裁判は、ドラマや映画で見るような、ヒーローが正義を叫び、相手を論破して喝采を浴びる、感情むき出しの
「罵り合いの場」
ではありません。
現実の裁判は、そんな熱い舞台ではないのです。
むしろ、事実をいかに自分に有利に
「ねじ曲げ」、
それを
「ミエル化」
して提示できるかどうか――
地味で、淡々とした
「プレゼン合戦」
なのです。
裁判の場で怒ったり、感情的になってしまえば、そこでゲームオーバーだと言っても過言ではありません。
言うなれば、悲劇の主人公を演じきり、徹底的に
「被害者ヅラ」
を貫き通せた者にこそ、勝利の女神――ならぬ、裁判官は微笑むのです。
客観的事実と「解釈」という名の自由
裁判では、客観的に検証できない事実について、どれだけ自己に都合のよい
「ウソ」
を語ったとしても、自由だ、という側面があります。
これは法廷で公然と
「ウソ」
をつけ、という意味ではありません。
しかし、客観的な証拠で裏付けられない事柄については、いくらでも自己に都合の良いように
「物語」
を紡ぐことができてしまう、ということです。
一方で、客観的な証拠が存在する事実についても、その
「解釈」
はいくらでも自由自在に広げられます。
1つの事実から、複数の異なる
「解釈」
が導き出されることは、珍しくありません。
そこで、いかに自分の主張に有利な
「解釈」を、
「言語化」し、
「カタチ化」し、
「フォーマル化」
して示すかが勝負の分かれ目となります。
まさに、
「理屈と膏薬は、どこにつけてもいい」
という言葉のとおりです。
さらに言えば、自分にとって都合の悪い重要な事実があったとしても、それを“黙っておく”こともまた、自由なのです。
もちろん、虚偽の事実を述べたり、証拠を隠したりすることは許されません。
けれども、戦略として、選択的な沈黙
――相手に不利な事実だけを強調し、自分に不利な事実をあえて語らないという判断は、裁判の現場では“常識”です。
ロマンチストでは勝ち残れない
「リアリスト」
の世界だと言えるでしょう。
ルールとゲーム環境を知り、「クール&ドライ」に現実と向き合う
アメリカンコミックのように、ヒーローが登場して正義が勝つ――
そんな筋書きは、日本の裁判には存在しません。
現実の裁判では、正義が必ずしも勝利するとは限らないのです。
戦いを有利に進めるためには、まずこの
「ルール」
と
「ゲーム環境」
を徹底的に知ることが第一歩です。
そして最後に、訴訟を有利に展開できるのは、
「ロマンチスト」
ではありません。
徹頭徹尾、
「リアリスト」
であること。
それを忘れてはなりません。
どんなに辛く、感情を揺さぶられるような状況に置かれても、
「クール&ドライ」
に現実と向き合い、冷静に状況を
「俯瞰」
し、
「分析」
できた者のみが、このゲームを
「支配」
することができるのです。
これは、何度も繰り返しお伝えしておきたい、裁判に臨むすべての人にとっての、最重要の心構えです。
著:畑中鐵丸