00022_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(3)~相談する~

日常用語で相談というと、悩みがあったり、混乱してわからないことが発生した場合、親や先生に丹念に話を聞いてもらいつつ、解決案を出してもらう、というのが一般です。

しかしながら、ビジネスの
「ホウレンソウ」
における
「相談」
というのは、
「夏休み子ども相談室」
の相談のように
「小学生の抱えた悩みをやさしく解決してくれる」
という穏やかなものではありません。

仕事に関して相談する相手は、たいてい上司です。

上司は、先生や親と違って、殺人的に忙しく、時間がありません。

そんな上司に、部下が
「混乱して、問題点が特定できない悩み」
を持ち込んで、上司という
「時給単価の高い、組織において貴重極まりない人的資源」
を長時間費消するのは、組織運営の妨害行為としか認識されません。

そんな
「アホな悩み」
を上司に持ち込む部下は、可愛がられるどころか、
「要領を得ないヤツ」
というレッテルが貼られ、次の異動で別の部署に飛ばされることになります。

こういう意味において、
「相談」
の本質・仕組みや、マナー・エチケットを知っておくのは非常に重要です。

ここで、相談の本質・仕組みですが、
「仕事において上司に相談する」
というのは、仕事を進める上での各進捗プロセス、すなわち

1 状況の認識・整理(未確定の状況があれば、その特定を含む)
2 問題点や課題の抽出
3 解決方法(戦略レベル)の特定と具体化(複数の解決策がある場合は、解決方法の選択肢の抽出と功利分析も含む)
4 複数の解決方法を立体的に展開する場合にはその整序(段取り)
5 解決方法を実行する上で実施上の課題(戦術レベル)の想定・シミュレートやブレイクスルー方法

という各段階の作業を行う上で、
「状況認識やスキームが相場観に整合しているか」
「全体として計画に現実性があるか」
「その他経験値の乏しさによる誤解から生じるモレ、ヌケがないか」
という補完的な検証を経験値の高い上司に依頼する、という行為を指します。

すなわち、仕事の場における
「相談」
は、
「上司の経験値による補完的検証作業」
ということですので、
「自分でできる範囲のことはギリギリのところまで自分の責任で進め、最後の詰めを依頼する」
というのが本来の姿といえます。

こういう相談の本質・仕組みをわきまえず、
「状況がよくわかっていないせいか、何だかうまく行きません。何が問題かわからないことが、問題なのです。ボクはどうしたらいいんでしょう」
といった類の、会社の上司を母親や小学校の先生と勘違いした相談は、仕事のマナー・エチケットに反した非常識な行動と認識されます。

とはいえ、
「デキもしないのに仕事を引き受けてしまい、上司に相談しようにも相談の前提を整えることができず、遠慮して相談を忌避し、その結果、1つも進捗させることができないまま、長時間徒過させてしまった」
というのも会社や組織に害を与えます。

ですので、
「手に負えない。こりゃダメだ」
と思ったら、黙っていないで、すぐに上司とのコミュニケーションを取るべきですが、ここでの上司とのコミュニケーションは
「相談」
ではなく、
「自分がアホであり、仕事が進められない」
という事実の
「報告」
になります。

この報告を受けた上司は、当然、叱責したり厭味をいったり舌打ちしたりしますが、そういう態度を取りながらも、
「これはこうやるんだ」
といって、目の前で1ないし5のプロセスを披瀝してくれるはずです。

その際の部下の行動ですが、ボーっと突っ立っていると上司の心証を害します。

部下としては、次回から自分の頭脳で1ないし5のプロセスを完遂できるようにすべく、メモを取って、上司の仕事の捌き方を克明に記録するのが礼儀です。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.041、「ポリスマガジン」誌、2011年1月号(2010年12月20日発売)

00021_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(2)~連絡する~

仕事の基本である
「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」
について述べておりますが、前回の
「報告」
に続き、今回は、
「連絡」
についてです。

1 報告と連絡の違い

仕事において行うべき連絡についてですが、
「連絡と報告の違いがわからない」
などとよくいわれます。

これは私なりの区別ですが、報告とは
「過去に発生した事実や発生しつつある経過を、上司の指揮命令や報告義務に基づいて行うもの」
ですが、連絡とは
「将来における予定や計画を自発的に行うもの」
です。

コンサルタントの活動でいいますと、クライアントに対して、
「アセスメントの結果、こういう事実が判明した」
「インタビューの結果、こういう回答を得た」
「データを解析したところ、こういう結果を得た」
「3期分の財務諸表をレビューし、経年変化について調べた結果、このような顕著な推移が認められた」
等といった過去の出来事を伝えるのが報告です。

そして、以上のような報告を前提に、
「改善プランを策定する」
というミッションを達成するために、
「動員可能資源を把握するため、関連資料をご準備いただき、ミーティングをさせていただきたい」
「線表を修正するため、各プロセスの期限を再検証したいので、御社責任者の予定を調整して、再度、オールハンズミーティングを行わせていただきたい」
等これからのアクションを伝えるのが連絡である、と理解されます。

連絡においても、報告と同様、タイミングよく行うことが必要ですし、内容面においても
「何時、どこで、何を、どのような方法で行うか」
という点について、正確かつ明瞭に記載した文書でタイミングよく行うことが求められます。

2 連絡の受信者に対するフォロー

連絡については、たまに、
「そんな連絡を受けていない」
「聞いていない」
「知らなかった」
「忘れた」
といった話が出てきます。

また、連絡においてこちらがお願いした準備や用意をしてこない、ということもよく発生します。

無論、これらは連絡の受け手側に問題があるのですが、仕事のデキる人間は、こういう事態まで先取りし、受信者から
「当方の連絡を了解し、確認した」
旨のCONFIRMATIONの返信をもらったりしますし、REMAINDER(備忘再告知)という形で予定日程が近づくと念押しするための連絡を行ったりする場合があります。

いずれにせよ、連絡を効果的に行うためには、受け手の理解認識状況をふまえて、効果的に対応するとともに、細かなフォローが必要と思います。

少し面倒くさい話をしますと、意思表示に関する法的取扱においては、意思表示を発信する側ではなく、意思表示を受ける相手側の便宜がすべてにおいて優先されます。

これは、
「到達主義」
と呼ばれるドクトリンで、取引における法的でフォーマルなコミュニケーションにおいては、
「連絡したらそれでOK」
ではなく、
「連絡内容が相手方にきちんと伝わったか否かまで、連絡発信者においてきちんとフォローしろ」
というルールが適用されます。

法的な連絡文書を送りつける場合もカウンターパートの受領確認まで取っておかないと、後日、
「そんな文書は知らんし、見たことない」
等という形でトラブルが発生することがあります。

このように、「言ったはずなのに忘れている」
「連絡したはずなのに届いていない」
というのは、
「すべて連絡した側の連絡方法が悪い。発信者が注意すべきだ」
というのが、フォーマルな取扱におけるルールです。

3 上司への連絡

上司その他自分の上位者に対する連絡に関しては、受信者が
「自分以外の部下からも様々な連絡を集中して受ける」
という環境にあり、また自分よりも数倍も忙しい立場にあるので、
「連絡をしても、きちんと受けられない」
ということがままあります。

ですので、上司に対する連絡については、こういう点も含めて、
「どのようにすれば相手にきちんと伝わるかどうか」
を考えながら、方法・タイミングともに効果的な形で実施することが必要ですし、こういうことがスマートにできる人間は、一般に出世も早いようです。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.040、「ポリスマガジン」誌、2010年12月号(2010年11月20日発売)

00020_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(1)~報告する~

仕事を行う上では、
「『ホウレンソー』が大事だ」
とよくいわれます。

報告・連絡・相談の頭の一文字をとって、報(ホウ)・連(レン)・相(ソー)というわけです。

1 報告の前提としての正確で客観的な状況認識

報告というと、
「そんなの簡単。バカでもできんじゃん」
とかいわれそうですが、プロのビジネスパースンとして行う
「報告」
は、フツーの方が考えるほどカンタンではありません。

主観や思い込みや伝聞や、根拠(ソース)のない噂話は、
「報告」
とはいえません。

したがって、適切に
「報告」
するためには、正確で、客観的かつ批判的な観察や調査が前提となります。

ローマの政治家ユリウル・カエサル(英語読みはジュリアス・シーザー)は
「人間なら誰でもすべてが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと欲することしか見ていない」
といったそうですが、これは状況認識の本質をよく言い表しています。

仕事の経験のない人間に、特定の状況を観察ないし認識させ報告をさせてみても、まったく出鱈目なことを書いて寄越します。

物事を客観的に認識するには、観察力や批判的な考察する能力が必要であり、これは経験により獲得されるスキルなのであり、見逃し・漏れ・抜け・チョンボをやらかしてその度に上司に怒られるなどして痛い目に遭わないとなかなか身につかないものです。

そんな痛い目を繰り返し、
「なぜこの点確認しないんだ」
「こういう場合にはどういうシナリオになるんだ」
「どうしてそんなことがいえるんだ? 根拠は何だ?」
という上司の小言や罵倒をリアルタイムで想定できるようになり、はじめて正確で客観的な状況認識ができるようになるのです。

2 報告の具体性

また、
「報告」
には具体性が必要です。

すなわち、報告の内容として、いわゆる
「六何の原則(何時、誰が、どこで、誰に対して、何を、どのようにした、という点を明らかにする。5W1Hの原則ともいわれる)」
を過不足なく充足している必要があります。

この点、仕事がデキない人間の報告をみると、
「何時」

「誰」

「場所」
等の要素が欠けていることが散見されます。

例えば、
「今後、先方担当者からしかるべき対応を取っていただく予定である」
という書きぶりの報告ですが、
「今後」
とは何時のことを指し、
「先方担当者」
とは一体誰のことで、
「しかるべき対応」
とはどのような行為を示すのか、まったく不明です。

こういう
「昔、昔、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました」
のと同じレベルの報告をやっていると、報告者の知的水準が疑われます。

この種の
「日本昔話型報告」
は、聞き手のストレスを極限にまで高めます。

むかしむかし→何時やねん!
あるところ→何処やねん!
おじいさんとおばあさん→誰やねん!
何も、わからやんけ!アホか、ボケ!

というツッコミをしたくなりますし、その前に、この種の無価値な報告をしてくる人間と関わりを持ちたくなくなります。

そもそも、この
「日本昔話型報告」
をする人間は、調査が不足しており、手抜き調査でお茶を濁そうという本音が透けて見え、そういう不誠実さも相まって、真面目に仕事を進めようとする人間の忌避を買うのです。

過去に発生した事象は、思い出すだけでも大変です。

10日前の昼飯を何を食べたか、正確に思い出せますか?

普通は無理です。

よしんば曖昧に思い出せても、正確に想起し、これを、言語化、文書化、フォーマライズするとなると、相応に実務的知性と時間と労力が必要になります。

逆に、
「日本昔話型報告」
をする人間は、実務的知性か、時間と労力を投入するだけの誠実さか、そのいずれかまたは双方が欠如しており、これを誤魔化すために、曖昧な報告をしているのであり、自ら仕事を軽く考えている姿勢を表明していることにほかなりません。

いずれにせよ、報告を行うにあたっては、六何の原則にしたがって、端的で正確な報告を心がけるべきです。

3 報告のタイミング

食べ物に
「旬」
があるように、報告の価値も報告タイミングとの関係で常に変動します。

客観的で具体的な報告をしようとして時間をかけて報告書を作成するのも結構ですが、報告書を作成している間に、状況が変わってしまい、前提状況が崩れ、報告が無意味になることがあります。

「報告の価値は報告資料の厚さに反比例し、報告のタイミングの迅速さに比例する」
というルールがあるそうですが、効率よくビジネスを進めている企業ほど、弁解がましいレポートより、カンタンなメールやメモで(ときには口頭で)要点を簡潔に報告することを好む傾向にあるようです。

4 報告で用いる表現

報告で用いる文章ですが、平易で簡潔な表現ほど好まれます。

ビジネスの現場ではスピードが価値そのものであり、本質をわかりにくくするような修飾語は、報告の価値を劣化させるだけです。

「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」
という言葉がありますが、報告内容が乏しかったり、原因の特定や責任の所在を曖昧にしたいときほど、用いられる表現は難解になり、報告書ボリュームが増えていく傾向にあるようです。

最後に、報告においても、禁句というものが存在します。

デキない人間の報告には
「検討する」
という言葉がよく見受けられますが、
「検討する」
とは
「対応を取らない」
という意味であり、こういう言葉を多用すると、仕事の能力を疑われることになります。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.039、「ポリスマガジン」誌、2010年11月号(2010年10月20日発売)

00019_いじめ問題解決の第一歩_20071120

最近、いじめ問題の報道が目につきます。

また、テレビなどで、「いじめ問題をどう解決するか」など討論される場面も多く見受けられます。

報道や議論は多いに結構なのですが、「いじめ」という便利なようで実体の希薄な概念を振り回している限り、問題は永遠に解決しないと思います。

「いじめ」という語感からは、「先生が気づいて注意すればすぐに解決するような、生徒間のちょっとしたいざこざ」という印象を受けます。

しかし、いじめの内容と質は、時代の変遷とともに、負の方向で驚異的な進歩を遂げています。

現代「いじめ」と称されるものは、未成年による毀棄隠匿行為、窃盗行為、名誉棄損行為、侮辱行為、暴行行為、傷害行為、脅迫行為、恐喝行為、強制猥褻行為、強盗行為、強姦行為、強盗強姦行為等です。

未成年者が関与するこれら犯罪行為については、加害者と被害者が同一教育機関に属する生徒である限り、すべて「いじめ」と呼称することがルール化されているようであり、状況を正確に表現しようとしても、犯罪用語の使用はよくわからない理由で御法度とされます。

いうまでもなく、「いじめ」といわれるものの実体である前記の各行為は、加害者と被害者が同一教育機関に属するか否かに関係なく、すべて悪質な犯罪です。

当然ながら、犯罪は教師の解決能力を超えた問題であり、本来、捜査機関による捜査と裁判所の判断を経て、法務省所轄の施設で矯正される等(保護という名の監視を含む)べきものです。

教育サービスの提供者に過ぎない教師が、犯罪行為を捜査し、解決し、犯罪者の矯正に責任を負うなどといったことは、できるはずもなく、また、してはいけないものです。

「できないこと」を「できない」と正直にいうのが恥と考えた教師達は、いつからか、「当校にいじめなど存在しない」等と驚くべき強弁をしはじめ、加害者と事後共犯的立場に立ち、被害者による告発を妨害し、犯行隠滅に加担するようになってきています。

マスコミも、「隠蔽された事実や隠蔽されようとしている事実を正しく伝える」という本来の役割を放棄し、いじめ問題に関しては、加害者に配慮した印象操作に進んで協力するようになっています。

例えば、ある中学校で恐喝事件が発生しても、マスコミは、事実報道の役割を放棄し、自主的に「○○中学で金銭要求のイジメが発生した」等と言い換え、事態の糊塗隠蔽に加担するようになっています。

子供は、我々大人が想像する以上にクレバーであり、「罪を犯しても、責任を追及されないし、教師とマスコミが隠蔽工作に積極的に協力してくれる」という状況を正確に理解しています。

こういう状況であれば、誰もが加害者の立場にたつ選択を行うのは自然かつ合理的であり、子供達も、状況に適応した賢い選択と行動をしているにすぎません。

ところで、物事の解決は、状況の客観的評価が必須の前提となります。

いじめ問題を解決するためには、まず、

「いじめと呼ばれるものは犯罪行為である」

「犯罪行為は、生徒間において生じたものであるか否かを問わず、教育問題ではなく、法律問題である」

という事実を冷静に受け止めなければなりません。 このような観点に立ち、「いじめ」問題の解決の第一歩として、教師は、自らの能力の限界を認識して犯罪解決から手を引いて事件を速やかに司直に委ね、マスコミも、「いじめ」等という曖昧な表現の安易な使用をやめ、「犯罪」は「犯罪」として正確な事実報道に努め、正しい議論のための正しい情報の提供に努めることを始めるべきだと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.003、「ポリスマガジン」誌、2007年11月号(2007年11月20日発売)

00018_場違いな主婦感覚_20071020

かなり前の話になりますが、ある県に女性知事が誕生したことがきっかけとなり、建設が予定されていた新幹線の駅が建設中止となるというできごとがありました。

その大きな理由は「(駅をつくるのは)もったいない」というもので、当時、「女性ならでは」とか「今の政治に欠けている主婦感覚」とかいう肯定的評価がされていました。

最初に断っておきますが、私は、女性や主婦の皆様を差別する感覚を持ちあわせていません。

加えて、同業者や同水準の収入の方に比べて、質素倹約の精神を非常に大事にしています。日常生活において、大好きな言葉は「もったいない」「まだ使える」ですし、おそらく、節約の精神と能力にかけては、若い主婦の皆様に負けることはないでしょう。

私は、そのくらい、主婦感覚は大事にしていますし、「もったいない」精神が旺盛ですが、そんな私ですら、先ほど述べた女性知事の主張や行動には、強い違和感を感じてしまいます。

国や社会システムの設計・管理・運用は、台所の切り盛りとは著しく異なります。

インフラ(インフラストラクチャー)といわれるものは、すべからく無駄の固まりです。

道路や橋や学校や役場や病院や老人ホームや児童館や公民館なんて利用者以外にとっては邪魔なだけですし、警察も自衛隊も税務署や消防署もお世話にならない人間にとっては無駄そのもの。

「もったいない」感覚を研ぎ澄ますのであれば、新幹線の駅一つを作らないことより、学校や病院や老人ホームや児童館をぶっ潰す方がよほど理に適っています。

歴史上不朽の世界帝国を築いた古代ローマは、どんな僻地にでも、莫大なコストをかけて平坦で使いやすい道路を敷設し、ローマを中心とした高速ネットワークを完成したほか、各都市においても上下水道や学校や公衆浴場等のインフラをおしみなく提供しました。 

ローマ人は、派手好きなギリシャ人に比べ、質実剛健・質素倹約の精神にあふれていたとされますが、ことインフラの整備にかけては「もったいない」精神は封印し、カネを湯水のごとく使ったようです。

政治、すなわち、法律に基づいて税金を使う活動は、本質的に「無駄で」「もったいない」ものばかりです。

政治が「無駄遣い」であることは避けられない以上、荒っぽい言い方をすれば、「将来に生きる無駄遣いの選択」をするいい政治と、「将来を考えない無駄遣いの選択」をする悪い政治の二種しかあり得ません。

日本についていえば、新幹線や道路や空港はまだまだ足りないと思います。リニアや第二東名なんて将来確実に日本の発展に寄与しますから、カネがかかっても早急に作るべきです。無論、建設行政の透明化や財政の均衡回復は、別途の課題として進めていくべきだと思いますが、「もったいないから、将来の社会に役立つインフラ作りそのものを止めてしまえ」という乱暴な議論はまったく理解できません。

話は変わりますが、日本において出生率が急激に減少しています。

仄聞するところによると、「子供はカネや手間がかかるので、子供を作ることは、総じてもったいない行為である」という感覚を、若い世代が強く有していることも一因のようです。

個人の経済感覚としてはまことに正しい感覚ですが、将来展望という点ではひどく方向性を誤った感を抱くのは私だけでしょうか。

子供というのは将来の日本の発展のために必要な「究極のインフラ」なわけですが、件の知事の「もったいないからインフラ作りをやめる」という主張は、「お金がかかるから子供は作らない」という今時の若い世代の言い分の愚かさと、なんとなくかぶってしまいます。

「もったいない」感覚も結構ですが、何事もTPOが大切です。 将来を構想すべき政治の世界に主婦感覚が持ち込まれることは、ひどく場違いで、バカげた印象をもってしまいます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.002、「ポリスマガジン」誌、2007年10月号(2007年10月20日発売)

00017_安全神話を回復するために_20070920

平成に入ってから、「食の安全」「原子力発電の安全性」ということが叫ばれはじめ、また、「安全神話が崩壊した」などという報道を多くみかけるようになりました。

しかし、よく考えてみますと、日本において科学技術や安全に対する考え方は日々進歩しており、昭和の時代に比べて、社会は確実に安全で住みやすくなっているはずです。

にもかかわらず、日本社会が安全でなくなったような気がするのは、日本において「安全性そのもの」が失われたのではなくて、「安全性」を最終的に保証してくれるべき人間がいなくなったということなのだと思います。

「トップの顔がみえる組織」という言葉がありますが、かつて、国や企業などの大きな組織のトップは、誰もが強烈な個性を有していました。

ソニーやホンダの個性豊かな創業者は誰もがよく覚えていますが、現在のソニーやホンダの社長がどういう人で、どういう個性と哲学をもっており、会社をどのような方向にもっていこうとしているのか、よくわかりません。

かつての「顔」をもったリーダーたちは、危機が到来したときにこそ、その強い個性を堂々と発揮し、安全や信頼の崩壊を食い止めていたような気がします。

最近のトップは、不祥事が発生すると、記者会見はするものの、妙におどおどしたり、コソコソしたりして、個性を極力出さず、目立たずに済まそうとする傾向があります。

不祥事がなくてもコソコソぶりは変わりません。

株主総会は、トップが個性や哲学を最大限アピールできる格好の場であるにもかかわらず、ほとんどの企業のトップは、波風立てずに、事務的に済ませようとします。

無論、「組織の顔」として強烈な個性を発するからには、裏付けが必要です。

すなわち、絶対的な自負と責任感があってこその個性です。

危機に際して、トップが無個性な対応をするのは、おそらく、自負と責任感を喪失しているからなのでしょう。

しかし、そんな対応では、安全や信頼の回復の困難性が露骨にわかってしまい、無用に不安がかきたてられます。

その昔、よど号という飛行機がハイジャックされたとき、後に「男、山村新治朗」と呼ばれた当時の運輸政務次官は、飛行機に単身乗り込み、自分の身を差し出し、人質となっていた一般市民を解放しました。

安全や神話が崩壊したときに、これらを回復するのは、こういう露骨なまでに個性的な対応です。

中国産の食品の安全性や信頼性を回復するために食品輸入商社の社長とその家族が毎日自社輸入食品を食べている様子を克明にアピールするとか、原子力発電の安全性を理解してもらうために、電力会社の社長と家族ともども原子力発電所に隣接する地域に引っ越すとか、「男、山村新治朗」に負けない個性的な対応はしてくれないのでしょうか。

この世の中に絶対安全などということはありませんし、大なり小なり危険やリスクを受け入れないと社会は成り立ちません。

安全神話は、「神話」という言葉のとおり、どこまでいってもフィクション(虚構)にすぎませんが、そんなことは、我々市民は、皆わかっています。 我々市民が危機に際してトップに求めているのは、小難しい言葉で事故原因や今後の対応を、正確かつ控えめにボソボソ語で語るのではなく、強い個性を発揮し、大きな声で、ウソでもいいから、身体を張って安全であることを保証してくれることなのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.001、「ポリスマガジン」誌、2007年9月号(2007年9月20日発売)

00016_人生をうまいこと送るためのリテラシーその3(完):「安全保障を忘れず、時間を大切に、そして、肩の力を抜いて、気楽に、気軽に」

人生をうまいこと送るためには、人間関係の形成・構築(とリストラ)も重要、ということで、前回、「成功した人間の近くにいて、非認知情報を含めてじっくり観察し、たんなるビヘイビアだけでなく、思考や哲学や価値観やスタイルや生き方や美学に至るまで、徹底して模倣」しましょう、と言いました。

とはいえ、安全保障課題として、足を引っ張られないようにすることも大切です。

強者や幸運な者と交わるべし、とはいうものの、負け犬を馬鹿にしたり、見くびったりするのは危険です。

「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、”歴史的な力”である。」

これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社、1993年、163頁)で書いていた一文です。

 足を引っ張られないように、最低限の付き合いをして、人間関係が悪化しないように処置をしておいてください。これは、「安全保障」として重要な意味があります。

「中途半端に、優秀な人間」はアホの真似ができません。

「本当に、優秀な人間」は、アホになれます。
「アホ」以上に、「アホ」になりきり、「アホ」ができます。
「デキる人間」とは、「本当のアホよりも、頭悪そうに、平然と、ナチュラルに、アホの真似ができ、笑顔でアホと戯れることができる人間」です。

こういう点に関して、私がリスペクトする芸能人は(中略)です。

マジで、(中略)のようになりたい、と思っています。

(中略)は、一般的には、おバカで天然なタレント、と言われています。

ですが、違います。私は、知っています。

(中略)は、バカでも天然でもありません。

緻密に計算されつくし、完璧に作られたキャラです。

(中略)のお父さん、某B国籍の(中略)氏は、詐欺容疑で国際指名手配を受けたことのある、世界を股にかけて活動している、著名な方です。

容疑が事実であるとすれば、国際詐欺師です。
私の小さいころからの憧れの人物、「ルパン三世」と同じランクの人物です。

国際詐欺師は、バカでドンくさく、気の利かない人間では務まりません。

頭が切れ、英語ができ、エレガントに振る舞え、国際社会を知り尽くし、行動力があり、大胆不敵で、柔軟に対応でき、何より、人を魅了する(中略)、もといオーラがないと、絶対できない商売です。

教師や公務員やサラリーマンや専業主婦の方々といった、ごく普通に暮らしておられる善男善女の皆様、それに、私のような「知能もイマイチ、度胸も根性もなく、机の上で、刺激のない、平凡な仕事を地味に行うしか能のない、市井の凡人」などは、何回生まれ変わってもなれないのではないでしょうか。

そんなお父さんのDNAを引き継ぎ、長く一緒に暮らしていた(中略)がバカなわけがありません。

確実に、ドえらいIQをもって、冷徹な計算をし尽くし、シビアな商売人の気質をもっているはずです。

だから、すごいんです。

究極です。

まさに、タレント(a talented person。天賦の才能ある人間)なのです。

え?よく理解できない?

「えーとね。そうねー。そうだねー。うーん。多分あなたにはわからないと思うー。かな。んふふふっ。」

話は変わります。
楽しい人生を送るためには、貴重な資源を無駄に使わないようにすべきです。

世の中で最も貴重な資源は何か?

それは時間です。

時間を大事にしてください。

カネより、命より、健康より、大事なのは時間です。

ガンになったとき、医者がやっていることのほとんどは時間稼ぎです。
死ぬまでの時間を、1ヶ月を3ヶ月に、3ヶ月を1年に、1年を2年にしているだけです。

ほとんどのガンは、一定程度進んだら、まず治りません。
絶対死にます。
そんなある程度進んだガン患者に対して、カネとエネルギーと高度な医療技術をかけてガン専門医がやっていることは、死ぬまでの時間を先延ばしするための努力です。

逆に言えば、そのくらい、時間は貴重なのです。

カネがあっても時間は買えませんが、時間さえあれば、なんでもできます。

くだらないこと、無駄なことに費やす時間をなくしましょう。

知り合いの弁護士の名言です。

「千里の道はジェット機で」(制作/著作:井藤公量弁護士)

千里の道を、バカみたいに、一歩一歩歩いていませんか?
時間の無駄です。

「千里の道はジェット機で」行くのが最も正しい。

昔の映画に出てきたアフリカのブッシュマンは、千里の道を歩くことしかできませんでした。

ジェット機の存在を知らないからです。

ジェット機という交通手段の存在や、チケット購入方法や搭乗方法を知らないと、ジェット機には乗れない。

効率的な方法の模索・発見と選択には、特に、知的に苦しく、脳に負荷がかかることがあります。

この種の知的・精神的ストレスやプレッシャーをエネルギーに転換し、効率的な方法を探し出し、ブレークスルー(課題突破)する。

この種の頭脳・精神面における負荷は、成功体験と相まって、人生に心地よい刺激をもたらし、健康に良く、若々しさをもたらします。

とはいえ、無駄な努力、不効率な努力には全く価値がありません。

全く不可能なこと、絶対できないことを努力しても、人生、時間の無駄です。

ドラッカーは、「強みの上に築け(Build on strength)」「得ての上に自らを築け(Build on your own strength)」と言いました。

人間は強みを知り、強みを活かすべきです。

弱みを克服している間に一生が終わってしまいます。

弱みを克服するだけで終えてしまう一生ほど、無駄で、無意味なものはありません。
それこそ、弱いところは、カネやコネで調達すればいいのです。

正しく物事の本質を見ぬく知性を身につけ、明確な目的を持ち、とっとと課題の発見・特定を行い、当該課題を処理するための合理的な選択肢を抽出し、もっとも効率的な選択肢を選択し、「目的優先、世間体軽視、常識無視」の姿勢で、誰よりも、早く、スマートに結果を出し、余った時間で人生を楽しみましょう。

以上、一般的ではない、美しくも、清らかさもない、マインドセットやリテラシーをお伝えしましたが、これらのことを、「肩に力を入れ、眦(まなじり)を決して、鼻息荒くして、暑苦しく、見苦しく、我武者羅にやる」なんて、品のないことは、どうぞおやめください。

力を入れず、スマートかつエレガントに、周囲とうまく折り合いをつけながら、しれっとやってください。

ゴルフも、商売も、恋愛も、人間関係も、人生も、肩に力を入れて、いいことは一つもありませんから。
(連載おわり)

00015_人生をうまいこと送るためのリテラシーその2:「強い者にグルングルン巻かれよう」

人生をうまいこと送るためには、人間関係の形成・構築(とリストラ)も重要です。

前回、こう申し上げました。

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じてしか、この種の「非常識だが、理にかなった、資本主義経済社会をうまく泳ぎ切るための知恵」は手に入れることはできません、と。

そのために推奨されるのは、運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間と付き合うことです。

これは、ラックマネジメントの一種です。

昔から言いますよね。

強い者に巻かれろ、寄らば大樹の陰、と。

運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間に、どんどん近づき、グルングルン巻かれちゃって下さい。

負け犬同士つるむのは時間の無駄です。そこから何も生まれません。

本に載っていない知恵を学び、運をもらい、時流を学ぶのは、外界や異界に通じ、「常識には反するが、経済的には理にかなった方法」を追求し、これを外野のノイズをガン無視して、しびれるくらいのスピードで実現する、そんな、ミュータントのような人種です。

こういう成功したマイノリティーに対して、
「あんなのは非常識だ」
「あいつは成功したが、嫌われ者だ」
「たとえ出世しても、あんなヤな奴だけにはなりたくない」
と強者、成功者を腐すことしかできない、互いの傷を舐めあっている負け犬の集団があったとしましょう。

そんな負け犬集団にズブズブに浸かりきっている人間の中から、強者を目指す野心家が現れ、日頃つるんでいる負け犬と訣別することなく、ハレーションも起こさず、表面上、良好な関係を維持しながら、陰でこっそりチャッカリ努力を継続し、ある日、突然、「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」として世に出る、ということは、絶対ゼロとはいいませんが、まずありえません(その種の、「下町のスター」「鳶が鷹を生む」「出藍の誉れ」「掃き溜めに鶴」的な感動話がドラマになるのは、レアだからです)。

学ぶとは、「真似ぶ」、すなわち、「真似る」から転じた言葉、と言われます。

その種の「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」は、すでに成功した人間の近くにいて、非認知情報を含めてじっくり観察し、たんなるビヘイビアだけでなく、思考や哲学や価値観やスタイルや生き方や美学に至るまで、徹底して模倣することによって、誕生するものだからです。
(つづく)  

00014_人生をうまいこと送るためのリテラシーその1:「常識とは偏見のコレクション」

世の中、大切なことほど、教科書には載っていませんし、親も学校の先生も先輩も、世の中のことをよくわかっていません。

また、そういう
「ホンモノの知恵」
は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

世間から嫌われるくらい成功して楽しい人生を送っている人間の中には、
「競争者を増やして、自分の首を締める」
ようなことをするバカは、ほとんどいませんから。

「成功」
とは、非常識な方法によって得られた稀有な結果です。

常識や良識にしたがったところで、得られるものは陳腐な結果です。

さらに言えば、
「常識」
とは、
「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」
を指します。

「大きなプロジェクトの成功」
は、例外事象であり異常現象です。

それなりに大きなビジネスや新規のプロジェクトは、フツーのことをフツーにやっていては成功などしません。

トラブルや想定外の事柄が次々生じます。

大きな事業・新規の事業を、公務員の皆様やフツーのサラリーマンの皆様や小学校の先生方や専業主婦の皆様に、彼らの常識や良識にしたがって取り扱わせたら、どうなるか、想像してください。

これらの事柄の対処には、常識や良識は通用しませんし、事業が悲惨な末路を迎えることは想像に難くありません(もちろん、前記属性の方々の中には、立派で尊敬に値する方も多数おわしますが、ここでは、「例外事象」「異常現象」を扱わせる、という限定された状況において、蓋然性の問題として、どういう帰結が見込まれるか、という議論における評価・推定の話です)。

アップルやグーグルやアマゾンの、新しいCEOを、
「公務員の皆様やフツーのサラリーマンの皆様や小学校の先生方や専業主婦の皆様から無作為に選ばれた、常識と良識に満ちた、庶民の考えや痛みや苦しみがわかる、そんな、常識と良識を持ち合わせた、平均的な思考ができる、平均的な方」
に任せることとした。

この場合、これらの会社の株価は、好感を得て上がるでしょうか、それとも、マーケットから総スカンを食らって暴落するでしょうか。

「世間で評価される仕事というのは、あらゆる形式やモラルを排して遂行されているものだ」
これは、あるベンチャー経営者が、若い方や後輩に常に言っている言葉です。

常識を疑い、常識の裏側や対極にあるものを想定し、非常識のアングルに立って物事を観察するクセをつけてみる。

そうすると、世の中には、イノベーションや改善の可能性、すなわち成功の機会がゴマンとあることに気づくはずです。

では、どうやって、
「成功するための、正しい非常識」
を身につけるか? 

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じてしか、この種の
「非常識だが、理にかなった、資本主義経済社会をうまく泳ぎ切るための知恵」
は手に入れることはできません。
(つづく)

00013_「訴えてやる!」と言われた場合の対処法

日常の口論でも、ケンカがエスカレートすると、
「訴えてやる」
「出るとこ出てやる」
「もう訴訟しかない」
「念書を書け」
「詫び状を書け」
といった物騒な言葉が飛び交うことがあります。

こういう厳しい言葉で詰め寄られた場合の対処法は、意外と知られておらず、無駄にビビって、相手の言いなりになって、やがて、そこからズルズルと「やられたい放題やられていく」という必敗パターンにはまり込んでいきます。

え、じゃあ、無視していいわけ?
無視したら、大変なことになるじゃない!
でも、こんな「訴えてやる」という相手の威嚇を無視して、本当に大丈夫なのでしょうか?
万が一、訴えられたら、大変なことになるのではないでしょうか?
とすると、訴えられることを回避するため、相手をなだめ、なんとかその場で話し合う方向で妥協した方がいいのではないでしょうか?
本当に大丈夫?
鐵丸先生、他人事だと思って、いい加減なこと言ってない?
ていうか、鐵丸先生、弁護士としては、揉め事起こった方が仕事になるから、仕事欲しさに煽ってんじゃないの?

という異論、反論、疑問、ツッコミが返ってきそうです。

ですが、正しい対応は、無視であり、「どうぞ裁判でも何でも、起こしたかったら起こして下さい」という突き放しなんです。

もちろん、本当に訴訟が提起される場合もないとは言えませんが、その確率は極めて低く、こういう「訴えるぞ」という脅し文句を絶叫する場合、単なる、ハッタリとしての捨て台詞であることがほとんどです。

こう言い切れるのは、訴訟の本質に根ざす事情に基づきます。

すなわち、訴訟を提起するといっても、裁判を行う場合、原告の負担があまりにも重く、訴訟を一種の「プロジェクト」と考えると、1万円札を10万円で買うような、無茶苦茶、コストパフォーマンスが悪い、「キックオフした瞬間に、経済的敗北が確定する」というくらい、厳しい負担が生じるものだからです。

というのは、民事裁判制度というゲームの構造が、原告にとってあまりに不愉快なシステムとして設計されているからです。

 違法や不正義に遭遇したときに、被害者がこれを申し出て、権力的に解決する制度として、裁判制度というものが存在します。

 よく、論争や見解対立が紛糾したりすると、「出るとこ出たる」「裁判を起こしてやる」「公の場で白黒はっきりつけてやるから覚えとけ」といった趣の売り言葉に買い言葉が応酬される場面に出くわしたりすることもあります。

 しかしながら、裁判制度の現実を考えると、実際に訴訟を提起することはかなりの困難が伴い、さらに言えば、「訴訟を提起する側は、提起しようとした瞬間、莫大な損失を抱えてしまい、経済的な敗北が確定する」とも言える状況が存在します。

 これは、裁判制度を利用するには、莫大な資源動員が要求されるからです。

 刑事事件として警察や検察等が動いてくれれば格別、民事のもめ事にとどまる限り、どんなに辛く、悲惨で、酷い状況に遭遇しても、被害者原告が、裁判を起こさない限り、国も世間も、基本的に、状況改善のために指一本動かしてくれません。

 そりゃ、同情はしてくれるでしょうが、同情を買うために愚痴を言い続けても、愚痴を聞く側もそれなりにストレスがたまるので、だんだん愚痴を聞いてくれなくなります。それでも愚痴を言い続けて嫌がられると、友達を失っていきます。

「じゃあ、愚痴言ってるヒマがあれば、とっとと、さくっと、すぱっと、裁判を起こして、解決してもらえればいいじゃん!」ってことになるのですが、これが、口で言うほど簡単ではなく、それなりの成果が出るように、真面目にやるとなると、気の遠くなるようなコストと手間暇がかかるのです。

 無論、弁護士費用や裁判所の利用代金(印紙代)もかかりますが、この外部化されたコストは、費消される資源のほんの一部にしか過ぎません。

 実際、訴訟を起こすとなると、原被告間において生じたトラブルにまつわる事実経緯を、状況をまったく知らない第三者である裁判所に、しびれるくらい明確に、かつ、わかりやすく、しかも客観的な痕跡を添えて、しっかりと説明する必要があります。

 裁判所は、「あいつは悪いやつだ」「あいつは嫌われている」「あいつはむかつく」「あいつの評判は最悪だ」とか、そんな、主観的評価にかかわるようなことはまったく興味はなく(むしろ、この種の修飾語の類いはノイズとして嫌悪される)、聞きたいのは、事実だけです。

 すなわち、客観的なものとして言語化された体験事実を、さらに整理体系化し、文書化された資料を整えることが、裁判制度を利用するにあたって、絶対的に必要な前提となるのです。

 そして、この前提を整える責任は、原告にのみ、重く、ひしひしと、のしかかり、世間も裁判所も、誰一人手伝ってくれません。

 それどころか、少しでも、この前提に破綻や不備があると、相手方はもちろんのこと、裁判所も「このあたりの事実経緯が不明」「この点をしっかりと、根拠をもって説明してもらわないと、裁判がこれ以上進まない」「もうちょっと、ストーリーを整理してくれないと困ります」と言って、ツッコミを入れ、裁判が成り立たなくなるような妨害行動(といっても、これは原告の主観的心象風景であって、裁判所や相手方からすると、「裁判をおっぱじめるなら、おっぱじめるで、テメエの責任で、きちんとストーリー作ってこい!」という、ある意味当たり前のリアクションをしているだけ)を展開します。

 このように、裁判システムは、ボクシングやプロレスの試合に例えると、原告が、ひとりぼっちで、延々とリングというか試合会場を苦労して設営し、ヘトヘトになって試合会場設営を完了させてから、レフリー(裁判官)と対戦相手(被告・相手方)をお招きし、戦いを始めなければならないし、さらに言うと、少しでも設営された試合会場ないしリングに不備があると、対戦相手(被告・相手方)もレフリー(裁判官)も、ケチや因縁や難癖をつけ、隙きあらば無効試合・ノーゲームにして、とっとと帰ろう、という態度で試合進行に非協力的な態度をとりつづける、というイメージのゲームイベントである、と言えます。

 こう考えると、裁判制度は、原告に対して、腹の立つくらい面倒で、しびれるくらい過酷で、ムカつくくらい負担の重い偏頗的なシステムであり、「日本の民事紛争に関する法制度や裁判制度は、加害者・被告が感涙にむせぶほど優しく、被害者・原告には身も凍るくらい冷徹で過酷である」と総括できてしまうほどの現状が存在します。

例えば、名誉毀損とか侮辱されたという類の喧嘩が起こったとして、トラブルの相手が「訴えてやる」と言ったところ、こちらが「どうぞ、訴えるか訴えないかはそちらの自由です。訴えたければどうぞ」と対応し、相手が「よし、覚えとけ。次に会うのは裁判所だ!」と言って、破談となったとしましょう。

相手が、宣言どおり、現実に、訴訟を提起するとなると大変です。
というか、ほぼ無理です。

まず、訴訟の相手をどうするか、住所は把握しているか。
いつ、誰が、どこで、どうして、どのようなことを行い、それがどのような法律要件に該当し、損害賠償請求権を生み出すのか。
賠償額をいくらにするのか。
1万円か、10万円か、100万円か、1億円か。
金額が大きくなれば印紙代もかかるが、無駄にならないか。
主張する事実に関する証拠をどのように揃え、整理し、提出の準備を整えるか。手持ちの証拠で十分か。
これだけの検討や準備や作業を独力でやるのか。
弁護士に依頼するのか。
弁護士はいくらで引き受けてくれるのか。
仮に、一審で勝ったとしても、相手が争って控訴がはじまったら、また、弁護士費用がかかるのではないか。最高裁にも行くのではないか。
そうやって、かけた弁護士費用分、きっちり賠償金が得られるか。

こんな疑問や、実施上の難題が、次から次へと浮かび上がります。

そして、これらの実施上の課題をクリアしようとすると、弁護士に依頼する場合はもちろんのこと、自分でやる場合であっても(そもそも、このレベルの事件では、素人さんにとっては、独力で訴状を書き上げることすら不可能かもしれません)、うんざりするような手間や時間やコストや労力がかかります。

さらに、残念なことに、名誉毀損の賠償相場は極めて低く、今回のようなケースで認められるとしても(そもそも認められない可能性も大変高いです)、100万円台はまずなく、10万円以下ではないでしょうか。

こんなプロジェクト、本当におっぱじめたら、経済的にも、労力的にも、精神的にも大変な負担を覚悟しなければならず、悲壮な覚悟が必要になります。

となると、経済合理性の点でもっとも賢明な選択は、「訴えてやる」と勢いよく宣言したことはおいといて、かなりかっこ悪いですが、実際は、訴えず、何もせず、諦める、という態度決定です。

「やられたら、どうするか?」

やり返してはいけません。

「やられたら、泣き寝入り」
が正解です。

そして、おまけです。

「念書を書け」と言われても、そんなもの書く義務は全くありません。

ですので、応答としては、「ヤだ」が正解です。

念書作成を要求された場合、私などは、「念書、念書、念書ってさっきから何度もいっておられますが、そんなに念書がほしいの?こっちはイヤなんだけど、そちらがどうしても念書がほしいんだったら、東京地裁に、『これこれこういう念書を作成し、交付せよ』、という訴訟を提起すればいいじゃないですか。そちらが訴えたら、こっちはこっちで、最高裁まで三回は争わせていただきます。万が一、最高裁で敗訴が確定し、さらに、確定判決に基づいてそちらが強制執行を申し立てたら、その段階で、おとなしく従ったほうがいいか無視するか、改めて、考えます」と答えることにしています。

「念書?ヤだ」といっても、引き下がらないとします。
義務がないことを強く求めたら、強要罪に該当します(ローマ法皇や皇族の方々のように、ジェントルかつエレガントに念書や詫び状をお求めになるのであれば問題ないでしょうが、詫び状をしつこく求めるような通常のケースですと、暴力や害悪の仄めかしを伴うので、強要罪ないし脅迫罪、少なくとも迷惑防止条例違反には該当するでしょう。実際、滋賀県近江八幡市のボウリング場で店員に言いがかりをつけ土下座させた、「元気が良くて、声の大きい、権利意識高めの舗装工のお兄さん」がいらっしゃったのですが、このお兄さん、大津地裁で、強要罪に問われ、2015年3月18日、懲役8月の実刑判決を食らっておられます)。
あまりしつこくやられたら、こちらが被害者として、警察を呼んで対処すればいいだけです。

いずれにせよ、「訴えるぞ」と、明らかに実現性のないハッタリかまされビビるのもダメですが、「念書書け」と言われ、言うなりになって書くのもアホです。

もちろん、こんな対処法、学校で教えてくれませんし、そもそも、教師は知りません。親も知らないでしょう。

世の中、こういう、「学校や親が教えてくれないが、生きていく上で、絶対知っておくべき、非常識なリテラシー」がかなりの数存在するのです。

一番、いいのは、弁護士に聞くことです。
その前提として、疑問に思ったら、弁護士に聞ける環境を作っておくことです。
さらにさらにその前提として、そして、常識という「バイアス」に依拠せず、「相手はこう言っているけど、ほんまかいな」と疑問に思うこと、です。

「我、疑うゆえに、我あり」
懐疑は、知的な人間としての、本質であり、全てです。