00221_ケーススタディ_ 価値はあるのに、なぜ響かないのか_感性で選ばれる市場で、生き残るということ

<事例/質問>

新商品のローンチを控えており、差別化の戦略に頭を悩ませております。

ターゲットは、わたしと同じ40代女性です。

商品は、季節の変わり目に肌荒れしやすい人に向けた、美容サポート飲料です。

・ベリー系のナチュラルフレーバー
・植物発酵エキスとビタミンを独自配合
・「外からじゃなく、中から肌を整える」がコンセプト
・パッケージは白とピンクを基調に、シンプルで清潔感のあるデザイン

わたし自身、発酵を長く研究してきたこともあり、成分の設計には独自の工夫を盛り込み、かつ専門的な裏づけもあり、これは売れる、と自負していました。

ところが、ローンチ前のテストでは、
・類似商品が多すぎて、違いが伝わりにくい
・技術的な裏付けがあっても、「へぇ、で?」で終わってしまう
このようなフィードバックが数多く寄せられました。

わたしは、自分が女性で、それこそが強みだと思って、今までやってきましたが、女性を相手にする商売って、やっぱり難しいのでしょうか。

難しいのは、女性が相手だからなのか、それともわたしの“伝え方”なのか。

「誰に、何を、どう伝えればいいのか」
「価値はあると思うのに、どうして響かないのか」
今、迷路にはいってしまったような感覚です。

<弁護士畑中鐵丸の回答・アドバイス・指南>

「女性を相手にする商売って、やっぱり難しいのでしょうか」
「難しいのは、女性が相手だからなのか、それともわたしの“伝え方”なのか」
この問いかけは、実に本質を突いています。

それに対する答えは、
「どちらも正しい。そして、どちらも問い続けるしかありません」

もっとも難しい商売とは、感性の鋭い人たちを相手にする商売です。

「美容」
「健康」
「快適さ」
「安心感」
そのすべてに対して、自分の感覚で選び取ろうとする人たち。

たとえば、あなたと同じ40代の女性たち。

たとえば、子どもの肌や健康を気づかう親御さんたち。

この層の消費者は、我慢しませんし、遠慮もしません。

良くなければ、すぐに離れます。

なんとなく、では決して買いません。

「へぇ、で?」
で終わる商品は、そもそも手に取りません。

ブランドの“顔”が曖昧なら、不安に思うのが、この層です。

気に入られなければ、1回で終わり、2回目はありません。

要するに、義理もなければ情もない、欲と感性だけが、すべてを決める市場です。

ここに参入するというのであれば、ただ良い商品を出すだけでは足りません。

「なんとなく参入して、なんとなく誰かに届けばいい」
そんな態度では、1秒で見破られます。

この市場において、伝え方とは“技術”であり、“構造”であり、そして——“覚悟”です。

あなたの商品には、専門的な裏づけも、真摯な思いもあるでしょう。

けれども、それが
「わたしにとって何の意味があるのか」
が見えなければ、この市場にいる消費者には響きません。

違いが伝わらないのは、商品のせいではありません。

伝え方が、まだ定まっていないのです。

伝え方とは、ただの言い回しではありません。

商品そのものの
「立ち位置」
「意味づけ」
を、もう一度ゼロから設計しなおす作業です。

・誰の、どんな悩みを、どの場面で、どう解決するのか。
・どこで競合と違いをつくり、どこで刺さる言葉を見つけるのか。
・どんな言葉で、どんな形で、どんな空気で、伝えるのか。
・それらを、ミエル化し、カタチ化し、言語化し、文書化し、フォーマル化する。
・あらゆる工夫を、誠意と覚悟をもって注ぎ込む。
・伝えるために必要なことを、ひとつずつ、丁寧に組み立てていく。

それが、感性で選ばれる市場で生き残る最低条件です。

それほどの覚悟が、最初から求められています。

あなたの迷いは、決して無駄ではありません。

迷路に見えるそのプロセスにこそ、本当に響く伝え方のヒントが隠れています。

そして、その壁を越えたときにだけ、得られるものがあるのです。

・リピートという信頼
・口コミという影響力
・ブランドという、揺るがない存在感

たった一度の“がっかり”が、もう二度と取り戻せない距離を生む世界です。

だからこそ、たった一度でも心に届いた商品は、長くつかってもらえますし、静かに広がっていきます。

覚悟のない商品は、この市場ではただのノイズです。

覚悟のある商品だけが、静かに、しかし力強く、この感性で選ばれる市場で生き残っていくのです。

著:畑中鐵丸

00220_ただの処分では終わらせない_再教育:経営者に問われる「読みの力」

「反省しない社員を、育てるべきか、切るべきか。」

経営の現場では、こんな問いに直面することは少なくありません。

たとえば今回、ある企業で人事の相談を受けました。

不祥事を起こした社員が2人いました。

社員Aは、深く反省の意を示し、自らの処分を当然のことと受け止めていました。

一方、社員Bは開き直り、仲間内では会社批判を繰り返していたとのことです。

「辞める」
と言いながら、実際には辞めません。

むしろ、会社にとどまりながら、経営を腐すのです。

社員Aと社員B、どちらが悪質か、火を見るより明らかです。

けれども――この2人を、どう処するかは、単なる比較の問題ではありません。

その社員に悪意があるのか、ただ無知なのか。

本当に反省しているのか、それとも芝居(表面だけの反省)なのか。

育てるべきか、切るべきか。

その見極めは、人の問題のようでいて、実は経営者自身の在り方が、もっとも深く問われる瞬間でもあります。

この話を聞いたとき、私はふと思い出しました。

以前、まったく別の経営者が、驚くほど似たようなことを語っていたのです。

「きれいごとでは人は育ちません。誤解や葛藤が渦巻く“泥のような現場”で、どうにか人を信じて育てていくしかないと、日々、肚をくくっています」

現場というのは、いつだって不格好で、どろどろしていて、その時々の感情も、ぶつかり合っています。

表面的に整った美しい処分や、いかにも正しそうな論理だけでは、人は動きません。

だからこそ、判断は、難しいのです。

ここで、将棋の話を少ししましょう。

将棋には、
「捨て駒」
と呼ばれる手があります。

一見、ムダに見える手。

すぐに取られてしまう駒を、あえて打つのです。

熟練の棋士ほど、こう言います。

「すべての駒には意味がある。ムダな駒など一つもない」

たとえば、飛車や角のような派手な駒ばかりを使っていても、勝てるわけではありません。

歩をどう使うか。

香車をいつ温存するか。

見捨てたようで、実は布石だった――そんな一手が、勝敗を分けるのです。

経営も同じです。

開き直っているように見える社員Bが、実は組織の風通しを改善する触媒になることがあります。

一見厄介な存在が、見方を変えれば、“社内の真実”を映す鏡かもしれません。

もちろん、悪意しかない者は、切るしかありません。

けれども、ただの無知や未熟さであれば、それを見極め、あえて打つという
「再教育の一手」
も、経営者には必要です。

たとえば、一見すると、
「あれが処分と言えるか?  上は何を考えているんだ。不公平じゃないか!」
と、見えるような配置換えになるかもしれません。

けれども、実はその部署こそ、本人がもっとも嫌がっている部署だとしたら・・・。

そう、
「それが処分なのか?」
という声の裏で、当の本人には、“根性試し”の場として、最も厳しい任務が課されているのです。

もちろん、本人が何を嫌がっているかを知るには、どれほどその社員のことを見てきたか――そこにかかっています。

これは、再教育以前の問題であり、“調査”が肝です。

社員Bが、そこから這い上がれるのか。

それを、じっくりと見ていくのです。

もちろん、時間はかかります。

表面だけを見て、
「軽すぎる」
「優遇だ」
と批判する社員が出てくるかもしれません。

しかし、それでもなお、そこに仕掛けた“再教育の意図”を信じられるか。

経営者にとって、それこそが勝負どころなのです。

一方で、反省を示している社員Aには、あえて距離を取ります。

遠くから見守りながら、実績と信頼を積ませていきます。

再登用のチャンスを、水面下で静かに準備しておくのです。

もっとも、これも一歩間違えれば、
「なぜ何もしてくれないのか」
と、本人のやる気をそいでしまうこともあります。

周囲からも、
「放置ではないか」
と誤解されるかもしれません。

どちらも、ただの
「許し」
ではありません。

経営者のいっときの感情などではなく、
「信じて試す」
再教育という名の、戦略的な判断なのです。

その意図が、社員に理解されることはほとんどありません。

けれども、だからこそ、誤解をおそれず、孤高を恐れず、決断し、信じ切る姿勢が問われるのです。

将棋と同じく、経営でも、すべての駒(社員)には意味があります。

切ってしまえば、それまでです。

けれども、温存して、見極めて、次の手を打つことで、想像もしなかった展開が開けることがあるのです。

再教育とは、単にチャンスを与えることではありません。

時に厳しい手を打つことも必要です。

けれども、その一手に
「信じる意志」
が宿っていなければ、ただの処分になってしまう。

人を裁くのではなく、導く。

それは、経営者の“読み”が問われる、将棋にも似た営みなのです。

著:畑中鐵丸

00219_“丸投げ”が会社を弱くする─「のみこまれない会社」になるために必要なこと

大手企業の多くが、社内に“法律に詳しい人”──弁護士資格を持つ従業員や、法学部出身のスタッフ──を多数抱えているのを、知っていますか?

特に法務やリスク管理を重視する企業では、法務部門のうち2割以上が有資格者というケースすらあるのです。

また、法学部出身者に限れば、証券会社やメーカーなどで、部門によっては7〜8割を占めることも珍しくありません。

その理由は何だと思いますか。

リスクを避けるためでも、書類をきれいに作るためでもありません。

「判断する力」
「外部の専門家を使いこなす力」
この2つの力を、社内に“持ち続ける”ためです。

そしてこの2つこそ、会社という組織が、外からの攻撃やトラブルに“のみこまれない”ために、どうしても欠かせない力なのです。

「丸投げ」は、信頼ではなく“放棄”である

たとえば、こんな場面を想像してください。

ある会社が、トラブルに直面しました。

急いで外部の弁護士に電話をかけます。

「もう手に負えない。とにかく任せたい。カネは出すから、好きにやってくれ」

一見すると、潔くて、頼り上手な姿勢にも見えるかもしれません。

けれどもこれは、“信頼”ではなく“放棄”です。

何を解決したいのか。

そのために、どんな情報を共有し、どんな判断をしていくべきなのか。

それを決めるのは、弁護士ではありません。

会社自身です。

「法律のことは専門家に聞けばいい」
「うちは顧問弁護士がいるから安心だ」
そうやって考える会社ほど、実は“考えること”を手放し、“動かす力”を外に出してしまっていることが少なくありません。

リフォーム業者に家づくりを丸投げする”ようなもの

たとえるなら、それは“高級なリフォーム業者”に、設計図も出さずに
「全部やってくれ。イメージはお任せで」
と言っているようなものです。

最初の打ち合わせでは、ベテランが顔を出すかもしれません。

けれども、2回目以降は新人や下請けが動き出します。

表には頼れる人が顔を出しても、実際に現場で手を動かすのは、別の誰か─
このような構造は少なくありません。

結果、完成した家は、
「思っていたのと違う」
「どこにカネがかかったのか分からない」
といったものになりがちです。

同じように、弁護士に限らず、外の専門家もまた、設計と段取りがなければ、効果的に動けません。

どんなに腕が良くても、ゴールへのこちらの思いや考えがあってこそ、初めて、外の知恵やスキルが活かされ、成果につながるのです。

しかも、思うような結果が出なかったとしても、誰も責任までは取ってくれません(カネだけは取られますが・・・ね)。

アメリカ企業はなぜ、社内に弁護士を置くのか

アメリカでは、大企業であれ、スタートアップであれ、社内にロースクール経験者や弁護士資格者を“置くのが当たり前”になりつつあります。

なぜでしょう。

それは
「法律の仕事を社内で済ませるため」
ではありません。

目的はただ1つ。
「外部の弁護士と、対等に話をするため」
丸投げを防ぎ、外の専門家を“活かす”──言い換えれば、“使いこなす”ための、知恵の防波堤なのです。

弁護士に限らず、コンサルタントでも、調査会社でも、同じことが言えます。

外部の知恵は、あくまで“使いこなすもの”です。

そして、判断と責任は、どこまでいっても、社内で引き受けなければならないのです(外に委ねることはできないのです)。

だからこそ“使いこなす”のです。

「任せる」には、設計が必要だ

では、どうやって“使いこなす側”になるか。

答えはシンプルです。

・何をしたいのか
・どこをゴールにするのか
・何にどれだけお金を使うのか
・どんな順序で進めるのか
・どうやって進捗を見えるようにするのか

このような
「設計」
を、自分たちの中で考えることです。

最初は荒削りでも構いません。

社内で意見を集め、見えてきたことから順に、ミエル化し、カタチ化し、言語化し、文書化していけばいいのです。

それが、依存ではなく、自立につながります。

動かす力”は、社内にあるべきもの

いま、ビジネスの世界には、
・正解のない判断
・スピードを求められる決断
・リスクと利益のせめぎあい
が日常的にあふれています。

そんな時代に、外部の専門家に
「任せる」
だけでは、乗り切れません。

「どう任せるか」
「なぜそれを任せるのか」
その判断ができるようになること。

つまり、“動かす力”を社内に持つことが、会社の安全保障なのです。

「困ったときは誰かが助けてくれるだろう」
ではなく、
「どうすれば助けられる形にできるか」
を考えられること。

それこそが、トラブルの波に“のみこまれない”ための、最初の一歩なのです。

著:畑中鐵丸

00218_資料の説得力:オーナー視点で提案せよ─資料の本質を変える思考法

なぜあなたの資料は通らないのか?

「出世したい」
「稼ぎたい」
「評価されたい」

ビジネスの世界に生きる以上、そう思うのは自然なことです。

ところが、努力しているのに思うように評価されない。

「なぜアイツの資料は通るのに、自分のは通らないのか?」

そんな疑問を感じたことはないでしょうか。

その違いは、案外シンプルなところにあります。

それは
「オーナーだったらどうするか?」
という視点を、持っているかどうかです。

たとえば、ある投資案件の延長判断について、上司から資料の作成を求められたとしましょう。

あなたは言われた通り、数字を集め、合理性と緊急性をチェックし、既存のフォーマットに沿って記載を進めます。

見込み数字、合理性、緊急性、業界動向・・・。

必要な項目は埋まっているし、ミスもない。表現も丁寧に整えました。

しかし、それだけでは“通らない”のです。

何かが足りません。

そこに1つ、欠けているものがあるのです。

欠けているのは、「主観の入り口」

あなたの作った資料は、単なる通り一遍の
「報告資料」
であり、
「判断を促す資料」
ではないからです。

もちろん、客観性は必要です。

しかし、それだけでは、意思決定者を動かすには足りないのです。

経営判断の現場では、数字があることよりも、
「なぜこの判断が合理的なのか?」
「なぜ今やるべきなのか?」
「自分がこの判断に責任を持つとしたら、何を気にし、どこに懸念を抱くか?」
「どの点を強くアピールし、何を補足したくなるか」
そうした主観の入り口が、資料の中に垣間見えることで、読み手は初めて
「納得」
を感じるのです。

このような
「理屈をひねり出す力」
が試されるのです。

あなたの作った資料に欠けていたもの、それは、
「オーナーだったら、どう判断するか?」
という、主体的な意思です。

つまり、あなた自身が
「この案件のオーナーだったらどう考えるか?」
という、主体的な視点を持っているかどうか。

ここが、上司や意思決定者にとって、判断可能な材料となるのです。

経営判断に関わる資料には、数字の正しさやフォーマットの整合性だけではなく、
「大切な要素」
が必要なのです。

それが、
「この判断に、自分は責任が持てるか」
という視点なのです。

もしあなたが本当にその案件に投資するオーナーだったら、数字だけを見て
「まぁ、いけるでしょう」
などとは、決して言わないでしょう。

良くも悪くも、責任ある立場から、結果に対する覚悟を持って判断材料を見ようとするはずです。

・資料作成を任されている立場であっても、オーナーの目線で考えてみる。
・この案件がうまくいかなかったとき、自分はどう弁明するか。
・あるいは、うまくいったとき、自分はどのように価値を語れるか。
・つまり、人に説明するための理屈をひねり出せるかどうか。

そこにこそ、資料の説得力の差が現れます。

たとえば
「うまくいかなかったとき、どこが最初に責任を問われるか?」
「この仮説、突っ込まれたらどう答えるか?」
「相手の納得ポイントは何か?」
そうしたことを、自分の頭で先回りして想像する力。

それが、
「説得力」
の正体なのです。

本気で考えた跡が信頼になる

もちろん、完璧な予測はできません。

けれど、あなたの資料に、そのオーナー視点の汗がにじんでいるか。

言い換えれば、本気で考えた跡が見えるかどうか。

数字とロジックと意思とが、繰り返し、織り交ぜられている資料。

それが、資料の評価を分ける分水嶺になるのです。

ロジックを重ねては、現実に戻り、また練り直す。

「書く」
ことは、
「考える」
ことの延長です。

だからこそ、
思考と熱量が込められた資料は、必ず人の心を動かします。

「オーナーだったらどうするか?」を癖にせよ

「この資料は誰のためのものか?」
「この判断は誰の責任なのか?」

その原点に立ち戻ることで、あなたの資料はきっと、ひとつ上のステージに進化します。

いま、あなたが書いているその資料に、自分なりの
「覚悟」
を入れてみてください。

「私は、こう考えます」
その一言が、キャリアの歯車を回し始めます。

「オーナーだったら、どうするか?」

これは、何も資料作成に限った話ではありません。

日々の報告、会議の発言、社内の立ち振る舞い――
どんな場面でも、この問いを持ち続ける人が、信頼を集め、チャンスを得て、出世の道を切り拓いていくのです。

著:畑中鐵丸

00217_「価値観のすり合わせ」は金のなる木_考え方のミエル化・カタチ化にいち早く気づくには

「条件は揃った。でも、うまくいかなかった」

そんな案件をいくつも見てきたコンサルタントが語る、ビジネスに必要な
「本当のすり合わせ」
とは──。

成功するコラボと、途中で止まるコラボ。

その分かれ道は、金額でも、スケジュールでもありません。

ビジネスの核心にある
「考え方の翻訳」
について考えてみましょう。

あるコンサルタントの話

長年、企業のブランド戦略や商品開発の支援に携わってきた人物で、製品づくりの
「裏方」
として、無数の企画を動かしてきたと言います。

数年前、彼はひとつの案件を引き受けました。

国内の中堅キッチン家電メーカーと、ヨーロッパのデザイン事務所との間をつなぐという、意欲的なプロジェクトです。

「方向性」がズレたままでは、価値はカタチにならない

依頼の背景には、メーカー側の強い思いがありました。

「日本の製品力を世界市場へ届けたい」
「機能性だけではない、感性をまとったブランドラインを立ち上げたい」

それに対し、紹介されたデザイナーは、生活と情緒を重ねるようなプロダクトで知られる人物でした。

感覚と意味を織り込んだデザインに定評がありました。

両者が出会えば、これまでにない製品が生まれる──そう確信したのでしょう。

コンサルタント氏は、引き合わせの場を整えました。

初期の打ち合わせでは、互いの意図を尊重しようとするやり取りもありました。

過去の事例を紹介し合い、図やコンセプトを出しながら、インスピレーションを探る空気もありました。

会話のなかに潜む「ズレ」

ところが、どうも少しずつ、空気が変わっていったようです。

それは、両者が繰り返し使う
「言葉」
に、あらわれていました。

あの場では、噛み合っているように
「見えた」
のです。

しかし、言葉が互いの
「定義」
をすり抜けていた。

その場では、流れるような会話が交わされていましたが、後日、翻訳のために録音を聞き返すと──
そこには、いかんともしがたい
「すれ違い」
が、はっきりと浮かび上がっていたのです。

デザイナー側はこう語ります。

「家電とは、生活空間の象徴。自己表現の一部として、美しさや情緒を備えていなければならない」

それに対し、メーカー側はこう言います。

「日々の使用が前提の製品に、詩的な要素を求めすぎれば、機能性や価格のバランスが崩れてしまう。ユーザーに選ばれるためには、日常に根差した合理性が必要だ」

両者が見ていたのは、同じ
「商品」
でも、まったく違う役割と位置づけでした。

その違いは、打ち合わせを重ねるほどに、じわじわと浮かび上がってきたといいます。

ある会議では、デザイナーが提示したイメージボードに対し、メーカー側が
「これは使いにくそうに見えてしまう」
と指摘。

別の会議では、メーカーが求めるスペックに対し、デザイナーが
「感性を押し殺してまで応じる必要はあるのか」
と疑問を呈しました。

「資料の読み方ひとつで方向がねじれ、そして、気づけば、それを元に戻すことが難しくなっていた」
コンサルタント氏は、そう振り返っています。

調整役の役割は、言葉を整えるところから始まる

プロジェクトは、結局、立ち消えとなりました。

どちらかが間違っていたわけではありません。

むしろ、両者とも誠実でした。

ただ、最初の段階で、
「考え方のすり合わせ」
ができていなかった。

この一件をきっかけに、コンサルタント氏は、調整役の仕事をこう捉え直すようになったと言います。

「調整役とは、条件を揃える人ではなく、異なる立場の方向性を、通訳してつなぐ存在でなければならない。交渉ではなく、共有。合意ではなく、理解。出会ったあと、相手と組める状態に整えるのが、本来の仕事だったのだと」

「方向性のカタチ化」こそが、金脈の扉を開く

ビジネスの現場では、条件の確認が先に来ることが多くあります。

金額、スケジュール、契約条件。

それは当然、重要な論点です。

とはいえ、それだけで握ってしまうと、あとで問い直さなければならない局面が必ずやってきます。

「なぜ、このプロジェクトをやるのか」
「この取り組みに、どんな意味を込めるのか」

その問いに、最初から
「ミエル化し、言語化し、カタチ化」
しておくこと。

それが、コンサルタントにとって本当の
「準備」
だったのではないか。

予算は重要です。

数字の話から目をそらしてはいけません。

しかし、数字だけでは、価値観までは握れない。

ウィンウィンになるはずの関係が、気づけば、どちらかに
「ロス」
を残して終わっていた。

そうした場面は、決して珍しいものではありません。

だからこそ、プロジェクトのスタート地点でこそ大切なのは、
お互いの方向性を、カタチにして確かめるという営み。

言葉にならないまま進めば、それはいつか、
「齟齬」
となって現れます。

金脈は、最初からそこにあるとは限らない

この2者が、もし方向性のカタチ化に成功していたら──
この国のキッチン家電業界は、ガラリと塗り替えられていた可能性すらあった、ということです。

なぜなら、日本のメーカーが持つ
「技術力」

「実用性」、
そして、欧州のデザイナーが持つ
「感性」

「空間設計の美意識」。

この両輪が、バラバラではなく、一体となって商品に落とし込まれていたなら──
それは単なる高機能家電ではなく、
「住空間の価値を底上げする資産」
として、世界中のユーザーを虜にしていたかもしれません。

高級ワインセラーのように、高級家具のように、キッチン家電が
「空間の主役」
になる世界観。

単価は跳ね上がる。

ブランド価値も再定義される。

「生活家電」
というカテゴリーに、まったく新しい価格帯とターゲット層が生まれていた。

つまり、
「価値観のすり合わせ」
が成れば、
「金のなる木」
に化ける領域だったのです。

ただし、その金脈は、テーブルの上に最初から置かれているわけではありません。

丁寧に掘り起こし、すり合わせ、磨き上げていくプロセスの中で、
はじめて
「ミエル化」
されるのです。

だからこそ、次に同じようなプロジェクトに出会ったとき、
調整役としてすべきことは、ひとつ。

金額のすり合わせでもなければ、スケジュールの調整でもない。

「それぞれが何を金脈だと信じているのか」──
その考え方を、
「ミエル化し、言語化し、カタチ化」
していくこと。

そこまで掘り下げて初めて、交わらなかった関係は、組める関係へと変わるのです。

そしてそれは、単なる
「良い協業」
に終わらず、業界の構造を変えるほどの、新しい市場を生み出す起点になる。

調整役の本当の報酬とは、その未来をつくる最初の
「火種」
を扱う仕事である、ということかもしれません。

著:畑中鐵丸

00216_「赤字でなければOK」では済まない話:費用対効果のミエル化とは何か?

ある企業での話です。

株主総会の場で、社長がこう言いました。

「投資はペンディングで。100万円以上の支払いも、基本ストップ」

これを受けて、現場では新規契約・延長契約が止まってしまいました。

ただ、その後、社長からはこのような発言も出ます。

「いや、でも赤字でなければ、ブランドを維持するためにやってもいいのではないか」

つまり、
「止めろ」
という指示と、
「やってもいいんじゃないか」
という含みが、同時に存在してしまったのです。

これはまさに、
「判断軸」
がぶれている典型です。

現場が困るのも当然です。

では、どうすればいいのでしょうか。

まず、こうしたケースで検討すべきは、支出の
「費用対効果」
をどう捉えるかという点です。

たとえば、ある広告出稿が
「黒字」
だと判断されたとします。

・でも、それは「短期的に」黒字という意味でしょうか?
・それとも「中長期的に」黒字になるという見通しでしょうか?
・あるいは、その効果は「数字として見える」ものだけでしょうか?
・それとも「ブランド価値が高まる」といった定性的なものも含むのでしょうか?
・さらに言えば、その判断を「誰が」「どのタイミングで」下すのでしょうか?

ここに、企業経営における“費用対効果”の落とし穴があります。

たとえば、ある地方都市で、小規模ながら根強い人気を持つパン屋さんがありました。

毎朝、開店前から行列ができるほどの人気ぶりです。

ところがある年、原材料費の高騰と人件費の上昇で、経営が一気に苦しくなりました。

そこで社長は、全支出の見直しを始めました。

まず目をつけたのは、月に20万円かけていた
「地域情報誌への広告費」
でした。

「もう認知されているんだから、広告は一旦止めよう」
そう考え、即断で広告契約を打ち切りました。

するとどうなったと思いますか?

半年後、客足が目に見えて減っていったのです。

それまで広告をきっかけに遠方から来ていたお客様が、別の新しい店に流れてしまっていたのです。

売上は下がり、スタッフの士気も落ち、結局、広告費の20万円を削って節約した以上の損失が出てしまいました。

この例で重要なのは、
「広告費がその月に何人呼んだか」
という短期的な“定量”評価だけではなく、
「店の存在を忘れさせないための継続的なアピール」
「顧客との心理的なつながり」
という、数字には出ないけれど、たしかに効いていた“手応え”が見落とされていたということです。

要するに、“定性”的な効果が見落とされていたのです。

数字に出ない“効き目”を軽んじてはいけません。

経営とは、見える数字と、見えない価値のあいだで揺れ動くものです。

・短期で黒字なら良いのか?
・定量で+なら進めるべきか?

そうではありません。

判断の基準は、
「費用対効果をどの軸で見るのか」
という“合意”の中にしか存在しません。

そして、経営判断に必要なのは、
「数字」
を見る力だけではありません。

数字の意味を読み解き、価値に変えるための
「ミエル化」

「カタチ化」
の視点があってこそ、判断に確かな軸が通ります。

数字だけに頼るか。
感覚や理念も加味するか。

短期で判断するか。
長期で捉えるか。

誰がそのバランスを取るのか。

それが整理されていなければ、現場は動けません。

たとえシミュレーション資料を作ったとしても、その資料の
「使い方」
「位置づけ」
が共有されていなければ、ただの数字の羅列です。

そして、その整理ができるのは経営者しかいません。

判断軸を明文化し、関係者で共有すること。

その作業を
「言語化」
と呼びます。

意思決定の場では、
「判断するタイミング」
「評価する人」
「使う物差し」
がそろってはじめて、数字も、理念も、現場の行動も1つにつながっていきます。

数字と理念のあいだを行ったり来たりしながら、経営者は判断を重ねていくしかないのです。

そのプロセスが、経営のぶれない軸となって、会社を支えることになるのです。

著:畑中鐵丸

00215_緊急決裁をミエル化する― 判断を支える3つのフレームと、“焦り”の正体

「決裁案件が急ぎで回ってきました。どうしますか?」
そんな問いかけを、経営者は経験しているのではないでしょうか。

「緊急」
「至急」
「今すぐ」
このような言葉を受け取るたびに、経営者は判断の速度を上げるよう(従業員等から)求められます。

しかし、そもそも、何が
「緊急」
なのでしょうか。

どのレベルの
「火急」
であれば、通常のルートを飛ばして、決裁を早回しさせてよいのでしょうか。

1 「緊急」とは、何をもって“緊急”なのか

たとえば、ある食品メーカーの加工工場で、現場から
「この機械を今すぐ修理しないと、生産ラインが止まります」
と、焦った声で電話連絡が入ってきました。

確かに、生産ラインの停止は一大事です。

納期が遅れれば、スーパーや卸先に迷惑がかかります。

売上も立たず、信用にも響くかもしれません。

でも、少し立ち止まって考えてみてください。

・その“ライン”は、今日・明日、今週中に出荷する商品を作っているのか
・それとも、まだ在庫に余裕がある来月納品分なのか
・他のラインで代替できる可能性はあるのか
・そもそも機械の不具合はどの程度で、修理の見積もりは妥当なのか
・手配先は信頼できる業者なのか
・修理しなければ本当に止まるのか
・ラインが止まると、どれだけのロスが生じるのか

しかし、立ち止まって考えている間にも、現場からは矢継ぎ早に“緊急コール”が飛んできます。

「その部品はもうメーカーが生産していないので、別ルートで調達します」
「けどその業者は、今日中じゃないと手配が間に合わないんです」
「とにかく今すぐ!」
「今日中に決裁を!」

こうした焦燥感に満ちた訴えを前にすると、つい
「急がなければ」
と思ってしまいます。

けれど、少し冷静になってみてください。

その“緊急性”は、本当に構造的な問題なのでしょうか。

その“焦り”は、事実に基づく緊急性なのでしょうか。

それとも、
「遅れたら怒られるかもしれない」
「なんとなく不安だ」
といった、情緒的な要素が混ざってはいないでしょうか。

たとえば、
「この修理部品は、メーカー在庫が今日中にしか押さえられないらしい」
と言われても、“らしい”の中身はあいまいです。

もし急ぎの根拠が
「業者にそう言われたから」
だけだとしたら、判断材料としてはまだ不十分です。

もっと困るのは、
「とにかく業者が急げと言っている」
「何を買ったかよく分からないけど、とにかく急ぎ」
「言葉にできないけど、何かがヤバいらしい」
このような類の“緊急”です。

これはたとえるならば、
「どこの骨が折れているかも分からないのに、手術だけは急げ」
と言われているようなものです。

これでは、組織の意思決定の精度を落とすだけでなく、意思決定そのものが
「人任せ」
になってしまいかねません。

2 優先順位をつける“トリアージ”という考え方

医療の現場では、
「トリアージ」
という考え方があります。

すべての患者に同時に対応できないとき、どの人から優先して処置するかを判断する手法です。

3 決裁案件におけるトリアージ

(1)「費用」と「緊急性」──この2軸で整理する

決裁案件にも医療の
「トリアージ」
のような考え方を取り入れて、優先順位をつけることができます。
それが、
「費用」

「緊急性」
です。

これら2軸で案件を仕分けていくと、優先順位が自然と見えてきます。
・この出費は本当に必要なのか
・時間的にどれだけの余裕があるのか
・失ったときのリスクはどれだけか
・進めたときのリターンはどれくらいか

4 意思決定のための“評価対応”という視点

もうひとつ、大切な軸があります。

それが
「評価対応」
という考え方です。

「評価対応」に必要なのは、理想と現実です。

あるべき姿(あるべき)と、現状(現実)とも言えましょう。

要するに、案件を
「あるべき論」

「現実論」
の両面から見つめ直すということです。

(1)あるべき論

「そもそもこの案件は、必要だったのか?」
という視点です。

・費用対効果は検証されているのか
・代替手段、回避方法は検討されたのか
・外部の意見を聞いたのか
・責任者は明確か
・発注に至る経過は合理的だったのか

そして、その案件を
「進めた場合」

「やめた場合」

「プロコン(Pros and Cons)」(メリット・デメリット)
を比較します。

(2)現実論

このまま進めた場合、そして途中でやめた場合の
「プロコン(Pros and Cons)」(メリット・デメリット)
を洗い出していきます。

特に、途中でやめた場合のマイナス(契約解除によるペナルティや廃棄費用など)を定量的に把握することで、判断材料としての厚みが出てきます。

これが、“判断の構造”を持たせた意思決定の形です。

5 原則は「現場に書かせる」こと

そのためには、現場に書かせた一次資料に、評価者(責任者、監督・管理職従業員)の判断を加えて、社長や経営層に具申させるのです。

ここでの原則は明確です。

どんなに急いでいても、まずは現場に自らの言葉で書かせることです。

もしそれが書けないようであれば、その案件は
「語れるほどには咀嚼されていない」
と見なすべきです。

もちろん、どうしても急ぐ場合には、聞き取りによって資料を代筆するという方法もあります。

けれども、それはあくまで例外対応。

例外が常態化すると、組織の判断基盤がゆるんでしまいます。

6 「早く進めたい」の正体を見極める

現場が
「早く進めたい」
と言ってくる理由が、
「契約リスク」

「業務停止」
ではなく、ただの
「心配」
である場合は、実は少なくありません。

「相手の信頼を失いたくない」
「何となく怖い」
その気持ちは理解しつつも、会社としての判断は、もう一段冷静でなければなりません。

焦りに巻き込まれず、感情に引きずられず、裏づけを確認し、背景を洗い出し、判断に文脈と構造を持たせる。

そのために必要なのは、派手なテクニックや、裏技のような手法ではありません。

必要なのは、正しい順番で、正しい材料をそろえ、丁寧に判断を組み立てていくこと。

情報を集め、違う角度から見直し、リスクとリターンを冷静に比べること。

それらを一つひとつ、積み重ねていくことで、判断の輪郭が浮かび上がってきます。

奇抜な打ち手よりも、基本を押さえたプロセスこそが、最終的には組織を守る力になるのです。

7 まとめ──決裁は会社の意思である

決裁というのは、手続きであると同時に、会社の意思そのものです。

混乱の中でも、筋を通し、構造をもって判断する。

判断の質は、平時ではなく、まさに混乱の局面でこそ問われます。

判断とは、組織の顔であり、そこにトップの姿勢が透けて見えます。

言葉と構造で、会社──つまりトップの意思を支えさせる。

それが、“決裁のカタチ”です。

その積み重ねが、組織の信頼となり、やがて会社の顔になっていくのです。

著:畑中鐵丸

00214_親権や監護権をめぐる争い_調査官調査で家族の支援をどう伝える?――“関わり”を誤解なく届けるために

家庭裁判所で、親権や監護権をめぐる調停や審判が行われると、状況に応じて、調査官調査が実施されることがあります。

たとえば、親同士の主張が大きく食い違っていたり、
「子どもの心情や家庭環境の実態を把握する必要がある」
と裁判所が判断した場合などに実施されます。

一方、当事者間に大きな争いがなく、資料や面談だけで判断が可能と裁判所が判断した場合などは、調査官調査が行われないまま調停がまとまったり、審判が出されることもあります。

さて、調査官調査に話を戻します。

調査では、親としての適性だけでなく、その人を支える身近な支援者――とくに祖父母の存在や関わり方が、重要なポイントとして見られます。

実際、祖父母が日常的にどのように子どもと関わっているか、また、その支援がどれくらい継続的に期待できるかという点は、調査官の関心が向きやすいところです。

ある相談では、依頼者の両親が子どもたちの近くに住み、日々の生活を支えているというケースがありました。

このような状況では、調査官調査に祖父母も同席してもらうことで、子育ての環境が整っていることを直接伝えることができます。

支援がきちんと機能していることが、調査官に具体的に伝わるという点でも、有効な方法です。

ただし、祖父母に調査への協力をお願いするには、慎重な検討が必要です。

家庭裁判所の調査官とのやりとりは、祖父母にとっては非日常の場面であり、強い緊張や不安を伴うこともあります。

また、善意で話したつもりの言葉が、調査官には違う意味に受け取られてしまうこともあります。

たとえば、ある祖母のケースでは、調査官に
「お孫さんとどのように関わっていますか」
と聞かれて、笑顔でこう話されました。

「息子は忙しいですからねえ。私が代わりに、学校の送り迎えや夕飯の用意をしています。もう、私がいないと生活が回らないんですよ」
この言葉を聞いた調査官は、
「父親が子育ての中心ではなく、祖母が実質的に監護しているのではないか」
と受け取りました。

実際には、父親である依頼者が毎日帰宅後に子どもと過ごし、教育やしつけも担っていました。

しかし、祖母の発言だけを聞くと、父親の監護力が弱く、祖母に頼り切った家庭のように映ってしまったのです。

同じような誤解は、他の親族の発言からも起こり得ます。

たとえば、母親の弟、つまり子どもにとっての叔父にあたる方が、調査官との面談でこう話したことがありました。
「最近は、夜遅くまでスマホをいじってるみたいですよ」
そのつもりはなかったのですが、調査官には、
「家庭内のルールが緩く、生活リズムが乱れている」
と受け取られてしまったのです。

また、ある祖父が、
「あの子は、もうちょっと叱ったほうがいいんじゃないか」
と口にした場面では、調査官から
「虐待が疑われる可能性もある」
との評価が下されたことがありました。

祖父本人としては、しつけの大切さを伝えたかっただけでしたが、発言の受け止め方ひとつで、大きく意味が変わってしまうことがあります。

どちらも、子どもを大切に思うからこその発言です。

悪気があるわけでも、間違ったことを言っているわけでもありません。

しかし、その一言が、特に、親同士の主張が大きく食い違っている場合には、調査官の家庭環境に対する評価に大きく影響してしまうことがある、という現実があります。

このような認識のズレは、当事者とその人を支える身近な支援者間の事前の打ち合わせや準備が不十分であればあるほど、起こりやすくなります。

また、調査当日の段取りや移動手段、時間の制約など、実務的な負担も考慮しなければなりません。

祖父母の年齢や健康状態によっては、長時間の対応が身体的にも大きな負担になることがあります。

一方で、調査官調査への同席を見送れば、祖父母への負担やリスクは避けることができます。

しかしその場合、調査官から
「支援が限定的なのではないか」
「そもそも、本当に祖父母の支援があるのか」
と、見られてしまうおそれもあります。

だからこそ、それをどう補っていくかが、大切なポイントになります。

そこで有効なのが、祖父母による支援の実態を具体的に整理し、わかりやすい言葉で説明できるように準備し、それを資料や文章としてカタチにしておくことです。

さらに、写真や記録を活用し、面談の中で丁寧に説明することで、同席しなくても、家庭としての支援体制をきちんと伝えることができます。

そして、もうひとつ大事な視点は
「調停や審判の手続きの中で、その内容をどのように伝えるか」
ということです。

ただ情報を並べるのではなく、調査官や裁判官が求めているのは、
「その家族がどんなふうに子どもを育てているのか」
が、伝わるカタチになっているかどうかです。

どこまで伝えるか、どう伝えるか。

ほんの少しの工夫が、相手の受け取り方を大きく変えることがあります。

その家庭に合ったやり方で、わかりやすく、そして誤解のないように伝えていくこと。

結局のところ、その積み重ねしか、調査官や裁判官には届かないのです。

著:畑中鐵丸

00213_ケーススタディ_「増員要求」にどう向き合うか ―欠員見直しを考えるとき、経営者が忘れてはいけない視点

<事例/質問>

先生、少しご相談させてください。

「経理の担当者が1人退職する。だから人を補充してほしい」
と、経理部長が言ってきました。

理由を聞くと、
「人がいないと今の業務量では回らない」
「この機会に効率化も考えたいが、やはり時間がかかる。だから今は人を入れてほしい」
と。

正直、私はモヤモヤしています。

「今回は欠員補充だから仕方ない」
と割り切るべきなのか。

でも、それを認めた瞬間、
「仕事が多ければ人を増やせばいい」
という考え方が、この組織に染みついてしまうのではないか――そんな気がしてならないのです。

だから、簡単に首を縦には振れません。

この場面で、経営者としてどう判断するのが正しいのか。

畑中先生なら、どう考えますか?

<弁護士畑中鐵丸の回答・アドバイス・指南>

まず、大前提として伝えたいのは、
「忙しいから人を増やしてほしい」
という話は、仕事の本質からズレている、ということです。

忙しい理由の多くは、
「考えずに手を動かしているから」
です。

想像してみてください。

昼のピーク時に
「もう無理だ、店員を増やしてくれます!」
と騒いでいるラーメン屋があります。

でも、本当に繁盛している店は違います。

一番忙しい時間帯こそ、
「どうすれば今の人数で回せるか」
を真剣に考え、工夫を重ねています。

その積み重ねが、店の力になっているんです。

今日の話も、本質はまったく同じ。

「苦しいから助けてほしい」
「考えたくない」
「現状をそのまま認めてほしい」
・・・要するに、
「泣き言」
なんですよね。

したがって、社長としてやるべきことは1つです。

業務をすべて洗い出させ、効率化の可能性を検討させた結果「どうしても人員が必要だ」というのであれば、プロコン含めてその内容を報告させることです。

「苦しいから人が欲しい」
という気持ちは、もちろん理解できます。

でも、それを理由に人を増やすのは、経営としては間違っています。

増員を求めるなら、
「なぜ今の体制では回らないのか」
「どこに業務が集中しているのか」
「そもそもその業務は本当に必要なのか」
ここまで考え抜いた結果、論理的に説明できる状態になって初めて、議論のテーブルに乗せるべきでしょう。

そして、この考え方はチーム全体にも徹底させるべきです。

「苦しいから人を増やす」
そんな甘えは、今ここで断ち切らなければなりません。

増員は、最後の最後の手段です。

まずは
「業務の棚卸し」
そして
「効率化の提案」
そこから始めることです。

そのプロセスを経て、どうしても必要だというなら、その時、会社の未来にとってプラスかどうかを基準に、経営として判断すればいいのです。

著:畑中鐵丸

00212_脅しのカラクリと、それを無力化する方法

世の中には、脅しを武器にしてカネを巻き上げようとする連中がいます。

反社会的勢力も犯罪グループも、さらには労働基準監督署でさえも、その根っこは同じです。

「脅してカネを取る」
という目的に違いはありません。

脅しが成り立つのは、相手が怖がるからです。

彼らが一番得意とするのは、相手が恐れをなしてすぐに従うこと。

しかし、この手法には決定的な弱点があります。

それは、証拠を残されると一気に勢いを失うことです。

脅す側にとって、録音や記録を取られるのは最悪です。

なぜなら、
「言った言わない」
の曖昧な状況だからこそ脅しは成立するもの。

証拠が残れば、それは単なる不正行為の記録になり、もう力づくで押し切ることはできません。

だからこそ、録音や記録を取られた瞬間、彼らは急におとなしくなるのです。

とはいえ、脅しが通じないからといって、すぐに諦めるわけではありません。

ここで重要なのは、彼らが最も困るのは、反発されることではなく、時間をかけてグズグズされることだという点です。

たとえば、あなたが突然、高額な請求を受けたとしましょう。

脅す側は、
「いますぐ払え」
「お前のためにならないぞ」
と畳みかけてきます。

ここで
「わかりました」
と言ってしまえば、彼らの思うツボ。

しかし、
「ちょっと考えます」
「確認してから返事します」
と時間を引き延ばした途端、彼らはイライラし始めます。

なぜなら、彼らにとって最も大切なのは
「早くカネを取ること」
だからです。

時間が経てば経つほど、(彼らから見ての)相手の警戒心は強まり、弁護士や第三者に相談する余裕も生まれます。

さらに、時間が長引けば、
「この案件にこれ以上時間をかけてもメリットがない」
と判断し、彼らは手を引くことすらあります。

これは、いわば
「持久戦」。

彼らはスピード勝負で成果を上げるビジネスモデルで動いているため、じわじわと時間をかけられると、収益性がどんどん悪化していくのです。

反社会的勢力でも、犯罪グループでも、労働基準監督署でも、脅しのビジネスにとって最大の弱点は
「時間をかけさせられる」
ことなのです。

つまり、彼らに対抗する最も効果的な方法は、
「急がない」
こと。

「すぐに答えを出さない」
「考える時間を確保する」
「第三者に相談する」

こうした対応をすることで、相手の戦術は崩れていきます。

焦って行動するのではなく、じっくりと構えることです。

それこそが、脅しに対する最強の防御策なのです。

著:畑中鐵丸