00019_いじめ問題解決の第一歩_20071120

最近、いじめ問題の報道が目につきます。

また、テレビなどで、「いじめ問題をどう解決するか」など討論される場面も多く見受けられます。

報道や議論は多いに結構なのですが、「いじめ」という便利なようで実体の希薄な概念を振り回している限り、問題は永遠に解決しないと思います。

「いじめ」という語感からは、「先生が気づいて注意すればすぐに解決するような、生徒間のちょっとしたいざこざ」という印象を受けます。

しかし、いじめの内容と質は、時代の変遷とともに、負の方向で驚異的な進歩を遂げています。

現代「いじめ」と称されるものは、未成年による毀棄隠匿行為、窃盗行為、名誉棄損行為、侮辱行為、暴行行為、傷害行為、脅迫行為、恐喝行為、強制猥褻行為、強盗行為、強姦行為、強盗強姦行為等です。

未成年者が関与するこれら犯罪行為については、加害者と被害者が同一教育機関に属する生徒である限り、すべて「いじめ」と呼称することがルール化されているようであり、状況を正確に表現しようとしても、犯罪用語の使用はよくわからない理由で御法度とされます。

いうまでもなく、「いじめ」といわれるものの実体である前記の各行為は、加害者と被害者が同一教育機関に属するか否かに関係なく、すべて悪質な犯罪です。

当然ながら、犯罪は教師の解決能力を超えた問題であり、本来、捜査機関による捜査と裁判所の判断を経て、法務省所轄の施設で矯正される等(保護という名の監視を含む)べきものです。

教育サービスの提供者に過ぎない教師が、犯罪行為を捜査し、解決し、犯罪者の矯正に責任を負うなどといったことは、できるはずもなく、また、してはいけないものです。

「できないこと」を「できない」と正直にいうのが恥と考えた教師達は、いつからか、「当校にいじめなど存在しない」等と驚くべき強弁をしはじめ、加害者と事後共犯的立場に立ち、被害者による告発を妨害し、犯行隠滅に加担するようになってきています。

マスコミも、「隠蔽された事実や隠蔽されようとしている事実を正しく伝える」という本来の役割を放棄し、いじめ問題に関しては、加害者に配慮した印象操作に進んで協力するようになっています。

例えば、ある中学校で恐喝事件が発生しても、マスコミは、事実報道の役割を放棄し、自主的に「○○中学で金銭要求のイジメが発生した」等と言い換え、事態の糊塗隠蔽に加担するようになっています。

子供は、我々大人が想像する以上にクレバーであり、「罪を犯しても、責任を追及されないし、教師とマスコミが隠蔽工作に積極的に協力してくれる」という状況を正確に理解しています。

こういう状況であれば、誰もが加害者の立場にたつ選択を行うのは自然かつ合理的であり、子供達も、状況に適応した賢い選択と行動をしているにすぎません。

ところで、物事の解決は、状況の客観的評価が必須の前提となります。

いじめ問題を解決するためには、まず、

「いじめと呼ばれるものは犯罪行為である」

「犯罪行為は、生徒間において生じたものであるか否かを問わず、教育問題ではなく、法律問題である」

という事実を冷静に受け止めなければなりません。 このような観点に立ち、「いじめ」問題の解決の第一歩として、教師は、自らの能力の限界を認識して犯罪解決から手を引いて事件を速やかに司直に委ね、マスコミも、「いじめ」等という曖昧な表現の安易な使用をやめ、「犯罪」は「犯罪」として正確な事実報道に努め、正しい議論のための正しい情報の提供に努めることを始めるべきだと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.003、「ポリスマガジン」誌、2007年11月号(2007年11月20日発売)

00018_場違いな主婦感覚_20071020

かなり前の話になりますが、ある県に女性知事が誕生したことがきっかけとなり、建設が予定されていた新幹線の駅が建設中止となるというできごとがありました。

その大きな理由は「(駅をつくるのは)もったいない」というもので、当時、「女性ならでは」とか「今の政治に欠けている主婦感覚」とかいう肯定的評価がされていました。

最初に断っておきますが、私は、女性や主婦の皆様を差別する感覚を持ちあわせていません。

加えて、同業者や同水準の収入の方に比べて、質素倹約の精神を非常に大事にしています。日常生活において、大好きな言葉は「もったいない」「まだ使える」ですし、おそらく、節約の精神と能力にかけては、若い主婦の皆様に負けることはないでしょう。

私は、そのくらい、主婦感覚は大事にしていますし、「もったいない」精神が旺盛ですが、そんな私ですら、先ほど述べた女性知事の主張や行動には、強い違和感を感じてしまいます。

国や社会システムの設計・管理・運用は、台所の切り盛りとは著しく異なります。

インフラ(インフラストラクチャー)といわれるものは、すべからく無駄の固まりです。

道路や橋や学校や役場や病院や老人ホームや児童館や公民館なんて利用者以外にとっては邪魔なだけですし、警察も自衛隊も税務署や消防署もお世話にならない人間にとっては無駄そのもの。

「もったいない」感覚を研ぎ澄ますのであれば、新幹線の駅一つを作らないことより、学校や病院や老人ホームや児童館をぶっ潰す方がよほど理に適っています。

歴史上不朽の世界帝国を築いた古代ローマは、どんな僻地にでも、莫大なコストをかけて平坦で使いやすい道路を敷設し、ローマを中心とした高速ネットワークを完成したほか、各都市においても上下水道や学校や公衆浴場等のインフラをおしみなく提供しました。 

ローマ人は、派手好きなギリシャ人に比べ、質実剛健・質素倹約の精神にあふれていたとされますが、ことインフラの整備にかけては「もったいない」精神は封印し、カネを湯水のごとく使ったようです。

政治、すなわち、法律に基づいて税金を使う活動は、本質的に「無駄で」「もったいない」ものばかりです。

政治が「無駄遣い」であることは避けられない以上、荒っぽい言い方をすれば、「将来に生きる無駄遣いの選択」をするいい政治と、「将来を考えない無駄遣いの選択」をする悪い政治の二種しかあり得ません。

日本についていえば、新幹線や道路や空港はまだまだ足りないと思います。リニアや第二東名なんて将来確実に日本の発展に寄与しますから、カネがかかっても早急に作るべきです。無論、建設行政の透明化や財政の均衡回復は、別途の課題として進めていくべきだと思いますが、「もったいないから、将来の社会に役立つインフラ作りそのものを止めてしまえ」という乱暴な議論はまったく理解できません。

話は変わりますが、日本において出生率が急激に減少しています。

仄聞するところによると、「子供はカネや手間がかかるので、子供を作ることは、総じてもったいない行為である」という感覚を、若い世代が強く有していることも一因のようです。

個人の経済感覚としてはまことに正しい感覚ですが、将来展望という点ではひどく方向性を誤った感を抱くのは私だけでしょうか。

子供というのは将来の日本の発展のために必要な「究極のインフラ」なわけですが、件の知事の「もったいないからインフラ作りをやめる」という主張は、「お金がかかるから子供は作らない」という今時の若い世代の言い分の愚かさと、なんとなくかぶってしまいます。

「もったいない」感覚も結構ですが、何事もTPOが大切です。 将来を構想すべき政治の世界に主婦感覚が持ち込まれることは、ひどく場違いで、バカげた印象をもってしまいます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.002、「ポリスマガジン」誌、2007年10月号(2007年10月20日発売)

00017_安全神話を回復するために_20070920

平成に入ってから、「食の安全」「原子力発電の安全性」ということが叫ばれはじめ、また、「安全神話が崩壊した」などという報道を多くみかけるようになりました。

しかし、よく考えてみますと、日本において科学技術や安全に対する考え方は日々進歩しており、昭和の時代に比べて、社会は確実に安全で住みやすくなっているはずです。

にもかかわらず、日本社会が安全でなくなったような気がするのは、日本において「安全性そのもの」が失われたのではなくて、「安全性」を最終的に保証してくれるべき人間がいなくなったということなのだと思います。

「トップの顔がみえる組織」という言葉がありますが、かつて、国や企業などの大きな組織のトップは、誰もが強烈な個性を有していました。

ソニーやホンダの個性豊かな創業者は誰もがよく覚えていますが、現在のソニーやホンダの社長がどういう人で、どういう個性と哲学をもっており、会社をどのような方向にもっていこうとしているのか、よくわかりません。

かつての「顔」をもったリーダーたちは、危機が到来したときにこそ、その強い個性を堂々と発揮し、安全や信頼の崩壊を食い止めていたような気がします。

最近のトップは、不祥事が発生すると、記者会見はするものの、妙におどおどしたり、コソコソしたりして、個性を極力出さず、目立たずに済まそうとする傾向があります。

不祥事がなくてもコソコソぶりは変わりません。

株主総会は、トップが個性や哲学を最大限アピールできる格好の場であるにもかかわらず、ほとんどの企業のトップは、波風立てずに、事務的に済ませようとします。

無論、「組織の顔」として強烈な個性を発するからには、裏付けが必要です。

すなわち、絶対的な自負と責任感があってこその個性です。

危機に際して、トップが無個性な対応をするのは、おそらく、自負と責任感を喪失しているからなのでしょう。

しかし、そんな対応では、安全や信頼の回復の困難性が露骨にわかってしまい、無用に不安がかきたてられます。

その昔、よど号という飛行機がハイジャックされたとき、後に「男、山村新治朗」と呼ばれた当時の運輸政務次官は、飛行機に単身乗り込み、自分の身を差し出し、人質となっていた一般市民を解放しました。

安全や神話が崩壊したときに、これらを回復するのは、こういう露骨なまでに個性的な対応です。

中国産の食品の安全性や信頼性を回復するために食品輸入商社の社長とその家族が毎日自社輸入食品を食べている様子を克明にアピールするとか、原子力発電の安全性を理解してもらうために、電力会社の社長と家族ともども原子力発電所に隣接する地域に引っ越すとか、「男、山村新治朗」に負けない個性的な対応はしてくれないのでしょうか。

この世の中に絶対安全などということはありませんし、大なり小なり危険やリスクを受け入れないと社会は成り立ちません。

安全神話は、「神話」という言葉のとおり、どこまでいってもフィクション(虚構)にすぎませんが、そんなことは、我々市民は、皆わかっています。 我々市民が危機に際してトップに求めているのは、小難しい言葉で事故原因や今後の対応を、正確かつ控えめにボソボソ語で語るのではなく、強い個性を発揮し、大きな声で、ウソでもいいから、身体を張って安全であることを保証してくれることなのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.001、「ポリスマガジン」誌、2007年9月号(2007年9月20日発売)

00016_人生をうまいこと送るためのリテラシーその3(完):「安全保障を忘れず、時間を大切に、そして、肩の力を抜いて、気楽に、気軽に」

人生をうまいこと送るためには、人間関係の形成・構築(とリストラ)も重要、ということで、前回、「成功した人間の近くにいて、非認知情報を含めてじっくり観察し、たんなるビヘイビアだけでなく、思考や哲学や価値観やスタイルや生き方や美学に至るまで、徹底して模倣」しましょう、と言いました。

とはいえ、安全保障課題として、足を引っ張られないようにすることも大切です。

強者や幸運な者と交わるべし、とはいうものの、負け犬を馬鹿にしたり、見くびったりするのは危険です。

「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、”歴史的な力”である。」

これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社、1993年、163頁)で書いていた一文です。

 足を引っ張られないように、最低限の付き合いをして、人間関係が悪化しないように処置をしておいてください。これは、「安全保障」として重要な意味があります。

「中途半端に、優秀な人間」はアホの真似ができません。

「本当に、優秀な人間」は、アホになれます。
「アホ」以上に、「アホ」になりきり、「アホ」ができます。
「デキる人間」とは、「本当のアホよりも、頭悪そうに、平然と、ナチュラルに、アホの真似ができ、笑顔でアホと戯れることができる人間」です。

こういう点に関して、私がリスペクトする芸能人は(中略)です。

マジで、(中略)のようになりたい、と思っています。

(中略)は、一般的には、おバカで天然なタレント、と言われています。

ですが、違います。私は、知っています。

(中略)は、バカでも天然でもありません。

緻密に計算されつくし、完璧に作られたキャラです。

(中略)のお父さん、某B国籍の(中略)氏は、詐欺容疑で国際指名手配を受けたことのある、世界を股にかけて活動している、著名な方です。

容疑が事実であるとすれば、国際詐欺師です。
私の小さいころからの憧れの人物、「ルパン三世」と同じランクの人物です。

国際詐欺師は、バカでドンくさく、気の利かない人間では務まりません。

頭が切れ、英語ができ、エレガントに振る舞え、国際社会を知り尽くし、行動力があり、大胆不敵で、柔軟に対応でき、何より、人を魅了する(中略)、もといオーラがないと、絶対できない商売です。

教師や公務員やサラリーマンや専業主婦の方々といった、ごく普通に暮らしておられる善男善女の皆様、それに、私のような「知能もイマイチ、度胸も根性もなく、机の上で、刺激のない、平凡な仕事を地味に行うしか能のない、市井の凡人」などは、何回生まれ変わってもなれないのではないでしょうか。

そんなお父さんのDNAを引き継ぎ、長く一緒に暮らしていた(中略)がバカなわけがありません。

確実に、ドえらいIQをもって、冷徹な計算をし尽くし、シビアな商売人の気質をもっているはずです。

だから、すごいんです。

究極です。

まさに、タレント(a talented person。天賦の才能ある人間)なのです。

え?よく理解できない?

「えーとね。そうねー。そうだねー。うーん。多分あなたにはわからないと思うー。かな。んふふふっ。」

話は変わります。
楽しい人生を送るためには、貴重な資源を無駄に使わないようにすべきです。

世の中で最も貴重な資源は何か?

それは時間です。

時間を大事にしてください。

カネより、命より、健康より、大事なのは時間です。

ガンになったとき、医者がやっていることのほとんどは時間稼ぎです。
死ぬまでの時間を、1ヶ月を3ヶ月に、3ヶ月を1年に、1年を2年にしているだけです。

ほとんどのガンは、一定程度進んだら、まず治りません。
絶対死にます。
そんなある程度進んだガン患者に対して、カネとエネルギーと高度な医療技術をかけてガン専門医がやっていることは、死ぬまでの時間を先延ばしするための努力です。

逆に言えば、そのくらい、時間は貴重なのです。

カネがあっても時間は買えませんが、時間さえあれば、なんでもできます。

くだらないこと、無駄なことに費やす時間をなくしましょう。

知り合いの弁護士の名言です。

「千里の道はジェット機で」(制作/著作:井藤公量弁護士)

千里の道を、バカみたいに、一歩一歩歩いていませんか?
時間の無駄です。

「千里の道はジェット機で」行くのが最も正しい。

昔の映画に出てきたアフリカのブッシュマンは、千里の道を歩くことしかできませんでした。

ジェット機の存在を知らないからです。

ジェット機という交通手段の存在や、チケット購入方法や搭乗方法を知らないと、ジェット機には乗れない。

効率的な方法の模索・発見と選択には、特に、知的に苦しく、脳に負荷がかかることがあります。

この種の知的・精神的ストレスやプレッシャーをエネルギーに転換し、効率的な方法を探し出し、ブレークスルー(課題突破)する。

この種の頭脳・精神面における負荷は、成功体験と相まって、人生に心地よい刺激をもたらし、健康に良く、若々しさをもたらします。

とはいえ、無駄な努力、不効率な努力には全く価値がありません。

全く不可能なこと、絶対できないことを努力しても、人生、時間の無駄です。

ドラッカーは、「強みの上に築け(Build on strength)」「得ての上に自らを築け(Build on your own strength)」と言いました。

人間は強みを知り、強みを活かすべきです。

弱みを克服している間に一生が終わってしまいます。

弱みを克服するだけで終えてしまう一生ほど、無駄で、無意味なものはありません。
それこそ、弱いところは、カネやコネで調達すればいいのです。

正しく物事の本質を見ぬく知性を身につけ、明確な目的を持ち、とっとと課題の発見・特定を行い、当該課題を処理するための合理的な選択肢を抽出し、もっとも効率的な選択肢を選択し、「目的優先、世間体軽視、常識無視」の姿勢で、誰よりも、早く、スマートに結果を出し、余った時間で人生を楽しみましょう。

以上、一般的ではない、美しくも、清らかさもない、マインドセットやリテラシーをお伝えしましたが、これらのことを、「肩に力を入れ、眦(まなじり)を決して、鼻息荒くして、暑苦しく、見苦しく、我武者羅にやる」なんて、品のないことは、どうぞおやめください。

力を入れず、スマートかつエレガントに、周囲とうまく折り合いをつけながら、しれっとやってください。

ゴルフも、商売も、恋愛も、人間関係も、人生も、肩に力を入れて、いいことは一つもありませんから。
(連載おわり)

00015_人生をうまいこと送るためのリテラシーその2:「強い者にグルングルン巻かれよう」

人生をうまいこと送るためには、人間関係の形成・構築(とリストラ)も重要です。

前回、こう申し上げました。

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じてしか、この種の「非常識だが、理にかなった、資本主義経済社会をうまく泳ぎ切るための知恵」は手に入れることはできません、と。

そのために推奨されるのは、運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間と付き合うことです。

これは、ラックマネジメントの一種です。

昔から言いますよね。

強い者に巻かれろ、寄らば大樹の陰、と。

運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間に、どんどん近づき、グルングルン巻かれちゃって下さい。

負け犬同士つるむのは時間の無駄です。そこから何も生まれません。

本に載っていない知恵を学び、運をもらい、時流を学ぶのは、外界や異界に通じ、「常識には反するが、経済的には理にかなった方法」を追求し、これを外野のノイズをガン無視して、しびれるくらいのスピードで実現する、そんな、ミュータントのような人種です。

こういう成功したマイノリティーに対して、
「あんなのは非常識だ」
「あいつは成功したが、嫌われ者だ」
「たとえ出世しても、あんなヤな奴だけにはなりたくない」
と強者、成功者を腐すことしかできない、互いの傷を舐めあっている負け犬の集団があったとしましょう。

そんな負け犬集団にズブズブに浸かりきっている人間の中から、強者を目指す野心家が現れ、日頃つるんでいる負け犬と訣別することなく、ハレーションも起こさず、表面上、良好な関係を維持しながら、陰でこっそりチャッカリ努力を継続し、ある日、突然、「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」として世に出る、ということは、絶対ゼロとはいいませんが、まずありえません(その種の、「下町のスター」「鳶が鷹を生む」「出藍の誉れ」「掃き溜めに鶴」的な感動話がドラマになるのは、レアだからです)。

学ぶとは、「真似ぶ」、すなわち、「真似る」から転じた言葉、と言われます。

その種の「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」は、すでに成功した人間の近くにいて、非認知情報を含めてじっくり観察し、たんなるビヘイビアだけでなく、思考や哲学や価値観やスタイルや生き方や美学に至るまで、徹底して模倣することによって、誕生するものだからです。
(つづく)  

00014_人生をうまいこと送るためのリテラシーその1:「常識とは偏見のコレクション」

世の中、大切なことほど、教科書には載っていませんし、親も学校の先生も先輩も、世の中のことをよくわかっていません。

また、そういう
「ホンモノの知恵」
は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

世間から嫌われるくらい成功して楽しい人生を送っている人間の中には、
「競争者を増やして、自分の首を締める」
ようなことをするバカは、ほとんどいませんから。

「成功」
とは、非常識な方法によって得られた稀有な結果です。

常識や良識にしたがったところで、得られるものは陳腐な結果です。

さらに言えば、
「常識」
とは、
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
を指します。

「大きなプロジェクトの成功」
は、例外事象であり異常現象です。

それなりに大きなビジネスや新規のプロジェクトは、フツーのことをフツーにやっていては成功などしません。

トラブルや想定外の事柄が次々生じます。

大きな事業・新規の事業を、公務員の皆様やフツーのサラリーマンの皆様や小学校の先生方や専業主婦の皆様に、彼らの常識や良識にしたがって取り扱わせたら、どうなるか、想像してください。

これらの事柄の対処には、常識や良識は通用しませんし、事業が悲惨な末路を迎えることは想像に難くありません(もちろん、前記属性の方々の中には、立派で尊敬に値する方も多数おわしますが、ここでは、「例外事象」「異常現象」を扱わせる、という限定された状況において、蓋然性の問題として、どういう帰結が見込まれるか、という議論における評価・推定の話です)。

アップルやグーグルやアマゾンの、新しいCEOを、
「公務員の皆様やフツーのサラリーマンの皆様や小学校の先生方や専業主婦の皆様から無作為に選ばれた、常識と良識に満ちた、庶民の考えや痛みや苦しみがわかる、そんな、常識と良識を持ち合わせた、平均的な思考ができる、平均的な方」
に任せることとした。

この場合、これらの会社の株価は、好感を得て上がるでしょうか、それとも、マーケットから総スカンを食らって暴落するでしょうか。

「世間で評価される仕事というのは、あらゆる形式やモラルを排して遂行されているものだ」
これは、あるベンチャー経営者が、若い方や後輩に常に言っている言葉です。

常識を疑い、常識の裏側や対極にあるものを想定し、非常識のアングルに立って物事を観察するクセをつけてみる。

そうすると、世の中には、イノベーションや改善の可能性、すなわち成功の機会がゴマンとあることに気づくはずです。

では、どうやって、
「成功するための、正しい非常識」
を身につけるか? 

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じてしか、この種の
「非常識だが、理にかなった、資本主義経済社会をうまく泳ぎ切るための知恵」
は手に入れることはできません。
(つづく)

00013_「訴えてやる!」と言われた場合の対処法

日常の口論でも、ケンカがエスカレートすると、
「訴えてやる」
「出るとこ出てやる」
「もう訴訟しかない」
「念書を書け」
「詫び状を書け」
といった物騒な言葉が飛び交うことがあります。

こういう厳しい言葉で詰め寄られた場合の対処法は、意外と知られておらず、無駄にビビって、相手の言いなりになって、やがて、そこからズルズルと「やられたい放題やられていく」という必敗パターンにはまり込んでいきます。

え、じゃあ、無視していいわけ?
無視したら、大変なことになるじゃない!
でも、こんな「訴えてやる」という相手の威嚇を無視して、本当に大丈夫なのでしょうか?
万が一、訴えられたら、大変なことになるのではないでしょうか?
とすると、訴えられることを回避するため、相手をなだめ、なんとかその場で話し合う方向で妥協した方がいいのではないでしょうか?
本当に大丈夫?
鐵丸先生、他人事だと思って、いい加減なこと言ってない?
ていうか、鐵丸先生、弁護士としては、揉め事起こった方が仕事になるから、仕事欲しさに煽ってんじゃないの?

という異論、反論、疑問、ツッコミが返ってきそうです。

ですが、正しい対応は、無視であり、「どうぞ裁判でも何でも、起こしたかったら起こして下さい」という突き放しなんです。

もちろん、本当に訴訟が提起される場合もないとは言えませんが、その確率は極めて低く、こういう「訴えるぞ」という脅し文句を絶叫する場合、単なる、ハッタリとしての捨て台詞であることがほとんどです。

こう言い切れるのは、訴訟の本質に根ざす事情に基づきます。

すなわち、訴訟を提起するといっても、裁判を行う場合、原告の負担があまりにも重く、訴訟を一種の「プロジェクト」と考えると、1万円札を10万円で買うような、無茶苦茶、コストパフォーマンスが悪い、「キックオフした瞬間に、経済的敗北が確定する」というくらい、厳しい負担が生じるものだからです。

というのは、民事裁判制度というゲームの構造が、原告にとってあまりに不愉快なシステムとして設計されているからです。

 違法や不正義に遭遇したときに、被害者がこれを申し出て、権力的に解決する制度として、裁判制度というものが存在します。

 よく、論争や見解対立が紛糾したりすると、「出るとこ出たる」「裁判を起こしてやる」「公の場で白黒はっきりつけてやるから覚えとけ」といった趣の売り言葉に買い言葉が応酬される場面に出くわしたりすることもあります。

 しかしながら、裁判制度の現実を考えると、実際に訴訟を提起することはかなりの困難が伴い、さらに言えば、「訴訟を提起する側は、提起しようとした瞬間、莫大な損失を抱えてしまい、経済的な敗北が確定する」とも言える状況が存在します。

 これは、裁判制度を利用するには、莫大な資源動員が要求されるからです。

 刑事事件として警察や検察等が動いてくれれば格別、民事のもめ事にとどまる限り、どんなに辛く、悲惨で、酷い状況に遭遇しても、被害者原告が、裁判を起こさない限り、国も世間も、基本的に、状況改善のために指一本動かしてくれません。

 そりゃ、同情はしてくれるでしょうが、同情を買うために愚痴を言い続けても、愚痴を聞く側もそれなりにストレスがたまるので、だんだん愚痴を聞いてくれなくなります。それでも愚痴を言い続けて嫌がられると、友達を失っていきます。

「じゃあ、愚痴言ってるヒマがあれば、とっとと、さくっと、すぱっと、裁判を起こして、解決してもらえればいいじゃん!」ってことになるのですが、これが、口で言うほど簡単ではなく、それなりの成果が出るように、真面目にやるとなると、気の遠くなるようなコストと手間暇がかかるのです。

 無論、弁護士費用や裁判所の利用代金(印紙代)もかかりますが、この外部化されたコストは、費消される資源のほんの一部にしか過ぎません。

 実際、訴訟を起こすとなると、原被告間において生じたトラブルにまつわる事実経緯を、状況をまったく知らない第三者である裁判所に、しびれるくらい明確に、かつ、わかりやすく、しかも客観的な痕跡を添えて、しっかりと説明する必要があります。

 裁判所は、「あいつは悪いやつだ」「あいつは嫌われている」「あいつはむかつく」「あいつの評判は最悪だ」とか、そんな、主観的評価にかかわるようなことはまったく興味はなく(むしろ、この種の修飾語の類いはノイズとして嫌悪される)、聞きたいのは、事実だけです。

 すなわち、客観的なものとして言語化された体験事実を、さらに整理体系化し、文書化された資料を整えることが、裁判制度を利用するにあたって、絶対的に必要な前提となるのです。

 そして、この前提を整える責任は、原告にのみ、重く、ひしひしと、のしかかり、世間も裁判所も、誰一人手伝ってくれません。

 それどころか、少しでも、この前提に破綻や不備があると、相手方はもちろんのこと、裁判所も「このあたりの事実経緯が不明」「この点をしっかりと、根拠をもって説明してもらわないと、裁判がこれ以上進まない」「もうちょっと、ストーリーを整理してくれないと困ります」と言って、ツッコミを入れ、裁判が成り立たなくなるような妨害行動(といっても、これは原告の主観的心象風景であって、裁判所や相手方からすると、「裁判をおっぱじめるなら、おっぱじめるで、テメエの責任で、きちんとストーリー作ってこい!」という、ある意味当たり前のリアクションをしているだけ)を展開します。

 このように、裁判システムは、ボクシングやプロレスの試合に例えると、原告が、ひとりぼっちで、延々とリングというか試合会場を苦労して設営し、ヘトヘトになって試合会場設営を完了させてから、レフリー(裁判官)と対戦相手(被告・相手方)をお招きし、戦いを始めなければならないし、さらに言うと、少しでも設営された試合会場ないしリングに不備があると、対戦相手(被告・相手方)もレフリー(裁判官)も、ケチや因縁や難癖をつけ、隙きあらば無効試合・ノーゲームにして、とっとと帰ろう、という態度で試合進行に非協力的な態度をとりつづける、というイメージのゲームイベントである、と言えます。

 こう考えると、裁判制度は、原告に対して、腹の立つくらい面倒で、しびれるくらい過酷で、ムカつくくらい負担の重い偏頗的なシステムであり、「日本の民事紛争に関する法制度や裁判制度は、加害者・被告が感涙にむせぶほど優しく、被害者・原告には身も凍るくらい冷徹で過酷である」と総括できてしまうほどの現状が存在します。

例えば、名誉毀損とか侮辱されたという類の喧嘩が起こったとして、トラブルの相手が「訴えてやる」と言ったところ、こちらが「どうぞ、訴えるか訴えないかはそちらの自由です。訴えたければどうぞ」と対応し、相手が「よし、覚えとけ。次に会うのは裁判所だ!」と言って、破談となったとしましょう。

相手が、宣言どおり、現実に、訴訟を提起するとなると大変です。
というか、ほぼ無理です。

まず、訴訟の相手をどうするか、住所は把握しているか。
いつ、誰が、どこで、どうして、どのようなことを行い、それがどのような法律要件に該当し、損害賠償請求権を生み出すのか。
賠償額をいくらにするのか。
1万円か、10万円か、100万円か、1億円か。
金額が大きくなれば印紙代もかかるが、無駄にならないか。
主張する事実に関する証拠をどのように揃え、整理し、提出の準備を整えるか。手持ちの証拠で十分か。
これだけの検討や準備や作業を独力でやるのか。
弁護士に依頼するのか。
弁護士はいくらで引き受けてくれるのか。
仮に、一審で勝ったとしても、相手が争って控訴がはじまったら、また、弁護士費用がかかるのではないか。最高裁にも行くのではないか。
そうやって、かけた弁護士費用分、きっちり賠償金が得られるか。

こんな疑問や、実施上の難題が、次から次へと浮かび上がります。

そして、これらの実施上の課題をクリアしようとすると、弁護士に依頼する場合はもちろんのこと、自分でやる場合であっても(そもそも、このレベルの事件では、素人さんにとっては、独力で訴状を書き上げることすら不可能かもしれません)、うんざりするような手間や時間やコストや労力がかかります。

さらに、残念なことに、名誉毀損の賠償相場は極めて低く、今回のようなケースで認められるとしても(そもそも認められない可能性も大変高いです)、100万円台はまずなく、10万円以下ではないでしょうか。

こんなプロジェクト、本当におっぱじめたら、経済的にも、労力的にも、精神的にも大変な負担を覚悟しなければならず、悲壮な覚悟が必要になります。

となると、経済合理性の点でもっとも賢明な選択は、「訴えてやる」と勢いよく宣言したことはおいといて、かなりかっこ悪いですが、実際は、訴えず、何もせず、諦める、という態度決定です。

「やられたら、どうするか?」

やり返してはいけません。

「やられたら、泣き寝入り」
が正解です。

そして、おまけです。

「念書を書け」と言われても、そんなもの書く義務は全くありません。

ですので、応答としては、「ヤだ」が正解です。

念書作成を要求された場合、私などは、「念書、念書、念書ってさっきから何度もいっておられますが、そんなに念書がほしいの?こっちはイヤなんだけど、そちらがどうしても念書がほしいんだったら、東京地裁に、『これこれこういう念書を作成し、交付せよ』、という訴訟を提起すればいいじゃないですか。そちらが訴えたら、こっちはこっちで、最高裁まで三回は争わせていただきます。万が一、最高裁で敗訴が確定し、さらに、確定判決に基づいてそちらが強制執行を申し立てたら、その段階で、おとなしく従ったほうがいいか無視するか、改めて、考えます」と答えることにしています。

「念書?ヤだ」といっても、引き下がらないとします。
義務がないことを強く求めたら、強要罪に該当します(ローマ法皇や皇族の方々のように、ジェントルかつエレガントに念書や詫び状をお求めになるのであれば問題ないでしょうが、詫び状をしつこく求めるような通常のケースですと、暴力や害悪の仄めかしを伴うので、強要罪ないし脅迫罪、少なくとも迷惑防止条例違反には該当するでしょう。実際、滋賀県近江八幡市のボウリング場で店員に言いがかりをつけ土下座させた、「元気が良くて、声の大きい、権利意識高めの舗装工のお兄さん」がいらっしゃったのですが、このお兄さん、大津地裁で、強要罪に問われ、2015年3月18日、懲役8月の実刑判決を食らっておられます)。
あまりしつこくやられたら、こちらが被害者として、警察を呼んで対処すればいいだけです。

いずれにせよ、「訴えるぞ」と、明らかに実現性のないハッタリかまされビビるのもダメですが、「念書書け」と言われ、言うなりになって書くのもアホです。

もちろん、こんな対処法、学校で教えてくれませんし、そもそも、教師は知りません。親も知らないでしょう。

世の中、こういう、「学校や親が教えてくれないが、生きていく上で、絶対知っておくべき、非常識なリテラシー」がかなりの数存在するのです。

一番、いいのは、弁護士に聞くことです。
その前提として、疑問に思ったら、弁護士に聞ける環境を作っておくことです。
さらにさらにその前提として、そして、常識という「バイアス」に依拠せず、「相手はこう言っているけど、ほんまかいな」と疑問に思うこと、です。

「我、疑うゆえに、我あり」
懐疑は、知的な人間としての、本質であり、全てです。

00012_「可愛げのない受験生」たちが、日本の輝かしい未来を担う

よく、学校教育の現場で、

「子供たちには明るい未来を考えさせよう」

「子供にスケールの大きな構想力を身につけさせよ」

「豊かな想像力を子供たちに」

ということが標語として掲げられたりするのをみかけます。

 もちろん、こういう能力を身につけることが有害とまではいいませんが、子供たちには、不確実な未来のことを大雑把に考えることよりも、もっと卑近で大事なことがあります。

 子供には、将来宇宙パイロットやプロ野球選手やサッカー選手になったときのことを考えるより、明日、明後日の宿題を地味に、きっちり仕上げることに専念させるべきです。

 乏しい情報と未熟な社会経験をもとに粗雑な社会構想をする暇があれば、目の前の課題克服にこそ注力すべきです。

 もちろん、想像力は大事です。

 ただ、想像力といっても、根拠のない希望的観測を膨らませる「妄想力」を養っても、社会への不適応者を増やすだけで、却って有害です。

 子供には
「問題文の行間に隠された出題者の真意を読み取る」
ための想像力を養わせるべきですし、また、悲観的な想像力を目一杯働かせて試験当日の様々なリスキーな状況をシミュレーションし、適正な準備と危機対処の一助とするのであれば、想像力の駆使も有用です。

 各種受験に成功することにより、格差固定社会において階級上昇のきっかけを掴もうとする野心的な子供たちは、前述のような無内容な教育標語を一切無視し、非現実的で意味のない妄想を排し、受験準備において、黙々と卑近で地味な勉強に終始します。

 テレビなどで、11、12才の子供たちが中学受験に真摯に取り組む様子を奇異な目で眺め、

「人生、受験勉強だけじゃない」

「受験戦争に狂奔する子供たち」

「受験勉強以外の幅広いことを学ばないとロクな大人にならない」

などと批判的な意見を呈する輩がいます。

 資本主義社会における熾烈な自由競争・能率競争の現場においては、

「希望的観測と妄想力に満ち、非現実的な思考に陥って、地味な情報収集や緻密な分析を怠る」

ような人間が生き残るような余地は一切なく、こういう低劣な人間は、たちまち倒産させられ、あるいは財産を亡くすことを余儀なくされます。

 このような淘汰の結果、資本主義社会において上層集団を形成する人種は、

「徹底した現実主義者で、モレやヌケが大嫌いな完全主義者で、細かい再確認を怠らないような方々」

が多数派を占めることになります。

 資本主義社会の淘汰の仕組は、中学受験と同様のシステムで機能しており、

「卑近な現実を軽視し、何事も希望的・楽観的に考えることから他人の悪意を見抜けず、モレやヌケが多い人間」

はことごとく排除されるようになっています。

 現在世界で大活躍する華僑やユダヤ人は、子弟の幼少期において、厳しい現実を察知するための思考力、批判精神、情報戦や経済競争を勝ち抜くためのインテリジェンスや危機対処力を身につけさせると聞きます。

 日本における過酷な受験戦争は、

「資本主義社会における競争のシミュレーション」

としては最適なものであり、この過程を通じて、受験戦争への参加者は知的競争への対処スキル全般を身につけることになります。

 「前述のような無意味で無内容な教育標語など無視し、競争社会の過酷な現実を直視し、地道な作業を厭わず、モレやヌケを徹底して排除すべく、前をみず、ひたすら後を振り返る、ソツがない、可愛げのカケラもない子供たち」

が増殖する未来は、決して悲観すべきものではありません。  

 むしろ、日本の産業界が世界的競争を勝ち抜くためには、

「現実を直視し、熾烈な知的競争を経験し、危機管理能力に優れた、可愛げのない子供たち」

にこそ、未来が託されるべきです。

00011_受験現場のマネジメント

今回のリアルハックは、受験現場のマネジメントについて、です。

今年2月はじめ、私のところに、東京都文京区、目黒区所在某国立大学(仮に、「T大」といいます)を受験される、という方がお見えになりました。

T大の受験日まであと3週間弱。

T大受験を始めとする、相応の競争倍率が前提環境となる難関受験においては、試験の目的は、当然ながら、
「採点者が採点しやすくなるよう、有意な偏差を生むための知的なふるい分けを行うこと」
に尽きます。

無論、T大の試験問題に、四則演算や、小学校低学年の漢字の書き取りといった、易しい問題を出してもいいのですが、こんな問題を出せば、ほぼ全員100点を取ってしまい、合否判定ができなくなります。

平均的な高校生なら誰でも答えられそうな問題でも、T大受験生であれば、ほぼ全員解答できてしまうため、これでも、合否判定が不能に陥りますね。

かといって、誰も答えられない問題も駄目ですね。

全員、0点だった、となったら、これも合否判定不能になりますから。

で、結果、どうなるか、というと、
・まず、解けない、もっというと、受験生レベルでは到底解けることなど端から期待していない問題
・解けることは解けるが、むちゃくちゃ時間がかかり、これに没頭すると、他の易問の時間がなくなる、意地悪な問題
・一見すると難しいが、センスがあれば解ける問題
・一見すると難しいが、暗記していたり、解き方に慣れていれば解ける問題
・普通の問題
を配合した問題が作成されることになります。

なお、
「一見すると難しいが、センスがあれば解ける問題」

「一見すると難しいが、暗記していたり、解き方に慣れていれば解ける問題」
ですが、前者は現役生有利、後者は浪人生有利、といわれます。

少し前、あちこちの医大で、
「浪人生を露骨に排除するため、現役生の点数に下駄を履かせる、ということを、こっそりやっていた」
というデタラメな試験運営がバレてしまい、エラい騒ぎになっています。

そんなに浪人生を排除したければ、T大と同様、数学等で
「一見すると難しいが、センスがあれば解ける問題」
を多くすれば、無理な不正をしなくとも、自然な形で望む結果が出たかもしれません。

とはいえ、
・出題側にそういう問題を作成する能力がなかったのか、
あるいは
・現役生の方も「センスで解ける問題を、解けるだけのセンス」がなく、結果、現役生、浪人生ともに、解けないので、有意な差を生めない状況だった、
ということであれば、浪人生排除も困難であったでしょうし、そういう理由で、諦めたのかもしれません。

ちなみに、司法試験においても、一時期、
「若手を有利に扱い、なるべく多く合格させ、長年司法浪人している受験生(ベテラン受験生、などといったりします)を排除するため、不利に扱って、合格させないようにして法曹界を若返りさせよう」
という目論見のもと、慣れや暗記の努力が通用しない、パズル的な問題を多数投入したり、いろいろな努力をした時期があったようです。

しかし、どんなに意地悪をしても、ベテラン受験生を効果的に排除できなかったようで、合格平均年齢は高止まりしたままです。

結果、試験運営者は、どういう行動に出たか?

なんと、あちこちの医大で隠れてコソコソやっている、
「現役生に下駄を履かせ、浪人生を露骨に差別する」
というエゲツない合格判定運用を、悪びれず、堂々と
「公式運用として、大々的に正式化する」
という、開いた口が塞がらないような、大胆なことをおっぱじめられました。

これは、
「丙案」
と呼ばれる、
「公平、公正」
を本旨とするべき受験制度の歴史における、致命的な恥部となる、驚愕の合否判定制度であり、平成初期のある時期、現実に導入され、運用されていました。

これは、
「特別合格枠制度(いわゆる丙案):合格者の若年化を図るため受験回数による特別合格枠(通称「丙案」、受験開始から3年までの受験生を優先的に合格させる)」
という形で、今でも、ネット等で存在し、
「法曹資格制度運用当局の顕著な愚行の痕跡」
として、誰でも確認できます。

ま、この司法試験の丙案も、ホニャララ医大の浪人生差別も、隠れてコソコソやるか、堂々と大胆にやるのかの違いこそあれ、やっている内容は同じです。

とはいえ、
「こそこそ隠れてアンフェアな運用をする」
ということは、さすがに法律家や司法当局としての矜持が許さなかったのか、表立って公的ルール化をした点に限っては、評価できます。

ホニャララ医大さんも、犯罪者のように、隠れてコソコソ、ヒソヒソやらずに、法曹界にならって、堂々と、ルール化、システム化して、公式にルール運用として表明してから、しれっとやればよかったのかもしれません。

別の考え方になりますが、
「建前が、本音の堕落の限界を画する」
という意味で、建前は建前として、せめて、相応の美しさ、正しさを保っておいてほしいところ。

建前としての公正さすらかなぐり捨て、悪びれもせず、李下に冠を堂々として恥じず、ここまで、あらかさまに、無茶苦茶な不公正な試験運用をやられると、
「本音の堕落の限界がなくなり、試験という公正な選抜の本質をどこまでも破壊した、不正の横行」
に歯止めがなくなるのではないか、とかなり心配になりますね。

脱線しましたが、話を元に戻します。

T大の試験は、
・アンタッチャブル問題(地雷問題):まず、解けない、もっというと、受験生レベルではおよそ解けるなど端から期待していない問題
・トラップ問題:解けることは解けるが、むちゃくちゃ時間がかかり、これに没頭すると、他の易問の時間がなくなる、意地悪な問題
・要センス問題:一見すると難しいが、センスがあれば解ける問題
・要暗記問題:一見すると難しいが、暗記していたり、解き方に慣れていれば解ける問題
・易問:普通の問題
を配合した問題で構成されます。

次に、問題の配列です。

試験問題を作成する側が、受験生にやさしく、受験生の緊張やパニックを配慮し、
「なるべく、いい点数を取らしてあげたい」
という優しい気持ちを持っていれば、易問を冒頭に配置し、暗記や慣れで処理できる(暗記や経験がなければ諦めてスキップする決断ができる)問題を次に、センスを求められたり、トラップ問題は、その次、アンタッチャブル問題は、末尾に配置するはずです。

受験生としては、配置された順に問題を解いていき、最後まで到達しなかったり、仮に、トラップ問題やアンタッチャブル問題に時間がかかり、中盤以降、中途半端な解答できなかったとしても、すでに易問は手につけているので、無駄なく、ムラなく、実力を出し切れます。

ところが、そんな受験生に配慮した問題配列にすると、有意な差が生じず、合格点前後で、団子状態となり、合否判定が非常に面倒になります。

そこで、試験を運営する側としては、問題配列にあたっては、
アンタッチャブル問題や、トラップ問題といった難問を冒頭に配置し、「合格に執着し、頭に血が上り、焦りまくっている受験生」を、冒頭問題処理に没頭させ、混乱とパニックを引き起こし、時間を消耗させるよう罠を張りめぐらせるとともに、
易問や暗記問題は、中盤あるいは末尾に配置し、冒頭の問題で時間も労力も費消しつくされ、焦りと不安で朦朧とした受験生が、「冷静に本来の実力を発揮すれば、一定のレベルで解答できる」はずのところを、実力が出せないような、底意地の悪い設置にする、
という形で、もともと難しい問題に、さらに、混乱の要素をばら撒き、受験生を心理的にも翻弄し、有意な偏差を生じさせ、採点の労力負担が少なくなるようにします。

では、そんな底意地の悪い問題設定に対して、受験生として、どう立ち向かっていけばいいのでしょうか?

これは、私なりの方法ですが、

1 開始の合図があっても、いきなり問題を読み始めたりしない。数十秒間を置く。
2 その後、ゆったりと、気持ちの余裕をもって、問題文全体をざっと見する。
3 アンタッチャブル問題やトラップ問題や易問、といった問題属性を判別し、解答順序と時間配分を設計する
4 そして、解答しはじめる。
5 見直し時間やバッファーを含め、終了前10分前には一旦終え、解答を万全にする

という段取りを実践していました。

「1 開始の合図があっても、いきなり問題を読み始めたりしない。数十秒間を置く」
については、一見、
「?」
という反応が返ってきそうですが、これはそれなりの意味があります。

この
「間」
は、周りの動静を感じ、
「競争者が焦り、不安に陥り、パニックを来し、あるいは絶望によって、混乱している様子」
を、観察するためです。

受験生は全員が全員、私のようなヒネている人ばかりではありません。

むしろ、たいていの受験生は、単純で善良で、純朴を絵に描いたような牧歌的な
「いい人」
が圧倒的多数を占めます。

そういう方々は、やる気満々で、周りが見えず、
「絶対負けてはいけない」
という心理的プレッシャーを自分にかけてしまっており、しかも、根が純朴なので、バカ正直に一問目から律儀に解答着手される方が大半です。

そんなマジョリティの受験生が、試験開始の合図とともに、めくった問題文をみて目に飛び込んでくるのは、難問、珍問、奇問ともいうべき、
「一問目、自分がうまく解ける問題が出て、華麗なスタートを切る」
という身勝手な想定を、完膚なきまでに打ち砕いてくれる風景です。

無論、落ち着いて問題文すべてを読めば、中盤以降に、易問等があることが判ります。

ですが、視野狭窄に陥り、冒頭の地雷やトラップを
「これは、絶対乗り越えなければならない」
という固定観念に囚われてしまい、面白いように、難問、奇問、珍問の罠にずぶずぶ入り込み、時間と労力の消耗に突入していきます。

この結果、試験会場では、戦闘開始直後に立ちはだかったバカ高い壁を見上げた大多数の受験生から出てくる、絶句とも嘆息とも取れる、悲痛な叫びのような、重く、悲しく、切ない、沈痛な空気感に包まれます。

私は、これを観察というか、この最高の瞬間を、堪能し、味わい尽くすのです。

無論、キョロキョロしたら、カンニングをしていると誤解されるので、動静を感じながら、重く、沈痛な場の雰囲気を肌で感じます。

そして、ライバルたちの多くがどツボにはまり込んでいる様子に、自分だけ、
「よしよし、これで、自分より優秀なライバルが、かなりの割合、問題文作成者の心理的な罠に陥り、パニックに陥って、勝手に沈んでくれた。」
と心の中で快哉を叫びます。

試験など、満点を取る必要はなく、受験生同士の相対的な争いにおいて、相対的な優位性を保ちさえすればいいだけ。

「競争相手が、勝手に不安に陥り、知的能力を低下させ、実力が出せず、混乱のまま、相対的劣位にずり下がってくれる」
なんて、こちらとしては、飛び上がりたくなるくらいの慶事であり、これを観察できれば、自分の士気向上にもつながりますので、こんな最高のイベントを逃すなんてもったいない。

こうやって、競争相手の
「絶句とも嘆息とも取れる、悲痛な叫びのような、重く、悲しく、切ない、沈痛な空気」
に包まれる貴重な数十秒間は、受験会場の
「静かな阿鼻叫喚」
ともいうべき重たい空気感味わえる、貴重な機会として、笑いを噛み締めながら、じっくり体感し、自らの士気向上に役立てます。

この程度のメンタルマネジメントや、試験マネジメントなんて、T大目指すような連中は、皆知っているものだと思っていました。

ところが、意外と知らないんですね。

お話をしたところ、当該受験生、かなり刺激的な話として、受け止めてくれたようです。

もう私立中学受験は終わりましたが、私学、国立大も含めた大学入試はこれからが本番です。

「受験戦争」
というイベントについては、ネガティブな見方をする向きもありますが、私個人的には、人生の知的基盤を形成する、貴重で有益な経験であり、チャレンジすることには、大きな意義と価値があると考えます。

00010_受験直前のメンタルマネジメント

受験シーズンは終わりましたが、その後も、公務員試験、司法試験(と司法試験予備試験)、公認会計士試験、税理士試験、宅建士試験、医師国家試験等の国家試験などなど、日本は、年柄年中試験が行われています。

というわけで、中学受験や高校受験や大学受験という点では、少し時期を逸しましたが、受験生や受験生を抱える親御さんに向けに、試験一般に関し役に立つ、
「受験直前のメンタルマネジメント」
を、お話したいと思います。

私は、受験については、まんざら、知らないわけでも経験がないわけでもありません。 

中学受験→私立の進学校に合格
大学受験→東大文一現役合格

ということで、まあまあ、語れるくらいの実績はあります。

とはいえ、普段の私の話し方がカジュアルで、適当で、アホそうな喋りのせいか(相手に合わせて、会話の水準を下げているだけなのですが・・・)、周囲の人間は、誰も私のことを
「賢い」
「知的」
「頭がいい」
とは言ってくれません。

どうも、私の見え方・評価は、
「賢い」
「知的」
「頭がいい」
というより、
「要領がいい」
「うまくやりやがる」
「小賢しい」
という人間のようです。

むかしの話ですが、東大に合格したとき、この報を伝え聞いた親戚のおばちゃんたちが、次々にお祝いの電話してくれました。

そのとき、おばちゃんたち、ほぼ全員、誰も、
「苦労したかいあったね」
「よう勉強したいんやね」
「努力家やね」
「真面目にがんばったんやね」
「頭いいんやね」
という言い方はしませんでした。

おばちゃんたちの口から出てきた言葉は、
「あんた、昔から、要領だけは良かったからな~」
「うまいことやりやったな~」
というものでした。

私は、
「おばちゃん、何言うてんねん。人をカンニングしたみたいに言うて。人聞きの悪い。要領だけで、東大通るか!」
と言い返してました。

確かに、努力家でありませんでしたし、要領の良さも否定しません。

といいますか、努力や苦労を売り物にするようなブサイクなマネは美意識に反します。

漫画に出てくるような、机に
「必勝」
「東大合格」
といった紙を貼り、
「東大一直線」
と書いた鉢巻をして、頭脳のパフォーマンスが低下する夜中にバカみたいに長時間勉強する、みたいな、これ見よがしなガンバリは、まったくしませんでした。

というか、
「そういう暑苦しい連中は、たいてい東大に合格できてないんじゃないか」
というくらい、実際の東大生は、今も昔も、無駄な努力が嫌いなスマートな連中が多いと思います。

とはいえ、メンタルを含め、自分をうまく制御するのは、受験競争を勝ち抜く上では、非常に重要です。

その意味では、
「自分として、どうやって、メンタルをコントロールするか」
という課題への対処方法は、常に、意識的に形成して、自分なりに会得しておりました。

今回は、受験生や受験生のお子様をお持ちのクライアントさん向けに、
「受験本番を前にした受験生のための、マインドセット術」
という形でお送りしているメール・メッセージをご披露させていただきます。

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1 前提

本番では、いろいろな想定外の事態が生じます。
番狂わせ、といわれるものです。

極度の緊張感、初めての環境と経験、結果がどこまでも確実ではなく蓋然性に左右されるという不安感。

この状況想定と、メンタルコントロールの巧拙により、プラスマイナス10~20%のパフォーマンス差を生じます。

学校の成績もそうですが、企業業績であれ、為替であれ、株価であれ、このことは妥当します。

実力値が、センチメントによって、最大2割上下することは、どんなプロジェクトの責任者(受験生も、受験プロジェクトの責任者ですから該当しますね)であれ、しっかり自覚すべきです。

本番マネジメント(心理制御)に成功したら点数2割上がり、失敗したら2割下がる、ということは、あちこちで革命が起こる、ということです。

だからこそ、心理制御は重要であり、そのためには、正しい状況予測と、フラットな自己認知と、効果的なリスク抽出と、制御リハーサルが必要なのです。

2 思い上がらない

まず、思い上がってはいけません。

思い上がりは、楽観バイアスを助長し、正しい不安醸成や危険予知を鈍麻させますので、百害あって一利なしです。

かといって、不安に苛まれるのもよくありません。

だから、機嫌はよくすべきです。

機嫌をよくしないといけませんが、調子に乗っては行けません。

いちばんいいのは、ヘッジ戦略です。

要するに、保険をかけること。

「別に行けなくてもいいや」
「これで人生決まるわけでもないし」
「でも行けたらラッキー」
「ダメならダメで、次、大学入試ではリベンジすればいい」
という心理的な保険をかけること。

どっちかに転んだら、人生終わる。

こんなギャンブルをすると、本当に人生終わります。

どっちに転んでも、大丈夫なようにしておけば、保険が無駄になるだけ。心理的保険なので保険料はタダです。

これが正しいマインドセットです。

3 練習は本番のように、本番は練習のように

これもよくいわれる心理制御術です。

あせったり、パニックたりするのは、練習段階で済ませておくべきです。

模試は、あくまでストレステストですので、さんざん焦って失敗し、ミスやエラーをどんどん経験しておくべきです。

本番は、焦ったら負けです。

焦る状況でも焦らず。

そもそも、自分が焦っているときは、他人はもっと焦っている。

だいたい、試験なんてものは、底意地の悪い出題者が、受験者を焦らせ、有意な偏差を出して、採点しやすくするために作っている。

「他人が焦っている」
という状況を冷静に判断し、相対的に落ち着き、どうやって、損害を減らし、生き残るか。

そうやって考えれば、損害回避方法、損害逓減方法といった、
「あの手、この手、奥の手」
が、いくらでも見えてくる。

本番では、そういう心理戦を乗り越えるスキルが決定的に重要です。

4 夢もなくおそれもなく

この言葉は、ルネサンス期に活躍した女傑マントヴァ侯爵夫人イサベッラ・デステの書斎にかかげられたモットーです。

このイザベッラ・デステですが、塩野七生女史の初期作品にも出てきますが、ようやくするとこんな人です。

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「ルネサンスの華」
と讃えられた美貌に加え、教養豊かで美的センスにすぐれた彼女はイタリアのみならず、欧州のファッションリーダーとなります。

フランス王室の女性たちもマントヴァ侯夫人の真似をしたとか。

しかし、彼女の真骨頂はやはり政治手腕にあるとわたしは思います。

結婚からおよそ20年後、夫は戦争で捕虜になり、35歳のイザベッラは敵に屈服することなく、味方であるはずの同盟国につけ込まれず、小国を守り抜かねばならなくなりました。

早期釈放を求める夫をはじめとした周囲に
「淫売」
とまで罵られながら、彼女はあらゆる手を尽くしてもっとも有利な時を待ちます。

息子を代わりの人質に取られることもなく、他国の君主が欲望や愚かさから外国の軍をイタリアの地に入れてしまうことも多かった中、けっして国境を踏ませず、イタリアの他勢力の軍をマントヴァに近づけることもなく、交渉でお金が必要でも、自分の宝石を売り払って増税することなく内政も支えきったイザベッラ。

敵国からさえ賞讃されます。

その夫とも10年で死別したイザベッラは若い息子の摂政として卓越した政治力を発揮し、マントヴァと実家フェラーラを守り抜き、1527年のスペイン・ドイツ連合軍による
「サッコ・ディ・ローマ(ローマ略奪)」
の際には3千人もの人を滞在していた宮殿に保護したりもしています。
https://ameblo.jp/cavy-do1010rain/entry-12026848266.html
より引用
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ドナルド・トランプと、金日成と、チェ・ゲバラと、カストロと、織田信長と、ココ・シャネルをかけ合わせたメンタルと知性をもつ、で、外見がグレース・ケリーのような、ファッションリーダーの女王閣下。

そんな趣の、城郭防御戦と外交・内政の天才で、超毒舌家のおばさんです。

彼女が、戦や重要な外交交渉に臨む時、このモットーをみて、
「よっしゃー」
といって出陣し、勝って勝って勝ちまくったそうです。

要するに、
「勝って驕らず、負けて腐らず」
「平静心」
「失意泰然得意淡然」
と同様の趣旨の言葉です。

受験生の仕事は、勝つことに執着することして不安を抱えてイライラしてエモーショナルに自己制御を失うことではなく、平静心で最高のパフォーマンスを受験会場で披瀝すること。

合否は、自分ではない、別の誰かさんが決めることであり、そんなことを気に病んでも仕方がない。

受験生は、自分ができること、自分で制御できること、自分のスペックを限界まで出し切ること、そのために心理的環境を整えること、に注力すべきです。

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このアドバイスを受けて、
「平静かつ冷静に対処ができ、うまく結果が出た」
という方もいて、ある程度役に立つマインドセットと考えております。

皆様も、使ってみてください。