時間と神経を、じわじわ吸い取っていく相手
お店を開いていたり、会社を経営していたりすると、ときどき、妙な
「相手」
が現れます。
「相手」
と書きましたが、言葉を変えると、
「やっかいごと」「悩みの種」。
正確には、
「時間と神経を吸い取る装置」
とでも言うべき存在です。
一度関わりを持ったが最後、電話・メール・来店・クレーム・面談――あらゆる入り口から、あなたの時間と神経を、じわじわと、静かに、吸い続けます。
取引先のこともあれば、近所の誰か、元従業員、クレーマーっぽい常連のこともあります。
姿かたちは違っても、その行動は、ほぼ同じです。
あなたの1日の中の
「本業に使えるはずだった時間」
を、音もなく吸い取っていくのです。
ある会社の社長が、弁護士に相談しました。
「もう半年以上、この案件で、部下まで振り回されています。先生、どうしたらいいでしょうか」
話を聞けば、現場の主力スタッフが、一週間の仕事時間のうちざっと半分を、この件の対応に取られている。
期間は、もう8ヶ月。
つまり、人員にして1.5人分が、まる8ヶ月、この案件に貼りついている計算です。
領収書の出ないお金が、いちばん怖い
これをお金に換算してみましょう。
社員ひとりあたりに会社がかけるコストを、月給・社会保険・諸経費あわせて月60万円とします。
1.5人月を8ヶ月ぶん積み上げると――だいたい、700万円です。
ところが、社長はこの数字を聞いても、顔色ひとつ変えませんでした。
なぜか。
実際には、この金額は通帳から消えていないからです。
領収書もありません。
振込先の口座番号もありません。
要するに、
「見えないお金」
は、脳みそが
「出費」
として認識しない、という少し困った性質を持っているのです。
しかし、確実に、財布の底からこぼれ落ちています。
このお金があれば、その会社はおそらく、もう1店舗、開けることができたでしょう。
社長の
「やっかいごと」「悩みの種」
は、未来の店舗を、静かに食べていたのです。
会社には、帳簿が2冊ある
私たちは
「お金がかかる」
と言われると、反射的に見積書や請求書を思い浮かべます。
紙に数字が書いてあって、印鑑が押してあって、振込先がついている――それが
「かかったお金」
だと、頭の中で決めつけています。
しかし、会社の帳簿には、実は2種類あります。
ひとつは、
「目に見える帳簿」。
もうひとつは、
「目に見えない帳簿」。
後者には、一見、ゼロにしか見えないものが、並んでいます。
やらなかった商談、開けなかった店、採らなかった人、作らなかった商品、書かなかった企画書。
やらなかったのだから、そこにはゼロしか並ばないように見えます。
しかし、本当に経営が上手な人は、そのゼロの後ろに
「取り損ねた利益の金額」
を書き込んで、読んでいます。
これが、
「機会損失」
という、帳簿に載らない概念の正体です。
経営がうまい人とそうでない人の差は、才能でも人脈でもありません。
「見えない帳簿」
を、毎朝、見える帳簿と同じくらい真剣に眺めているかどうか――ただ、その1点に、ほぼ集約されます。
値札には「表」と「裏」がある
さて、弁護士は社長の前に、3つの選択肢を置きました。
1 コストをかけない
手紙は自分たちで書いて、弁護士は赤ペンを入れるだけ。
顧問料の範囲内で、なるべく安くすませる案です。
2 弁護士名義で警告文書を一本出す
25〜30万円ほどで、こちらが本気であることを相手に見せる。
ただし相手が引き下がらなければ、その後の交渉は別料金。
3 裁判もにらんだ徹底的な文書で一発かまし、弁護士が交渉もまるごと引き受ける
着手金は約60万円。
決着すれば、同額ほどの報酬金が上乗せされる設計です。
数字だけ眺めると、ほとんどの経営者の心は、だいたい同じ方向へ動きます。
「とりあえず1で。だめなら2で。3は、いざとなったら、で」。
いかにも堅実で、まっとうな判断に見えます。
ここに、見落としやすい、もう一つの事実が隠れています。
「表の値札と、裏の値札の金額が、まったく違う」
というものです。
表の値札には、〇万円・〇〇万円という具体的な数字が書いてあります。
裏の値札には、
「この選択をしたとき、あと何ヶ月、この案件があなたの社員を吸い続けるか」
が書いてあります。
表と裏、両方を足したときに初めて、その選択肢の本当の値段になります。
「安い封筒」には、見えない請求書が同封されている
1を選んだとしましょう。
問題の構造はほとんど変わらないまま、社長と部下の時間が、また静かに溶け続けます。
8ヶ月の足踏みが、1年になり、1年半になります。
見えない帳簿に、ゆっくりと赤い数字が書き足されていきます。
しかし、この帳簿を音読してくれる人は、どこにもいません。
「会社がなんとなく疲れている」
「利益がなんとなく薄い」
という空気だけが、じわっと社内に広がっていきます。
2にも、実は、同じ問題が潜んでいます。
相手が一発の警告文書で引いてくれれば、25万円ですべてが終わります。
しかし、何年もかけてこちらに貼りついてきた手ごわい相手が、紙一枚でさっと引き下がるかというと――だいたい、引きません。
しかも、2から3へ途中で乗り換えると、最初から3を選んでいた場合よりも、合計のコストは高くつきます。
こちらが途中で
「弱気」
を見せた瞬間、相手はむしろ勢いづくからです。
3は、見た目にはいちばん高くつきそうです。
しかし
「金輪際、二度と近寄らせない」
という目的に限って言えば、これがいちばん安上がりだった――という結末は、現場では、もううんざりするほど見てきました。
医療で言えば、痛み止めと手術の話に似ています。
痛み止めを飲んだ瞬間、楽になったように感じます。
しかし、病気そのものは、静かに、深く、広がっていきます。
あとになって
「最初から切っておけばよかった」
と、誰もが気づく。
痛み止めが悪いわけではありません。
ただ、痛みを消すことと、病気を治すことは、別の話なのです。
「高い」と感じたら、まず実態を数字にせよ
もし目の前の弁護士の見積書の
「60万円」
を見て
「高い」
と感じたとします。
その気持ちのまま、5分、手を動かしてみてください。
白い紙を1枚用意して、次のように書きます。
「この件に、いままでに、うちの誰が、何時間を、何ヶ月、使ってきたか」
現場責任者の時間が、どれほどこの件で消えていったか。
その部下の時間が、どれほど巻き添えになっているか。
総務や経理の時間が、どれほど後始末に取られているか。
そして社長自身の時間が、どれほどこれに奪われているか。
それらに、会社がその人にかけている月額コストを掛け合わせてみます。
出てきた金額が、見積書の金額より大きければ――答えは自ずと出るでしょう。
60万円というのは、
「新しく発生する費用」
ではありません。
すでに溶け続けているお金を、これ以上溶かさないための値段です。
700万円の流出を、ここで断ち切るための、小さな装置です。
そう捉え直した瞬間、60万円という数字の印象は、がらりと変わります。
「安いほうを勧めてくる専門家」が、実はあなたの財布に遠慮がない
ここで、少しだけ、視点を変えてみましょう。
「結局、弁護士は、いちばん高いプランを勧めたいだけなのでは?」
と思われた方。
その警戒心は、まっとうです。
絶対に捨ててはいけない感覚です。
しかし現実は、この警戒心が思っているのと、わりと逆向きにできています。
本当に目先の売上だけを考える専門家ほど、1や2を、にっこり笑って勧めてきます。
案件がいつまでも終わらず
「また、ご相談に」
「また、ちょっと対応を」
と、繰り返し呼んでもらえるからです。
依頼者が完全に勝ちきる前に静かに長居するほど、その専門家の懐は、こつこつと温まっていきます。
逆に
「ここで、いっぺんに、きれいにケリをつけましょう」
と最初から言い切るタイプの人は、長期のリピーター収入を、自分から手放しにかかっています。
「売上欲しさに見える助言」
のほうが、じつは、依頼者のお財布の味方だったりする。
この少しねじれた関係に気づいておくだけで、専門家との付き合い方は、ずいぶん冷静になります。
お医者さんも同じです。
「痛み止めでしばらく様子を見ましょう」
とやさしく言い続けてくれるお医者さんより、
「これは、今のうちに取りましょう」
と一度厳しい顔を見せるお医者さんのほうが、じつはあなたの寿命の、静かな味方をしてくれていたりします。
経営者の本当の仕事は、「見積書の値段くらべ」ではない
経営者という仕事は、しばしば誤解されます。
「ムダなコストをいちばん上手に削る人が、いい経営者だ」
と。
もちろん、ムダを削るのは大事な仕事のひとつです。
しかし、それは、仕事の入り口にすぎません。
経営者の仕事とは、
「いま支払うお金」
と、
「支払わないことで静かに溶け続けていくお金」
と、
「将来、取りにいけたはずのお金」
この3つを同じ天秤に乗せて、値踏みをすることです。
これができる人のことを、世間は
「肝の据わった社長」
と呼びます。
肝というのは、じつは、性格のことではありません。
計算の精度のことです。
「まだ終わっていない案件」を一枚の紙に書き出す
最後に、小さな宿題をひとつだけ。
今夜、静かな時間に、白い紙を一枚用意してください。
一番上に、こう書きます。
「うちの会社で、8ヶ月以上、きれいに終わっていない案件は、何か」
該当するものを、思いつくまま並べます。
それぞれについて
「誰が、どのくらいの時間を、毎週、吸われているか」
を、感覚でかまわないのでとなりに書き添えます。
書き終わってから、電卓を軽く叩いてみてください。
たいていの場合、そこに出てくる合計金額が、いまの通帳から毎月、音もなく消えていっているお金の、本当の正体です。
そのうえで、もう一度、手もとにある見積書を眺めてみます。
数字の印象が、不思議と、がらりと変わっているはずです。
「動かない」
という選択にも、値札はちゃんとついている。
そしてその値札が見えるようになった瞬間から、経営者としてのあなたは、確実に一段、大きくなっています。
そのとき、まだ開けていない2つ目のお店の図面が、机のいちばん下の引き出しの中から、そろそろ、こちらを向いて、静かに見つめ始めているかもしれません。
著:畑中鐵丸