00234_知ってるだけでは足りない_マニュアル・ルールはあるのに、綻ぶ組織

訓練はできる。でも、本番では動けない

たとえば――
年に一度の避難訓練。

非常ベルが鳴る。

全員が立ち上がり、訓練用ヘルメットをかぶって、マニュアル通りのルートを移動する。

出入口は右側通行。

リーダー役が先頭を歩き、点呼をとる。

完璧だ。 

でも、それは“訓練だから”できるのです。 

制度があっても、担当者がいなければ動かない

ある企業では、各部署に「防火担当者」がいます。

火災時の避難誘導を担う、各部署の“消防係”。名前も顔も共有されていて、定期的な防火訓練にも参加しています。

もちろん、防火管理者の下にはマニュアルがあり、ルールも整備されています。

「火災時にはこう動く」
「ここに集まる」
「こう報告する」
も決まっています。 

あるとき、火災が発生しました。

火災警報がなったと思ったら、焦げ臭いにおいがフロアに立ちこめました。

煙が天井を這い、照明が落ち、エレベーターは使えません。 

警報が鳴り響くなか、そのフロアの防火担当者は・・・
その日、休暇を取っていました。

社員たちは顔を見合わせて立ちすくみました。

なかには、出入口に駆けだした社員もいます。

「非常口、どこだっけ?」
「作りかけの重要書類、そのままにして逃げていいの?」
「誰か、指示くれないのか?」

幸い、小火はすぐに消し止められ、大事には至りませんでしたが、担当者が“たまたま休み”だっただけで、その部署の全員が右往左往しました。 

実際に火災が発生したとき、整っていたはずの訓練は、本番では機能しません。

なぜか。

想定どおりの状況なんて、現実には起きないからです。 

制度はある。

仕組みもある。

なのに、動かない。

この
「制度はあるのに、守られない」
というギャップこそが、もっとも危ういのです。 

企業ルールには“警報装置”がない

火災には
「煙」
というサインがあります。

異臭があり、警報が鳴り、人は五感で危機を察知します。 

一方で、企業の“ルール不全”には、サインがありません。

火災のように一気に炎上はしません。

“守られない状態”が、音もなく蔓延し、静かに、静かに、仕組みのほころびが広がっていくのです。 

たとえば―― 
・コンプライアンス規程は整備済み
・マニュアルもある
・社内ポータルにも掲載してある 

それなのに、現場ではこうした事態が起きます。

・処理は進んでいるが、押印ルートが部署ごとに違っている
・マニュアルに「判断基準あり」と書かれているが、どこにあるのかわからない
・研修は受けたが、現場のタイミングとまったく噛み合っていない

「一応、決まってます」
「やったことあります」
――その“つもり”が、むしろリスクになるのです。 

属人化した知識は、仕組みとは言えない

原因は、
「現場の人間がバカだから」
ではありません。

“使える状態になっていない”からです。 

現場が動けない。

あるいは、それぞれ勝手に動いてしまう。

それは、
「誰かがいなければ回らない設計」
になっているからです。 

・その処理は、Aさんしか知らない
・Aさんが休んだ日は、メールの文面を過去の送信履歴からコピペしている
・稟議や承認の流れが、個人の暗黙知に頼っている 

つまり、
「知っている人がいない」
ときに破綻するルールは、ルールの顔をした“人頼み”の運用にすぎません。 

属人化された知識は、仕組みとは言えない。

“誰でも動ける状態”になっていて、はじめて仕組みと呼べるのです。 

誰がいても、誰がいなくても、動くように設計されていなければ、意味がありません。 

「ルールがある」だけでは足りない

どれだけ立派なマニュアルがあっても、実際に守られていなければ、外から見れば
「無対策」
と同じです。 

守られるルールとは、
「想定された人が、想定どおりにそこにいなくても」
ちゃんと動くものです。 

知ってる人がいなくても、動ける。

言われなくても手が動く。

誰が来ても、誰が抜けても、破綻しない。 

現場が実際に動ける仕組みとは、
「人に頼らない」
「その場で判断できる」
「例外なく通用する」
状態にまで、落とし込まれていることです。

「読んでわかる」
でも足りません。

“守られる仕組み”にまで落とし込まれて、はじめて“使える知識”になるのです。 

ルールやマニュアルがあるだけでは、現場は守りません。

守ったとしても、肝心なところで抜け落ちます。

“できているつもり”が、いちばんタチが悪い。

要するに、
知識だけでは、足りない――ということです。

著:畑中鐵丸

00233_知ってるだけでは足りない_リスクの芽は潰さなければ意味がない

問題は、「見えているとき」がいちばん小さい

たとえば、お気に入りのスーツの袖口に、糸のほころびを見つけたとします。

「あれ、ちょっと糸が出てるな」
そう思いながらも、急いでいたり、予定が詰まっていたりして、そのままにしてしまう。

「まあ大丈夫だろう」
「あとで直せばいい」
出張に着ていったり、打合せを何件も回ったりしているうちに、その“ほころび”は、確実に広がります。

気づいた頃には、布地が裂けていて、針と糸ではもう直せない。

袖のほころび、裾のほつれ、ボタンのゆるみ——どれも
「気づいていたけれど直さなかった」
結果として、いずれ、そのスーツは
「着て行けない服」
になってしまうのです。

プレゼンの舞台。
懇親会の誘い。
大手企業との面談。

どれも、スーツが着られないというだけで、機会を逃してしまうかもしれません。
場合によっては、ただの“見た目”の問題では済まされないのです。

要するに、
「ほころびに気づいていた」
こと自体には、何の意味もないのです。

「見つけたとき」
が、いちばん小さい。

これが、リスクの本質です。

そして、
「動かなかった分だけ」
リスクは広がるのです。

声が上がらない現場に、リカバリーはない

会社でも、同じことが起きています。

・社内のチェック体制に抜けがある
・報告書に誤記がある
・上司の言動に、妙な違和感をおぼえる
・取引先の対応に、いやな胸騒ぎがする

「これは、マズいかもしれない」
そう感じた経験は、誰にでもあるでしょう。

現場には、日々“リスクのほころび”が違和感として見えています。

ところが、ほとんどの人は、その“違和感”を自分の中で完結させてしまう。

「まあ、大ごとにはならないだろう」
「誰かが気づいているはずだ」
「時間ができたら直そう」
「指摘されてから考えればいいか」

さらに問題なのは、
「言ってもムダ」
と思い込んでしまうことです。

「言ってもどうせ、無視されるだけ」
「以前、言って叩かれたから、もう言わないと決めた」

現場で
「何かおかしい」
と感じた人は、本来なら声を上げようとしたはずです。

「前に、先輩に言ったら笑われた」
「言っても、対応されなかった」
「上司に“そんな細かいこといいから”と遮られた」
こうした経験が、“声を上げない方がいい”という学習につながっていくのです。

そして、気づいた人ほど、声を潜めるようになるのです。

気づいたが、声にしない。
あるいは、気づいても誰にも伝えない。

沈黙の連鎖が、組織を殺します。

ほころびを見逃し、先送りにしているうちに、会社は
「出番のスーツが着られない」
状態になっていきます。

機会を逃し、信頼を損ね、致命的なリカバリー不能に陥る。

それは、決して大げさな話ではありません。

「違和感がある」
と感じても、それを言語化するのは簡単ではありません。

しかも、それを相手に伝わるカタチに整えて、共有するとなると、もっと難しいのです。

リスクは、
「気づいた人」
がいたからといって、防げるものではありません。

その“ほころび”を、どう繕うか。

それこそが、すべてなのです。

「察知の先に、『動線』があるか」

多くの企業では、
「リスクに気づけること」
が重要だとされます。

もちろん、それも大切です。

けれども、本当に問われるのは、
「察知したあとの動き方」
です。

気づいたあとに、
・誰に知らせるのか
・どの情報を残すのか
・どのフローに載せるのか
・組織としてどう潰すのか

これらの一連の動線がなければ、“察知力”は、ただの気づきで終わります。

要するに、
「動ける構造」
がない会社には、リスク対応も存在しないのです。

注意深い人間ではなく、注意深くあれる“構造”が、会社を支えるのです。

繕い方を知らない者に、裂け目は直せない。

動き方が決まっていない組織に、リスクは処せない。

だからこそ、
「構造」
が必要なのです。

個人に頼るな、構造を作れ

リスク対応を
「個人の能力」
に任せてしまうと、会社の運は“偶然”に左右されます。

運よく気づく人がいて、運よく動けるチームがあって、運よく潰せた。

それは
「奇跡の偶然」
でしかありません。

危機管理とは、勇気ある個人をつくることではありません。

「誰もが、気づいたときに動けてしまう構造」
をつくることです。

“構造”のない会社では、ほころびに気づいても、誰も動けません。

・動こうとすれば、上司に止められる
・報告しようとしても、通報経路がない
・対応の経験もなければ、判断基準も曖昧

結果として、トラブルは
「みんな気づいていたけど、誰も何もしなかった」
かたちで表面化します。

リスクは、後で検証しても意味がありません。

察知した
「その瞬間」
に、動けるかどうか、です。

つまり、
「構造として仕組まれているかどうか」
なのです。

放っておけば問題は“巨大化”します。

気づいたときが、いちばん小さい。

放置こそが、最大のリスクです。

裏を返せば、
・すぐ直すことが当たり前になっている
・未然の共有を習慣化している
・違和感の積み重ねを言語化している

そんな会社では、“ほころび”は未然に処理されていきます。

具体的には、たとえば以下のようなものです。

・日常的なリスク共有の場(Slackの専用チャンネルなど)を用意しておく
・共有・報告・相談のためのテンプレートや投稿フォームを整えておく
・「誰に何を報告すべきか」の相談動線をあらかじめ明文化しておく
・小さな異常や違和感も残せるよう、ログや議事メモのルールを徹底する

いずれも、
「動線の設計」
「小さなリスクのカタチ化」
です。

これがない組織では、たとえ100人がリスクに気づいたとしても、誰も繕わず、ほころびはどこまでも裂けていきます。

 “そのうちやる”では間に合わない

知識は、必要です。

経験も、大切です。

でも、それだけでは足りないのです。

・リスクの傾向を知っていても
・過去の失敗を語れても
・他社のトラブル事例を分析できても

動けなければ、防げない。

その知識が
「現場で動ける構造」
に落とし込まれていないかぎり、それは“飾り”でしかないのです。

通知”で終わらせるな

昨今は、検知や監視の技術も進化しています。

カメラやログ、アラート通知など、“気づく仕組み”は進んできました。

けれども、通知だけでは意味がありません。

繕う構造がなければ、裂け目は広がるだけです。

気づきは、誰かが報告にあげなければ潰れません。

報告は、記録に残らなければ継承されません。

記録は、見返されなければ、記録のままです。

そして、処さなければ、体制に反映されません。

こうした
「ほころび対応のレイヤー構造」
があってこそ、リスクはカタチとして潰せるのです。

そしてそれが、最終的には企業の体質をつくるのです。

「知っている」だけでは、組織は裂ける

服の糸が1本ほつれたまま、放置したら――
そのほころびは、やがて服を裂くだけではなく、着る人の可能性をも潰しかねません。

知っているだけでは、役に立ちません。

違和感を小さなリスクとして潰すしくみ。

その“当たり前”を構造化することが、危機管理の本質です。

著:畑中鐵丸

00232_知ってるだけでは足りない_「できる人がやってくれる会社」が危ない_仕組みの不在が生むリスク

「よく気がつく人が、やってくれたらいい」
「できる人に任せれば大丈夫」
「○○のことなら、あの人が知っているから、安心だ」

職場で、こんな言葉を聞いたことはありませんか。

たしかに、臨機応変な対応ができる社員がいると、その場はうまく回ります。

一見すると、
「協力し合う風土」
のようにも見えます。

けれども、それは本当に
「良い会社」
と言えるのでしょうか。

経営者として、また、日々いろいろな会社の相談を受けている弁護士として、これまで多くの現場を見てきました。

その中で、何度も感じたことがあります。

それは、
「その場しのぎ」
でまわっている組織には、ある“共通点”がある、ということです。

一見、うまくいっているように見える。

でも実際には、がんばっている人が無理をして、どうにかギリギリ持ちこたえているだけ。

そんな組織が、驚くほど多いのです。

要するに、
「がんばる人が穴を埋める」
ことが前提になってしまっているのです。

それは、設計段階から仕組みがないまま走り出している、ということなのです。

がんばりが前提になってしまう組織の“欠陥”

たとえば――
毎月の報告資料、誰が作成するか決まっていない。
その時どきで、「手が空いている人」「わかる人」がやっている。
期限もあいまいで、「なんとなく月末までには」くらいの共通認識。
その結果、誰かの残業や土壇場の踏ん張りで、かろうじて回っている。

こういう状態が長く続くと、どうなるか。

ある日、
「がんばっていた人」
が疲れ果ててしまいます。

誰にも頼れず、負担を抱えたまま、静かに職場を去っていくのです。

そして残された人たちは、こう言います。

「あの人がやってくれてたから、成り立ってたんだな」

しかし、それでは遅いのです。

それは“仕組みの不在”に誰も気づかないまま、ただ誰かに寄りかかっていた結果です。

属人的な努力は、持続しない

人の努力には限界があります。

経験や勘、慣れに頼ってまわる業務は、一見スムーズに見えても、
「再現性」
がありません。

その人がいなくなった途端、止まってしまうのです。

これは、企業にとって極めて大きなリスクです。

なぜなら、
「人に依存する仕組み」
は、
「仕組み」
とは言えないからです。

たとえば、マニュアルがなく、口頭でしか引継がれていない業務。

あるいは、資料の作り方がブラックボックス化しているプロジェクト。

こうした
「属人化の温床」
は、日常のなかにひそんでいます。

そして、現場で最も起きがちな勘違いがこれです。

「今、まわっているから、大丈夫だ」

実際には、まわってなどいないのです。

“人が無理してまわしている”だけです。

“属人化”の 落とし穴――入社式をめぐる混乱

ある企業の人事部では、毎年4月に行う
「入社式」
の準備を、ベテラン社員のCさんが10年近く担当してきました。

式次第の作成、座席表、記念品の手配、来賓案内、役員コメントの調整等、細かな手配や関係部署との連絡も含めて、Cさんが
「過去の勘」

「社内調整力」
で動かしていたのです。

社内には正式なマニュアルや引継ぎ資料はなく、他のメンバーは
「今年もCさんがリーダーをやってくれるだろう」
「Cさんに聞けばなんとかなる」
「数時間の式だから大丈夫だろう」
くらいに受け取っていたようです。

ところが年末に、Cさんが家庭の事情で急きょ休職することになりました。

年明けて、誰も引継ぎを受けていなかったことが判明しました。

「過去はどうやってたのか」
「誰が何を担当するのか」
「どこに連絡を入れればいいのか」
記録も引継メモもないため、準備は一向に進みません。

新担当者はCさんに連絡をとってはみたものの、現場を離れたCさんから的確な回答はかえってきません。

式直前には、来賓の座席がダブルブッキングしていたり、祝辞の原稿が一部未手配だったりと、ミスが重なり、社内外から苦情が続出しました。

一過性のことだからと、たかをくくっていたのしょうか。
誰でもできると、皆が思い込んでいたのでしょうか。
他のメンバーがサボっていたのでしょうか。
Cさんが記録や引継を怠けていたのでしょうか。

むしろ、Cさんは長年、組織を支えてきた功労者でした。

式典が終われば、すぐに平常の仕事に戻らなければならず、組織は、単に、
「Cさんのがんばり」
に乗っかっていただけだったのです。

要するに、その努力が
「ミエル化」
「カタチ化」
されないまま放置されていたということです。

それこそが、構造的な問題だったのです。

こうして、大混乱の現実のあとに、
「属人化の危うさ」
が、ようやく社内で可視化されました。


「仕組みで回す」とは、どういうことか

どうすれば
「がんばらなくてもまわる」
状態をつくれるのでしょうか。

答えはシンプルです。

仕組みとは、
「誰が」
「いつ」
「何を」
「どのように」
やるか、を明文化したもの。

言い換えれば、
「行動の前提」
を、あらかじめカタチにしておくことです。

たとえば、
・資料作成はAさん、月末3営業日前までに完了
・テンプレートは共有フォルダの「資料ひな形」内に保存
・確認は部長が行い、修正はBさんが対応

このように、関係者の役割と流れを
「固定」
しておくのです。

もちろん、細部の調整や例外対応は出てきます。

しかし、ゼロから考えるより、最初の土台があれば対応は格段に速くなります。

仕組みとは、
「人の判断」
を減らすことです。

人が迷わなくなるだけで、業務は加速します。

がんばる人が報われる組織にするために

たとえば、リーダーが
「自分の背中を見て育て」
方式を続けている会社。

あるいは、
「できる人」
に業務が集中しすぎている部署。

こうした職場は、いずれ崩れます。

努力している人ほど、疲れて去っていく。

がんばっている人ほど、評価されにくい。

そんな組織は、間違いな
「仕組みのミス」
です。

人は、仕組みで守られなければ持続できません。

がんばりが組織に貢献するには、
「ミエル」
ように設計しなければならないのです。

だからこそ、必要なのです。
「属人化している仕事」
を洗い出し、
「手順」

「役割」
に落とし込んでいく作業。

この作業は、とても地味です。

しかし、これこそが、組織を持続させ、誰かのがんばりを
「価値」
として残す道です。

がんばりを“構造に変える”という発想

結局のところ、
「知っている」
だけでは、会社は変わりません。
「がんばっている」
だけでも、限界があります。

だからこそ、
・知識も努力も、仕組みに落とす。
・属人化を防ぎ、業務をミエル化する。
・仕組みをつくり、役割を明確にする。
こうしてはじめて、個人のがんばりが“組織の力”へと転換されるのです。

あなたの会社で今、
「誰かのがんばり」
によってかろうじて保たれている業務はありませんか。
その努力を、仕組みに変える時が来ています。

著:畑中鐵丸

00231_知ってるだけでは足りない_キャリアを動かす“使える知識”とは

「この話、聞いたことある」
と、よく言う人がいます。

それ自体は、悪くありません。

勉強熱心で、勘もいいですし、人の話にもよく耳を傾けています。

しかし、問題はその先です。

その
「聞いたことのある話」
を、
「自分の言葉で説明できますか?」
「具体的な場面で使えますか?」
ということです。

要するに、知っているだけでは、足りないのです。

知識は、
「使える」
ようになって初めて、自分の武器になるのです。

「知ってるのに動けない」―その壁の正体

たとえば、料理のレシピを思い浮かべてください。

見ただけで
「知った気」
には、なるでしょう。

しかし、いざ自分で作ってみると、分量も手順も、どこかおぼつかない・・・。

そんな経験はありませんか。

ビジネスの現場でも同じです。

情報は、手に入ります。

ノウハウも、ネットや書籍にあふれています。

ところが、それを実際に
「使う」
となると、話は違ってきます。

「こんなはずじゃなかった」
「どうもうまくいかない」
「聞いてた話と違う」

それは、
「知識」
から
「実践」
への転換ができていない状態です。

「知ってはいる」
けれど、
「行動にはつながらない」
ということです。

もっと言えば、行動以前の問題――
「言葉にできていない」
ということなのです。

考えがまとまっていないから、人にもうまく説明できない。

そういう
「ふわっとした知識」
は、ビジネスでは何の武器にもなりません。

むしろ、ビジネスの世界で生き残れません。

話せる人は、考えている。考えている人は、動ける。

キャリアの現場で差がつくのは、ここです。

よくできる人ほど、知っていることを
「自分の言葉で語る」
ことができます。

要するに、言語化ができているのです。

言語化されていれば、相手に伝えることができます。

伝えられれば、チームで共有できます。

共有できれば、他の人の行動につながります。

一人の知識が、他人の行動を生み出すのです。

この連鎖を起こすには、知識を
「ミエル化・カタチ化」
していく必要があります。

逆に言えば、
「なんとなくわかってるんだけど」
「あれなんだっけな」
という
「あいまいな知識」
では、誰の背中も押せません。

だからこそ、必要なのです。

自分の考えを、筋道立てて話す訓練。
知識を、紙に書いてみる作業。
フォーマルな文書に落とし込む試み。

これら地味な繰り返しこそが、ビジネス・キャリアを支える土台になります。

なぜ「言語化・文書化」がキャリアの鍵になるのか?

「自分で説明できる状態」
になるには、ただ
「繰り返し聞く」
だけでは足りません。

誰かに話してみる。
図に描いてみる。
文章にまとめてみる。

そうした
「手を動かすプロセス」
を何度も繰り返して、ようやく
「知識」

「使える道具」
になっていくのです。

ビジネスの現場では、言葉になっていない情報や、メモに残っていないノウハウは、ほとんど役に立ちません。

なぜなら、それは他者に
「渡せない」
からです。

いくら頭の中にあっても、口から出なければ意味がありません。

いくら感覚で理解していても、文章にできなければ再現できません。

要するに、言語化できる人だけが、チームを動かすことができるのです。

キャリアとは、「使える知識」を増やすこと

ここまでは、「言語化・文書化」がなぜ“動ける人”につながるのかを見てきました。

ここで話は、もう一段深くなります。

本当に違いが出るのは、その先のキャリアの話です。

「言葉にできるかどうか」
は、単なるスキルの話ではなく、あなたの職業人生を左右する話なのです。

ひと昔前のように、
「知識の量」
で勝負できる時代ではありません。

今は、ググれば何でも出てくる時代です。

だからこそ、
「知っていること」
そのものには、もはや価値はありません。

問われるのは、
「どう使うか」
「どこで生かすか」
そして、
「誰かに伝えられるか」
です。

キャリアとは、
「知っていること」

「使えること」
に変えるプロセスの連続です。

その一歩目が、言語化・文書化なのです。

たとえば、
・会議での気づきを、すぐにメモにする
・日報で、今日の学びを言語化する
・議事録として、次に使えるようにまとめておく

こうした
「地味な積み重ね」
の先に、知識が
「自分のもの」
になっていきます。

ビジネスの現場においては、
学んだ知識を「話せるカタチ」に。
理解したことを「書けるカタチ」に。

「ミエル化・カタチ化」
を意識するだけで、知識が
「武器」
へと変わっていくのです。

「知ってる」から「動ける」へ――キャリアはここから始まる

ただの知識から、使える知恵へ。
ただの記憶から、動ける力へ。

キャリアは、
「知っていることを、言葉にする」
その瞬間から動き出します。

「知ってるだけでは足りない」
――今、あなたのキャリアに
「使える知識」
はいくつありますか?

著:畑中鐵丸

00230_プロデューサーがいない企画はなぜ失敗するのか?_“1秒で帰る時代”に勝つための、分業と専門性の話

たとえば、ラーメン屋を開業しようとする人がいたとしましょう。

自分でスープを仕込み、麺も打ち、看板も描き、チラシを印刷し、SNSで宣伝しながら、調理から接客、レジ打ちまで、すべて一人でやると言い出したら・・・。

それはもう、やる前から無理があるとわかります。

実際には、厨房には麺場とスープ係がいて、ホールにはスタッフがいて、店の設計や立地選びは別の専門家が支えています。

それでも飲食店の9割は潰れる。

なのに、一人で全部やるというのは、もはや
「潰れに行っている」
とすら言えるかもしれません。

ウェブコンテンツも、まったく同じです。

いや、ネットの世界では
「1秒で帰る」
人々が相手ですから、ラーメン屋よりシビアかもしれません。

おいしいかどうか以前に、
「見た目が微妙」
「タイトルがイマイチ」
「文字が読みにくい」
このような理由だけで、何も読まれずに終わるのです。

そこで必要なのが、分業と専門性です。

実際のウェブプロジェクトでは、次のような役割分担が求められます。

・ニーズを拾い上げる「取材者」
・プロとしての見解を語る「専門家」
・ユーザー目線の文章を書く「ライター」
・読みやすく魅せる「ウェブデザイナー」
・人を集める「プロモーション担当」
・全体を見渡す「プロデューサー」

それぞれが異なるスキルを持ち、異なる視点で動きます。

どれか1つでも欠けると、全体が崩れるのです。

しかも、予算は
「ウェブデザインだけ」
では済みません。

むしろ、最も費用がかかるのは、
「おもしろさ」
「役立つ中身」
をつくる部分です。

要するに、原案・構成・シナリオ・編集といった
「見えないけれど本質的な仕事」
です。

この構造、どこかで見たことありませんか?

そう、漫画ビジネスです。

今や商業マンガは、
・取材者
・原案担当
・シナリオライター
・レイアウト構成者
・イラスト担当
・製本・流通・広告・販促
・編集とプロデューサー
が、それぞれ分業しながら、1冊のマンガを形にしていきます。

「一人で全部やる」
のは、プロの世界ではあり得ません。

それは同人誌の世界です。

もちろん否定するつもりはありません。

しかし、
「同人誌レベル」
のものを
「商業レベル」
の市場で出したところで、即座に淘汰されるのが今のインターネット社会です。

同人誌は30人が集まって、30人が帰っていく世界。

ネットは30人すら立ち止まらず、1秒でスクロールアウトします。

趣味ではなく、事業としてやるのなら・・・
人を集め、人を動かし、人を魅了するには、分業体制とプロの力が不可欠なのです。

著:畑中鐵丸

00229_語らないという判断_沈黙という応答のかたち

沈黙は「外」に向かうものなのか

情報統制の話になると、どうしても矛先は
「社外」
になります。

たとえば、顧客、取引先、メディア、あるいは株主。

社外への発信をどうコントロールするか。

この話題であれば、社内でも比較的議論がしやすいものです。

ところが、語らないという選択が真に意味を持つのは、じつは
「社外」
ではなく
「社内」
の場面です。

実際には、沈黙が向けられているのは、自分たちの内側、仲間である
「チーム」
に対してです。

本来、情報というのは共有されて初めて活きるものです。

しかし、ある種の情報は、語らないことでしか守れません。

言い換えると、語らないことでこそ、守らなければならないこともあるのです。

誰にも言わない。

その沈黙は、外部へのガードではなく、内部への矜持といえることもあるのです。

では、沈黙は、誰を守っているのでしょうか。

語らないことで守っているのは、誰なのか

ある経営者が、社内不祥事に直面したときのことです。

彼は、即時の全社展開を避け、極めて限られたチームでの対応を選びました。
一部の社員からは、
「なぜ共有しないのか」
「なぜ黙っているのか」
と批判もあがりました。

しかし、その経営者はこう語りました。

「いま全社に情報を流すことは、社員の未来を奪いかねない。私は、社員一人ひとりに対して責任を負っている」

この判断が正しいかどうかは、ここでは問わないことにします。

語らなかったことで守られたのは、情報そのものではありません。

そこに関わった人の
「判断」

「信用」

「これから」
だったのです。

語らないという判断は、何かを守っているのです。

その
「何か」
は、数字や名誉や企業ブランドであることもあるでしょう。

誰かの心情、誰かの成長機会、あるいは誰かの名もなき努力かもしれません。

語らないという選択には、守るべき
「誰か」
の存在があります。

その存在が、語らない判断を支えているのです。

「説明責任」と「信頼構築」は両立するのか

説明責任という言葉が、近年ますます強く求められるようになってきました。

企業は、迅速に、誠実に、透明性をもって語ることを期待されます。

語ること。

すなわち、開示すること、説明すること、そして責任をもつこと。

それ自体は、大事な原則のひとつであり、否定されるべきものではありません。

他方で、すべてを語ることが信頼構築の唯一の道であるとも限りません。

むしろ、語らないことでこそ示される信頼もあるでしょうし、語らずにいたからこそ残った選択肢もあり得るのです。

たとえば、ある企業で経営方針の転換が決まったときのこと。

社内からは、
「もっと早く説明してくれていれば」
「理由だけでも共有してほしかった」
といった声があがりました。

しかし実際には、外部との交渉がまだ継続中であり、時期尚早に語ることは、かえって混乱を招くリスクがあったのです。

説明を遅らせたことが、社内で一部社員の不信を生んだ面は否めません。

それでも、決して語らなかったわけではなく、
「語るべき時が来るまで語らなかった」
判断だったのです。

語ることで信頼されることもあれば、語らぬことで信頼されることもある。

このふたつを対立させるのではなく、

むしろ併置しながら、場面ごとに問い直していく。

こうした構えの積み重ねによって、説明責任の土台が築かれ、そのふるまいが、信頼へと自然につながっていくこともあるのです。

語らぬことが倫理になる瞬間

沈黙は、逃避ではありません。

むしろ、誰かのために
「語らないでいること」
を貫き通すことです。

それは、簡単ではないけれど、明らかに
「倫理的な判断」
です。

倫理とは、正しさを一律に押しつけることではありません。

むしろ、状況や背景、関係性に応じて
「語るべきでない」
と感じたときに、その感覚に自信と責任をもって沈黙することです。

たとえば、経営者が語らなかったことで、従業員が安心できた。

あるいは、リーダーが黙っていたことで、チームが守られた。

そんな瞬間にこそ、
「語らないこと」
が倫理になるのです。

語らぬことが、倫理たりえるのは、そこに
「他者」
が存在するからです。

語らなかった相手。

語らなかった理由。

語らなかった先にある未来。

倫理とは、相手を想う構えです。

沈黙が倫理になるのは、そこに
「誰か」
がいるからなのです。

最後まで語らなかった人”が示す組織の成熟度

最終的に、語らないという選択を貫けるかどうか。

それは、その組織がどこまで成熟しているかのバロメーターでもあります。

人から聞いた話ですが、その会社の管理職が退職時に次のように言ったそうです。

「入社して40年。
私の一番の判断は、『話さない』と決めたことを、最後まで話さなかったことです」

その言葉がとても印象的だったと、話してくれました。

周りにいた全員が、神妙に聞いていたそうです。

誰も内容は知りません

話さなかったという事実の裏にある誠実さを、皆が感じ取っていたのです。

沈黙の意味を、受け取る感性。

語らないことを、信頼として受けとめる態度。

それらが、日々のふるまいの中で育っていく組織には、沈黙の技術だけでなく、沈黙の倫理が根づいています。

語るのが上手い人間が評価される時代です。

しかし、語らなかった人の“重み”を感じ取れる組織は、まちがいなく強い。

そして最後に残るのは、語らないという選択を貫いた事実であり、語らずにいたという姿勢そのものです。

守りぬいた沈黙こそが、成熟の証なのかもしれません。

語らないという判断の、行方

ここまで、
「語らないこと」
をめぐって、さまざまな視点に触れてきました。

・語らないという判断の背景
・沈黙という技術
・語らぬことが信頼となる文化

この視点の先に、浮かび上がってくる問いがあります。

語らないという判断は、誰を守っているのか。

何を守っているのか。

その判断に、どれほどの倫理が宿っているのか。

たとえば――聞かれても語らない構え。

語らせようとする空気を、静かにかわす技術。

あえて説明しないことで信頼を示すふるまい。

語らない理由を、伝えずとも伝える工夫。

沈黙を、判断として貫き通す姿勢。

沈黙には、多様な技法があります。

最後に残るのは、語らないという選択の
「意味」
です。

沈黙の矛先は、社外ではなく、社内に向かうこともある。

それは、自らの仲間、自らの未来を守るための、もうひとつの
「応答」
なのです。

語らないとは、語ることと同じくらい、勇気のいる選択です。

そしてそれは、組織の品格を支える、目に見えない土台でもあるのです。

著:畑中鐵丸

00228_「語らない」という選択を、チームの美学にする_沈黙を文化に変える技術

ある企業の管理職研修で、こんな問いを投げかけたことがあります。

「あなたが沈黙を選んだとき、その沈黙は、チームの誰に伝わっていますか?」

残念ながら、誰にも伝わっていませんでした。

上司として、あるいはプロジェクト責任者として
「これは言わないほうがいい」
と判断した沈黙。

それは自分の中では
「当然」
の判断であったかもしれません。

しかし、他のメンバーはその
「語らなかった理由」
を知らされておらず、そもそもそれが
「沈黙という選択肢」
であるという認識さえ持っていなかったのです。

沈黙というのは、個人の判断だけで守りきれるものではありません。
チーム全体として、
「語らないこと」
の意味や価値を共有していなければ、その沈黙は、むしろ誤解や不信の火種となってしまうのです。

沈黙は「ルール」ではなく「文化」

たとえば、守秘義務や情報管理に関するルールが整っている職場であっても、会議の場ではうっかり本音が出てしまったり、
「これは言っても大丈夫だろう」
と、誰かが軽率に口を滑らせたりすることが後を絶ちません。

なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。

ルールはあっても、
「沈黙の文化」
が育っていないからです。

沈黙というのは、条文で明文化できるようなものではありません。

口にしてよい情報、口にすべきでない情報。

その
「間」
にあるのが、
「言わないことの美学」
なのです。

つまり、沈黙とは
「ルール」ではなく「文化」であり、
「守らせるもの」ではなく「自ら守りたくなるもの」
なのです。

この違いは、実はとても大きいです。

語らなかった理由が語らずとも伝わるような組織は、どうやってつくられるのか

結論から言えば、それは
「仕組み」としての“文化”化と、
「ふるまい」としての“美学”化。

この2つの軸で育てていく必要があります。

あるプロジェクトで、上司がある社外情報について一切触れず、黙ったまま方針を変更したというケースがありました。

部下たちは困惑し、現場では
「あの件はどうなったのか」
「なぜ突然変わったのか」
とざわつき始めました。

これは、語らなかったこと自体が問題だったのではありません。

「なぜ語らなかったのか」
が共有されていなかったことが、問題だったのです。

沈黙という判断を、どう
「伝える」
かという矛盾。

そこにこそ、
「語らない美学」
が文化になる余地があるのだと思います。

たとえば次のような言い回しが考えられます。

「いまは話せませんが、しかるべきタイミングでお伝えします」
「ここで語らないという判断は、チームとしての選択です」
「これは、まだ語る段階に達していません」

こうした言葉の背後には、
「沈黙という判断は、信頼にもとづいている」
というメッセージがあります。

その態度を繰り返すことで、やがて
「語らずとも伝わる」
沈黙が育っていくのです。

語らぬこと”は、チームの品格をかたちづくる

沈黙とは、弱さや逃避ではありません。

むしろ、それは強さであり、矜持であり、連帯の証しでもあります。

この話をある読者の方にしたところ、こんな反応をいただきました。

「黙っていると、仕事をしていないように見えるんです」

たしかに、そのように受け取られることもあるでしょう。

しかし、
「黙っている意味」
をチームが理解していない組織であれば、沈黙の中に込められた判断や責任は、誰からも評価されず、埋もれてしまいます。

だからこそ、沈黙の価値は、組織全体で共有しなければなりません。

あの手、この手、奥の手。

沈黙の価値を
「ミエル化」
「カタチ化」
していく工夫が、今まさに求められているのです。

たとえば、議事録に
「語らなかったこと」
を明示する欄を設けてみる。

たとえば、社内メルマガに
「いま語れないこと」
のコーナーをつくってみる。

あるいは、沈黙を貫いたことに対して、静かに称える習慣を根づかせてみる。

「語らなかったことに、意味がある」

そう思える組織には、情報を守る強さと同時に、主権ある判断を静かに貫く“芯”が内側から育っていくのです。

語らないという選択を、“私たち”の選択にするために

語らないというのは、たしかに個人の美学です。

けれども、組織の中においては、それは
「構え」であり、
「姿勢」であり、
ときに
「文化」や「連帯」そのもの
へとつながっていきます。

情報社会のなかで、すぐに語ること、すぐに反応すること、すぐに説明責任を果たすことが、正義のように扱われがちです。

だからこそ、
「あえて語らない」
という判断には、チームとしての確信と、覚悟が求められるのだと思います。

語らなさを恐れず、沈黙に意味を持たせる文化。

それは、ただのルールではありません。

それは、静かにチームを貫く、美意識そのものなのです。

著:畑中鐵丸

00227_情報を引き出す“仕掛け”と、語らない“技術”

「ねぇ、あれってどうなってるの?」
「この話、もう決まってるの?」
「誰が関わってるの?」

こうした“何気ない確認”を装った問いかけに、あなたはどこまで答えますか。

たとえ、相手が上司であれ、同僚であれ、あるいは外部の関係者であれ――
「何をどこまで話すか」
は、情報を扱ううえで、避けて通れない判断の連続です。

一見、ただの会話。

しかしその裏にあるのは、
「情報を取りにくる人たち」
の存在です。

確認のカタチをした“仕掛け”

すべての確認が悪いわけではありません。

問題なのは、それが
「何のための確認か」
が曖昧なまま、無防備に語ってしまう構造です。

たとえば、
・進捗を装って、核心に迫ってくる
・雑談の流れで、こっそり裏情報を引き出そうとする
・あいまいな表現で、先に“言質”をとろうとする

こうした問いかけの本質は、“確認”ではなく“回収”です。

情報を取りにきているのです。

語らせようとする“あの手、この手”は、日々、更新され続けています。

情報を取りにくる人のタイプとは

情報を欲しがる人には、いくつかのタイプがあります。

(1)探偵型:
 意図を明かさず、質問を重ねて真相に近づこうとするタイプ。

(2)善意型:
 「助けになりたいから」と言いながら、結果的に情報を引き出してしまうタイプ。

(3)世話焼き型:
 相手の状況を“先回りして理解しよう”とする中で、無自覚に踏み込んでくるタイプ。

(4)無意識型:
 自分がどれだけの情報を引き出しているか、まったく気づいていないタイプ。

どのタイプにせよ、共通しているのは、
「自分が情報を集めている」
という自覚のなさ。

そして、語ってしまう側が
「悪意がなさそうだから」
と油断してしまう構造です。

「かわす力」は、拒絶よりも高度な技術

大切なのは、相手を敵とみなすことではありません。

情報を渡さないために、むしろ“自然に話を終わらせる”技術が求められるのです。

たとえば――
・「まだ確定していないので」と言い切る
・「今の段階では共有されていない情報です」と線を引く
・「その件は、担当が別にいます」と話題をそらす

いずれも、相手を否定せず、情報のやりとり自体を“保留する技術”です。

そして、もうひとつの高度な方法が、
「あえて“確定していないことにしておく”」
というテクニックです。

「まだ白紙です」
「案が複数あって」
「方向性を検討中です」
情報を“確定しない”という曖昧さで包むことで、相手の興味をかわす。

これは、
「嘘をつく」
のではなく、
「情報を確定させない」
という高度なバランスの技です。

「答えない文化」をチームで共有する

語らないことを個人に任せてしまうと、どうしても
「つい話してしまった」
が起こります。

だからこそ、チームとして
「答えない方針」
を共有しておくことが重要です。

・聞かれても「ノーコメント」と返す
・情報の扱い方にチーム内ルールを定める
・むしろ「何も言わないことが誠実である」という文化をつくる

そうすることで、
「誰がどこまで話すか」
をめぐる判断がブレにくくなります。

確認される前に、構えておく

情報を“持っている側”に求められるのは、ただ守るだけではなく、
「聞かれる前提で構えておく」
ことです。

つまり、情報は漏れるものだという現実を前提に、
「語らない態度」
を意識的に設計しておく。

その積み重ねが、あなた自身の信頼を守り、
組織の情報を、じわじわと外に流さない“防壁”となっていくのです。

語らないとは、ただ拒むことではありません。

流れを読んで、かわして、受け流す。

そんな
「技術」
です。

語らないとは、ただ沈黙することでもありません。

守るべきものを見極めて、あえて語らないという
「仕組み」
です。

著:畑中鐵丸

00226_聞かれてもいないのに話してしまう人_語らせようとする空気とその正体

「言わなくていいことを、なぜ言ってしまったのか」

こうした
「ポロリ」
は、社内でも社外でも、あとを絶ちません。
意図的でないにせよ、情報が漏れる瞬間というのは、実にさりげなく、そして深刻です。

たとえば、次のようなケース、身に覚えはありませんか。
・「その話、まだ表に出さないでね」――そう念を押したはずの情報が、別の部署ですでに知られていた。
・「誰にも言ってないのに」――話した相手が、なぜか“知っていて当然”の顔をしていた。
あるいは、
・聞かれてもいないのに、自分から話してしまった。
・明確な口止めがあったわけでもないのに、なぜか口を開いてしまった。
・誰に咎められたわけでもないのに、なぜか“言ってはいけないこと”を語ってしまった。

もしかすると、これらは情報漏洩というより、
「語ってしまいやすい空気」
に巻き込まれた結果なのかもしれません。
語ってしまったというより、
「語らされていた」
のかもしれません。

人は、なぜ語ってしまうのか

語りたくなる理由は、いくつかあります。
ひとつは、「知っていることを話すと、ちょっと優位に立てる」という欲求。
もうひとつは、「場をまわすために何か話さねば」という義務感のような気持ち。
そしてもうひとつ、「つい口をすべらせてしまう」という、無意識の自己防衛反応。

とりわけ厄介なのが、3つ目、
「誰かに頼まれたわけでもないのに、つい話してしまう」というパターンです。
これは
「漏らした」
というより、
「情報をわざわざ届けに行ってしまった」
という構造になります。

その背景には、情報を
「守るもの」
ではなく
「動かすもの」
だと捉えてしまう感覚があります。
つまり、
「情報は誰かに渡してナンボ」
「話せば意味がある」
という思い込み。
「一度出た言葉が、どこへどう波及するか」
その想像力が、決定的に欠けているとも言えるでしょう。

話した人だけが悪いのか?

情報が漏れるとき、責められるのはいつも
「話した側」
です。
けれども、本当に悪いのは、話した人なのでしょうか?
もしかすると、
語らせようと
「仕掛けた誰か」
がいたのかもしれません。

もう少し踏み込むなら、
「語った側」
にすべての非があるとは限りません。
話すように仕向けてくる
「誘導のプロ」
がいることもあります。

つまり、
「仕掛けたのは誰か」
「仕掛けられたのは誰だったのか」
この構図で見ていくと、
実は
「話してしまった人」
が、
「引き出されていた」
だけなのかもしれません。
そうした視点も必要です。

たとえば、何気ない雑談の中に交わされる
「最近どう?」
という一言。
それが実は、情報を
「語らせるためのトリガー」
になっていることもあるのです。

あの手、この手、奥の手、禁じ手――
あらゆる手段を使って、情報を
「引き出す技術」
を持っている人がいます。
話す側が油断したというより、聞く側が
「仕掛けていた」。
そうした構造の中で、
「つい語ってしまった」
という結果が生まれるのです。

語らないための仕組みを持つ

だからこそ大切なのは、個人の感覚に頼らない
「語らない仕組み」
を持つことなのです。

「これは話していい情報なのかどうか」
その線引きが曖昧なままでは、人は場の空気や相手の雰囲気に流されてしまいます。

語らないことを、美学ではなく
「手順」
として持つことです。

・この話題には触れない
・このタイミングでは何も言わない
・この人には話さない

そうした「語らないルール」を、あらかじめ共有しておくのです。

あるいは、守るべき人や場に対しては、必ず
「語る前に一呼吸おく」
という手順を意識しておくことです。

それだけでも、
「語らせる力」
に対する抵抗力は、ぐっと増していきます。

語らない力とは、読み取る力でもある

情報を守るというのは、単に
「話さない技術」
ではありません。

・誰が
・どんな場面で
・なぜその情報を欲しがっているのか

その背景まで読み取れる人が、本当の意味で
「語らない力」
を持っている人なのです。

そして、もう1つ。

語らないというのは、
「相手を信じていないから」
ではありません。
むしろ――
「情報の価値を理解しているから」
語らないのです。

話すことが、必ずしも親切ではない。
語らないことが、もっと深い誠実である。

そうした
「構え」
を持つ人が、組織の中で、本当に信頼される存在になっていくのです。

語らないことで、信頼を守れる。
語らないことで、未来を壊さずに済む。

こうした
「見えない技術」
こそが、
今日のビジネスの現場を、静かに、けれども力強く支えているのです。

著:畑中鐵丸

00225_組織を壊すのは、「話した人」ではなく「聞いた人」_情報を握る責任の話

中立を装う人

こんな人、身の回りにいませんか?

表向きは
「私は中立です」
と言いながら、どこにも属さないふりをして、ただ聞き役に徹する人がいます。

判断も立場も示さず、静かにうなずきながら話を受け止めるその姿には、どこか安心感すら漂っているように見えます。

しかし、どういうわけか、その話が漏れているのです。

しかも、いろいろなところで耳に入ってきます。

そして、あとになって気づくのです。

静かに聞いていたその人が、実は話していたのだと。

あちこちで、少しずつ、しかし確かに。

話を流していたのは、ほかでもない、その聞き役の人だったのです。

聞き役に見える人ほど、よく話す、ということがあります。

むしろ
「中立です」
という仮面をかぶることで、多くの人から情報を引き出しやすくなるのです。

実は、こうした聞き方には、名前がついています。

「共感型ヒアリング」
と呼ばれる技法です。

会議後の雑談が“沈黙”を崩すとき

たとえば、こんな場面を思い浮かべてみてください。

ある会議のあと、あくまで“個人的な確認”というかたちで、
「あのときの発言、どういう意味だったんでしょうね」
「いまの方向性って、まだ変わる可能性ありますかねえ?」
そんなふうに話しかけてくる人がいます。

その場では一切、主張も結論も言わないのに、会議後には各方面をまわり、温度感を探っているのです。

本人に悪気はないのかもしれません。

ただ、こうした振る舞いが結果として、
「会議で話された議題について、外では話さない」
という合意を、じわじわと崩してしまうことがあります。

「今はまだ言わない」
という判断も、
「答えを出さない」
という合意も、チームにとっては、れっきとした戦略です。

それが、雑談や“共感”という名のもとに、静かに形を失っていきます。

情報が漏れるというよりも、語らないという構えそのものが、まわりから少しずつ崩されていきます。

感覚としては、じわじわと消されていくのです。

しかも、それが、かたちとしてはまったく表に出てこないのです。

実は、これがいちばんやっかいです。

「聞かれること」がリスクになる

情報漏洩というと、多くの人は
「話す側の問題」
と思いがちです。

しかし、実際には
「聞く側が備えている技術」
こそが、リスクを高めていることも少なくありません。

・相手が“善意で話した”と思える空気をつくる
・相手に「あなたには言ってもいいかも」と思わせる
・本人に言わせたようで、実は質問の設計で誘導していた

こうした聞き方は、営業スキルの応用でもあり、人間関係を円滑に見せかけた“聞き出しテクニック”でもあります。

だからこそ――
沈黙を守る立場にある者としては、
「話すこと」
だけでなく
「聞かれること」
にも、敏感になっておく必要があるのです。

本当の“中立”とは、何も聞かないこと

「私は中立だから、あちこちの話を聞いておく」
そんなふうに言う人がいます。

その人が、意図しているかどうかはさておき、結果的に“情報のハブ”になっていることがあります。

その人のまわりだけ、情報の粒が妙に細かく揃っていくのです。

それは、本当に中立といえるでしょうか。

本当の中立とは、次のように定義できます。

・自分から問いかけないこと
・自分から線を越えないこと
・相手の沈黙も、尊重すること

つまり、“何も聞かない”ことの方が、よほど中立的な姿勢といえます。

会議でしか共有していないはずの話が、漏れてくるとき

また、たとえば、会議でしか共有していないはずの話が、思わぬ人の口から漏れ聞こえてくることがあります。

本来なら、外には出ていないはずの会議の内容が、一部だけ、どこかで言葉を変え、かたちを変えながら、広がっていくのです。

その瞬間、誰もが手を止め、一気に空気が張り詰めたようになります。

「えっ、なぜ部外者に漏れているんですか?」
「誰から聞いたの?」
「誰が話したの?」

ひとつの言葉が、場の空気を変えます。

守られてきた沈黙に疑いが生まれ、情報を握っていた人たちの“立場”が、静かに揺らぎはじめるのです。

信頼関係が壊れるとき、責めを負うのは、必ずしも“話した人”とは限りません。

むしろ、“聞いた人”によって崩されていくことのほうが多いのです。

近づいてくる人との距離を、どう見極めるか

聞き役を装う人が、悪意を持っているとは限りません。

情報を求めてくるのも、その人なりの“善意”や“責任感”によるものかもしれません。

なかには本当に、
「状況を把握したい」
「力になりたい」
と思って動いている人もいるでしょう。

けれども、だからこそ“線引き”が必要です。

・今は話す段階ではない
・自分の口から語る立場にない
・共有にはまだ準備が整っていない

このような判断があるにもかかわらず、“共感”や“信頼関係”を理由に、うっかり語ってしまうことがあります。

しかし、それこそが、最も避けたい事態です。

語らないという判断を貫くには、ただ口をつぐむだけでは足りません。

その判断が、きちんと伝わるかたちで“距離”に表れていなければなりません。

語らないという構えを、誤解なく、かつフラットに示す力が求められます。

「何も言わない」
のではなく、
「今はまだ話す段階ではないと判断しています」
という意思を、きちんと言語化すること。

そして、もうひとつ、大切なことがあります。

近づいてくる人を責めるのではなく、
誰とどのように距離を取るか
――その選択を自分の側で管理するという視点です。

距離を取るのは、冷たさではありません。

むしろ、語らないことで守るべきものがあるからこそ、あえて一線を引く。

それが、“情報を握る者”に求められる、もうひとつの責任なのです。

語らぬという判断が、守っているもの

語らぬ者が守っているのは、情報そのものではありません。

意思決定の主権であり、判断の手綱であり、そして、組織の信頼です。

その沈黙を、誰かの無邪気な共感や、中立の顔をした質問で、壊されてはなりません。

語らぬという選択は、実は深い責任の上に置かれています。

会社の行く末を守る判断であるといっても、決して過言ではありません。

そしてそれは、ひいては、あなた自身の信頼を静かに積み上げているということにもつながるのです。

著:畑中鐵丸