00026_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(7)~改善する、改革する~

1 「改善や改革」という仕事の重要性

「改善や改革」
をできない企業は、激変する環境に適応できず、太古の恐竜のように絶滅させられます。

企業が生き残る上で、社内において
「改善や改革」
といった仕事を継続的に進めさせることはきわめて重要です。

また、サラリーマン本人にとっても、
「何時でも余人をもって替えられるような、ルーティンしかできない」
となると、地方に飛ばされたり、不景気になると真っ先にクビを切られます。

その意味では、
「改善や改革」
という仕事を効果的に進めることは、企業にとっても、ビジネスマンにとっても生き残る上できわめて重要であり、関心がある事項といえます。

2 「改善や改革」という仕事は苦手科目

しかしながら、ビジネスマンの方で
「改善や改革」
が苦手という方は非常に多いようで、この種のタスクを命じられるとたいていの方は憂鬱になられるようです。

一般に、サラリーマンと呼ばれる方々の大多数が日々行っている
「仕事」
なるものの正体は、よく観察すると
「作業」レベル
のものに過ぎないことが多いように思われます。

作業のやり方を根本から変えたり、作業そのものをなくすような新たな仕組みを構築したり、といった劇的な付加価値を生むような仕事を行っているビジネスマンは圧倒的に少数です。

人間の頭脳は保守的にできている上、現在の詰め込み型の学校教育においては、小さいころから百マス計算とか漢字書き取りとか
「余計なことを考えず、目の前の単純作業を全力で取り組め」
という形での洗脳を長期間行っているため、平均的日本人は、
「柔軟な発想で仕事そのものを変えてみろ」
といわれても自然と思考が停止してしまうのです。

「改善や改革」
という仕事を遂行する上では、小学校以来延々と脳に刷り込まれてきた
「盲目的に目の前のルーティンを効率的にこなすことに集中せよ」
という奴隷労働的美徳から解放され、真の知的活動をする必要があるのです。

3 「改善や改革」課題の選定

「改善や改革」
というタスクを遂行する上で最初に衝突する困難は
「そもそも改革課題や改善テーマがまったく思い浮かばない」
という事態です。

この症状は、
「昔から存在するルーティンは、それなりの理由があって現在も使用されているのであり、したがって合理的なものである」
という思い込みが障害になっているものと考えられます。

しかしながら、ルーティンの中には、すでに意味を失っているものや、
「もはやその存在自体が効率性を阻害している」
という類のものも多数あります。

「改善や改革」
のテーマは、
「ルーティン課題自体を否定してみる」
という考え方から生まれてくることが多いのです。

すなわち、
「もしこのルーティンがなかったら、どうなるか?」
という発想によって、ルーティンをより効率的なものに変質させたり、別の新たなルーティンに置き換えたり、ルーティンの順序を変更することにより劇的な効率改善を生むアイデアが出てくるのです。

小学校以来優等生だった人はこの種の思考が苦手なようです。

他方、
「小さいころからレポート課題や宿題が大嫌いで、この種の『人生に役に立たない代物』がなくなることを願い、常に回避する方法や手を抜く方法を考えてきたような、小ズルイ人間」
は、
「改善や改革」系の仕事
で劇的な成果を上げることが多いようです。

これは、優等生が陥りがちな
「目の前の課題を疑ってはならない」
という固定観念に拘束されない自由な思考があるからかもしれません。

いずれにせよ、ビジネス社会では、
「課題をうまく処理できる」
というのはたいしたスキルではなく、
「課題そのものにおける課題をみつけることができる」
「新たな課題を発見することができる」
「課題そのものをなくすことができる」
能力の方が重要とされるのであり、このような能力が改善や改革の前提として機能するのです。

4 「改善や改革」案を創出する

お話しましたとおり、
「改善や改革」
といった仕事を進めていく上では、
「どういう改革課題を選定するか」
という前提をクリアするのがそもそも大変ですが、ここを何とかクリアし、無事
「改善や改革」
という仕事のテーマが選定できたとしましょう。

「改善や改革」
の遂行を命じられた人間は、次に
「(設定された)課題を克服するための具体的アイデア(ブレークスルー方法)が思い浮かばない」
という障害に直面します。

この種の
「ひらめき」
というものは個人差があり、ぽんぽんアイデアが出る人もいれば、まったくアイデアが出てこない人もいるようです。

では、どうしたら、
「ひらめき」
をうまく創出することができるのでしょうか。

発明の瞬間を描いたドラマや映画をみていますと、
「人里離れ、孤独に研究を続ける主人公の発明家が、資料が乱雑に積み上がった、みるからに雑然したデスクの上で煩悶としていたところ、天啓に撃たれるが如く、突然偉大な発明をひらめく」
といった場面が出てきます。

しかし、これは、
「天才と呼ばれる一種の異常者が、人類社会を変えるような特異な発明を行う」
という場合に限定して当てはまる話です。

「凡人の勤め人が、金儲けを効率化するようなアイデアを捻り出したり、工場現場において操業方法を工夫して品質を向上させる方法を創出する」
という卑近なアイデア創出に関しては、経験上、ゴミ屋敷のような乱雑な場所からは生まれてこないようです。

ビジネス上の改善・改革方法を創出プロセスは、
「『ビジネス上のゴールを達成しうる可能な限り多くの合理的選択肢』を丁寧に拾い出していき、これらの長所短所やコスト分析を理性的に整理・分析し、うまく行かない場合、当初の選択肢抽出の範囲を広げ」
というプロセスを地味に繰り返していくことによって生まれます。

このような退屈な作業を繰り返し行う中で、思考が純化・短絡化されていき、課題を効率的に解決する新たなプロセスが必然的に導き出されます。

思考の純化・短絡化が、他者とのコミュニケーションの中で行われることもあります。

ブレインストーミングや、あるいはまったく関係のない第三者に意見を求めたことがきっかけとなって、他者から課題に対する別の視点が提供され、これによって、思考の純化・短絡化が一挙に進み、新たな選択肢が創出されるという場合です。

以上のいずれのケースにおいても、課題を整理したり、関係者と課題共有をしたり、自分の置かれている状況を他者に説明したり、といった
「解決方法創出のための前提環境の整備」
が必要となります。

無論、
「関連データや情報も整理せず、他者とも一切コミュニケーションを取らない状況において、混乱したデスクやこんがらかった頭脳の中から、突然、トンデモないアイデアを思いつく」
という場合があるかもしれません。

しかしながら、SF小説や推理小説のトリックとは違い、ビジネスや工業製品開発におけるアイデア創出現場においては、
「一般人のドギモを抜く、驚愕のアイデア」
といった趣のものは、商業上あるいは採算上まったく価値がなく、むしろ有害であるような代物が多いといえます。

世界的時計メーカーであるセイコーを創業した服部金太郎は、こういったそうです。

「すべて商人は、世間より一歩先にすすむ必要がある。ただし、ただ一歩だけでよい。何歩も先にすすみすぎると、世間とあまり離れて予言者に近くなってしまう。商人が予言者になってしまってはいけない」

つまり、
「個人の妄想の中で生み出された独りよがりの突拍子もないアイデアは、産業社会においては使えない」
ということなのです。

いずれにせよ、机上も頭の中も乱雑になっているとますます混乱しますし、他者とコミュニケーションを取らず独善的に妄想を募らせるだけでは、あり得べき解決方法創出から遠ざかってしまいます。

ビジネスにおいて
「改善方法や改革方法」
を探求する方は、ドラマや映画の天才発明家の真似をすべきではありません。

むしろ、情報やデータを常に整理整頓し、クリアな頭で考えられる環境を作り、あるいは課題や関連情報を常に客観化して他者から様々なアイデアや意見を得られる状況を作ることが、目の前の課題を解決する方法をひねり出す近道といえるのではないでしょうか。

5 「改善や改革」は必ず誰かを損させる

「改善や改革」
という仕事を行う際、注意しなければならないのは、
「改革とは必ず誰を損させるものである」
という本質です。

改善や改革が劇的であればあるほど、損や迷惑を被る人の数が多くなり、かつダメージの度合いも大きくなるものです。

歴史上、改善や改革で大失敗したのは、織田信長やナポレオンやケネディーです。

彼らの行った事業あるいは行おうとした事業は、いずれも斬新で進歩的で有意義でしたが。

しかし、
「改革とは、結局、誰かを不幸にするものである」
という単純な仕組みを知らなかった彼らの末路はいずれも悲惨極まりないものとなりました。

以上をふまえると、改善や改革を完成させる局面では、
「改革によって損をするであろう人間」
に対して、

(1)損を被るべき人に対して何らかの形で損失の補填を行うか
あるいは、
(2)損を被るべき人に損をしないようにみせかけて騙す

といういずれかの対策を取るべき必要が出てきます。

「お前の存在は不要となったので、経済的に、あるいは社会的に抹殺させてくれ。ところで幾らほしい? 言ってみろ」
といって、ふんふん頷いて適正な補償額を答えるような人間は古今東西皆無です。

法外な補償額を答えるか、そもそも
「経済的に、あるいは社会的に抹殺されること」
を良しとせず、我武者羅に抵抗するでしょう。

というわけで、成功した改善や改革の多くは、(1)という馬鹿正直な方法によらず、(2)という
「狡猾で陰険な方法」
に基づき、改革や改善を邪魔する人間を排除しています。

「日本史上最大の社会改革事業」
であった明治維新についてみてみましょう。

明治維新を実務面で遂行したのは、後に
「維新の元勲」
と呼ばれる薩摩長州藩等に所属する一部の下級官僚たちでした。

「維新の元勲」
たちは、
「維新という事業を進めていく上では、江戸幕府のみならず、自らが属した藩や士族階級そのものも邪魔になるので、解体するべきである」
ということは明確に認識していました。

しかしながら、彼らは、このことは一切明らかにせず、逆に、所属する藩にあたかも
「維新によって、単純な支配交替が生じ、薩摩藩や長州藩及びこれらの藩に属する士族たちが、それまで栄華を極めていた江戸幕府に替わってオイシイ思いができる」
かのような錯覚を与え続けました。

薩摩藩出身の大久保利通は、同郷の盟友である西郷隆盛さえ騙し続けたのではないか、と思われる節があります。

いずれにせよ、
「元勲」
たちのクレバーさは図抜けています。

そして、最終的には、藩や士族たちが
「江戸幕府を倒した。これで、我が藩が我が世の春を謳歌できるぞ」
などと夢見心地の状態で惚けている間に、廃藩置県によって藩そのものを消滅させてしまい、事態に気づいて騒いだ士族連中もすべて葬り去り、明治維新という改革・改善事業をなし遂げたのです。

明治維新は
「『江戸幕府以外の諸藩』が、『江戸幕府』を滅ぼした戦争(内戦)」
という構図と、
「『“江戸幕府以外の諸藩”の一部下級管理職』が、『“江戸幕府以外の諸藩”のボヤボヤしていたオーナーや上司たち』をまるごと滅ぼして自分たちの政権を確立したクーデター」
という構図をあわせ持っています。

後者のクーデターという側面は、歴史においては明確に述べられていませんが、
「損を被るべき人に損をしないようにみせかけて騙す」
というセオリーに忠実に則って行われたものであり、維新という改革・改善事業を完成させる上で非常に有意義なものでした。

以上のとおり、改善や改革は単なる思いつきさえ出せば終わりというものではなく、
「既得権者の効果的排除という生臭い点まで意識しながら進めなければならない」
ということもよく認識しておく必要があります。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.045~047、「ポリスマガジン」誌、2011年5~7月号(2011年4~6月20日発売)

00025_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(6)~整理する、評価する~

経営コンサルタントやM&Aアドバイザーをやっていると、倒産する会社、倒産した会社、倒産間際の会社、もう実質倒産しているがゾンビのように生き延びている会社等、組織として経済的に死んでいる会社を相当数みかけます。

倒産する会社にはどの会社にも共通するある一定の特徴がみえてきます。

倒産する会社は、どの会社も
「整理」
というものがまったくできていない、ということです。

倒産間際の会社の社長に書類の在り処をきくと、帳簿も決算書も手形帳も社長室のキャビネットにつっこんであり、順序もヘッタクレもなく、ぐちゃぐちゃ。

会社設立の際に作成した原始定款は当たり前のように行方不明となっており、株主総会議事録や取締役会議事録などまったく見当たらない。

まさしくカオス状態になっています。

また、こういう会社は、
「営業重視、管理軽視」
という単純な経営理念で突き進んできたせいか、これまでの事業を振り返ったり評価したりすることもなく、ひたすら前だけを向いて突っ走っています。

モーレツ営業会社には、
「過去」

「歴史」
もなく、破産申立をする弁護士さんは、経過を聴取し、文書化するのに大変苦労する、とボヤく姿に出会います。

他方で、
「整理や管理や評価をきちんと行っている、すべてにおいて小綺麗な会社」
をみると、たいてい事業が順調であり、弁護士に後ろ向きのことを相談するようなところは皆無です。

以上のような経験に基づく雑感が正しいかどうかは別にして、整理とか管理とか評価とかという仕事は、単純で地味なものですが、事業を円滑に進めていく上で重要な役割を担っていることは間違いありません。

しかしながら、会社であれ、勤め人であれ、整理とか管理とか評価とかといった仕事を苦手とする方は意外と多くいらっしゃるようです。

このように、
「整理」

「評価」
という仕事に苦労するのは、仕事の意味や本質をはき違えていることが原因と考えられます。

まず、
「整理」
とは、理をもって整える、すなわち、一定の理屈にしたがって履歴を並べかえる、ということを意味します。

時系列、サブジェクト毎、重要性、近似性といった
「一定の理屈」
を構築し、当該理屈にしたがって資料や事実を並べ替えることが
「整理」
の意味です。

「整理」
という仕事を
「仕事がデキる人」

「デキない人」
それぞれにやらせてみると、
「整理」
の力点の置き方に違いが表れます。

仕事のデキる人に
「整理」
をさせると
「一定の理屈」
の構築に時間とエネルギーを注ぎ込み、後に残った
「並べ替え」
という作業自体は適当に行うか、
「こんな作業ごときオレがやる必要はない」
といって誰かに振ってしまいます。

他方、仕事のデキない人間は、深く考えずに
「並べ替え」
という
「作業」
に着手し、着手したら最後、この作業に盲目的に没頭し、無駄に時間を費やした挙げ句、
「努力の痕跡は認めるが、努力の方向性を喪失した感が否めない、何とも使いにくい成果物」
を寄越します。

整理とは、
「作業」
ではなく、自分やチームのプロジェクト遂行のプロセスの理屈化・体系化であり、実にクリエイティブな仕事です。

そして、このような創造的な体系化・論理化が適切に遂行されことにより、今後のプロジェクトの企画・遂行の際、無駄が省かれ、失敗が少なくなり、全体として成功率が増えることにつながるのです。

その意味では、整理という仕事を行う上では、体系構築のための創造性が要求されるもので一定の才能が要求されます。

次に、
「評価」
という仕事についてです。

「評価」
という言葉の意味は
「値打ちを定める」
というものですが、
「値打ち」
などといったものは人により様々であり、正解があるわけではありません。

要するに、
「独断と偏見によるでっち上げ」
を上等な言葉で飾ると
「評価」
という仕事になるのです。

「評価」
という仕事を苦手にする人というのは、要するに、

1 物事をデッチ上げるための勇気がない
あるいは
2 デッチ上げるための表現技術に乏しい
のいずれかまたは双方の特徴を備えた人間

ということです。

言い換えれば、
「無駄に誠実で控え目な人間」
であり、企業社会においては
「使えない人間」
あるいは
「使いたくない人間」
といえます。

仕事のデキる人間は、以上のような
「評価」
という仕事の本質をよくわかっており、上司から
「どういう結論をデッチ上げてほしいのか」
「デッチ上げの際、どういうロジックが好まれるか」
ということを事前によく確認します。

そして、デキる人間は、眉一つ動かさずに上司の好みに合わせた
「デッチ上げ」
ができ、これを
「客観的評価」
と臆面もなく言い切ることができるのです 。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.044、「ポリスマガジン」誌、2011年4月号(2011年3月20日発売)

00024_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(5)~段取りを組む、実施する~

企画やプロジェクトの実施・実現を任せてみると、
「要領よくプロジェクトを完成させる人間」

「無駄な時間やエネルギーを費やした揚句、最後は中途半端な未完成状態に終わり、できなかったことの弁解を考えはじめる人間」
の2つのタイプに分かれます。

無論、前者は上司の信用を得て出世していき、時を置かずして自分が指揮・命令をする立場に任じられますが、後者は
「こいつに大事な仕事は任せられない」
という評価を受け、組織の中では冷や飯を食わされます。

では、
「上手に段取りを組み、仕事を完成させる」
ということが、デキる人間とデキない人間との違いは、どのあたりに由来するのでしょうか。

「段取り上手でプロジェクト実施能力が高い人間(以下、「段取り上手」)」

そうでない人間(以下、「段取り下手」)
の違いを解き明かすことによって、
「段取りを組む、実施する」
という仕事の本質を述べていきたいと思います。

段取り上手は、基本的に想像力が豊かです。

プロジェクトの概要を聞いただけで、ゴールやそこに至る現実的プロセスの詳細をイメージすることができます。 

また、段取り上手の想像力は
「プロジェクトの様々な障害や失敗のシナリオを思い浮かべる」
ということにも発揮され、プロジェクトの完成を請け負うにあたり、現実的なゴールへの修正や、具体的な根拠を以て予算や人員の増加や納期の延期の要請といったレスポンスを即座に行うことができ、その結果、発注者の信頼を勝ち取ります。

他方、段取り下手は、この種の想像力がまったく働かないため、盲目的にプロセスを積み上げていくだけです。

そして、仕事を続けていく中でぼんやりとゴールがイメージできるようになった段取り下手は、そこでようやく、時間切れ・予算切れ・要員不足という事態がみえはじめ、途中で大幅な計画修正を行い、発注者の信頼を失ってしまいます。

また、段取り上手は、ゴールから逆算してプロセスを組んでいきます。

そして、ゴールに期限内に到達するための中間目標(マイルストン等といわれます)を明確に立てることも忘れません。

他方、段取り下手は、
「プロセスを積み上げていけば、いつかはゴールにたどりつけるだろう」
という雑然とした意識しか持たず、そのためプロジェクトを頓挫させてしまいがちです。

さらに、段取り上手は、納期を品質に優先させるべきことを知っています。

まずは80%の品質さえ確保した状態までたどり着くことを優先するのです。

残った時間でチューンナップして完成させた方が精神的にラクですし、万が一納期割れを起こしそうになっても、ほぼ完成していることがカタチとしてみせられる分、発注者(上司)を安心させることができるので、納期延長交渉も容易です。

段取り下手の多くは、全体的な仕事のスピードを意識せずひたすら品質にこだわった揚句、いつまでたっても仕事の完成ができないという事態に陥りがちです。

最後に、段取り上手が段取り下手と決定的に違うのは、段取り上手が
「複眼思考を持っていて、マルチタスク(同時処理・並行処理)を実行できる」
という点です。

プロジェクトを構成する各作業の中で、
「個別作業間に、論理的に先後・順序が絶対要請される」
というものは実はそれほど多くありません。

また、仕事は完成させること(to get things done)が目的なのであって、
「必ずすべて自分ないし自分たちの手で完成させなければならない」
というルールはありません。

こういう点を理解している段取り上手は、論理的な先後・順序が要請されない個別作業を、チームの中で繁忙でない者や外部の業者にアウトソースする等して、
「時間」

「機会」
という最も貴重な経営資源の浪費を防止するのです。

高学歴の人間が出世することが多いのは、大学受験の準備プロセスにおいて以上のような
「段取り力」
「プロジェクト実施能力」
を経験していることと関係しています。

すなわち、東大に合格するような人間は、受験当日の受験会場の現場状況を具体的にイメージしており、また、受験当日から逆算して勉強スケジュールを立てることができ、
「各科目の個別単元の細かな完成度に拘泥することなく、全体として重篤なモレやヌケができないようバランスよく勉強すること」
が合格に貢献することを理解しており、
「不得意科目も未習熟科目も、すべて自分で仕上げなければならない」
等といった愚かな呪縛に拘泥することなく、塾や予備校や家庭教師といったアウトソースを効果的に使うことができる人間ばかりです(最後に関してはある程度の財力が必要となりますが)。

難解大学に合格する若者は、10代後半から、常に
「段取り力」
「プロジェクト実施能力」
を意識した人生を送ってきているのですから、そうでない人間より仕事がデキるのは、当然といえば当然です。

有名企業が、学歴の高い人間を偏頗的に採用するのは、不当な差別意識に基づくものではなく、以上のような合理的期待に基づく合理的行動といえます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.043、「ポリスマガジン」誌、2011年3月号(2011年2月20日発売)

00023_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(4)~企画する、考える~

「ビジネス・プロフェッショナルの仕事術」
と題する本連載シリーズは、これまで、仕事の基本中の基本、ホウ・レン・ソウと呼ばれる、報告・連絡・相談という基本スキルの解説をしてまいりました。

その続きとして、さらに、
「企画する、考える」
「段取りを組む、実施する」
「整理する、評価する」
「改善する、改革する」
「関係構築をする、交渉する」
といった、
世上「仕事」と呼ばれる各行動
において
「作法」と考えられている推奨指針
をお話してまいりたいと思います。

今回は、
「企画する、考える」
という仕事のお作法についてです。

「下手な考え休みに似たり」
という言葉を聞いたことがある方も多いと思いますが、これは誤用であり、
「下手『の』考え休むに似たり」
というのが本来の諺のようです。

すなわち、前記諺は、一般的に誤解されている
「つまんない考えを巡らすぐらいなら休んでいた方がマシ」
という意味ではなく、
「囲碁や将棋が下手な癖に一人前に長考する癖のある者」
を指して
「下手な人(名案が浮かぶ筈のない人)がいくら考えても、時間を浪費するばかりでなんの効果もないぞ」
という揶揄が本当の意味だそうです。

この諺(本来の意味の方)は、
「企画する」
「考える」
「検討する」
といった仕事についても同じように当てはまります。

企画したり、考えたりする仕事は、定石を知らない者や経験のない者が、自己流で思考を巡らしても時間のムダにしかなりません。

上司から企画や検討の仕事を指示された場合、受命した部下には、
「自分の考えを巡らせること」
を求められているのではなく、上司の忠実なコピーとして、上司の思考を正確に模倣することが求められているのです。

すなわち、仕事で
「企画しろ」
「考えろ」
という指示があった場合、
「自分の拙い経験と貧弱な個性を発揮して、無駄に時間をつぶせ」
と捉えるのは重篤な誤りであり、この場合、自分のアタマを上司のアタマと入れ替え
「上司だったら、どう考えるか」
という思考を徹底し、
「上司の思考をなぞりながら、目の前の状況や課題に対して、想定される上司の思考を再現する」
ことが求められているのです。

学校では、教師からよく
「自分の個性を大事にしろ」
とか
「自分のアタマで考えろ」
とか教えられることがありますが、生き馬の目を抜くビジネス社会で、
「企画したり、検討したりする仕事」
を実践する上で、これほど有害な教えはありません。

話は変わりますが、藤子不二雄のマンガ
「パーマン」
に、コピーロボットというのが出てきます。

主人公(須羽ミツ夫)がパーマンとして活動する間、家族に気づかれないように身代わりに使うロボットで、普段は黒い鼻しか付いていないマネキンのような人形ですが、その鼻を押すことで押した人間や動物そっくりのコピーになり、記憶や能力が引き継がれる、ということになっています。

上司から、仕事として
「この企画を立てておいてくれ」
とか
「これを検討しておいてくれ」
という指示があった場合、その真の意味は、
「自分の個性を完全に抹消し、上司の“コピーロボット”になって、上司の記憶と能力を極力正確に承継し、上司の思考と対応を忠実に再現して、成果物としてまとめておいてくれ」
ということなのです。

「上司がどう考えるかをふまえず、自分の個性を発揮して、想像の翼を羽ばたかせ、自由に思考を巡らせる」
のは、まさしく、
「下手の考え休むに似たり」
と同義です。

このような我流の企画や検討を行っていると、
「勤務時間中に昼寝して夢をみているのと同じだ」
との厳しい評価を受け、二度と企画や検討の仕事を任されなくなります。

「個性的な考えや自由な発想が大事」
というのは、学校でしか通用しない与太話であり、ビジネス社会における
「個性的な考えや自由な発想」
等という代物は
「有害な妄想」
と同義です。

社会に出れば、個性をすべて抹消して、指揮命令を発する上位者の正確なコピーとして、上位者の記憶と能力を引き継ぎ、その思考の正確な再現ができるように務めることが大切であり、これが
「企画したり、検討したり、考えたりする」
という仕事の実体であり本質なのです。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.042、「ポリスマガジン」誌、2011年2月号(2011年1月20日発売)

00022_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(3)~相談する~

日常用語で相談というと、悩みがあったり、混乱してわからないことが発生した場合、親や先生に丹念に話を聞いてもらいつつ、解決案を出してもらう、というのが一般です。

しかしながら、ビジネスの
「ホウレンソウ」
における
「相談」
というのは、
「夏休み子ども相談室」
の相談のように
「小学生の抱えた悩みをやさしく解決してくれる」
という穏やかなものではありません。

仕事に関して相談する相手は、たいてい上司です。

上司は、先生や親と違って、殺人的に忙しく、時間がありません。

そんな上司に、部下が
「混乱して、問題点が特定できない悩み」
を持ち込んで、上司という
「時給単価の高い、組織において貴重極まりない人的資源」
を長時間費消するのは、組織運営の妨害行為としか認識されません。

そんな
「アホな悩み」
を上司に持ち込む部下は、可愛がられるどころか、
「要領を得ないヤツ」
というレッテルが貼られ、次の異動で別の部署に飛ばされることになります。

こういう意味において、
「相談」
の本質・仕組みや、マナー・エチケットを知っておくのは非常に重要です。

ここで、相談の本質・仕組みですが、
「仕事において上司に相談する」
というのは、仕事を進める上での各進捗プロセス、すなわち

1 状況の認識・整理(未確定の状況があれば、その特定を含む)
2 問題点や課題の抽出
3 解決方法(戦略レベル)の特定と具体化(複数の解決策がある場合は、解決方法の選択肢の抽出と功利分析も含む)
4 複数の解決方法を立体的に展開する場合にはその整序(段取り)
5 解決方法を実行する上で実施上の課題(戦術レベル)の想定・シミュレートやブレイクスルー方法

という各段階の作業を行う上で、
「状況認識やスキームが相場観に整合しているか」
「全体として計画に現実性があるか」
「その他経験値の乏しさによる誤解から生じるモレ、ヌケがないか」
という補完的な検証を経験値の高い上司に依頼する、という行為を指します。

すなわち、仕事の場における
「相談」
は、
「上司の経験値による補完的検証作業」
ということですので、
「自分でできる範囲のことはギリギリのところまで自分の責任で進め、最後の詰めを依頼する」
というのが本来の姿といえます。

こういう相談の本質・仕組みをわきまえず、
「状況がよくわかっていないせいか、何だかうまく行きません。何が問題かわからないことが、問題なのです。ボクはどうしたらいいんでしょう」
といった類の、会社の上司を母親や小学校の先生と勘違いした相談は、仕事のマナー・エチケットに反した非常識な行動と認識されます。

とはいえ、
「デキもしないのに仕事を引き受けてしまい、上司に相談しようにも相談の前提を整えることができず、遠慮して相談を忌避し、その結果、1つも進捗させることができないまま、長時間徒過させてしまった」
というのも会社や組織に害を与えます。

ですので、
「手に負えない。こりゃダメだ」
と思ったら、黙っていないで、すぐに上司とのコミュニケーションを取るべきですが、ここでの上司とのコミュニケーションは
「相談」
ではなく、
「自分がアホであり、仕事が進められない」
という事実の
「報告」
になります。

この報告を受けた上司は、当然、叱責したり厭味をいったり舌打ちしたりしますが、そういう態度を取りながらも、
「これはこうやるんだ」
といって、目の前で1ないし5のプロセスを披瀝してくれるはずです。

その際の部下の行動ですが、ボーっと突っ立っていると上司の心証を害します。

部下としては、次回から自分の頭脳で1ないし5のプロセスを完遂できるようにすべく、メモを取って、上司の仕事の捌き方を克明に記録するのが礼儀です。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.041、「ポリスマガジン」誌、2011年1月号(2010年12月20日発売)

00021_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(2)~連絡する~

仕事の基本である
「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」
について述べておりますが、前回の
「報告」
に続き、今回は、
「連絡」
についてです。

1 報告と連絡の違い

仕事において行うべき連絡についてですが、
「連絡と報告の違いがわからない」
などとよくいわれます。

これは私なりの区別ですが、報告とは
「過去に発生した事実や発生しつつある経過を、上司の指揮命令や報告義務に基づいて行うもの」
ですが、連絡とは
「将来における予定や計画を自発的に行うもの」
です。

コンサルタントの活動でいいますと、クライアントに対して、
「アセスメントの結果、こういう事実が判明した」
「インタビューの結果、こういう回答を得た」
「データを解析したところ、こういう結果を得た」
「3期分の財務諸表をレビューし、経年変化について調べた結果、このような顕著な推移が認められた」
等といった過去の出来事を伝えるのが報告です。

そして、以上のような報告を前提に、
「改善プランを策定する」
というミッションを達成するために、
「動員可能資源を把握するため、関連資料をご準備いただき、ミーティングをさせていただきたい」
「線表を修正するため、各プロセスの期限を再検証したいので、御社責任者の予定を調整して、再度、オールハンズミーティングを行わせていただきたい」
等これからのアクションを伝えるのが連絡である、と理解されます。

連絡においても、報告と同様、タイミングよく行うことが必要ですし、内容面においても
「何時、どこで、何を、どのような方法で行うか」
という点について、正確かつ明瞭に記載した文書でタイミングよく行うことが求められます。

2 連絡の受信者に対するフォロー

連絡については、たまに、
「そんな連絡を受けていない」
「聞いていない」
「知らなかった」
「忘れた」
といった話が出てきます。

また、連絡においてこちらがお願いした準備や用意をしてこない、ということもよく発生します。

無論、これらは連絡の受け手側に問題があるのですが、仕事のデキる人間は、こういう事態まで先取りし、受信者から
「当方の連絡を了解し、確認した」
旨のCONFIRMATIONの返信をもらったりしますし、REMAINDER(備忘再告知)という形で予定日程が近づくと念押しするための連絡を行ったりする場合があります。

いずれにせよ、連絡を効果的に行うためには、受け手の理解認識状況をふまえて、効果的に対応するとともに、細かなフォローが必要と思います。

少し面倒くさい話をしますと、意思表示に関する法的取扱においては、意思表示を発信する側ではなく、意思表示を受ける相手側の便宜がすべてにおいて優先されます。

これは、
「到達主義」
と呼ばれるドクトリンで、取引における法的でフォーマルなコミュニケーションにおいては、
「連絡したらそれでOK」
ではなく、
「連絡内容が相手方にきちんと伝わったか否かまで、連絡発信者においてきちんとフォローしろ」
というルールが適用されます。

法的な連絡文書を送りつける場合もカウンターパートの受領確認まで取っておかないと、後日、
「そんな文書は知らんし、見たことない」
等という形でトラブルが発生することがあります。

このように、「言ったはずなのに忘れている」
「連絡したはずなのに届いていない」
というのは、
「すべて連絡した側の連絡方法が悪い。発信者が注意すべきだ」
というのが、フォーマルな取扱におけるルールです。

3 上司への連絡

上司その他自分の上位者に対する連絡に関しては、受信者が
「自分以外の部下からも様々な連絡を集中して受ける」
という環境にあり、また自分よりも数倍も忙しい立場にあるので、
「連絡をしても、きちんと受けられない」
ということがままあります。

ですので、上司に対する連絡については、こういう点も含めて、
「どのようにすれば相手にきちんと伝わるかどうか」
を考えながら、方法・タイミングともに効果的な形で実施することが必要ですし、こういうことがスマートにできる人間は、一般に出世も早いようです。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.040、「ポリスマガジン」誌、2010年12月号(2010年11月20日発売)

00020_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(1)~報告する~

仕事を行う上では、
「『ホウレンソー』が大事だ」
とよくいわれます。

報告・連絡・相談の頭の一文字をとって、報(ホウ)・連(レン)・相(ソー)というわけです。

1 報告の前提としての正確で客観的な状況認識

報告というと、
「そんなの簡単。バカでもできんじゃん」
とかいわれそうですが、プロのビジネスパースンとして行う
「報告」
は、フツーの方が考えるほどカンタンではありません。

主観や思い込みや伝聞や、根拠(ソース)のない噂話は、
「報告」
とはいえません。

したがって、適切に
「報告」
するためには、正確で、客観的かつ批判的な観察や調査が前提となります。

ローマの政治家ユリウル・カエサル(英語読みはジュリアス・シーザー)は
「人間なら誰でもすべてが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと欲することしか見ていない」
といったそうですが、これは状況認識の本質をよく言い表しています。

仕事の経験のない人間に、特定の状況を観察ないし認識させ報告をさせてみても、まったく出鱈目なことを書いて寄越します。

物事を客観的に認識するには、観察力や批判的な考察する能力が必要であり、これは経験により獲得されるスキルなのであり、見逃し・漏れ・抜け・チョンボをやらかしてその度に上司に怒られるなどして痛い目に遭わないとなかなか身につかないものです。

そんな痛い目を繰り返し、
「なぜこの点確認しないんだ」
「こういう場合にはどういうシナリオになるんだ」
「どうしてそんなことがいえるんだ? 根拠は何だ?」
という上司の小言や罵倒をリアルタイムで想定できるようになり、はじめて正確で客観的な状況認識ができるようになるのです。

2 報告の具体性

また、
「報告」
には具体性が必要です。

すなわち、報告の内容として、いわゆる
「六何の原則(何時、誰が、どこで、誰に対して、何を、どのようにした、という点を明らかにする。5W1Hの原則ともいわれる)」
を過不足なく充足している必要があります。

この点、仕事がデキない人間の報告をみると、
「何時」

「誰」

「場所」
等の要素が欠けていることが散見されます。

例えば、
「今後、先方担当者からしかるべき対応を取っていただく予定である」
という書きぶりの報告ですが、
「今後」
とは何時のことを指し、
「先方担当者」
とは一体誰のことで、
「しかるべき対応」
とはどのような行為を示すのか、まったく不明です。

こういう
「昔、昔、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました」
のと同じレベルの報告をやっていると、報告者の知的水準が疑われます。

この種の
「日本昔話型報告」
は、聞き手のストレスを極限にまで高めます。

むかしむかし→何時やねん!
あるところ→何処やねん!
おじいさんとおばあさん→誰やねん!
何も、わからやんけ!アホか、ボケ!

というツッコミをしたくなりますし、その前に、この種の無価値な報告をしてくる人間と関わりを持ちたくなくなります。

そもそも、この
「日本昔話型報告」
をする人間は、調査が不足しており、手抜き調査でお茶を濁そうという本音が透けて見え、そういう不誠実さも相まって、真面目に仕事を進めようとする人間の忌避を買うのです。

過去に発生した事象は、思い出すだけでも大変です。

10日前の昼飯を何を食べたか、正確に思い出せますか?

普通は無理です。

よしんば曖昧に思い出せても、正確に想起し、これを、言語化、文書化、フォーマライズするとなると、相応に実務的知性と時間と労力が必要になります。

逆に、
「日本昔話型報告」
をする人間は、実務的知性か、時間と労力を投入するだけの誠実さか、そのいずれかまたは双方が欠如しており、これを誤魔化すために、曖昧な報告をしているのであり、自ら仕事を軽く考えている姿勢を表明していることにほかなりません。

いずれにせよ、報告を行うにあたっては、六何の原則にしたがって、端的で正確な報告を心がけるべきです。

3 報告のタイミング

食べ物に
「旬」
があるように、報告の価値も報告タイミングとの関係で常に変動します。

客観的で具体的な報告をしようとして時間をかけて報告書を作成するのも結構ですが、報告書を作成している間に、状況が変わってしまい、前提状況が崩れ、報告が無意味になることがあります。

「報告の価値は報告資料の厚さに反比例し、報告のタイミングの迅速さに比例する」
というルールがあるそうですが、効率よくビジネスを進めている企業ほど、弁解がましいレポートより、カンタンなメールやメモで(ときには口頭で)要点を簡潔に報告することを好む傾向にあるようです。

4 報告で用いる表現

報告で用いる文章ですが、平易で簡潔な表現ほど好まれます。

ビジネスの現場ではスピードが価値そのものであり、本質をわかりにくくするような修飾語は、報告の価値を劣化させるだけです。

「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」
という言葉がありますが、報告内容が乏しかったり、原因の特定や責任の所在を曖昧にしたいときほど、用いられる表現は難解になり、報告書ボリュームが増えていく傾向にあるようです。

最後に、報告においても、禁句というものが存在します。

デキない人間の報告には
「検討する」
という言葉がよく見受けられますが、
「検討する」
とは
「対応を取らない」
という意味であり、こういう言葉を多用すると、仕事の能力を疑われることになります。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.039、「ポリスマガジン」誌、2010年11月号(2010年10月20日発売)

00019_いじめ問題解決の第一歩_20071120

最近、いじめ問題の報道が目につきます。

また、テレビなどで、「いじめ問題をどう解決するか」など討論される場面も多く見受けられます。

報道や議論は多いに結構なのですが、「いじめ」という便利なようで実体の希薄な概念を振り回している限り、問題は永遠に解決しないと思います。

「いじめ」という語感からは、「先生が気づいて注意すればすぐに解決するような、生徒間のちょっとしたいざこざ」という印象を受けます。

しかし、いじめの内容と質は、時代の変遷とともに、負の方向で驚異的な進歩を遂げています。

現代「いじめ」と称されるものは、未成年による毀棄隠匿行為、窃盗行為、名誉棄損行為、侮辱行為、暴行行為、傷害行為、脅迫行為、恐喝行為、強制猥褻行為、強盗行為、強姦行為、強盗強姦行為等です。

未成年者が関与するこれら犯罪行為については、加害者と被害者が同一教育機関に属する生徒である限り、すべて「いじめ」と呼称することがルール化されているようであり、状況を正確に表現しようとしても、犯罪用語の使用はよくわからない理由で御法度とされます。

いうまでもなく、「いじめ」といわれるものの実体である前記の各行為は、加害者と被害者が同一教育機関に属するか否かに関係なく、すべて悪質な犯罪です。

当然ながら、犯罪は教師の解決能力を超えた問題であり、本来、捜査機関による捜査と裁判所の判断を経て、法務省所轄の施設で矯正される等(保護という名の監視を含む)べきものです。

教育サービスの提供者に過ぎない教師が、犯罪行為を捜査し、解決し、犯罪者の矯正に責任を負うなどといったことは、できるはずもなく、また、してはいけないものです。

「できないこと」を「できない」と正直にいうのが恥と考えた教師達は、いつからか、「当校にいじめなど存在しない」等と驚くべき強弁をしはじめ、加害者と事後共犯的立場に立ち、被害者による告発を妨害し、犯行隠滅に加担するようになってきています。

マスコミも、「隠蔽された事実や隠蔽されようとしている事実を正しく伝える」という本来の役割を放棄し、いじめ問題に関しては、加害者に配慮した印象操作に進んで協力するようになっています。

例えば、ある中学校で恐喝事件が発生しても、マスコミは、事実報道の役割を放棄し、自主的に「○○中学で金銭要求のイジメが発生した」等と言い換え、事態の糊塗隠蔽に加担するようになっています。

子供は、我々大人が想像する以上にクレバーであり、「罪を犯しても、責任を追及されないし、教師とマスコミが隠蔽工作に積極的に協力してくれる」という状況を正確に理解しています。

こういう状況であれば、誰もが加害者の立場にたつ選択を行うのは自然かつ合理的であり、子供達も、状況に適応した賢い選択と行動をしているにすぎません。

ところで、物事の解決は、状況の客観的評価が必須の前提となります。

いじめ問題を解決するためには、まず、

「いじめと呼ばれるものは犯罪行為である」

「犯罪行為は、生徒間において生じたものであるか否かを問わず、教育問題ではなく、法律問題である」

という事実を冷静に受け止めなければなりません。 このような観点に立ち、「いじめ」問題の解決の第一歩として、教師は、自らの能力の限界を認識して犯罪解決から手を引いて事件を速やかに司直に委ね、マスコミも、「いじめ」等という曖昧な表現の安易な使用をやめ、「犯罪」は「犯罪」として正確な事実報道に努め、正しい議論のための正しい情報の提供に努めることを始めるべきだと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.003、「ポリスマガジン」誌、2007年11月号(2007年11月20日発売)

00018_場違いな主婦感覚_20071020

かなり前の話になりますが、ある県に女性知事が誕生したことがきっかけとなり、建設が予定されていた新幹線の駅が建設中止となるというできごとがありました。

その大きな理由は「(駅をつくるのは)もったいない」というもので、当時、「女性ならでは」とか「今の政治に欠けている主婦感覚」とかいう肯定的評価がされていました。

最初に断っておきますが、私は、女性や主婦の皆様を差別する感覚を持ちあわせていません。

加えて、同業者や同水準の収入の方に比べて、質素倹約の精神を非常に大事にしています。日常生活において、大好きな言葉は「もったいない」「まだ使える」ですし、おそらく、節約の精神と能力にかけては、若い主婦の皆様に負けることはないでしょう。

私は、そのくらい、主婦感覚は大事にしていますし、「もったいない」精神が旺盛ですが、そんな私ですら、先ほど述べた女性知事の主張や行動には、強い違和感を感じてしまいます。

国や社会システムの設計・管理・運用は、台所の切り盛りとは著しく異なります。

インフラ(インフラストラクチャー)といわれるものは、すべからく無駄の固まりです。

道路や橋や学校や役場や病院や老人ホームや児童館や公民館なんて利用者以外にとっては邪魔なだけですし、警察も自衛隊も税務署や消防署もお世話にならない人間にとっては無駄そのもの。

「もったいない」感覚を研ぎ澄ますのであれば、新幹線の駅一つを作らないことより、学校や病院や老人ホームや児童館をぶっ潰す方がよほど理に適っています。

歴史上不朽の世界帝国を築いた古代ローマは、どんな僻地にでも、莫大なコストをかけて平坦で使いやすい道路を敷設し、ローマを中心とした高速ネットワークを完成したほか、各都市においても上下水道や学校や公衆浴場等のインフラをおしみなく提供しました。 

ローマ人は、派手好きなギリシャ人に比べ、質実剛健・質素倹約の精神にあふれていたとされますが、ことインフラの整備にかけては「もったいない」精神は封印し、カネを湯水のごとく使ったようです。

政治、すなわち、法律に基づいて税金を使う活動は、本質的に「無駄で」「もったいない」ものばかりです。

政治が「無駄遣い」であることは避けられない以上、荒っぽい言い方をすれば、「将来に生きる無駄遣いの選択」をするいい政治と、「将来を考えない無駄遣いの選択」をする悪い政治の二種しかあり得ません。

日本についていえば、新幹線や道路や空港はまだまだ足りないと思います。リニアや第二東名なんて将来確実に日本の発展に寄与しますから、カネがかかっても早急に作るべきです。無論、建設行政の透明化や財政の均衡回復は、別途の課題として進めていくべきだと思いますが、「もったいないから、将来の社会に役立つインフラ作りそのものを止めてしまえ」という乱暴な議論はまったく理解できません。

話は変わりますが、日本において出生率が急激に減少しています。

仄聞するところによると、「子供はカネや手間がかかるので、子供を作ることは、総じてもったいない行為である」という感覚を、若い世代が強く有していることも一因のようです。

個人の経済感覚としてはまことに正しい感覚ですが、将来展望という点ではひどく方向性を誤った感を抱くのは私だけでしょうか。

子供というのは将来の日本の発展のために必要な「究極のインフラ」なわけですが、件の知事の「もったいないからインフラ作りをやめる」という主張は、「お金がかかるから子供は作らない」という今時の若い世代の言い分の愚かさと、なんとなくかぶってしまいます。

「もったいない」感覚も結構ですが、何事もTPOが大切です。 将来を構想すべき政治の世界に主婦感覚が持ち込まれることは、ひどく場違いで、バカげた印象をもってしまいます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.002、「ポリスマガジン」誌、2007年10月号(2007年10月20日発売)

00017_安全神話を回復するために_20070920

平成に入ってから、「食の安全」「原子力発電の安全性」ということが叫ばれはじめ、また、「安全神話が崩壊した」などという報道を多くみかけるようになりました。

しかし、よく考えてみますと、日本において科学技術や安全に対する考え方は日々進歩しており、昭和の時代に比べて、社会は確実に安全で住みやすくなっているはずです。

にもかかわらず、日本社会が安全でなくなったような気がするのは、日本において「安全性そのもの」が失われたのではなくて、「安全性」を最終的に保証してくれるべき人間がいなくなったということなのだと思います。

「トップの顔がみえる組織」という言葉がありますが、かつて、国や企業などの大きな組織のトップは、誰もが強烈な個性を有していました。

ソニーやホンダの個性豊かな創業者は誰もがよく覚えていますが、現在のソニーやホンダの社長がどういう人で、どういう個性と哲学をもっており、会社をどのような方向にもっていこうとしているのか、よくわかりません。

かつての「顔」をもったリーダーたちは、危機が到来したときにこそ、その強い個性を堂々と発揮し、安全や信頼の崩壊を食い止めていたような気がします。

最近のトップは、不祥事が発生すると、記者会見はするものの、妙におどおどしたり、コソコソしたりして、個性を極力出さず、目立たずに済まそうとする傾向があります。

不祥事がなくてもコソコソぶりは変わりません。

株主総会は、トップが個性や哲学を最大限アピールできる格好の場であるにもかかわらず、ほとんどの企業のトップは、波風立てずに、事務的に済ませようとします。

無論、「組織の顔」として強烈な個性を発するからには、裏付けが必要です。

すなわち、絶対的な自負と責任感があってこその個性です。

危機に際して、トップが無個性な対応をするのは、おそらく、自負と責任感を喪失しているからなのでしょう。

しかし、そんな対応では、安全や信頼の回復の困難性が露骨にわかってしまい、無用に不安がかきたてられます。

その昔、よど号という飛行機がハイジャックされたとき、後に「男、山村新治朗」と呼ばれた当時の運輸政務次官は、飛行機に単身乗り込み、自分の身を差し出し、人質となっていた一般市民を解放しました。

安全や神話が崩壊したときに、これらを回復するのは、こういう露骨なまでに個性的な対応です。

中国産の食品の安全性や信頼性を回復するために食品輸入商社の社長とその家族が毎日自社輸入食品を食べている様子を克明にアピールするとか、原子力発電の安全性を理解してもらうために、電力会社の社長と家族ともども原子力発電所に隣接する地域に引っ越すとか、「男、山村新治朗」に負けない個性的な対応はしてくれないのでしょうか。

この世の中に絶対安全などということはありませんし、大なり小なり危険やリスクを受け入れないと社会は成り立ちません。

安全神話は、「神話」という言葉のとおり、どこまでいってもフィクション(虚構)にすぎませんが、そんなことは、我々市民は、皆わかっています。 我々市民が危機に際してトップに求めているのは、小難しい言葉で事故原因や今後の対応を、正確かつ控えめにボソボソ語で語るのではなく、強い個性を発揮し、大きな声で、ウソでもいいから、身体を張って安全であることを保証してくれることなのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.001、「ポリスマガジン」誌、2007年9月号(2007年9月20日発売)