「お金のためじゃない。ただ、きちんとケジメをつけたい」。
そう言える人でなければ、法律家の門を叩いてはいけない――。
ある弁護士が、依頼者への私信でそう綴りました。
これは過激な言葉でしょうか。
いいえ、むしろこれは、日本の司法制度の本質を突いた、静かで鋭い警告だと私は思います。
「正義」を求めた会社に起きたこと
ある会社が、犯罪被害を受けました。
詳細は伏せますが、従業員や取引先が傷つき、組織として無視できない損害が生じた、そういう類の事件です。
被害者側の会社は弁護士を立て、刑事告訴という手段を選びました。
刑事事件として警察・検察に動いてもらい、それを背景に加害者との示談交渉を進める、というプランです。
教科書的には、なかなか筋の良い戦略です。
ところが、現実はそうなりませんでした。
警察の動きは鈍く、起訴には至らず、不起訴あるいは執行猶予といった、いわば
「軽微扱い」
の方向で処理が進んでいく気配が漂い始めます。
刑事告訴というカードは、机の上で輝いていただけで、実際の交渉テーブルでは、ほとんど使えない状態になってしまったのです。
こういうとき、被害者はどうすればいいのか。
次の手として、民事訴訟という選択肢が浮かび上がります。
裁判所に損害賠償を求める、誰でも知っている
「法的手段」
です。
しかし弁護士は、この選択肢を安直に勧めませんでした。
日本の民事裁判は「やり得容認型」である
弁護士の言葉を、そのままの意味で受け取ってください。
「日本の民事裁判システムは、被害者に冷淡で、加害者に有利な、やり得容認型です」。
これは感情的な愚痴ではありません。
実務を積み重ねた専門家が、数字と経験から導き出した制度評価です。
勝訴は可能です。
しかし時間がかかり、手間がかかり、そして最後に判決が出ても、相手に支払う意思や財力がなければ、紙切れ一枚が手元に残るだけです。
強制執行という手段はあっても、財産が見当たらなければ絵に描いた餅です。
さらに言えば、検察官だって人間です。
被害者が声を上げても
「お金のために騒いでいるのだろう」
と冷ややかに見ることがあります。
被害者にとっては心外な話ですが、これもまた現実の一断面です。
正義を求めて動いた人間が、
「カネほしさに騒いでいる人」
と分類されるリスクが、日本の法実務の中には静かに潜んでいます。
「投資対効果」で法を考えてはいけない理由
ここで弁護士は、依頼者に向けて、非情な、しかし重要なことを言います。
「法的事件というプロジェクトは、一般の事業投資とは異なり、投資対効果という概念で割り切ることはできません。もし損得で考えるなら、泣き寝入りして株でも買っていた方が、よほど効率がいいです」。
これは逆説的な誠実さです。
弁護士は自分の依頼を減らすかもしれない言葉を、あえて言っています。
なぜか。
法的手続きを経済合理性だけで選ぶ依頼者は、途中で必ず
「こんなはずじゃなかった」
と言い始めるからです。
費用がかかった、時間がかかった、思ったほど取れなかった。
そして最後は、弁護士との関係がこじれる。
「お互いイヤな思いをする」
という言葉の裏には、そういう苦い経験の積み重ねがあるはずです。
弁護士が求めているのは、
「多少の面倒やコストは覚悟のうえで、法に照らしてきちんとケジメをつけたい。自分の力だけでは限界があるから、プロに任せたい」
という、明確な非経済的動機です。
この動機がある人だけが、法的手続きという長い旅路を、最後まで歩きとおせる。そういう意味での、資格審査とも言えます。
「費用」は信頼の代替である
弁護士はもう一点、率直に述べます。
「難易度やリスクとバランスが取れた費用を負担していただき、それをもって信頼関係の構築と考えるほかない」。
これは、弁護士が
「お金が大切だ」
と言っているのではありません。
費用を払うという行為が、依頼者の本気度と動機の明確さを示す、唯一の可視化手段だということです。
値段の安い弁護士を探し回る依頼者は、しばしばコスト意識より本気度の低さを示してしまいます。
逆に、相場をきちんと払う依頼者は、
「面倒やコストを覚悟している」
という意思表示でもあります。
廉価なサービスを求めるなら、他の選択肢も示す。
でも、劇的に安い場合はクオリティへの不安が生じる。
それも含めて、最終的には依頼者自身の選択だ、とこの弁護士は言います。
これほど誠実に、かつ正直に、現実を開示する専門家は、そう多くありません。
それでも、あなたは「ケジメをつけたい」か
損害賠償の相場は、後遺障害がなければ概ね百万円前後と言われます。
民事訴訟で勝訴しても、弁護士費用や時間的コストを差し引けば、純粋な経済的利益はほぼゼロか、マイナスになることすらあります。
国の犯罪被害者給付制度を活用する手もありますが、それも万能ではありません。
それでも人が法的手続きを選ぶとき、そこには
「損得を超えた何か」
が動いています。
社会の一員として、不正が不正のまま通り過ぎることへの違和感。あるいは、自分や組織への尊厳の問題。
「泣き寝入り」
という言葉が引っかかる感覚、それ自体が、法への扉を開く正当な動機です。
逆に言えば、その感覚がない人は、法律家を頼る前に、一度立ち止まって考えた方がいい。
「自分はなぜこれをやりたいのか」。
その問いへの答えが、法的手続きという旅を最後まで支える、唯一の燃料だからです。
日本の法制度は、完璧ではありません。
被害者が不利で、加害者が相対的に守られやすい構造は、制度設計の問題として長年指摘され続けています。
しかし、そのなかでも、誠実な専門家は存在します。
そして、誠実な専門家ほど、耳触りのいいことを言いません。
「それでもやりますか」
と問い返す弁護士の言葉は、冷たいようで、実はもっとも依頼者に寄り添った問いかけかもしれません。
正義を求めることは、安くありません。
しかし、ケジメをつけたいという意志は、値段では測れません。
その矛盾を静かに引き受けながら、法と向き合う人たちが今日もいる。
それが、日本の法実務の、もう1つの現実です。
著:畑中鐵丸