00031_民主主義なんて要らない_20090520

ここに3人のオジサンがいたとします。

一人は、土建屋あがりの政治家で、声とガタイと態度はデカいが、学はなく、過去に逮捕歴がある。

残りは、国会で木で鼻をくくったような答弁を繰り返す行政官僚と、残る一方は裁判官。

一般の方に、
「3人のうち、誰をもっとも信頼し、誰をもっとも信頼しませんか?」
というアンケートをした場合、間違いなく、裁判官がもっとも信頼できるとし、政治家はワーストワンになるでしょう。

個人としてカネを貸すことをイメージしても、裁判官に貸せば期限に利息も含めてきっちり返ってきそうですが、政治家にカネを貸したら返済はあきらめた方がいいかな、というのが偽らざる気持ちです。

ところが、民主主義という観点でみると、政治家はもっとも民主的存在であり、次に民主的なのは、組織のトップが民主的にコントロールされている官僚。裁判官は、難しい試験に合格とはいえ、その選任基準は不明であり、もっとも民主主義から遠い存在です。

このように、一般国民は、自分たちが公正な選挙で選んだ代表を全く信用しておらず、むしろ民主主義とは関係なく、試験で選抜された偏差値の高い人間の方を信用します。

新聞などを呼んでいますと、「行政に民主的にコントロールを及ぼすべき」という論調がみられます。

しかしながら、「行政に民主的コントロールを及ぼす」ということは、「『経歴も素性も能力も雑多で何をやっているかよくわからない信用度ゼロの政治家』に、『東大卒で優秀な行政官僚』の仕事の邪魔をさせる権利を認めよ」ということと同義であり、字面だけでなく実態まで考えてみれば、無茶苦茶な話です。

「行政に民主的コントロールを及ぼす」ことは「政治家の行政介入」を是とする話です。

すなわち、「土建屋あがりの政治家が、官僚を恫喝し、公共工事を強引に自分の地元にもってくる」という昭和の時代に行われた違法不当な行為は、民主的といえば民主的なのです。

また、裁判員制度というのは、非民主的な裁判制度に国民を参加させるものであり、民主主義という観点からは多いに評価すべきものですが、多くの国民は、「そんなのは優秀な裁判官に任せればいい話で、できれば裁判員になんかなりたくない」と考えています。

このように、一般国民は、自分たちが選んだ代表者より、民主的基盤をもたない試験秀才を心から信用しており、また、裁判という国家権力行使への参加を「面倒くさい」といって毛嫌いするのです。

よく考えてみると、民主主義というのは、
「官僚や裁判官などのエリート集団」の判断より、
「平均偏差値の低い集団が選んだ、声の大きい目立ちたがり屋」の判断を
優先させるものであり、もともと大きな矛盾を孕んだ理念です。

ちなみに、
「当時としては画期的なほど民主的と評価されたドイツのワイマール憲法下において誕生した、究極の民主的政権」
として有名なのは、ナチスドイツです。

このように民主主義という統治理念は非常に問題が多く、
「『バカが選んだ目立ちがり屋』の声に左右されることなく、優秀で公平無私なエリート集団が、長期的視点に立って自由な裁量で社会運営する」
という非民主的な統治方法の方が優れているように思えるのです。 

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.021、「ポリスマガジン」誌、2009年5月号(2009年5月20日発売)

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