00241_「危急時遺言」という奥の手_意識が混濁しても“確実な未来”を遺す方法

私のところには、日々、実に様々なご相談が寄せられます。

その中でも、やはり多いのは
「相続」
に関するトラブルです。

「家族」
という密接な関係だからこそ、感情が複雑に絡み合い、泥沼化してしまうケースが後を絶ちません。

今回ご紹介するのは、ある男性から寄せられた、祖母の遺言に関する相談です。

このケースには、家族間の借金、複雑な人間関係、そして意識が混濁する中で
「確実な遺言」
をいかにして残すかという、切実な問題が詰まっています。

親から子への借金は「返さなくてもいい」のか

相談者は、祖母が危篤状態にあり、家族仲が悪いという家庭環境にありました。

祖母には息子が二人いて、長男にあたるのが相談者の父親です。

そして、その父親が、祖母から数千万円もの借金をしたまま、踏み倒している、というのです。

そのうえ、叔父(父親からみれば、弟)の名前を騙って借金を重ねたため、返済不能となった叔父は、結果的にブラックリスト入り。

それだけではありません。

父親は、自分の息子である相談者の名義を使い、借金をさらに重ね、相談者は、知らぬ間に学生ローンを背負わされ、就職後に保証協会から通知が届いた、という状況です。

親子間、兄弟間の借金。

「家族だから大丈夫だろう」
「いずれ返せばいい」
「いやいや、あれは借金じゃない。もらったのだ」
と、様々な言い訳が聞こえてきそうです。

なかには、貸した方が
「どうせ返ってこないだろう」
と半ば諦めていることもあるでしょう。

法的に言えば、たとえ親子であっても金銭の貸し借りは
「借金」
です。

借りた側には、当然、返済する義務があります。

ましてや、それを他の家族にまで負わせるなど、あってはならないことです。

このケースでは、祖母は、長年の出来事を目の当たりにして、次男に全財産を遺す内容の遺言書を自筆で作成しました。

しかし、その遺言は、手書きの、素人作成の一枚紙。

ちゃんと効力があるのか、孫である相談者は不安に思ったのです。

素人作成の遺言書はなぜ「禁じ手」なのか

このケースで、問題なのは、危篤状態に陥った祖母の遺言書が
「素人作成」
であるという点でした。

祖母は次男に全額を渡すという内容で遺言書を書いたそうですが、相談者としては、その内容が
「確実」
であるか不安を感じています。

この不安は、実に的を射ています。

そもそも
「遺言書」
は、死後の財産分与について、自身の意思を明確にするためのものです。

ところが、この遺言書は、法律が定めた厳格な
「方式」
に従って作成しなければ、その効力が認められません。

たとえば、自筆証書遺言の場合、作成した日付、署名、押印がすべて自筆でなければなりません。

これらが一つでも欠けていたり、あるいは代筆だったりすると、せっかく書いた遺言書が無効になってしまう可能性が高いのです。

法律の専門家ではない方が遺言書を作成する場合、ご自身の意図をいかに明文化し、法的に有効なものにするかという、非常に高いハードルが立ちはだかります。

たとえば、
「全財産を次男に渡す」
と書いたとしても、どの財産なのか、あいまいなままでは、解釈をめぐって争いが起きる可能性があります。

そうなれば、結局は法廷で争うことになり、遺言書を書いた意味がなくなってしまいます。

まさに、素人作成の遺言書は、家族の絆を守るための
「奥の手」
であるはずが、争いを招く
「禁じ手」
にもなりかねない、ということです。

意識が混濁した状態でも「確実な遺言」はつくれるのか

相談者がもっとも切実に感じていたのは、すでに手書きの遺言書はあるものの、その不備をどうやって
「補強」
し、法的に
「確実な遺言書」
として完成させるか、という問題でした。

祖母は一日の中で数分間だけ意識がはっきりすることがあるという、まさに一刻を争う状況です。

この状況下で、私たちが考えられる
「奥の手」
は何か。

まず、遺言は原則として自筆でなければなりません。

意識が混濁している祖母に、改めて自筆で遺言書を書かせるのは、現実的ではありません。

そこで、このような
「特別」
な状況に対応するために、法律には
「危急時遺言(ききゅうじゆいごん)」
という制度が用意されています。

危急時遺言とは、病気や災害など、死が迫っている状況で、通常の遺言書作成が困難な場合に、特別な方式で遺言書を残すことができる制度です。

危急時遺言の法的根拠と要件

危急時遺言にはいくつかの種類がありますが、今回のケースのように疾病で死亡の危機に迫っている状況で利用されるのは、民法976条に定められた
「一般危急時遺言」
です。

その要件は以下のとおり、厳格に定められています。

・証人3人以上の立会いがあること
遺言者の配偶者、推定相続人、受遺者、その配偶者や直系血族など、利害関係のある人は証人になれません。

・遺言者が証人の1人に遺言の趣旨を口授すること
口頭で遺言内容を伝えることです。

・口授を受けた証人がその内容を筆記すること。

・筆記者が、遺言者および他の証人全員に、筆記内容を読み聞かせ、または閲覧させること。

・各証人が、筆記が正確であることを承認した後、署名・押印すること。

・遺言の日から20日以内に、家庭裁判所に確認の請求をすること。

この手続きを経て、家庭裁判所が遺言者の真意であることを認めなければ、遺言は効力を生じません。

もっとも、危急時遺言はあくまで“例外”の制度です。

要件が厳格に定められているため、その時点で意思能力があったのかどうかが、後日争点となることも少なくありません。

また、遺言者の口述能力が問われるため、意識が混濁している場合は、その有効性が争われる可能性があります。

このケースでは、まずすでに作成されている
「素人作成の遺言書」
が有効かどうかを検証することが第一歩です。

その上で、祖母の意識がはっきりしている数分間に、いかにして法的に有効な遺言書を作成するか、あるいは、すでに作成された遺言書の内容を補強するか、できる限りの対策を講じなければなりません。

ミエル化・カタチ化・言語化が示す「確実な未来」

法律の世界では、あらゆる出来事を
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
し、誰が見ても同じように理解できるよう
「フォーマル化」することが、何よりも大切です。

今回のケースも同じです。

まずは、家族間の金銭トラブルを
「ミエル化」
する。

借金の事実を
「カタチ化」
して文書にする。

そして、祖母の意思を
「言語化」
し、法的に有効な遺言書という
「文書」
に落とし込む。

こうした手続きを踏むことで、家族間の争いを未然に防ぎ、祖母の意思を尊重し、そして何よりも、相談者の
「確実な未来」
を築くことができるのです。

著:畑中鐵丸

00240_父親の声は無視? 「母性優先」が連れ去りを正当化する社会の盲点

<事例/質問>

妻には、過去、母親としてネグレクトを疑わせるような行動がありました。

妻が出て行くまでは、子どもの世話は、私の方がしていましたし、お恥ずかしい話ですが、妻とは、そのことで、言い争ったことはあります。

そんな妻が、ある日突然、子どもを連れて家を出ていきました。

連絡はつかず、居所もわかりません。

私は、立ち上げたばかりの仕事を放りだすわけにもいかないギリギリの状況のなかで、妻と子どもを探すのに奔走しました。

妻と子どもは、親せき宅に居ることはわかり安堵したものの、連絡が取れない日が続きました。

ほどなくして妻から
「DVがあった」
との申し立てがなされました。

私は子どもとの接触を禁じられました。

もちろん、私は、裁判所に申し立てました。

DVなんて、事実無根だからです。

すると、そのDV申立ては、取り下げられました。

にもかかわらず、子どもは今も母親側に囲い込まれたままです。

「母性優先」

「継続性の原則」
という言葉を盾に、現状のままが維持されています。

妻は、家を出て以降、婚外男性との交際を平然と続けており、昼夜かかわらず、たびたび外出しています。

子どもの面倒を見る人もはっきりしません。

それなのに、裁判所は
「現状を変えるのは好ましくない」
「継続性が大事」
「母子関係は重要だ」
といった理由で、母親を監護者として認めようとしています。

父親として、納得できるはずがない。

私は、自分が養育する方がはるかに安全だという自負があります。

しかも、私の両親が近くに住んでおり、健康で、サポート体制も整っています。

それでも、
「今、監護しているのが母親なのだから」
という一点だけで、すべてが押し切られそうな空気があります。

このままでは、違法に子どもを連れ去った妻の思うがまま、になってしまう・・・。

こんな状況、いったいどう考えればいいのでしょうか。

<弁護士 畑中鐵丸の回答・アドバイス・指南>

まず、これは典型的な
「連れ去り型監護紛争」
です。

先に子どもを囲い込んだ側が、あたかも
「すでに養育している正当な親」
であるかのように振る舞い、それを既成事実として認めさせようとするものです。

そのときに使われる言葉は、決まっています。

「継続性の原則」
「母性優先」
「子どもにとっての安定」

いずれも、耳ざわりは良いし、正義めいた響きさえ、あります。

これらの言葉は、もともと
「適正な監護環境の中で、子どもが成長してきた場合に限って」
尊重されるべきものです。

違法に連れ去られた状況にまで、自動適用されるべきではありません。

今回のケースで問題となっているのは、
“その継続”が、どのような経緯で作られたか――です。

虚偽のDV申立て。
突発的な連れ去り。

不法な手段によってつくられた
「現状」
を、まるで最初から安定していたかのように扱う。

それは、法の原理原則を真っ向からねじ曲げる判断と言わざるを得ません。

日本の法制度としては、民法第766条の改正審議が行われた衆議院法務委員会で、当時の法務大臣が、
「子を違法に連れ去った者が、そのことによって監護権の指定上有利に扱われることはない」
という趣旨の答弁をしています。

この答弁は、単なる一つの見解にとどまりません。

「違法な連れ去りによって作られた既成事実は、法的に保護されない」
という、日本の司法における重要な原則を確立したものです。

クリーンハンドの原則(後述)の根幹にある考え方を、日本の法制度の中で明確に示しているのです。

しかし、残念ながら、現実の家庭裁判所の中には、この明確な立法趣旨が軽視され、形式的な
「現状維持」
が優先されてしまうケースが少なくありません。

裁判所が見落としているもの

米国法には
「クリーンハンドの原則」
という考え方があります。

「自ら法を尊重し、義務を履行する者だけが、他人に対しても、法の履行を要求できる」

要するに、
「法を守らない者には、他人に法を守れとは言えない」

虚偽のDV申立て。
裁判所の信頼を悪用した偽装の主張。
子どものネグレクト。
婚外の交際。
育児環境の不透明性。

こうした“汚れた手”で、監護権や養育費を求めること自体が、すでに法の冒涜なのです。

それなのに、裁判所がその手を“見なかったことにする”。

これはもはや、裁く側の“クリーンハンドの不在”です。

家庭裁判所が、事実認定や判断を“楽な方に流している”実態を映し出していると言わざるを得ません。

感情ではなく事実で立ち向かえ

では、どうすればよいのか。

感情的な主張や、単なる妻の悪口では、裁判官の心は動きません。

必要なのは、あなたの主張の正当性を客観的に示し、
相手の悪意を「ミエル化」し、
その不当性を徹底的に「文書化」することです。

これが、
「法のお作法」
であり、あなたの戦い方です。

(1)相手の「不法性」を言語化せよ

まず、相手が行った一連の行為を、客観的事実として整理し、その不法性を明確に指摘する必要があります。

相手は、あなたに
「DVがあった」
と訴えました。

しかし、すぐに取り下げた。

なぜか。

証拠がなかったからです。

そして、なかった理由は、DVなど存在しなかったからです。

この流れを論理的に
「言語化」
してください。

虚偽のDV申立ては、明白な不法行為です。

それによって得られた“現状”が、いかに不当か――その成り立ちの不法性を背景事情とともに、書面で、明確に、裁判官に突きつけるのです。

(2)あなたの「優位性」をカタチにせよ

あなたは、妻(母親)がたびたび外出し、子どもの世話を誰がしているか不明だと把握しています。

これは、母親が主張する
「健全な監護環境」
が、実体をともなわない空疎なものだという証拠です。

この事実を、
「カタチ」
として示す必要があります。

たとえば、
・外出記録のログ
・子の放置状況を示す客観的証拠
・監護実態のない生活時間表

日時、場所、滞在時間、交際相手の存在――こうした情報を、細かく
「文書化」
してください。

それが、母親側の主張を事実レベルで突き崩す“爆薬”になります。

また、あなた自身の養育環境の優位性も
「ミエル化」
しましょう。

たとえば、
・健康な両親が近くに住んでいる
・日常の家事や送迎、食事の提供体制が明確である
・育児時間を確保できる就業状況である

こうした事実を1つずつ丁寧に
「文書化」
し、
主観ではなく“数値と構造”で優位性を示す。

「一人で育てる環境」

「支援体制のある育児環境」
を対比させ、定量的な違いを裁判官に理解させるのです。

(3)相手の「制度悪用」を暴け

もっと言えば、これは制度を逆手に取った“囲い込みビジネス”です。

子どもを確保すれば、養育費が発生する。

実際に育児しているかどうかは関係ない。

養育費を得るために子を囲い込む――その手口を、制度悪用のモデルとして暴いてください。

「母性」

「継続性」
は、本来、子どもを守るための言葉です。

それを、親の支配欲や損得勘定の道具にするなど、あってはなりません。

この一連の行為は、まさにクリーンハンドの原則に反しています。

汚れた手で、法の救済を求めることはできない。

「このままでは、違法に子どもを連れ去った妻の思うがまま」

その危機感は、決して誇張ではありません。

しかし、あなたには法という正当な手段があります。

その手段をどう整え、どう示すか。

それが、あなたの子どもの未来を守ることにつながります。

著:畑中鐵丸

00239_“無料奉仕”の戦場に立たされたときの線の引き方_「恩義」と「タダ働き」を混同してはいけない

「タダ働き」
は善意ではなく、慢性的な搾取です。

プロが生き残るためには、どこで線を引くか──ここに尽きます。

「ちょっとだけだから」
「お願いだから」
「君しかいないんだ」

この3つの呪文が揃ったとき、あなたはすでに“無料奉仕”の戦場に立たされています。

法務の現場でも、こうした
「暗黙のタダ働き」
は少なくありません。

報酬の話を切り出す前に、次のタスクが当然のように降ってくる。

「善意」
の名のもとに、時間と労力が静かに溶かされていくのです。

もちろん、著者も義理人情が嫌いではありません。

「報酬よりも信頼」
だと思う場面だって、現実にはあります。

ただし、その線を引くのは“こちら”なのです。

実際、こういう場面があります。

「緊急だから」
と頼まれ、休日返上で徹夜してリリース文案を作成した。

ところが翌日には、
「もうその問題は片付いた」
と言わんばかりの顔。

支払いの話は立ち消え、感謝どころか存在すらなかったことにされる。

これが現場のリアルです。

「知り合いだから、タダでやってくれると思っていた」
「君と僕のなかじゃないか。いつも助けてくれるじゃないか」
「今回も頼むよ」

こうした言葉を“当然の権利”として口にする相手に、無償で助力を続けるのは、自殺行為にほかなりません。

報酬をめぐる話は、信頼関係の問題ではなく、線の引き方の問題です。

すなわち、約束をどうするか、筋をどう通すか、その一線の話です。

たとえば、無償対応を一度でも受け入れれば──
次の相談もタダになる。

他の案件にも波及する。

さらには、その人の周囲でも
「無料対応が前提」
になる。

そうした“雪だるま式の負担”が、音もなく膨らんでいくのです。

では、どうすればいいか。

あえてはっきりと言うことです。

「お力にはなりますが、まず条件を整えましょう」
「無償では動けません。必要なら別の専門家をご紹介します」
「これまでの無償対応は例外であり、今後は契約ベースです」

一見、冷たく聞こえるかもしれません。

しかし、こうした線引きこそが“プロフェッショナル”の信頼を守るのです。

これは、弁護士だけの話ではありません。

士業だけでもありません。

経営者、サラリーマン、コンサルタント──誰もが日常で直面する話です。

「ちょっとだけだから」
「お願いだから」
「君しかいないんだ」
という圧力を受け流すことができるか。

ここに、あなたの職業人生の質がかかっているのです。

著:畑中鐵丸

00238_裁判は「罵り合い」でも「正義のヒーローの舞台」でもない。冷静に制する者が勝つ“プレゼン合戦”

裁判は、ドラマや映画で見るような、ヒーローが正義を叫び、相手を論破して喝采を浴びる、感情むき出しの
「罵り合いの場」
ではありません。

現実の裁判は、そんな熱い舞台ではないのです。

むしろ、事実をいかに自分に有利に
「ねじ曲げ」、
それを
「ミエル化」
して提示できるかどうか――
地味で、淡々とした
「プレゼン合戦」
なのです。

裁判の場で怒ったり、感情的になってしまえば、そこでゲームオーバーだと言っても過言ではありません。

言うなれば、悲劇の主人公を演じきり、徹底的に
「被害者ヅラ」
を貫き通せた者にこそ、勝利の女神――ならぬ、裁判官は微笑むのです。

客観的事実と「解釈」という名の自由

裁判では、客観的に検証できない事実について、どれだけ自己に都合のよい
「ウソ」
を語ったとしても、自由だ、という側面があります。

これは法廷で公然と
「ウソ」
をつけ、という意味ではありません。

しかし、客観的な証拠で裏付けられない事柄については、いくらでも自己に都合の良いように
「物語」
を紡ぐことができてしまう、ということです。

一方で、客観的な証拠が存在する事実についても、その
「解釈」
はいくらでも自由自在に広げられます。

1つの事実から、複数の異なる
「解釈」
が導き出されることは、珍しくありません。

そこで、いかに自分の主張に有利な
「解釈」を、
「言語化」し、
「カタチ化」し、
「フォーマル化」
して示すかが勝負の分かれ目となります。

まさに、
「理屈と膏薬は、どこにつけてもいい」
という言葉のとおりです。

さらに言えば、自分にとって都合の悪い重要な事実があったとしても、それを“黙っておく”こともまた、自由なのです。

もちろん、虚偽の事実を述べたり、証拠を隠したりすることは許されません。

けれども、戦略として、選択的な沈黙
――相手に不利な事実だけを強調し、自分に不利な事実をあえて語らないという判断は、裁判の現場では“常識”です。

ロマンチストでは勝ち残れない
「リアリスト」
の世界だと言えるでしょう。

ルールとゲーム環境を知り、「クール&ドライ」に現実と向き合う

アメリカンコミックのように、ヒーローが登場して正義が勝つ――
そんな筋書きは、日本の裁判には存在しません。

現実の裁判では、正義が必ずしも勝利するとは限らないのです。

戦いを有利に進めるためには、まずこの
「ルール」

「ゲーム環境」
を徹底的に知ることが第一歩です。

そして最後に、訴訟を有利に展開できるのは、
「ロマンチスト」
ではありません。

徹頭徹尾、
「リアリスト」
であること。

それを忘れてはなりません。

どんなに辛く、感情を揺さぶられるような状況に置かれても、
「クール&ドライ」
に現実と向き合い、冷静に状況を
「俯瞰」
し、
「分析」
できた者のみが、このゲームを
「支配」
することができるのです。

これは、何度も繰り返しお伝えしておきたい、裁判に臨むすべての人にとっての、最重要の心構えです。

著:畑中鐵丸

00237_富裕層の思考は、情報選別とSNSとの距離感に表れる

情報は「誰から」「どこで」もらうかで、すべてが決まる

世の中には、貧乏人が飛びつくメディアと、そうではないメディアがあるのはご存じでしょうか。

私は、これらを明確に線引きしています。

「どのメディアを使うか」――これは、ただの好みの問題ではありません。

情報をどこから得るか。
誰とつながるか。
何を信じるか。

それは、あなたの判断を決め、決断を左右し、運命を分けます。

その選び方ひとつで、金持ちになる人と、貧乏の沼から抜け出せない人との分かれ道ができる。

これは、私の長年の経験から得た、揺るぎない確信です。

SNSという“貧乏人専用メディア”

LINE、Instagram、X(旧Twitter)、TikTok、YouTube、Facebook、Pinterest、LinkedIn、WhatsApp、Snapchat。

巷にあふれるこれらの
「なんちゃって情報インフラ」
は、私に言わせれば、すべてB2Cの貧乏人専用メディアです。

私が言う
「貧乏人」
とは、カネがないだけではありません。

情報弱者であり、思考停止に陥りやすい人々のことを指します。

彼らは、無料のSNSに群がり、そこで得られる情報を
「真実」
だと信じて疑いません。

発言が軽く、すぐに感情的になり、簡単に
「いいね」
を押したり、安っぽい
「共感」
を求めたりする。

それこそが、貧乏人の思考様式であり、行動様式だと私は考えます。

無料のSNSで流れる情報は、玉石混交です。

ごくまれに有用な情報もありますが、その大半は個人の感情や偏見に基づいた意見、あるいは裏付けのない噂話ばかりです。

それらを真に受けることで、誤った判断を下したり、無駄な時間を使ったりすることになる。

それどころか、根も葉もないデマに踊らされ、見えない敵の罠にはまることさえあるかもしれません。

これは、成功を志す者にとって、致命的です。

つまり、貧乏人専用メディアは、庶民を相手にするためのメディアであって(B2C、つまり企業が一般消費者向けに使うもの)、資産を守り、増やし、未来を動かす側の人間が情報収集や発信に使うべきものではないのです。

なぜなら、それらは情報が表面的であり、信頼性に乏しいからです。

これが、私のメディアポリシーです。

そう言うと、
「失礼だ」
「極端だ」
と反発されるかもしれません。

実際には、私の観察範囲では、これらを真剣に使っている“リーダー格の人間”に、いまだ出会ったことがありません。

たとえ炎上マーケティングでのし上がったように見える者でも、舞台裏をのぞけば
「本当の情報源」
はそこではない。

世の中の重要なことは、本や新聞には絶対に載っていません。

真実や、ビジネスの核心を突くような情報は、活字にはならないのです。

活字になった時点で、それはすでに過去の情報であり、誰もが知り得る
「公共の情報」
にすぎません。

それでは、競争優位性は築けません。

むしろ、そういう“薄っぺらい場所”で勝負している人間は、たいてい、何かを誤魔化しながら生きているのです。

貧乏人と金持ちの決定的な違い

情報の入り口を軽く見る人は、たいてい、お金も軽く扱います。

たとえば、
「どうでもいいことに時間を使う人」
「誰からでも情報をもらってしまう人」
は、結局、自分の判断基準がなくなる。

結果として、
「誰かの判断に振り回される人生」
になってしまうのです。

一方で、
「誰とだけつながるか」
を決めている人は、情報の精度が圧倒的に高くなる。

だからこそ、判断に迷わない。
迷わないから、動きが速い。
そして、速く動いた人間が、資産を押さえる。

この循環を回せるかどうかが、貧乏と金持ちの分かれ道なのです。

情報を選別する「嗅覚」を磨く

富裕層は、自らが動いて情報を掴みにいきます。

足で稼ぎ、耳で聞き、目で見て、五感で感じ取る。

そして、その情報を自らのフィルターにかけて、真贋を見極める
「嗅覚」
を磨いているのです。

彼らは、表面的な情報に惑わされず、奥にある本質を見抜く目を養っています。

一方で、貧乏人は、流れてくる情報をただ受け取るだけです。

自分で情報を探しに行こうとせず、与えられたものだけを消費する。

そこに、情報の質に対する意識はありません。

まさに、情報弱者です。

それは、やがて思考の停止へとつながり、自らの人生を他人に委ねるような生き方を招いてしまうでしょう。

重要な話は「外」でされている

では、資産家や経営者、権限を持った者たちは、どこで重要な判断を下すために必要な情報を取っているのか。

何を信じて動いているのか。

それは、スマホの画面の中ではなく、直接の
「人」
の中にあります。

正直に言いましょう。

重要な情報は、本にも新聞にも載りません。

いや、
「載せられない」
のです。

なぜか。

本当に大事な情報というのは、名前も出せず、証拠も残さず、空気のように流通するものだからです。

裁判所の証拠にも残らず、警察も動かず、記者も追わない。

そのかわり、知っている者と知らない者とで、まったく違う行動がとれる。

そうした情報は、
「会食の席」
で、あるいは
「現場の空気感」
で伝わります。

もっと言えば、
「この人がこう言った」
という、信頼に裏打ちされた“人伝(ひとづて)”でしか手に入らない。

電話と会食こそが“王道”

私にとって、信用できる情報インフラとは何か。

たった2つしかありません。

それは、携帯電話を介した直接の会話、そして面談や会食です。

これら
「直接的なコミュニケーション」
こそが、真の情報を得るための手段であり、信頼関係を築くための基盤になります。

相手の表情、声のトーン、話し方、そして言葉の裏に隠された意図。

これらはすべて、画面越しでは読み取れない、生きた情報です。

机上の空論ではなく、現実の事象に即した生きた情報に触れることこそが、思考の深さを生み、未来を洞察する力を育むのです。

あとのメディアは全部“オモチャ”です。

どれだけネットが発展しようが、AIが進化しようが、最後の最後に
「決める」
「動く」
「任せる」
場面では、絶対にこの2つしか使いません。

たとえば、ある案件のキーマンが
「直接話したい」
と言ってきたら、私は全予定を飛ばしてでも会いに行きます。

逆に、メッセージアプリやチャットツールでしか話せないような相手とは、基本、何もしません。

たとえ時代遅れと言われようが、
「人と人の間に漂う情報」
の強さに勝るものはない。

それが、私の信念であり、戦ってきた実務家としての結論です。

情報戦を勝ち抜くために

もし、あなたがこれから起業しようとしているなら、あるいは経営者として決断の重みと戦っているなら、

いちばん先にやるべきことは、
「どのメディアと距離を取るか」
を決めることです。

どこで情報を得て、どこで判断材料を受け取り、どこに“本当の答え”を探すのか。

その入り口を間違えた瞬間、すべてがズレはじめます。

情報は、命です。

情報は、資産です。

情報の選び方で、あなたの未来は決まります。

あなたは、どちらの側に立ちたいですか。

著:畑中鐵丸

00236_でっちあげDVと「住民票ブロック制度」の闇

日本には、
「先に泣いた者が勝つ」
という、まことに奇妙な世界が存在します。

これは比喩に過ぎないのでしょうか。

いいえ、断じてフィクションではありません。

むしろ、完全なリアリティを伴います。

家庭内の対立や、泥沼化した離婚紛争の現場では、先に
「DVを受けた」
と声高に訴えた側が、行政制度を、一方的に動かせる、そんな構造が存在するのです。

たとえば、
「DV支援措置」
というものがあります。

正式名称は
「住民基本台帳事務における支援措置」。

これは、巷で
「住民票ブロック」
とも呼ばれる制度です。

被害を申し出るだけで、相手の住民票取得をブロックできるという、仕組みです。

本人不在の「加害者」認定と行政の鉄壁

具体的に、どのようなことが起きるのか。

支援センターなどに
「DVを受けた」
と申し出れば、本人確認や事情聴取を経て、
「支援が必要」
と、判断されます。

すると、相手は、問答無用で
「DV加害者」
として扱われることになります。

自治体は、その加害者とされた人に対し、住民票や戸籍附票を渡さないよう、まるで門番のようにブロックをかけるのです。

驚くべきは、この時点で、加害者とされた側には、一切の確認も、通告もありません。

つまり、本人不在のまま、
「加害者」
としてのレッテルが貼られ、その恐るべき扱いがスタートするのです。

もちろん、そのこと自体は、制度の目的からして当然である、という理屈もあるでしょう。

被害が疑われるときには、何よりもまず、保護が最優先になされるべき、ということなのです。

それは、命と安全を守るために、社会が用意した緊急避難の枠組みです。

ところが、一度この措置が実行されると、加害者とされた側は、相手の住民票や戸籍附票を、永久に、いや、半永久的に取得できなくなります。

役所に出向いても、窓口で冷たく言い放たれるだけです。
「住民票はお出しできません」
「DV支援措置が取られております」

なぜならば、
「加害者による不当な目的の請求」
と自治体が見なし、その開示を、有無を言わさず拒絶するからです。

司法の判断すら覆せない「無敵カード」の現実

多くの場合、加害者とされた側がどれだけ説明を尽くしても、訂正や
「ブロック」
の解除はできません。

その解除には、原則として
「被害を訴えた側の同意」
が必要とされているからです。

しかし、もしそれが誤解や嘘だったらどうなるのか?
裁判で虚偽が認定され勝訴したら、ブロックは解除されるのか?

答えはNOです。

いったんブロックされてしまうと、仮にDVが存在しなかったとしても、申請の内容は嘘だと証明しても、裁判で勝訴したとしても、行政手続の中では、永遠に
「加害者」
のままです。

行政はオウム返しのように
「措置は措置です」
と言って、その処分を引っ込めることはありません。

その状態が、長く長く続くのです。

要するに、支援措置は、あくまでも保護を目的とした行政手続であり、司法判断の有無とは関係なく、どこまでも継続されます。

そして、その解除には、申請者本人の同意が、条件として必要とされているのです。

「加害者ラベル」がもたらす悲劇と逃げ切り

この制度によって、実際に起きている事態を挙げましょう。

・相手が住民票をブロックしたまま所在を隠す
・子どもを連れて引っ越し、住所を、徹底的に、知らせない
・面会交流や監護者指定の申立てが、事実上、不可能になる
・損害賠償請求の書類が送れず、手も足も出ない
・気づけば、法的主張のタイミングを逃している

加害者とされた側は、対話も交渉も封じられ、子に会えないまま、ただ時間だけを失っていくのです。

そして、記録も記憶も証拠も風化し、誰が真実を語っていたのかすら、検証不可能になるのです。

相手が意図的に連絡を絶っていた場合、そのまま“逃げ切り”が成立してしまうケースも、少なくありません。

まるで
「制度を使って逃げ切る」
ための、巧妙な戦術であるかのようにさえ、見えてしまうこともあります。

まさに、
「逃げ切り勝ちの構図」
としか言いようがありません。

司法の「無罪」も行政には届かない

行政は、自らその判断を修正する義務を負いません。

「制度上、対応できません」
「一度決定されたので変更できません」
これが現実です。

司法の結果は、行政の支援措置に、これっぽっちも反映されないのです。

今の制度は、裁判よりも早く、裁判よりも強く、
「加害者の烙印」
を貼ることができます。

しかも、その烙印には、
「消し方」
が、存在しないのです。

たとえるならば、こう言えるでしょう。

裁判所が
「無罪」
と判断を下しても、刑務所は
「うちはうち、そちらはそちら」
と嘯いて、鍵を、決して開けないような話である、と。

制度本来の理念と「私物化」の闇

制度の出発点は、まっとうです。

支援措置は、本来、被害を受けた方の安全を最優先に守る仕組みです。

それは、揺るぎない大前提であり、疑う余地はありません。

しかし、その一方で、制度が継続されることにより、もう一方の当事者にとっては“声を上げることすらできなくなる”状況が、厳として生まれることもあります。

「虚偽申告」
の余地があると、相手が逃げ切り勝ちする構図が、完全に、そして巧妙に、出来上がってしまうのです。

「確認なき申告」
「訂正なき継続」
「異議申立の手段の欠如」
が重なると、加害者とされた者は、ただただ泣き寝入りするしかありません。

支援措置は、使いようによっては、嘘をついた人が逃げ切るためのインフラになっている一面もあるのです。

行政と制度を味方につけて、子どもを囲い込み、相手を社会的に抹消し、親としての役割まで奪って、最後に
「あなたとは会わせません」
と、にべもなく終わらせることができるのです。

「制度の私物化」をミエル化せよ

実際、制度上は、加害者とされる側が
「支援措置を解除せよ」
と、直接求める明確な手段は、存在しません。

支援措置の解除は、原則として
「申請者の同意」
が必要であり、あくまで申出人の意思に委ねられています。

加害者とされる側が、どれだけ裁判に勝とうが、真実がどうであろうが、申請者が
「解除しません」
と言えば、それで終わりなのです。

いったん貼られた
「加害者ラベル」
は、司法の洗剤では、決して落ちません。

漂白もできません。

どこまでも肌に染みこむ、制度という名のタトゥーなのです。

実務上、打てる手は限られているが…

では、実務上、この理不尽な状況にどう対応するのか。

残念ながら、取れる手段は、そう多くはなく、冷静に、淡々と、粛々と、動くしかありません。

あの手この手、奥の手、禁じ手、寝技、小技、反則技、全てを駆使する覚悟が必要です。

どれも“魔法の杖”にはなりません。

ただ、唯一できるとすれば、
「逃げた側が、制度を“私物化”している構図は、きちんとミエル化する」
ということです。

これを言語化し、文書化し、フォーマル化することです。

1 家庭裁判所経由で送達ルートを探る

たとえば、監護者指定の審判や、面会交流の調停を通じて、裁判所が送達を肩代わりする仕組みがあります。
裁判所を経由すれば、相手の住所を直接知らずとも、訴訟が進むケースもあるのです。
これは、まさに突破口となり得るでしょう。

2 損害賠償請求の準備

虚偽申告によって社会的信用を傷つけられた場合、不法行為に基づく損害賠償請求も視野に入ります。
ただし、「知ったときから2年」という時効の「2年ルール」には、細心の注意が必要です。
油断は禁物なのです。

3 証拠と経過を記録に残す

裁判での主張は、「過去の積み重ね」で成立します。
どのような対応をしてきたか、相手の対応がどうであったか。
支援措置の長期化が不合理であることを証明するには、経緯の記録と、誠実な交渉履歴が、何よりも強力な武器となります。
全てを記録にミエル化し、カタチ化しておくのです。

制度の盲点と、問われるべき正義

本稿は、制度そのものを否定するものではありません。

真の被害者を守るため、支援措置が必要なのは間違いありません。

しかし、どんな制度も、
「運用の盲点」
があれば、そこを突かれて悪用されるのが、この世の常です。

「DV支援措置」
という、誰もが正義だと思いがちな制度。

そこに“嘘”と“時間”が混ざると、真面目に生きてきた側が、じわじわと、しかし確実に、詰んでいく。

制度設計上の“片方向性”が、時に、取り返しのつかない不均衡を生み出してしまうことは、残念ながら否めない、というのが現実なのです。

著:畑中鐵丸

00235_知ってるだけでは足りない_「知ってる人」がリスクになる

「……いや、それ、もう知ってるから」
そんな顔をした人が、会議の中にひとりは必ずいます。
すべてをわかっているつもりの表情です。

新しい提案にも、
「うーん、できますかねえ」
「まぁ、だいたい予想はつきますよね」
と、どこか冷ややかに反応します。

何かを指摘されても、先回りして反論するような態度を見せます。

こうした“わかってる人”が、じつは一番やっかいなのです。

なぜでしょうか。

一見すると、非常に優秀に見えます。

しかし、動きません。

伝えませんし、巻き込みません。

もちろん、仕掛けもしません。

要するに、組織の中で、変化を嫌悪し、“何も変えない存在”なのです。

それどころか、結果として、組織の風通しを悪くし、連携を妨げ、やる気を失わせ、周囲を萎縮させてしまいます。

気がつけば、“足を引っぱる存在”になっていて、いつのまにか
「邪魔な存在」
として扱われてしまう。

それは、皮肉な現実です。

何も言わない人が、最大の“変化阻害要因” 

知っている人は、知らず知らずのうちに心のどこかで、
「こんなこと、いまさら説明しなくてもいいだろう」
「誰かがやってくれるだろう」
「言わなくても、伝わるだろう」
「誰かが気づいて軌道修正してくれるだろう」
と考えているのかもしれません。

しかし、知識というのは、
「共有」され、
「伝達」され、
「仕組み」に落とし込まれて、
はじめて組織の中で意味を持ちます。

自分の中にだけある知識は、ただの独りよがりの宝箱にすぎません。

さらに悪いことに、こうした“わかってる人”ほど、
「失敗しないこと」
を最優先します。

だからこそ、リスクを避けようとして沈黙するのです。

黙っているだけの人は、中立でも安全でもありません。

むしろ、何も言わないことで、組織のリズムを壊し、変化の芽を摘んでしまいます。

結局のところ、組織にとっては、
「動かないブレーキ」
となってしまうのです。 

「知識はエンジン。動かすのに必要な燃料とドライバーとは」 

知識は、それ自体は力ではありません。

知識を「伝え」、
他者に「わかる」ように説明し、
動かす人を「巻き込む」ことで、
ようやく“力”として機能します。

いわば、知識は
「エンジン」
でしかなく、それを動かすためには
「燃料」

「ドライバー」
が必要なのです。

この
「燃料」
にあたるのが、発信力と巻き込み力です。

そして
「ドライバー」
にあたるのは、相手の動きを読む力や、必要なタイミングで仕掛ける感覚です。

たとえば、法務部門に優秀な専門家がいたとしても、その人が
「これはリスクです」
と繰り返すだけでは、現場には届きません。

なぜなら、現場の人が知りたいのは
「どうすればリスクを避けられるのか」
であり、
「どのタイミングで」
「どんなステップを踏めば安全か」
という、具体的な設計図だからです。

つまり、
「正しさ」
よりも、
「翻訳と設計」
の力が問われるのです。

知識を使って、現場にとって意味のある形にミエル化し、現実的な行動のカタチに落とし込む。

動かせる人は、“伝えるだけ”では終わりません。

現場に合わせて翻訳し、
「動けるカタチ」
に仕立て直します。

人は正しさでは動かない。人を動かすには仕掛けがいる 

「正しいこと」
は、ときとして、反感を買います。

特に、相手がその“正しさ”にまだ気づいていないときは、なおさらです。

だからこそ、動かせる人は、正しさを押しつけたりしません。

相手に「気づかせ」、
自然と「動きたくなる」ように
仕掛けていくのです。

たとえば、次のような手法があります。

・あえて自分の意見を一歩引いた表現で語る
・数字や具体例を見せて、相手に納得してもらう
・他部署の“声”を先に紹介し、自分の意見に権威性を持たせる
・最初は小さな変化を提案し、相手の抵抗感をやわらげる

つまり、あの手、この手、奥の手を総動員して、相手の頭と心を動かしていくのです。

この
「一歩引いた仕掛け」
ができる人こそ、本当に組織を変える人です。

知ってる人”から“動かせる人”へ

これからのビジネスパーソンに求められるのは、
「知っている人」
ではなく、
「動かせる人」
です。

知っていることを、言語化し、翻訳し、伝え、巻き込み、仕掛け、動かす。

そのプロセスを経てはじめて、知識は価値になります。

そして、その
「動かす力」こそが、
「影響力」となり、
「信用力」となり、
最終的にキャリアを押し上げていくのです。

「知っている」
だけでは、通用しません。

その一歩は、自分の知識を
「どう伝えるか」、
そして、誰を巻き込み、誰と連携すれば現場が動くのかを考えるところから始まります。

知識と発信力。
知識と連携力。
知識と仕掛け力。

この掛け算ができる人こそ、これからの組織を変え、未来を動かしていくのです。

著:畑中鐵丸

00234_知ってるだけでは足りない_マニュアル・ルールはあるのに、綻ぶ組織

訓練はできる。でも、本番では動けない

たとえば――
年に一度の避難訓練。

非常ベルが鳴る。

全員が立ち上がり、訓練用ヘルメットをかぶって、マニュアル通りのルートを移動する。

出入口は右側通行。

リーダー役が先頭を歩き、点呼をとる。

完璧だ。 

でも、それは“訓練だから”できるのです。 

制度があっても、担当者がいなければ動かない

ある企業では、各部署に「防火担当者」がいます。

火災時の避難誘導を担う、各部署の“消防係”。名前も顔も共有されていて、定期的な防火訓練にも参加しています。

もちろん、防火管理者の下にはマニュアルがあり、ルールも整備されています。

「火災時にはこう動く」
「ここに集まる」
「こう報告する」
も決まっています。 

あるとき、火災が発生しました。

火災警報がなったと思ったら、焦げ臭いにおいがフロアに立ちこめました。

煙が天井を這い、照明が落ち、エレベーターは使えません。 

警報が鳴り響くなか、そのフロアの防火担当者は・・・
その日、休暇を取っていました。

社員たちは顔を見合わせて立ちすくみました。

なかには、出入口に駆けだした社員もいます。

「非常口、どこだっけ?」
「作りかけの重要書類、そのままにして逃げていいの?」
「誰か、指示くれないのか?」

幸い、小火はすぐに消し止められ、大事には至りませんでしたが、担当者が“たまたま休み”だっただけで、その部署の全員が右往左往しました。 

実際に火災が発生したとき、整っていたはずの訓練は、本番では機能しません。

なぜか。

想定どおりの状況なんて、現実には起きないからです。 

制度はある。

仕組みもある。

なのに、動かない。

この
「制度はあるのに、守られない」
というギャップこそが、もっとも危ういのです。 

企業ルールには“警報装置”がない

火災には
「煙」
というサインがあります。

異臭があり、警報が鳴り、人は五感で危機を察知します。 

一方で、企業の“ルール不全”には、サインがありません。

火災のように一気に炎上はしません。

“守られない状態”が、音もなく蔓延し、静かに、静かに、仕組みのほころびが広がっていくのです。 

たとえば―― 
・コンプライアンス規程は整備済み
・マニュアルもある
・社内ポータルにも掲載してある 

それなのに、現場ではこうした事態が起きます。

・処理は進んでいるが、押印ルートが部署ごとに違っている
・マニュアルに「判断基準あり」と書かれているが、どこにあるのかわからない
・研修は受けたが、現場のタイミングとまったく噛み合っていない

「一応、決まってます」
「やったことあります」
――その“つもり”が、むしろリスクになるのです。 

属人化した知識は、仕組みとは言えない

原因は、
「現場の人間がバカだから」
ではありません。

“使える状態になっていない”からです。 

現場が動けない。

あるいは、それぞれ勝手に動いてしまう。

それは、
「誰かがいなければ回らない設計」
になっているからです。 

・その処理は、Aさんしか知らない
・Aさんが休んだ日は、メールの文面を過去の送信履歴からコピペしている
・稟議や承認の流れが、個人の暗黙知に頼っている 

つまり、
「知っている人がいない」
ときに破綻するルールは、ルールの顔をした“人頼み”の運用にすぎません。 

属人化された知識は、仕組みとは言えない。

“誰でも動ける状態”になっていて、はじめて仕組みと呼べるのです。 

誰がいても、誰がいなくても、動くように設計されていなければ、意味がありません。 

「ルールがある」だけでは足りない

どれだけ立派なマニュアルがあっても、実際に守られていなければ、外から見れば
「無対策」
と同じです。 

守られるルールとは、
「想定された人が、想定どおりにそこにいなくても」
ちゃんと動くものです。 

知ってる人がいなくても、動ける。

言われなくても手が動く。

誰が来ても、誰が抜けても、破綻しない。 

現場が実際に動ける仕組みとは、
「人に頼らない」
「その場で判断できる」
「例外なく通用する」
状態にまで、落とし込まれていることです。

「読んでわかる」
でも足りません。

“守られる仕組み”にまで落とし込まれて、はじめて“使える知識”になるのです。 

ルールやマニュアルがあるだけでは、現場は守りません。

守ったとしても、肝心なところで抜け落ちます。

“できているつもり”が、いちばんタチが悪い。

要するに、
知識だけでは、足りない――ということです。

著:畑中鐵丸

00233_知ってるだけでは足りない_リスクの芽は潰さなければ意味がない

問題は、「見えているとき」がいちばん小さい

たとえば、お気に入りのスーツの袖口に、糸のほころびを見つけたとします。

「あれ、ちょっと糸が出てるな」
そう思いながらも、急いでいたり、予定が詰まっていたりして、そのままにしてしまう。

「まあ大丈夫だろう」
「あとで直せばいい」
出張に着ていったり、打合せを何件も回ったりしているうちに、その“ほころび”は、確実に広がります。

気づいた頃には、布地が裂けていて、針と糸ではもう直せない。

袖のほころび、裾のほつれ、ボタンのゆるみ——どれも
「気づいていたけれど直さなかった」
結果として、いずれ、そのスーツは
「着て行けない服」
になってしまうのです。

プレゼンの舞台。
懇親会の誘い。
大手企業との面談。

どれも、スーツが着られないというだけで、機会を逃してしまうかもしれません。
場合によっては、ただの“見た目”の問題では済まされないのです。

要するに、
「ほころびに気づいていた」
こと自体には、何の意味もないのです。

「見つけたとき」
が、いちばん小さい。

これが、リスクの本質です。

そして、
「動かなかった分だけ」
リスクは広がるのです。

声が上がらない現場に、リカバリーはない

会社でも、同じことが起きています。

・社内のチェック体制に抜けがある
・報告書に誤記がある
・上司の言動に、妙な違和感をおぼえる
・取引先の対応に、いやな胸騒ぎがする

「これは、マズいかもしれない」
そう感じた経験は、誰にでもあるでしょう。

現場には、日々“リスクのほころび”が違和感として見えています。

ところが、ほとんどの人は、その“違和感”を自分の中で完結させてしまう。

「まあ、大ごとにはならないだろう」
「誰かが気づいているはずだ」
「時間ができたら直そう」
「指摘されてから考えればいいか」

さらに問題なのは、
「言ってもムダ」
と思い込んでしまうことです。

「言ってもどうせ、無視されるだけ」
「以前、言って叩かれたから、もう言わないと決めた」

現場で
「何かおかしい」
と感じた人は、本来なら声を上げようとしたはずです。

「前に、先輩に言ったら笑われた」
「言っても、対応されなかった」
「上司に“そんな細かいこといいから”と遮られた」
こうした経験が、“声を上げない方がいい”という学習につながっていくのです。

そして、気づいた人ほど、声を潜めるようになるのです。

気づいたが、声にしない。
あるいは、気づいても誰にも伝えない。

沈黙の連鎖が、組織を殺します。

ほころびを見逃し、先送りにしているうちに、会社は
「出番のスーツが着られない」
状態になっていきます。

機会を逃し、信頼を損ね、致命的なリカバリー不能に陥る。

それは、決して大げさな話ではありません。

「違和感がある」
と感じても、それを言語化するのは簡単ではありません。

しかも、それを相手に伝わるカタチに整えて、共有するとなると、もっと難しいのです。

リスクは、
「気づいた人」
がいたからといって、防げるものではありません。

その“ほころび”を、どう繕うか。

それこそが、すべてなのです。

「察知の先に、『動線』があるか」

多くの企業では、
「リスクに気づけること」
が重要だとされます。

もちろん、それも大切です。

けれども、本当に問われるのは、
「察知したあとの動き方」
です。

気づいたあとに、
・誰に知らせるのか
・どの情報を残すのか
・どのフローに載せるのか
・組織としてどう潰すのか

これらの一連の動線がなければ、“察知力”は、ただの気づきで終わります。

要するに、
「動ける構造」
がない会社には、リスク対応も存在しないのです。

注意深い人間ではなく、注意深くあれる“構造”が、会社を支えるのです。

繕い方を知らない者に、裂け目は直せない。

動き方が決まっていない組織に、リスクは処せない。

だからこそ、
「構造」
が必要なのです。

個人に頼るな、構造を作れ

リスク対応を
「個人の能力」
に任せてしまうと、会社の運は“偶然”に左右されます。

運よく気づく人がいて、運よく動けるチームがあって、運よく潰せた。

それは
「奇跡の偶然」
でしかありません。

危機管理とは、勇気ある個人をつくることではありません。

「誰もが、気づいたときに動けてしまう構造」
をつくることです。

“構造”のない会社では、ほころびに気づいても、誰も動けません。

・動こうとすれば、上司に止められる
・報告しようとしても、通報経路がない
・対応の経験もなければ、判断基準も曖昧

結果として、トラブルは
「みんな気づいていたけど、誰も何もしなかった」
かたちで表面化します。

リスクは、後で検証しても意味がありません。

察知した
「その瞬間」
に、動けるかどうか、です。

つまり、
「構造として仕組まれているかどうか」
なのです。

放っておけば問題は“巨大化”します。

気づいたときが、いちばん小さい。

放置こそが、最大のリスクです。

裏を返せば、
・すぐ直すことが当たり前になっている
・未然の共有を習慣化している
・違和感の積み重ねを言語化している

そんな会社では、“ほころび”は未然に処理されていきます。

具体的には、たとえば以下のようなものです。

・日常的なリスク共有の場(Slackの専用チャンネルなど)を用意しておく
・共有・報告・相談のためのテンプレートや投稿フォームを整えておく
・「誰に何を報告すべきか」の相談動線をあらかじめ明文化しておく
・小さな異常や違和感も残せるよう、ログや議事メモのルールを徹底する

いずれも、
「動線の設計」
「小さなリスクのカタチ化」
です。

これがない組織では、たとえ100人がリスクに気づいたとしても、誰も繕わず、ほころびはどこまでも裂けていきます。

 “そのうちやる”では間に合わない

知識は、必要です。

経験も、大切です。

でも、それだけでは足りないのです。

・リスクの傾向を知っていても
・過去の失敗を語れても
・他社のトラブル事例を分析できても

動けなければ、防げない。

その知識が
「現場で動ける構造」
に落とし込まれていないかぎり、それは“飾り”でしかないのです。

通知”で終わらせるな

昨今は、検知や監視の技術も進化しています。

カメラやログ、アラート通知など、“気づく仕組み”は進んできました。

けれども、通知だけでは意味がありません。

繕う構造がなければ、裂け目は広がるだけです。

気づきは、誰かが報告にあげなければ潰れません。

報告は、記録に残らなければ継承されません。

記録は、見返されなければ、記録のままです。

そして、処さなければ、体制に反映されません。

こうした
「ほころび対応のレイヤー構造」
があってこそ、リスクはカタチとして潰せるのです。

そしてそれが、最終的には企業の体質をつくるのです。

「知っている」だけでは、組織は裂ける

服の糸が1本ほつれたまま、放置したら――
そのほころびは、やがて服を裂くだけではなく、着る人の可能性をも潰しかねません。

知っているだけでは、役に立ちません。

違和感を小さなリスクとして潰すしくみ。

その“当たり前”を構造化することが、危機管理の本質です。

著:畑中鐵丸

00232_知ってるだけでは足りない_「できる人がやってくれる会社」が危ない_仕組みの不在が生むリスク

「よく気がつく人が、やってくれたらいい」
「できる人に任せれば大丈夫」
「○○のことなら、あの人が知っているから、安心だ」

職場で、こんな言葉を聞いたことはありませんか。

たしかに、臨機応変な対応ができる社員がいると、その場はうまく回ります。

一見すると、
「協力し合う風土」
のようにも見えます。

けれども、それは本当に
「良い会社」
と言えるのでしょうか。

経営者として、また、日々いろいろな会社の相談を受けている弁護士として、これまで多くの現場を見てきました。

その中で、何度も感じたことがあります。

それは、
「その場しのぎ」
でまわっている組織には、ある“共通点”がある、ということです。

一見、うまくいっているように見える。

でも実際には、がんばっている人が無理をして、どうにかギリギリ持ちこたえているだけ。

そんな組織が、驚くほど多いのです。

要するに、
「がんばる人が穴を埋める」
ことが前提になってしまっているのです。

それは、設計段階から仕組みがないまま走り出している、ということなのです。

がんばりが前提になってしまう組織の“欠陥”

たとえば――
毎月の報告資料、誰が作成するか決まっていない。
その時どきで、「手が空いている人」「わかる人」がやっている。
期限もあいまいで、「なんとなく月末までには」くらいの共通認識。
その結果、誰かの残業や土壇場の踏ん張りで、かろうじて回っている。

こういう状態が長く続くと、どうなるか。

ある日、
「がんばっていた人」
が疲れ果ててしまいます。

誰にも頼れず、負担を抱えたまま、静かに職場を去っていくのです。

そして残された人たちは、こう言います。

「あの人がやってくれてたから、成り立ってたんだな」

しかし、それでは遅いのです。

それは“仕組みの不在”に誰も気づかないまま、ただ誰かに寄りかかっていた結果です。

属人的な努力は、持続しない

人の努力には限界があります。

経験や勘、慣れに頼ってまわる業務は、一見スムーズに見えても、
「再現性」
がありません。

その人がいなくなった途端、止まってしまうのです。

これは、企業にとって極めて大きなリスクです。

なぜなら、
「人に依存する仕組み」
は、
「仕組み」
とは言えないからです。

たとえば、マニュアルがなく、口頭でしか引継がれていない業務。

あるいは、資料の作り方がブラックボックス化しているプロジェクト。

こうした
「属人化の温床」
は、日常のなかにひそんでいます。

そして、現場で最も起きがちな勘違いがこれです。

「今、まわっているから、大丈夫だ」

実際には、まわってなどいないのです。

“人が無理してまわしている”だけです。

“属人化”の 落とし穴――入社式をめぐる混乱

ある企業の人事部では、毎年4月に行う
「入社式」
の準備を、ベテラン社員のCさんが10年近く担当してきました。

式次第の作成、座席表、記念品の手配、来賓案内、役員コメントの調整等、細かな手配や関係部署との連絡も含めて、Cさんが
「過去の勘」

「社内調整力」
で動かしていたのです。

社内には正式なマニュアルや引継ぎ資料はなく、他のメンバーは
「今年もCさんがリーダーをやってくれるだろう」
「Cさんに聞けばなんとかなる」
「数時間の式だから大丈夫だろう」
くらいに受け取っていたようです。

ところが年末に、Cさんが家庭の事情で急きょ休職することになりました。

年明けて、誰も引継ぎを受けていなかったことが判明しました。

「過去はどうやってたのか」
「誰が何を担当するのか」
「どこに連絡を入れればいいのか」
記録も引継メモもないため、準備は一向に進みません。

新担当者はCさんに連絡をとってはみたものの、現場を離れたCさんから的確な回答はかえってきません。

式直前には、来賓の座席がダブルブッキングしていたり、祝辞の原稿が一部未手配だったりと、ミスが重なり、社内外から苦情が続出しました。

一過性のことだからと、たかをくくっていたのしょうか。
誰でもできると、皆が思い込んでいたのでしょうか。
他のメンバーがサボっていたのでしょうか。
Cさんが記録や引継を怠けていたのでしょうか。

むしろ、Cさんは長年、組織を支えてきた功労者でした。

式典が終われば、すぐに平常の仕事に戻らなければならず、組織は、単に、
「Cさんのがんばり」
に乗っかっていただけだったのです。

要するに、その努力が
「ミエル化」
「カタチ化」
されないまま放置されていたということです。

それこそが、構造的な問題だったのです。

こうして、大混乱の現実のあとに、
「属人化の危うさ」
が、ようやく社内で可視化されました。


「仕組みで回す」とは、どういうことか

どうすれば
「がんばらなくてもまわる」
状態をつくれるのでしょうか。

答えはシンプルです。

仕組みとは、
「誰が」
「いつ」
「何を」
「どのように」
やるか、を明文化したもの。

言い換えれば、
「行動の前提」
を、あらかじめカタチにしておくことです。

たとえば、
・資料作成はAさん、月末3営業日前までに完了
・テンプレートは共有フォルダの「資料ひな形」内に保存
・確認は部長が行い、修正はBさんが対応

このように、関係者の役割と流れを
「固定」
しておくのです。

もちろん、細部の調整や例外対応は出てきます。

しかし、ゼロから考えるより、最初の土台があれば対応は格段に速くなります。

仕組みとは、
「人の判断」
を減らすことです。

人が迷わなくなるだけで、業務は加速します。

がんばる人が報われる組織にするために

たとえば、リーダーが
「自分の背中を見て育て」
方式を続けている会社。

あるいは、
「できる人」
に業務が集中しすぎている部署。

こうした職場は、いずれ崩れます。

努力している人ほど、疲れて去っていく。

がんばっている人ほど、評価されにくい。

そんな組織は、間違いな
「仕組みのミス」
です。

人は、仕組みで守られなければ持続できません。

がんばりが組織に貢献するには、
「ミエル」
ように設計しなければならないのです。

だからこそ、必要なのです。
「属人化している仕事」
を洗い出し、
「手順」

「役割」
に落とし込んでいく作業。

この作業は、とても地味です。

しかし、これこそが、組織を持続させ、誰かのがんばりを
「価値」
として残す道です。

がんばりを“構造に変える”という発想

結局のところ、
「知っている」
だけでは、会社は変わりません。
「がんばっている」
だけでも、限界があります。

だからこそ、
・知識も努力も、仕組みに落とす。
・属人化を防ぎ、業務をミエル化する。
・仕組みをつくり、役割を明確にする。
こうしてはじめて、個人のがんばりが“組織の力”へと転換されるのです。

あなたの会社で今、
「誰かのがんばり」
によってかろうじて保たれている業務はありませんか。
その努力を、仕組みに変える時が来ています。

著:畑中鐵丸