00229_語らないという判断_沈黙という応答のかたち

沈黙は「外」に向かうものなのか

情報統制の話になると、どうしても矛先は
「社外」
になります。

たとえば、顧客、取引先、メディア、あるいは株主。

社外への発信をどうコントロールするか。

この話題であれば、社内でも比較的議論がしやすいものです。

ところが、語らないという選択が真に意味を持つのは、じつは
「社外」
ではなく
「社内」
の場面です。

実際には、沈黙が向けられているのは、自分たちの内側、仲間である
「チーム」
に対してです。

本来、情報というのは共有されて初めて活きるものです。

しかし、ある種の情報は、語らないことでしか守れません。

言い換えると、語らないことでこそ、守らなければならないこともあるのです。

誰にも言わない。

その沈黙は、外部へのガードではなく、内部への矜持といえることもあるのです。

では、沈黙は、誰を守っているのでしょうか。

語らないことで守っているのは、誰なのか

ある経営者が、社内不祥事に直面したときのことです。

彼は、即時の全社展開を避け、極めて限られたチームでの対応を選びました。
一部の社員からは、
「なぜ共有しないのか」
「なぜ黙っているのか」
と批判もあがりました。

しかし、その経営者はこう語りました。

「いま全社に情報を流すことは、社員の未来を奪いかねない。私は、社員一人ひとりに対して責任を負っている」

この判断が正しいかどうかは、ここでは問わないことにします。

語らなかったことで守られたのは、情報そのものではありません。

そこに関わった人の
「判断」

「信用」

「これから」
だったのです。

語らないという判断は、何かを守っているのです。

その
「何か」
は、数字や名誉や企業ブランドであることもあるでしょう。

誰かの心情、誰かの成長機会、あるいは誰かの名もなき努力かもしれません。

語らないという選択には、守るべき
「誰か」
の存在があります。

その存在が、語らない判断を支えているのです。

「説明責任」と「信頼構築」は両立するのか

説明責任という言葉が、近年ますます強く求められるようになってきました。

企業は、迅速に、誠実に、透明性をもって語ることを期待されます。

語ること。

すなわち、開示すること、説明すること、そして責任をもつこと。

それ自体は、大事な原則のひとつであり、否定されるべきものではありません。

他方で、すべてを語ることが信頼構築の唯一の道であるとも限りません。

むしろ、語らないことでこそ示される信頼もあるでしょうし、語らずにいたからこそ残った選択肢もあり得るのです。

たとえば、ある企業で経営方針の転換が決まったときのこと。

社内からは、
「もっと早く説明してくれていれば」
「理由だけでも共有してほしかった」
といった声があがりました。

しかし実際には、外部との交渉がまだ継続中であり、時期尚早に語ることは、かえって混乱を招くリスクがあったのです。

説明を遅らせたことが、社内で一部社員の不信を生んだ面は否めません。

それでも、決して語らなかったわけではなく、
「語るべき時が来るまで語らなかった」
判断だったのです。

語ることで信頼されることもあれば、語らぬことで信頼されることもある。

このふたつを対立させるのではなく、

むしろ併置しながら、場面ごとに問い直していく。

こうした構えの積み重ねによって、説明責任の土台が築かれ、そのふるまいが、信頼へと自然につながっていくこともあるのです。

語らぬことが倫理になる瞬間

沈黙は、逃避ではありません。

むしろ、誰かのために
「語らないでいること」
を貫き通すことです。

それは、簡単ではないけれど、明らかに
「倫理的な判断」
です。

倫理とは、正しさを一律に押しつけることではありません。

むしろ、状況や背景、関係性に応じて
「語るべきでない」
と感じたときに、その感覚に自信と責任をもって沈黙することです。

たとえば、経営者が語らなかったことで、従業員が安心できた。

あるいは、リーダーが黙っていたことで、チームが守られた。

そんな瞬間にこそ、
「語らないこと」
が倫理になるのです。

語らぬことが、倫理たりえるのは、そこに
「他者」
が存在するからです。

語らなかった相手。

語らなかった理由。

語らなかった先にある未来。

倫理とは、相手を想う構えです。

沈黙が倫理になるのは、そこに
「誰か」
がいるからなのです。

最後まで語らなかった人”が示す組織の成熟度

最終的に、語らないという選択を貫けるかどうか。

それは、その組織がどこまで成熟しているかのバロメーターでもあります。

人から聞いた話ですが、その会社の管理職が退職時に次のように言ったそうです。

「入社して40年。
私の一番の判断は、『話さない』と決めたことを、最後まで話さなかったことです」

その言葉がとても印象的だったと、話してくれました。

周りにいた全員が、神妙に聞いていたそうです。

誰も内容は知りません

話さなかったという事実の裏にある誠実さを、皆が感じ取っていたのです。

沈黙の意味を、受け取る感性。

語らないことを、信頼として受けとめる態度。

それらが、日々のふるまいの中で育っていく組織には、沈黙の技術だけでなく、沈黙の倫理が根づいています。

語るのが上手い人間が評価される時代です。

しかし、語らなかった人の“重み”を感じ取れる組織は、まちがいなく強い。

そして最後に残るのは、語らないという選択を貫いた事実であり、語らずにいたという姿勢そのものです。

守りぬいた沈黙こそが、成熟の証なのかもしれません。

語らないという判断の、行方

ここまで、
「語らないこと」
をめぐって、さまざまな視点に触れてきました。

・語らないという判断の背景
・沈黙という技術
・語らぬことが信頼となる文化

この視点の先に、浮かび上がってくる問いがあります。

語らないという判断は、誰を守っているのか。

何を守っているのか。

その判断に、どれほどの倫理が宿っているのか。

たとえば――聞かれても語らない構え。

語らせようとする空気を、静かにかわす技術。

あえて説明しないことで信頼を示すふるまい。

語らない理由を、伝えずとも伝える工夫。

沈黙を、判断として貫き通す姿勢。

沈黙には、多様な技法があります。

最後に残るのは、語らないという選択の
「意味」
です。

沈黙の矛先は、社外ではなく、社内に向かうこともある。

それは、自らの仲間、自らの未来を守るための、もうひとつの
「応答」
なのです。

語らないとは、語ることと同じくらい、勇気のいる選択です。

そしてそれは、組織の品格を支える、目に見えない土台でもあるのです。

著:畑中鐵丸