00029_惨めで見苦しい「自分探し」_20100320

ちょっと前からテレビや雑誌等で、「自分探し」というコトバを目にするようになりました。

若いサラリーマンやOL等が、仕事を辞めてボランティア活動をしたり、大学・大学院や専門学校に入り直したり、職人の親方に弟子入りする行為を称して「自分探し」と言うそうです。

私としては、
「そんなことするくらいだったら、最初からボランティア活動をしたり、大学時代にもっと真剣に勉強するなり、やりたいこともわからずに中途半端な大学に入るようなことをせず、自分にあった職を早く手につけるために専門学校に入るなり、職人のところに弟子入りすればいいのに」
と思ってしまいます。

少し話が変わりますが、テレビなどで若い歌舞伎役者のインタビューをみていると、非常に受け答えがしっかりしており、大人びた印象を受けます。

また、経済的理由から中学や高校を出てすぐに働きに出て、そこから自分の店を持つようになった料理人や職人といった方々にあっても、年齢以上の落ち着きや風格を感じることがあります。

他方、それなりの大学を出ていながら、いい年をして自分探しをしている人間をみると、非常に幼稚で、惨めな印象を受けてしまいます。

また、それ以上に、「自分探し」をしている方々の話を聞くと、自分の能力や判断力に関し、客観値と主観値に大いなるギャップが生じているケースが多く見受けられ、
「負けているのに、負けを認めない」
「オレはまだ、本気出していないだけ」
という類の、えも言われぬ惨めさと見苦しさが目についてしまいます。

「自分探し」をする方々には、「自分探し」という行為の前提として、「今より優れた自分がいるはずだ」という強固な信念をお持ちのようです(「今より劣悪な自分を探す」というのは、宝探しならぬゴミ探しのようなものですから、通常の知的水準を有する方はそういう不合理で愚劣な行為はしないはずです)。

ところで、「自分探し」との名目で現在の仕事や生活から一時的に逃れる選択をした人間が、「自分探し」の結果、よりシアワセになったり、何か身につけたり、「探していた自分」を見つけたりできたかというと、必ずしもそういう成功例ばかりではなさそうです。

「自分探し」をしたが、見つかったのは、探し始めたころより不幸になっている自分で、「宝のような自分を探し」てみたものの、「ゴミのように使えないジブン」を再発見しただけで、時間と費用とエネルギーの大いなる無駄となった「自分探し」というのも相当あるのではないでしょうか。

話は変わりますが、「一所懸命」という言葉があります(「いっしょうけんめい」はもともとこちらが正しく、巷間使われる「一生懸命」は、「一所懸命」が変化したものと言われています)が、これは、鎌倉武士が幕府から賜った所領(=一所)を命懸けで守ること、ということが由来となっています。

「自分探し」は、仕事や生活から一時的に逃れるための弁解として使われることがあるようですが、「自分探し」をしている連中のなんとも言えない惨めさ、見苦しさは、「一所懸命」を放棄し、逃げ回っているようなところから来ているのかもしれません。

他方、自分の意志ではなく強制されたものとはいえ、与えられた職分をまっとうし、逃げることなく、その道を究めようとしている歌舞伎役者や料理人や職人の立ち居振る舞いに潔さ、凛々しさ、成熟した人格・風格を感じるのは、「一所懸命」の精神で戦っているサムライの姿を彷彿させるからだと思います。

研究者を志したり、一定の目的をもって入学するならともかく、「大学くらい出ていないとカッコ悪い」という横並び意識だけで、モラトリアム(猶予期間)を過ごすための施設としての大学に入って無駄な時間を過ごし、中途半端な知性と大いなる勘違いを身につけ、その結果「自分探し」をするというのは、不効率ですし、カッコ悪いです。

「きっとどこかにある、宝物のような、自分を探す」などと称して無駄なゴミ漁りをしている方々が少なくなり、「一所懸命」働く、凛々しい人間が増えてくると、日本も活力を取り戻しそうな気がします。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.031、「ポリスマガジン」誌、2010年3月号(2010年3月20日発売)

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