退職の挨拶が終わり、最後の荷物を段ボールに詰めた日。
1枚の書面が渡されることがあります。
「退職後2年間は、競合他社への就業を禁止する。違反した場合は、退職金を支払わない」
まるで、あなたのこれからの2年を、丸ごと人質に取ったような一文です。
競業避止義務条項。
退職した社員が、同じ業界や競合他社に転じることを制限する、契約上の縛りのことです。
ハンコを押した瞬間、あなたは、徐々に委縮していきます。
「やはり、同じ業界への転職は諦めるしかないか」
「昔の取引先に挨拶しに行くのも、まずいだろうか」
「声をかけてくれた元同僚との食事も、控えたほうが無難か」
その紙きれ1枚が、見えない檻を作り上げます。
しかし、少し立ち止まって考えてみてください。
その一文は、本当に、あなたを縛れるものなのでしょうか。
迫力と効力は、別の話
内閣府が2024年4月に公表した公式資料では、2つの事実が明記されています。
ひとつは、会社側の実態です。
「裁判例上どのように規定すれば有効になるのかが不明であるにもかかわらず、無効になる可能性を理解している場合であっても、敢えて牽制的に広範な定めにする場合がある」
会社側は、有効かどうかは二の次で、とりあえず広範に書いておく。
もうひとつは、労働者側の心理です。
「退職後の競業避止義務規定が無効になる場合があることを認識していたとしても、広範な定めが記載されていることにより不安になる」
労働者は、
「とりあえず広範に」
書かれたものについて、不安になるのです。
東京高裁は2012年、外資系生命保険会社の元執行役員が退職金の支払いを求めた事件で、
「保険業界では営業成績に人脈などが大きく影響するが、男性の努力で獲得したノウハウの流出を禁止することは、正当な目的とは言えない」
と判断しました。
条項は無効、退職金約3千万円を支払え、という結論です。
条項の迫力は、読んだ人間を黙らせるために存在しています。
中身を検証しないまま委縮する人には効き、検証した人にはそれほど効かない、といえます。
「無効」と「有効」を分ける、見えない線
では、競業避止条項はすべて無効なのかというと、そうではありません。
裁判所はこの種の条項を判断するとき、いくつかの物差しを当てます。
・守るべき正当なビジネス上の利益があるか
・禁止する職種・業種の範囲が広すぎないか
・禁止期間が長すぎないか
・禁止に見合った代償(手当や上乗せ退職金など)が支払われているか
このうちのどれかが欠けると、条項は
「行き過ぎ」
と判断されます。
たとえば、
「退職後2年間、同業他社は一切禁止」
と書いてあっても、その条項が一般の営業社員にまで広く適用され、特別な代償もなく、範囲も期間も際限なく広いとなれば、裁判所は
「これは個人の職業選択の自由を侵すものだ」
と判断する可能性が高くなります。
要するに、紙に書いてあることではなく、裁判所がその内容を
「正当だ」
と認めるかどうかです。
書いた側は条項を使いたいのか
ところで、競業避止条項を契約書に書き込んだ会社は、その条項を本気で使いたいと思っているでしょうか。
実務のプロからみると、たいていの場合、答えはノーです。
訴訟を起こすには、費用と時間がかかります。
しかも相手が
「条項は無効だ」
と反論してきたとき、裁判所がそれを認めれば、会社のほうが恥をかく羽目になります。
「元社員を訴えた会社」
という評判が業界に静かに広まれば、次の採用にも、取引先との関係にも傷がつきます。
さらに言えば、逆撃というリスクもあります。
会社が条項を根拠に強硬手段に出れば、相手方に弁護士がつき、そもそもこの条項は無効ですと裁判所に判断を仰ぐ展開になりかねない。
無効の判決が出れば、会社は、条項そのものの存在を否定された格好になります。
つまり、条項を
「本当に使う」
コストは、条項を
「書いておくだけのコスト」
よりも、圧倒的に高いのです。
だから多くの会社は、
「書いておく」
ことで、抑止力を得ようとします。
相手が自分から委縮してくれれば、それが低コストで有効な使い方というわけです。
「気にはする。でも、委縮しない」という距離感
では、手元に競業避止条項の誓約書があるとき、どう振る舞えばよいのでしょうか。
1 条項があること自体は「ちょっとは気にした方がいい」
これは無視してよいという意味ではありません。
条項の内容によっては有効と判断されるケースもゼロではなく、何より紛争になること自体がストレスの塊です。
書いてあることへの最低限の敬意は、社会人として持つべきものです。
2 だからといって「委縮する必要はない」
条項が怖いからと、同じ業界を避け、昔の取引先とも距離を置き、せっかく声をかけてくれた会社の内定まで断ってしまう――それは、自分のキャリアを自ら狭めているにすぎません。
しかも、その条項が本当に有効なのかを検討しないまま、相手の意図どおりに萎縮してしまっている可能性があります。
3 グレーゾーンには、グレーゾーンなりの立ち回り方がある
たとえば、旧来の取引先と接触するにしても、書面やメールなど証拠として残りやすい形での勧誘行為は避けること。
こうした知恵は、条項の外形に配慮しながら合理的に動く、大人のやり方です。
職業選択の自由は、あなたが思う以上に、頑丈にできている
職業選択の自由は、日本国憲法に定められた基本的権利です。
これはお飾りの言葉ではありません。
裁判所はこの自由を制限する契約条項に対して、
「よほどの合理性がなければ認めない」
というスタンスを、長年にわたって保ってきました。
個人が会社との契約で憲法が保障する自由をあっさり手放せては困る、という判断があるからです。
あなたが長年かけて積み上げた業界知識、人脈、スキル、経験――これらは、会社が
「うちのものだ」
と言い張っても、本来はあなた自身の汗と時間と才能が生み出したものです。
前述の東京高裁の判断が示したのも、まさにその一点です。
法律というものはどこか冷たく難解で、自分の味方には思えないことがあります。
しかし、こと職業選択の自由に関しては、裁判所は、かなりしっかり、個人の側に立ってくれています。
怖い紙を、正しく怖がる
競業避止条項は、確かに
「怖い紙」
に見えます。
しかし、その怖さの大部分は、中身を検証しないまま、書いてあるという事実だけで委縮してしまう、読み手側の思い込みによって成立しています。
条項の有効・無効を判断する物差しがある。
裁判所は過去に
「無効」
の判断を下してきた。
会社側も、本気で訴追することのコストとリスクを承知している。
これらを踏まえたうえで、
「正しく怖がる」
ことが重要です。
怖がらないのは無謀。
しかし怖がりすぎて自ら可能性を閉ざしてしまえば、それこそ相手の思うつぼです。
自分の人生の主導権まで、辞める会社に明け渡してしまうことになりかねません。
著:畑中鐵丸