00066_成功者たちは割引券や会員証をもたない_20090820

社会的・経済的に成功した方たちと、そうでない方とのライフスタイルや行動哲学で気がついたことを少しお話ししたいと思います。

最近、いろんな小売り店で、お客さんを呼び込もうと割引券や会員証が発行されます。

しかし、社会的に成功した方たちが持っていそうで持っていないものの代表選手が、この手の割引券や会員証の類です。

確かに、さまざまな割引券や会員証を使いこなし、数々の特典をうまく利用している方々は多数いらっしゃいますし、雑誌でも「ポイントやマイルを使いこなせ」等といった特集が組まれることがあります。

割引券や会員証を巧みに使いこなしておられる方々は、一見すると、非常に目先が利いて知能が高いような印象を受けますが、この種の方々で社会的・経済的に成功されているという方はあまりお見かけしません。

成功されている方の財布は実にシンプルな中身で、メジャーなクレジットカードや必要なIDカードの類は別として、小売店の会員証や割引券などほとんどお見かけしません。

私の想像ですが、成功者と呼ばれる方々は、自分の思考や哲学がしっかりしていて、自分の思考や哲学や行動を縛るようなものを自然と忌避するのではないでしょうか。

会員証や割引券があると、知らず知らずのうちに、経済的意思決定が影響を受けます。「安いから」「得だから」という理由で不要なものを買ってしまったり、食事をするのに、割引券が使える店に行くために不要な時間を費消してわざわざ遠回りしてしまったり、実に無駄が生じてしまいます。
それ以上に、常に会員証や割引券に誘導されてしまうと、本当に自分が買いたいものや食べたいもの、行きたいところややりたいことがわからなくなってしまいます。

会員証や割引券などがなくて被る経済的不利益はわずかなものですが、発行企業の思惑にしたがってしまうことは、経済人としての意思決定がゆがめられてしまい、ついには、「意識すらしない形で発行企業の思い通りに動き、消費するだけの人間」に成り下がってしまい、経済人としての自我を喪失する危険があるといえます。

何らかの分野で成功し、一角の地位を築く人たちというのは、マジョリティの人間と比べて感覚が鋭敏であるため、自己の思考や尊厳を脅かすこの種の他律的支配を皮膚感覚で不愉快と感じ、忌避するのでしょう。

私がよく行くある店では、店員の方から精算の度に「会員証をお作りしましょうか」と笑顔で聞かれます。

無論、その店の利用頻度は高く、会員証を作って提示すればささやかな経済的メリットが享受できることは明らかです。
しかし、私は当該会員証を作ることは長らくしませんでした。自己の尊厳とか哲学とかそういった高尚な理由ではなく、財布が分厚くなるのがイヤだったのと、何だか貧乏臭いと思ったからです。

その後、社会的成功者と呼ばれるクライアント企業のトップの方々が前記のように会員証とか割引券を携帯していないことに気づいてから、この種の会員証を作ることを控えるようになりました。

その結果、以前に比べて自分がすごく自由になったような気がしました。
会員証や割引券のように「普段何気なく使っているもので、自分の自由を狭めているようなもの」というのは探してみると結構あると思いますが、そういうものを捨て去ってみると世界が違って見えてくるかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.024、「ポリスマガジン」誌、2009年8月号(2009年7月20日発売)

00065_都市開発後進国ニッポン_20090720

私は、日本は世界で一番すみやすい国だと思っています。

水はおいしい、空気はキレイ。
官僚は公平で優秀。
夜中に酔っぱらって歩いていても襲われることなく、石を投げればミシュランの星がついたレストランに当たる。

しかしながら、日本の街づくりはまったく出鱈目で、こと都市開発に関していえば、日本は後進国の烙印を押されるのではないかと思います。

まず、日本の各都市にありそうでないのが、「近代的都市」とか「高層ビル建設ラッシュ」。

日本の各都市のど真ん中には、ペンシルビルや小さな二階建てがせせこましく存在しますし、駅前の商業地域も零細商店主が、意地になって路面一等地を死守し、高度化・集積化を峻拒します。
このように地方都市の中心部の土地の零細地主が、小さな土地に固執し、極度に排他的なため、地方の駅前再開発は遅々として進まず、現在は予算不足もあり、無残に頓挫してしまっています。

その結果、郊外の分譲住宅地の方が先に開発が進み、モール等の商業集積地帯が次々とでき、郊外の方がはるかにすみやすい開かれた街になっていきます。
実際、地方に行くと、「地方の駅前のシャッター街」も目につきますが、他方で「郊外にモダンで洗練された街並み」が以外に多く存在することに気づきます。

私には、「地方の駅前のシャッター街」は、商業地域の零細地主の土地への執着と排他性が仇になり、自分で自分のクビを締めた結果であり、自業自得としか思えません。
ある地方都市では、かつて強硬に大型スーパーの出店に反対していたにもかかわらず、今となっては、スーパーが撤退しようとすると「生活できない」と大反対する。「一体、どの口が言う」という感じです。

以上のとおり、主に土地収用がネックになり(さらに言えば、都市中心部の零細地主たちの意識の低さが仇となって)、経済大国と評される日本では、街の中心で高層ビルが建設されるのは非常に稀となってしまい、「建設中の建物」といえば、中途半端なショボいマンションか、僻地の無用な「箱モノ」ばかりという状態になってしまっています。

「街の中心部に近代的なビルができる。それだけで話題になり、ビルに人だかりができる」・・・・こういう後進国と同じ現象が普通にみられるくらい、日本は、都市の近代化とは無縁な国なのです。

日本がここまで都市の近代化が遅れてしまうのは、経済合理性を超越して土地に異常なまでに執着する国民性と関係しているのだと思います。
そして、個人的には、都市空間の有効利用のため、都心の土地については私権を大幅に制約し、「再開発のための土地収用」を柔軟に認めた方がよいのではないかと思っています。

「再開発のための土地収用」は、15年ほど前まで「地上げ」と呼ばれ、日本では随分外聞が悪い行為になってしまいましたが、「地上げ」そのものよりも「公共的意味合いをもつ都市空間を個人の都合で合理的利用を峻拒する零細土地所有者や利用権者の自己中心的な態度」の方がはるかに行動として問題があるのではないでしょうか。

ちなみに、お隣中国は土地が公有制なので、街づくりのし易さは日本の比ではないでしょう。

六本木ヒルズのように市街地再開発事業が成功するような稀な場合はさておき、「ネコの額ほどの土地にしがみついて、私利私欲で、限られた都市空間の利用を妨害する、セコくて排他的な、土地中心部の小地主」がいる限り、日本の都市は20年たっても今のように汚いままかもしれません。
アジアには開発独裁に成功している例が多く、バランス感覚に優れた偉大な指導者が出れば、中国はあっという間に、都市空間の創造において日本を追い抜いてしまうかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.023、「ポリスマガジン」誌、2009年7月号(2009年6月20日発売)

00064_休暇の過ごし方_20090620

この原稿は、ゴールデンウィーク明けに執筆しています。

本稿が世に出るころには、すでに旬の話題から外れてしまっていると思いますが、祝日の並びがよく大型連休と言われた今年のゴールデンウィークですが、ETCを設置した自動車の高速料金が1000円になるという割引システムのため日本全国の高速道路が史上空前の渋滞となるという事件(いわゆる「1000円渋滞」)と、豚インフルエンザ発症による空港検疫強化による海外旅行の混乱(「豚インフルエンザ問題」)で、トラブルと混乱に終始したものでした(注:2009年5月ころの話です)。

もともと人込みが大嫌いな性分な私は、例年どおり、ゴールデンウィークは都内で過ごしました。家族・親族と家で食事をしたり、読書をしたり、神社にお参りをしたり、資料や本の整理をしたり、その他普段できない雑事を片づけたり、という極めて地味な過ごし方です。

こういう私からすると、大渋滞の真っ只中に車で何時間もかけて阿鼻叫喚常態の観光地に出向いたり、感染の危険が飛躍的に高まる飛行機に搭乗してすでに感染症が発症している外国に旅行したりするのは、まったく理解できない行動です。

このような理解できない行動を取るのは、現在子連れ家族世代の中核を占めるである昭和40年代生まれに特有の現象だと思われます。
この年代の方々はバブル期に青春時代を迎えておりますが、バブル期は「休み=遊ばなければ損」という強迫観念が蔓延していた時代です。
すなわち、現在40代前後のオトーサン方、オカーサン方は、「連休」という言葉を聞くだけで、アタマの中で妙なスイッチが入ってしまい、「遊びに行かなければ損」「外出しなければ損」という意味不明な強迫観念にとらわれてしまい、混乱と疲労を承知で地獄のような強行軍を開始するのではないか、と推察されます。

休暇というのは、「自分を束縛する何か(仕事や義務)から解放されて、自由を味わう」ことに本来の趣旨があると思いますし、肉体的な解放感もさることながら、気持ちの面でも「休み=外出して遊ばなければならない」といった強迫観念から解放されないことには、休暇の意味がないような気がします。

最近あるニュース番組で特集があり、「最近の若い世代は、休みの日に外出せず、家でゆっくりしたり、家に友達を呼んで食事したりするといった、実に地味な過ごし方をしている。また、全般的に消費意欲に乏しく、お金を使いたがらない」といった趣旨の報道がされていました。

番組全体を通して、以上のような若い世代の地味なライフスタイルに対して奇異な視線で眺めるような番組作成者の意図ないし姿勢が窺えましたが、このような意図ないし姿勢に対しては、私は非常な違和感を覚えました。
また、若い世代の上記傾向について「不況や世代的な所得配分の歪みが消費を停滞させている」といった分析も披瀝されていましたが、私はこれも間違っていると思いました。

若い世代が休日に地味な過ごし方をするのは、貧乏だからではなく、また何かガマンしているわけでもないのだと思います。今の若い世代は、前記のようなバブル期世代特有の強迫観念から自由であり、自分が快適で自由と感じる休みの過ごし方を選択しているだけです。
たとえ空前の好景気が到来し、若い世代の所得状況が劇的に改善したとしても、今の若い世代は、自分のペースを崩すことなく、地味ながら快適で自由な休暇の過ごし方を選択するでしょう。
こんな特集をみた直後、別のニュースで、地獄のような混乱の様相を呈する駅やサービスエリアや空港の様子が中継され、子連れのオトーサン方の疲労困憊した顔が映し出されました。
バブル期世代のオトーサン方の、やつれて、不自由で不幸な表情をみるにつけ、地味な休暇を過ごす今の若い世代の方がはるかに自由で賢明でシアワセにみえてしまいました。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.022、「ポリスマガジン」誌、2009年6月号(2009年5月20日発売)

00063_夢も想像力もない受験生に日本の未来は託される_20090220

よく、学校教育の現場で、「子供たちには明るい未来を考えさせよう」「子供にスケールの大きな構想力を身につけさせよ」「豊かな想像力を子供たちに」ということが標語として掲げられたりするのをみかけます。

もちろん、こういう能力を身につけることが有害とまではいいませんが、子供たちには、不確実な未来のことを大雑把に考えることよりも、もっと卑近で大事なことがあります。

子供には、将来宇宙パイロットやプロ野球選手になったときのことを考えるより、明日、明後日の宿題を地味に、きっちり仕上げることに専念させるべきです。

乏しい情報と未熟な社会経験をもとに粗雑な社会構想をする暇があれば、目の前の課題克服にこそ注力すべきです。

もちろん、想像力は大事です。ただ、想像力といっても、根拠のない希望的観測を膨らませる「妄想力」を養っても、社会への不適応者を増やすだけで、却って有害です。子供は「問題文の行間に隠された出題者の真意を読み取る」ための想像力を養うべきですし、また、悲観的な想像力を目一杯働かせて試験当日の様々なリスキーな状況をシミュレーションし、適正な準備と危機対処の一助とするのであれば、想像力の駆使も有用です。

各種受験に成功することにより、格差固定社会において階級上昇のきっかけを掴もうとする野心的な子供たちは、前述のような無内容な教育標語を一切無視し、非現実的で意味のない妄想を排し、受験準備において、黙々と卑近で地味な勉強に終始します。

テレビなどで、11、12才の子供たちが中学受験に真摯に取り組む様子を奇異な目で眺め、「人生、受験勉強だけじゃない」「受験戦争に狂奔する子供たち」「受験勉強以外の幅広いことを学ばないとロクな大人にならない」などと批判的な意見を呈する輩がいます。

資本主義社会における熾烈な自由競争・能率競争の現場においては、「希望的観測と妄想力に満ち、非現実的な思考に陥って、地味な情報収集や緻密な分析を怠る」ような人間が生き残るような余地は一切なく、こういう低劣な人間は、たちまち倒産させられ、あるいは財産を亡くすことを余儀なくされます。

このような淘汰の結果、資本主義社会において上層集団を形成する人種は、「徹底した現実主義者で、モレやヌケが大嫌いな完全主義者で、細かい再確認を怠らないような方々」が多数派を占めることになります。

資本主義社会の淘汰の仕組は、中学受験と同様のシステムで機能しており、「卑近な現実を軽視し、何事も希望的・楽観的に考えることから他人の悪意を見抜けず、モレやヌケが多い人間」はことごとく排除されるようになっています。

現在世界で大活躍する華僑やユダヤ人は、子弟の幼少期において、厳しい現実を察知するための思考力、批判精神、情報戦や経済競争を勝ち抜くためのインテリジェンスや危機対処力を身につけさせると聞きます。

日本における過酷な受験戦争は、「資本主義社会における競争のシミュレーション」としては最適なものであり、この過程を通じて、受験戦争への参加者は知的競争への対処スキル全般を身につけることになります。

「前述のような無意味で無内容な教育標語など無視し、競争社会の過酷な現実を直視し、地道な作業を厭わず、モレやヌケを徹底して排除すべく、前をみず、ひたすら後を振り返る、ソツがない、可愛げのカケラもない子供たち」が増殖する未来は、決して悲観すべきものではありません。 むしろ、日本の産業界が世界的競争を勝ち抜くためには、「現実を直視し、熾烈な知的競争を経験し、危機管理能力に優れた、可愛げのない子供たち」にこそ、未来が託されるべきです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.018、「ポリスマガジン」誌、2009年2月号(2009年1月20日発売)

00062_「委ねる」ことの難しさ_20080320

今年(注:2008年当時)に入って、中国産冷凍食品に有毒性の農薬が混入していた、という問題が発生しました。

問題が発生してから現在まで、販売者もメーカーも日中両政府もマスコミも「製造からスーパーに出回るまでのどの段階で、どのような形で農薬が混入したのか」ということを、さまざまな角度から検証する動きに出ています。

しかし、私は、農薬の問題は非常に瑣末な問題であり、かりに混入の詳細な経緯が明らかになっても、中国産冷凍食品の買い控え傾向は続くのではないかと思います。

テレビ等で中国現地における加工ラインの様子が紹介されましたが、現代の日本人の衛生感覚からは、当該加工ラインの衛生状況は明らかに容認の限界を超えています。というよりも、そもそも、日本人の口に入るものを中国の工場で生産するということに相当な無理があったのではないかとさえ思うのです。

この問題の背景には、冷凍食品メーカーが、「委託」すなわち「委ねる」ことの難しさを深く考えずに、目先のもうけに踊らされて、漫然と中国での生産委託ないし加工委託した、という経営判断ミスがあるように思います。

そもそも、物事には、委託に馴染むものと馴染まないものとがあります。また、委託に馴染むものであっても、委託するにふさわしい相手先とそうでないところというのがあります。

実際、職業上遭遇する事件には、「委ねる」ことにまつわる失敗が原因となった事件が実に多く存在します。

たいていの方が、「ラクをするため」「面倒くさいことから解放されたいため」「もうかりそうだから」という理由で、ロクな検証もフォローもせず、見ず知らずの人間に、財産や権利や印鑑を委ねてしまい、その結果、委ねられた方が勝手な行動をして、大きなトラブルが発生します。トラブルが委ねた相手方との間に留まっている間はいいのですが、たいていのケースでは、第三者を巻き込んで取り返しのつかない状態に陥っており、権利も財産も失くすことがほとんどですし、身に覚えのない債務まで負わされるケースすらあります。

このように、そもそも「委ねる」ということは大変難しく、チェックやフォローをせずに、ラクして丸投げしようとすると、必ず大きなツケを払わされます。

自動車部品や衣服やスニーカーや工作機械については、工場内の衛生状況や工員の衛生感覚はあまり考慮せず、一定の品質のものが安い工賃で作ることのみを考えて、中国その他の国に加工を委託することは実に合理的であり、市場にとって有益な選択といえます。

しかしながら、食品の生産や加工委託となると、自動車部品や衣服やスニーカーや工作機械と同じに考えるわけにはいきません。

レクサスにちょっとした傷がついていたり、アルマーニやゼニアのスーツにちょっとしたほころびがあっても、安く購入する人が存在し、その限りで市場性を有しますが、「少し腐って、食べたら腹痛がするかもしれない大トロ」や「ちょっと寄生虫がついたシャトーブリアン」などというのは、市場性がないどころか、有害な廃棄物にすぎません。

その意味で、食品には、一定の品質、それも衛生状況における絶対的な基準というものが存在しますし、これをクリアしない限り、どんなに廉価に生産・加工できても意味をなしません。 今後、日本向け食品を中国で生産・加工するというトレンドに大きな歯止めがかかることになるのでしょうが、私個人としては、この問題を教訓として、食品メーカーの経営陣が「委ねる」ことの難しさを再認識し、よりよき生産形態を構築していただきたい、と思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.007、「ポリスマガジン」誌、2008年3月号(2008年2月20日発売)

00061_「楽しく、ゴキゲンな人生を送る」上で役に立つ、「本には書かれていない、いくつかの知恵」

「楽しく、ゴキゲンな人生を送る」上で役に立つ、「本には書かれていない、いくつかの知恵」をご紹介したいと思います。

とはいえ、一般のビジネス書に載っているような、陳腐で退屈なキレイゴトの類ではなく、「欲望渦巻く資本主義社会の最前線で四半世紀余り、『企業参謀』とも言うべきビジネス弁護士を経験して機能的に獲得した知見の一端」ですので、それなりにお役に立つものであると思います。

1、「常識」とは「偏見のコレクション」(ゴキゲンな人生のために、非常識な想像力を働かせる)
世の中、大切なことほど、教科書には載っていませんし、親も学校の先生も先輩も、世の中のことをよくわかっていません。
また、そういう「ホンモノの知恵」は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

成功とは、非常識な方法によって得られた稀有な結果です。
常識や良識にしたがったところで、得られるものは陳腐な結果です。
さらに言えば、「常識」とは、「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」を指します。

「大きなプロジェクトの成功」は、例外事象であり異常現象です。

それなりに大きなビジネスや新規のプロジェクトは、フツーのことをフツーにやっていては成功などしません。
トラブルや想定外の事柄が次々生じます。
大きな事業・新規の事業を、公務員やフツーのサラリーマンや小学校の教師に常識的に取り扱わせたら、どうなるか、想像してください。
これらの事柄の対処には、常識や良識は通用しません。

「世間で評価される仕事というのは、あらゆる形式やモラルを排して遂行されているものだ」

これは、私が、若い方や後輩に常に言っている言葉です。
常識を疑い、常識の裏側や対極にあるものを想定し、非常識のアングルに立って物事を観察するクセをつけてみる。

そうすると、世の中には、イノベーションや改善の可能性、すなわち成功の機会がゴマンとあることに気づくはずです。

では、どうやって、「成功するための、正しい非常識」を身につけるか? 

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じてしか、この種の「非常識だが、理にかなった、資本主義経済社会をうまく泳ぎ切るための知恵」は手に入れることはできません。

2、ラックマネジメント(付き合う人間、接点をもつ人間を選ぶ)
以上のようなことから推奨されるのは、運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間と付き合うことです。

これは、ラックマネジメントの一種です。

負け犬同士つるむのは時間の無駄です。
そこから何も生まれません。

本に載っていない知恵を学び、運をもらい、時流を学ぶのは、外界や異界に通じ、「常識には反するが、経済的には理にかなった方法」をしびれるくらいのスピードで実現する、そんな、ミュータントのような人種です。
「あんなのは非常識だ」と強者を腐すことしかできない負け犬の集団から、その負け犬を反面教師として、突然変異的に、「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」が出て来る、ということはありえません。

学ぶとは、「真似ぶ」、すなわち、「真似る」から転じた言葉、と言われます。

その種の「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」は、常に、すでに成功した人間の近くにいて、非認知情報を含めてじっくり観察し、たんなるビヘイビアだけでなく、思考や哲学や価値観や生き方や美学に至るまで、徹底して模倣することによって、誕生するものです。

3、足を引っ張られないようにする(安全保障)
「強者や幸運な者と交わるべし」とはいうものの、負け犬を馬鹿にしたり、見くびったりするのは危険です。

「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、〝歴史的な力〟である。」

これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社、1993年、163頁)で書いていた一文です。

足を引っ張られないように、最低限の付き合いをして、人間関係が悪化しないように処置をしておいてください。これは、「安全保障」として重要な意味があります。


「中途半端に、優秀な人間」はアホの真似ができません。
「本当に、優秀な人間」は、アホになれます。
「アホ」以上に「アホ」ができます。
「本当にデキる人間」とは、「本当のアホよりも、頭悪そうに、平然と、ナチュラルに、アホの真似ができ、笑顔でアホと戯れることができる人間」のことを言います。

4、 時間を大切にしましょう
時間を大事にしてください。カネより、命より、健康より、大事なのは時間です。

ガンになったとき、医者がやっていることのほとんどは時間稼ぎです。
死ぬまでの時間を、1年を2年に、2年を4年にしているだけです。
一定程度進行したガンのほとんどは治りません。
絶対死にます。
カネとエネルギーと高度な医療技術をかけてガン専門医がやっていることは、死ぬまでの時間を先延ばしするための努力です。

逆に言えば、そのくらい、時間は貴重なのです。

カネがあっても時間は買えませんが、時間さえあれば、なんでもできます。
くだらないこと、無駄なことに費やす時間をなくしましょう。

「千里の道はジェット機で(制作/著作:井藤公量弁護士)」行くのが最も正しい。
千里の道を一歩一歩歩くような馬鹿げたこと、やっていませんか?

5、最後に(気軽に、ゴキゲンに、リラックスして行こう)

以上、かなり難易度の高い、一般的ではない、マインドセットやリテラシーをお伝えしました。

しかし、この程度のことを、肩に力を入れ、眦(まなじり)を決して、鼻息荒くして我武者羅にやる、なんて、品のないことはおやめください。

力を入れず、スマートかつエレガントに、周囲とうまく折り合いをつけながら、しれっとやってください。

ゴルフも、商売も、恋愛も、人間関係も、人生も、肩に力を入れて、いいことは一つもありませんから。

著:畑中鐵丸

初出:『治療家のための法律入門』第36回(終)、「ひーりんぐマガジン」第54号、特定非営利活動法人日本手技療法協会刊、

運営管理コード:HLMGZ35

00060_「倒産しそうな、ヤヴァい会社」との縁の切り方

自分の会社に将来性がなく、かつ新しいキャリア形成に向けた具体的かつ現実的な可能性を見つけることができ、自分のより大きな成長のために現在の勤め先を辞める場合の具体的方法について述べます。

会社側が従業員を解雇する場合には、法律上、大きな制約が課せられています。

私が、企業側の顧問弁護士として、クライアントである企業に解雇事件において助言をする際、
「『結婚は自由だが、離婚は不自由』と同じで、法律上『採用は自由だが、解雇は不自由』です。これを前提に事件の処理を考えましょう」
と必ず前置きをします。

しかしながら、これは、企業側が従業員を無理やり辞めさせる場合の話であって、従業員側が企業を見限るには、法律上何の制約もありません。

無論、社会人として、
「上司に早めに相談する、引き継ぎをきっちりやる、その他迷惑がかからないように配慮する」
といったことは推奨されます。

ですが、これらも所詮、礼儀・道徳のレベルの話です。

法律上は、「従業員は辞めたいときに辞められる」というのが大原則です。

企業や上司が、
「人手不足だから困るので辞めないでほしい」、
「育成責任を問われるから、私が異動になるまで辞めるな」
と退職に反対することがあります。

酷い場合、陰湿なイジメや有形無形の暴力を使って「辞めるな」と脅す場合もあるようです。

しかしながら、従業員がこのような横暴な要求に従う義務は一切ありません。

余りに酷い場合は、労働基準監督署(労働基準法第5条違反に基づく是正申告等)や弁護士に相談すべきですが、いずれにせよ、こういう専門家あるいは専門機関の手にかかれば、会社の妨害もすぐに止まります。

00059_自分の勤め先が「倒産しそうな、ヤヴァい会社」であった場合

自分の勤め先が
「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
だった場合、あなたとしてはどうすべきでしょうか。

まず言えることは、絶対あわててはいけない、ということです。

「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
であるからといって今日明日に会社が倒産する、とは限りません。

無論、
「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
は、長期的に見て淘汰される傾向にある、といえます。

だからといって、経営陣が考えや行動を改める場合がありますし、メインバンクや親会社や主要取引先が救いの手をさしのべ、梃入れのため経営陣を送り込み、生まれ変わる可能性も否定できません。

また、仮に会社が倒産状態に至ったとしても、
「破産」
ではなく、民事再生や会社更生といった
「再生型」手続
が選択された場合、経営陣が刷新され、会社がよみがえる場合もあります。

実際、東証一部上場の超優良企業である
牛丼チェーン「吉野屋」
ですが、今から年前の1980年ころに、実質的に破綻状態に陥り、会社更生法適用申請を行いました。

セゾングループがスポンサーになって無事立ち直り、その後、20年かけ、2000年に東証一部上場を果たしています。

ちなみに、牛丼チェーン店事業を展開する企業として有名な
「吉野屋ホールディング」
の経営トップを、42歳から22年間務め、
「ミスター牛丼」
と呼ばれた安部修仁氏は、吉野屋のアルバイトから正社員になった方で、破綻を経験し、そのまま残留して同社トップ、さらには業界リーダーにまで登りつめられました。

当たり前の話ですが、万が一、破産になったからといって、従業員にはまったく法的責任は及びません。

確かに、職探しをしなければならなかったり、給与がカットされる場合があるかもしれませんが、会社が破産して、経営者の人生が終わったからといって、従業員の人生も一緒に終わるわけではありません。

もちろん、
「倒産しそうな、ヤヴァい会社」
にお勤めの場合、
「自分の勤め先が今の状態で存続していくことはないかもしれない」
と想定し、自分を磨く上でもっといい会社がないか探してみたり、会社の人間関係を超えた人脈やネットワークを作り上げたり、あるいは会社がつぶれる場合に備えてキャリアアップのための資格取得を考えたりするのは実に合理的です。

ですが、何の準備もなく、
「なんとなくこの会社の先行きが不安だから、いきなり勤め先を辞めます」
というのはあまりに短絡的です。

第一、再就職をする際、面接で
「どうして急に前の会社を辞めたの?」
と聞かれても答えに詰まるだけです。

00058_「学ぶ」とは、模範対象を見つけ、模倣すること

「学ぶ」
という言葉は、
「マネぶ」、
さらに戻すと、
「真似る」
という言葉に由来します。

すなわち、何かを習得するのは、模範となるべきものを見つけだし、これを正確に模倣することから始まるのです。

話は少し脱線しますが、東大や京大などの難関国立大学に入学するような連中は、創造力が秀でているわけでも、人一倍学問センスがあるわけでもありません。

努力の絶対量についても同様です。

勉強時間が他の大学の受験生と極端に多いか、というと、実はそうでもありません。

東大に合格するような連中は、端的に言えば、模倣が得意なのです。

そして、模倣対象が身近にいるため、あれこれ想像力を働かしたり、情報を集めなくとも、
「どこを、どのように、またどの程度、模倣すれば、東大に合格できるか」
ということを簡単に理解・認識できる機会・環境に恵まれていただけなのです。

東大に多数合格者を輩出するような有名高校は、他校と比べて特別変わった内容の授業をしているわけでもありませんし、カリキュラムが特殊というわけでもありません。

東大進学校と呼ばれる高校は、
「東大に合格するようなポテンシャルをもった人間が多数かつ継続的に集まって集団を形成している」
ということが唯一かつ最大の特徴なのです。

このような集団においては、後輩たちが、先輩たちの行動を間近に観察し、模倣することにより、自然に東大に合格するために必要な努力の質や量や方向性を、一次情報・直接情報として取得できるのです。

そして、その環境こそが、東大合格にもっとも有利な条件となるのです。

このように、何かを学んだり、自分を成長させるためにもっとも必要なのは、教科書でもマニュアルでも反面教師でもなく、
「身近な模倣対象を探し出すことと」

「これを正確に模倣するための努力を惜しまないこと」
に尽きるのです。

ビジネスの世界でも、レベルアップするためには、本を読んだり、想像力を働かしたり、資格取得するだけでは全く不十分です。

ビジネスパースンとしての成長は、模範となるべき優秀な人間を見つけ出し、彼ないし彼女の、思想、哲学、構想力、企画力、段取り、行動、管理法を目の当たりにし、これを模倣することによってしか達成できないのです。

00057_「ご臨終間際の企業」とのつきあい方

生きていくための知恵はどこで身につけるか世の中で生きていくために、本当に大事なルールや段取りや考え方は、学校の教科書や文部科学省推薦図書に掲載されていませんし、学校の先生も教えてくれません。

というか、教師はこの種のことを知りません。

「人を信じるな。自分も信じるな。すべてを疑え」
「親や教師や目上の人間のいうことでも間違っていることがある」
「大手や役所と取引があるといって安心するな」
「どうやったら、効率的に金儲けができ、愉快に生きられるかを真剣に考えろ」
「どこに自分にとって快適な居場所があるかを真剣に考えろ。みつけたら、全てをなげうって、そこに最短経路でたどり着け」
「どういう人間と付き合うと出世し、どういう人間についていくと酷い目に遭うかをきちんと見極めろ」
「上品に失敗するより下品に成功する方がマシに決まっている。むしろ成功者や成金はたいてい下品に成功した後、上品に振る舞おうとするものだ。成功した後の上品な戯言は一切無視して、どうやって下品に成功したかをきっちりスタディしろ」
などといった、
「世の中をうまく生きていくための本質的なルール」
を身につけるためには、実地で学ぶことが必要なのです。

バカな会社やダメな会社に入っても何も得るものは全く皆無です。

ダメな会社やバカな会社に入っても、
「探せばどこかいいところがあるはずだ」
「ダメなところをそのまましないようにすれば自分としても成長の糧を得られる」
とポジティブな考え方をする人がいます。

その際、自分を納得させるために、
「反面教師」
という言葉が使われます。

曰く、
「反面教師という言葉があるじゃないか。この会社の経営のあり方を反面教師として、自分は成長するぞ」
と。

一般に、
「反面教師」
とは、
「悪い手本となってくれる事柄や人物」
のことを指すと考えられており、
「人のふり見て、我がふり直せ」
と同じ意味で使われることが多く、故事成語のように思われています。

由来について言えば、「反面教師」
という言葉は、古来の諺でも何でもなく、第二次世界大戦後、毛沢東によって開発された陰惨なリンチ手法を指すものです。

すなわち、毛沢東はある組織に、能力ないし思想に欠陥がある者がいた場合、あえて放逐せず、仕事や権限や尊厳を一切奪った状態で飼い殺しにし、その酷い状況で晒者にすることにより、制裁を加えるとともに、同様の人間の発生や増殖を防ぐという規律手段を用いたそうです。

そして、
「そのリンチの対象となった人物」
を指して
「反面教師」
と言ったそうです。

いずれにせよ、
「反面教師」
は、
「リンチのターゲット」「悪い手本」
ですが、ここから学ぶものは一つもなく、また、学んではいけないものです。

そして、学ぶが「真似ぶ」から転じたことから考えれば、近くにいて、絶対真似てはいけない悪例をどれだけ時間をかけて観察しても有害な意味しかありません。

むしろ、一刻も早く「反面教師」ないし「反面教師」が生息する環境から逃亡して距離を置き、「正面教師」「模範対象」「正しいお手本」の近くに行き(「謦咳に接する」という言葉がありますが、それこそ飛沫感染するくらい近づき)、真似び、学ぶことが正しい教育あるいはキャリア形成というべきです。

たとえば、ここに、東大を強く志望する、開成中学受験に合格した少年がいたとしましょう。

この少年を、あえて、
「教師も生徒もやる気のない、田舎のすさんだ公立中学」
に放り込んでしまいます。

この場合、少年は、周囲の人間や環境を
「反面教師」
として学んで、人として大きく成長して、無事東大に合格してくれるでしょうか。

逆ですね。

おそらく、そのまま開成に入って中高六年間を過ごせば、現役で東大に合格できたであろう少年は、一生東大に合格できないで終わることになるでしょう。

このように
「反面教師」
は、人間の健全な成長にとって有害無益なものなのです。

「目の前の残念な人間や環境を反面教師として成長するぞ」
などという文脈において語られる
「反面教師」
という言葉は、ダメな人間がダメな人間関係やダメな環境から抜け出す努力を放棄する際の自己正当化の弁解道具に過ぎません。

賢明な人間は、
「反面教師」
から全速力で逃げて遠ざかり、一刻も早く
「模範たる教師」
をみつけるための努力をするものです。