00252_相続_「高い」「安い」は議論ではない_遺産交渉で最初に問われる、あなたの「値札を書く覚悟」

お葬式から帰った夜。

まだ線香のにおいが服に染みついているうちに、リビングの座卓の上で、不動産屋ごっこが始まることがあります。

「このマンションの査定は高すぎる」
「軽井沢の別荘は、もっと安く見るのが筋だろう」

さっきまで棺の前で目を腫らしていた兄弟姉妹が、急に査定士のような顔で数字を取り合う――どこかで覚えのある風景かもしれません。

話し合いは、たいてい堂々めぐりのまま夜が更けます。

誰がどの不動産を引き取るか、いくらが公平な値段なのか、議論は平行線をたどり、決着がつかないまま何か月も過ぎていく。

そうなると、誰かがついに家庭裁判所の門を叩くことになります。

まず
「調停」
という場が設けられ、調停委員を挟んだ話し合いが続く。

それでも折り合えなければ
「審判」
に移行し、裁判官が分け方を決めます。

その瞬間から、居間の言い合いは
「主張」
として裁かれることになります。

裁判所は、このやりとりにきわめて冷たい目を向けています。

 「高いだ、安いだ、と文句だけ並べる人の話は、そもそも聞くに値しない」

これが、現場で遺産分割を裁いてきたプロたちの、共通の肌感覚です。

「評論家席」に、交渉の椅子はない

世の中には、評論家席が大好きな人がたくさんいます。

テレビの解説者のように、
「あの政策は失敗だ」
「この経営判断は甘い」
と、腕を組んで首を振ってみせるのは、誰にでもできます。

ところが、
「では、あなたならどうしますか」
と問い返された瞬間、彼らはたいてい黙り込みます。

評論家は、責任をとらないから評論家なのです。

責任をとらなくてよい立場から、責任をとる人の判断に点数をつけるだけ。

これは、ある意味で安全な商売です。

しかし、遺産分割は違います。

ここには、評論家席はありません。

全員が、自分の口から
「いくらで、何を、どう引き受けるか」
を名指しで言わなければならない。

責任と切り離された意見は、テーブルに置かれた瞬間、ただの独り言として聞き流されます。

「兄の出してきたマンションの値段は高すぎる」
と声を荒らげる人に、裁判所がまず返す一言は、
「では、あなたはいくらなら引き取りますか」
です。

ここで詰まった人は、もう土俵の外にいます。

裁判所のたった一つの物差し――「文句」か「値札」か

裁判所が相続人を見るとき、じつは、ものすごく単純な1つの物差しで判定しています。 それは、
「具体的な清算条件を、自分の口から出せるかどうか」。

「高い」
という文句を言うのであれば、
「では、こちらが○○円でお引き受けします」
と、その場で値札を書けなければならない。

「安い」
という文句を言うのであれば、
「では、こちらは○○円でお譲りします」
と、その場で売り札を書けなければならない。

この
「値札」
を出せる人だけが、裁判所の土俵に上がる資格を与えられます。

それ以外は、
「不服申立て」
ではなく、ただの
「ぼやき」
として処理される、というのが実務の暗黙ルールです。

オークション思考の放棄――吊り上げ競争でも、値引き合戦でもない

遺産分割を、オークションだと勘違いしている人がいます。

サザビーズの会場のように、手を挙げ、声を張り上げ、値段を吊り上げていくゲーム。

反対に、中古品売場の値引き交渉のように、ひたすら
「安くしろ」
と詰め寄るゲーム。

どちらも、筋違いです。

裁判所は、このたぐいの駆け引きを、不健全なものとしてはっきり嫌います。

なぜなら、そこには、
「この財産を、最終的に誰が、どういう条件で引き受けるのか」
という、肝心かなめの議論がないからです。

財産には、必ず
「持ち主」

「果実」

「負担」
がセットで付いてきます。

マンションひとつ取っても、所有権という看板の裏側には、家賃収入という果実、管理費と修繕積立金という負担、固定資産税という義務が、黙ってぶらさがっています。

これを、同じ人が丸ごと引き受ける――これを、法律家は
「帰属清算」
と呼びます。

果実だけ欲しがり、負担は他人に押し付けたがる人は、この時点で相手にされません。 「この条件で、丸ごと私が引き取ります」
と言える人が、最終的には一番強い。

強いふりをしている人ではなく、覚悟を決めた人が強い、ということです。

「カネの塊」と「思い出のモノ」――財産には2つの顔がある

もう1つ、混乱の原因になっている大事な論点があります。

財産には、大きく分けて2つの顔があるのに、それを同じ顔として扱ってしまう癖です。

都心のマンションは、典型的な
「カネの塊」タイプ。

持ち主の顔ぶれが変わっても、家賃と管理費の収支さえ回れば、機能的にはびくともしません。

感情の入る余地が少ないぶん、数字で割り切れます。

一方、軽井沢の別荘のような物件は、
「思い出のモノ」タイプ
に近い。

夏休みに家族で過ごした庭、父が選んだ暖炉、母が毎年手入れしていた花壇――これらは、固定資産税評価額では測りきれません。

同じ
「不動産」
という一言でまとめるから、話がこじれます。

さらに言えば、誰がいくらの値をつけるかは、数字の問題であると同時に、家族へのメッセージでもあります。

軽井沢の別荘に、市場価格どおりの冷たい値札を貼る人は、
「この家に思い出などない」
と宣言しているに等しい。

逆に、マンションに感情論を持ち込みすぎる人は、
「私は、カネの塊をカネの塊として扱えません」
と自己申告しているのと同じです。

2種類の財産には、2種類の物差しを。

この切り替えを自然にできる家族だけが、遺産分割を美しく終わらせられます。

遺産分割にも、料理の順番がある

料理と同じで、遺産分割にも、手を付ける順番があります。

この順番を守らないと、せっかくの素材を全部ダメにしてしまう。

まず最初にすべきは、故人の
「個人」
の財布と、故人が関わっていた
「法人」(事務所や会社)
の財布を、きっちり切り離すこと。

同じ名前の看板が掛かっていても、法人は法人、個人は個人です。

これを混ぜたまま分け始めると、あとから包丁が入らない塊になります。

次に、葬儀代を精算する。

これは、故人が生きていれば当然に負担していたはずの、最後の出費。 ここで変な遠慮や見栄を挟むと、後で必ず遺恨になります。

そのあとで、預貯金・有価証券といった
「数字で処理できる資産」
に手を付ける。

動産は、主観的価値が入り込みやすいので、原則として折半。

最後に、不動産と、その果実(家賃)・費用(管理費)を丸ごとセットで誰に帰属させるかを決める。

この順番で1つずつ片付けていくと、霧が晴れるように全体像が見えてきます。

逆に、いきなり
「軽井沢の別荘をどうするんだ」
と大物から始めると、そこで全員が立ち往生し、ほかの論点まで巻き添えで止まってしまう。

遺産分割における
「最初の一手」
は、派手な一点突破ではなく、地味な切り分けである――これが、実務の極意です。

特別受益の持戻し――「生前にもらった分」を、見なかったふりはできない

もう1つ、忘れてはいけない論点があります。

「特別受益の持戻し」。

少し固い言葉ですが、中身は極めてフェアなルールです。

要するに、
「生前に多めにもらっていた分は、相続の時に一度テーブルに戻してから、改めて分け直しましょう」
という話。

長男が、家を建てるときに父から3千万円の援助を受けていたとします。

援助を受けたこと自体は、悪でも何でもありません。

親が、自分の意思で、自分の財布から出した、家族への贈り物です。

ただし、相続のときに、
「3千万円はなかったことにして、残りの財産を均等に分けよう」
と言い出すのは、さすがに虫がよすぎる。 持戻しというルールは、この「虫のよさ」を、矯正する仕組みにすぎません。

これを見て見ぬふりをしたまま、形式的な「頭数割り」だけで話を進めようとすると、どこかで必ず、長年うっすら抱いていた
「自分だけが軽く扱われている」
という感情の方が、数字より先に爆発します。

このような次第で、たとえば、
「長男30、次男70」
といった、一見偏った配分比率が出てきた場合、それは多くの場合、単なる力関係ではなく、特別受益の持戻しを丁寧に反映した結果であることが少なくありません。

持戻しとは、家族の中で、
「過去の贈与」

「今の公平」
に翻訳し直す、翻訳作業のようなものです。

最後に問われるのは、あなたの「覚悟」である

話をまとめましょう。

遺産分割で、最終的に取り分を守るのは、声の大きい人ではありません。

涙の量が多い人でもありません。

「具体的に、いくらで、何を、どの負担と一緒に引き受けるか」
を、自分の口で、名前入りで語れる人です。

「高い」
「安い」
は、幼児でも言えます。

「だったら、私はこの条件で引き受けます」
は、覚悟のある大人にしか言えません。

そして、裁判所も、相手方も、兄弟姉妹も、弁護士も――この覚悟の有無を、驚くほど冷静に、そして一瞬で見抜いています。

もし今、あなたがご家族の遺産分割の渦中にいるなら、今夜、紙とペンをいちど用意してみてください。

その紙の上に、全ての物件について、
「私はこの財産を、○○円で、こういう負担条件とセットで引き受けます」
と、自分の値札を書いてみる。

書けた時、あなたは初めて、本当の意味で交渉のテーブルに着いています。

書けなかった時は――まだ、評論家席から降りられていません。

相続というのは、遺産をどう分けるかの話であるのと同時に、自分がどの席に座る人間なのかを、静かに問われる通過儀礼でもあるのです。

著:畑中鐵丸