万円札を10万円で買うような、無茶苦茶、コストパフォーマンスが悪い、
「キックオフした瞬間に、経済的敗北が確定する」
というくらい、厳しい負担が生じるものだからです。

というのは、民事裁判制度というゲームの構造が、原告にとってあまりに不愉快なシステムとして設計されているからです。

違法や不正義に遭遇したときに、被害者がこれを申し出て、権力的に解決する制度として、裁判制度というものが存在します。

よく、論争や見解対立が紛糾したりすると、
「出るとこ出たる」
「裁判を起こしてやる」
「公の場で白黒はっきりつけてやるから覚えとけ」
といった趣の売り言葉に買い言葉が応酬される場面に出くわしたりすることもあります。

しかしながら、裁判制度の現実を考えると、実際に訴訟を提起することはかなりの困難が伴い、さらにいえば、
「訴訟を提起する側は、提起しようとした瞬間、莫大な損失を抱えてしまい、経済的な敗北が確定する」
ともいえる状況が存在します。

なぜなら、民事問題の解決のため裁判制度を利用するには、莫大な資源動員が要求されるからです。

刑事事件として警察や検察等が動いてくれれば格別、民事の揉め事にとどまる限り、どんなに辛く、悲惨で、酷い状況に遭遇しても、被害者原告が、裁判を起こさない限り、国も世間も、基本的に、状況改善のために指一本動かしてくれません。

もちろん同情くらいはしてくれるでしょうが、同情を買うために愚痴を言い続けても、愚痴を聞く側もそれなりにストレスがたまるので、だんだん愚痴を聞いてくれなくなります。

それでも愚痴を言い続けて嫌がられると、友達までも失っていきます。 

「じゃあ、愚痴言ってるヒマがあれば、とっとと、さくっと、すぱっと、裁判を起こして、解決してもらえればいいじゃん!」
ってことになるのですが、これが、口で言うほど簡単ではなく、それなりの成果が出るように、真面目にやるとなると、気の遠くなるようなコストと手間暇がかかるのです。

無論、弁護士費用や裁判所の利用代金(印紙代)もかかりますが、この外部化されたコストは、費消される資源のほんの一部にしか過ぎません。

実際、訴訟を起こすとなると、原被告間において生じたトラブルにまつわる事実経緯を、状況をまったく知らない第三者である裁判所に、シビれるくらい明確に、かつ、わかりやすく、しかも客観的な痕跡を添えて、しっかりと説明する必要があります。

裁判所は、
「あいつは悪いやつだ」
「あいつは嫌われている」
「あいつはむかつく」
「あいつの評判は最悪だ」
とか、そんな、主観的評価にかかわるようなことにはまったく興味はなく(むしろ、この種の修飾語の類いはノイズとして嫌悪される)、聞きたいのは、事実だけです。

すなわち、客観的なものとして言語化された体験事実を、さらに整理体系化し、文書化された資料を整えることが、裁判制度を利用するにあたって、絶対的に必要な前提となるのです。

この前提を整える責任は、原告にのみ、重く、ひしひしと、のしかかり、世間も裁判所も、誰一人手伝ってくれません。

それどころか、少しでも、この前提に破綻や不備があると、相手方はもちろんのこと、裁判所も
「このあたりの事実経緯が不明」
「この点をしっかりと、根拠をもって説明してもらわないと、裁判がこれ以上進まない」
「もうちょっと、ストーリーを整理してくれないと困ります」
と言って、ツッコミを入れ、裁判が成り立たなくなるような妨害行動(といっても、これは原告の主観的心象風景であって、裁判所や相手方からすると、「裁判をおっぱじめるなら、おっぱじめるで、テメエの責任で、きちんとストーリー作ってこい!」という、ある意味当たり前のリアクションをしているだけ)を展開します。

このように、裁判システムは、ボクシングやプロレスの試合に例えると、原告が、ひとりぼっちで、延々とリングというか試合会場を苦労して設営し、ヘトヘトになって試合会場設営を完了させてから、レフリー(裁判官)と対戦相手(被告・相手方)をお招きし、戦いを始めなければならないし、さらにいうと、少しでも設営された試合会場ないしリングに不備があると、対戦相手(被告・相手方)もレフリー(裁判官)も、ケチや因縁や難癖をつけ、隙きあらば無効試合・ノーゲームにして、とっとと帰ろう、という態度で試合進行に非協力的な態度をとりつづける、というイメージのゲームイベントである、といえます。

こう考えると、裁判制度は、原告に対して、腹の立つくらい面倒で、しびれるくらい過酷で、ムカつくくらい負担の重い偏頗的なシステムであり、
「日本の民事紛争に関する法制度や裁判制度は、加害者・被告が感涙にむせぶほど優しく、被害者・原告には身も凍るくらい冷徹で過酷である」
と総括できてしまうほどの現状が存在するのです。

だから、
「訴えてやる!」
という威嚇を受けたら、
「どうぞ、どうぞ。訴状をお待ちしております」
と軽く受け流すことが、戦略的に最も推奨される対応という言い方ができるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.169、「ポリスマガジン」誌、2021年10月号(2021年9月20日発売)