00129_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_その2_20210420

前回、
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題して、スピリチャル的な話として、
「物理的所有」の価値観
に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、などと申し上げました。

話したりない点がありましたので、今回も同じテーマで、少し補足して
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。

3、飲食店の提供価値の再定義(承前)

コロナ禍で最も大きな影響を受けているのは飲食店です。

皆さんの周りでも、閉店したり休業したり、このコロナ禍で大変厳しい影響を受けている飲食店があるかと思います。

アフターコロナ・令和の時代に、飲食店は
「今まで通りの業態」
で生き残れるのでしょうか?

それとも、事業環境の劇的な変化に伴い、新たな形に転換することが求められるのでしょうか?

「飲食店」
ですが、昭和においても平成においても、その名称とは異なり、単に
「飲食だけが提供され、食えりゃあ、それで役割が全うされる施設」
ではなく、
「高い価値のある空間で、うまいものを食って、楽しく快適な時間を過ごす、一種のテーマパーク的設備」
という趣きがあったように思います。

もちろん、ファーストフードや牛丼屋やラーメン店のように、
「とっとと食事を済ませて、終わったらすぐに出る」
という合理性に徹した本来的な飲食提供施設もありますが、都心の一等地にある多くの飲食店は、店の外観や内装、座敷やテーブルのつくり、しつらえ、什器や調度品、サービススタッフの服装や立ち居振る舞い、行き届いたサービス等も含めて、食事代金プラス体験価値(テーマパークに行ったような体験価値)に対する費用が上乗せされた高額の費用を支払うことで成り立っている施設が大半でした。

そこでは、単に、
「食事ができれば、それで事足りる」
という話ではなく、テーマパークのように、当該場所に一定時間滞在することに意味の大半があり、夜遅くまで、ゆっくり時間をかけて、ぺちゃくちゃ喋り、食事の相手と親密さを増し、あるいは取引関係を含む人間関係を円滑にする、という目的がありました。

特に、お酒という、原価率が低く、貯蔵ができ、しかも経済性を逸脱した価格設定が可能な嗜好品が収益の柱になっており、お酒が提供される夜や深夜の営業が飲食店存立の基盤を形成していました。

しかしながら、このような事業のあり方(特に、夜や深夜の営業)が、
「コロナの感染拡大防止」
という公共政策目的によって全否定されてしまい、事実上、事業が大幅に制限されてしまいました。

そして、このような事業環境の変化に併せるかのように
「上質な価値空間において、客に、お酒を含めた食事を楽しみつつ、長時間滞在してもらう」
を役務内容とする飲食店が、どこもかしこも、テイクアウト(弁当)やケータリング(仕出し)を開始しました。

私も、いわゆる高級店の高級テイクアウトやケータリングを試してみましたが、どれもこれも、まったく美味しくありません。

少なくとも、価格に見合ったものではなく、リピートするような代物とはまったく出合えませんでした。

経験による習性とは恐ろしいもので、飲食店に行かない期間が続くと、飲食店については、
「あってもなくてもいいし、なくても別に困らない」
「テイクアウトやケータリングではもちろん利用する可能性があるが、味がイマイチだったり、味がそれなりであってもバカ高いものであれば、その店を見限る」
という行動が当たり前になってきました。

こうなると、アフターコロナの時代には、
「上質な価値空間における長時間の滞在を提供役務内容とする飲食店ビジネス」
は、
「あってもなくてもいいし、なくても別に困らない」
という捉えられ方をされ、以前のようなバブリーな持て囃され方をされなくなるかもしれません。

このことは、不動産屋がバブル期以降、以前ほどには持て囃されなくなった事例が参考になるかもしれません。

その先にあるのは、飲食店の本来的な姿・形の、強烈な様変わりではないでしょうか。

「テイクアウトやケータリングをメインとするキッチンに、申し訳程度にイートインスペースが付いている施設」
がデフォルトになるかもしれません。

また、
「飲食業界におけるプロフェッショナルの階級序列」
に革命が起こるかもしれません。

「料理人」

「弁当屋さん」
とでは、
「料理人>弁当屋」
という序列・格付けがあったやに思います。

ですが、コロナ禍になって、
「実は、『弁当屋』の方が、『料理人』より、遥かに高い技術が要求される」
ということが判明したのではないでしょうか。

「高級フレンチや高級割烹が、今まで店で出していたものをそのまま折り詰めしてテイクアウト用に、店で提供する価格(弁当としてはあり得ないくらい高価)で提供しはじめましたが、前述のとおり、どれもこれも味がイマイチでしたし、それなりの味かなと思えるものでも弁当としては圧倒的にコスパが悪くて、リピートされずに、ビジネスに失敗」
という事例が結構あったように思います。

これは、飲食店が、弁当ビジネスをナメ切っていて、失敗したのではないでしょうか。

できたての料理は、イマイチでもそれなりでも、まあ食べられます。ところが、どんな高級の料理でも、時間がたったり、冷めてしまったら、食べられたものじゃありません。

その意味では、飲食店では、
「できたてを提供できる」
というアドバンテージがあり、別の言い方をすれば、
「店で出すと、皿や雰囲気でごまかせるし、温かいものを提供できるので、味がイマイチでも目立たない」
という意味で、ごまかしが利いていたのかもしれません。

他方で、弁当を作るには、
「時間が経って冷めても美味しい」
という過酷な条件をクリアすることが要求され、そのために、ゴマカシが利かない高度の調理技術が必要とされます。

加えて、弁当は、廉価でコスパが良くないと、見向きもされないか、見向かれてもリピートされず、すぐ潰れますので、一般飲食店には想像もつかない価格競争力が求められます。

アフターコロナ時代には、
「超一流の弁当職人」
「仕出し界のスター」
「テイクアウトの魔術師」
という人間が珍重されるようになり、飲食業界の序列としては、
「弁当屋>料理人」
になるかもしれません。

銀座や丸の内といった一等地においても、テイクアウト・ケータリングがメインで、イートインスペースが申し訳程度か、あるいはそもそも存在せず、どうしても外食したければ、昔の貸席型料亭(板前がおらず、板場もなく、酒以外の料理はすべて仕出しでまかなう)のように、飲食スペースは別に、お金(席料)を払って、場所だけ借りて、仕出しを手配してもらう、ということになるかもしれません。

今まで
「抱き合わせ」の形
で曖昧になっていた、
「料理代と飲み物代と席料(または部屋代)とサービス料(または奉仕料)」
が振り分けられ、提供価値に対する価値認識が明確に整理され、サービスがより進化・深化・高度化・発展することになるかもしれません。

整理できないものや明確化できないものは、改善も発展も望めませんから。

食べるものは食べるもの、場所は場所、什器は什器、サービス料はサービス料、と明確に分類整理され、様々な組み合わせが可能となり、飲食という営みの再定義・再構築ができるようになれば、新たな食文化が生まれるかもしれません。

そうなったら、私としては、一度、数寄屋作りの古風な日本家屋で、素晴らしい日本庭園や横山大観先生の襖絵を眺めながら、備前にマックのポテトのチーズソースかけ、古伊万里に吉野家の牛丼をそれぞれ盛り付けてもらって、デカンタージュしたシャトー・オー・ブリオンをバカラのグラスでいただき、食後はスタバのラテを天目茶碗で飲む、なんて究極の贅沢をやってみたい、と思っています。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.163、「ポリスマガジン」誌、2021年4月号(2021年3月20日発売)