問題は、「見えているとき」がいちばん小さい
たとえば、お気に入りのスーツの袖口に、糸のほころびを見つけたとします。
「あれ、ちょっと糸が出てるな」
そう思いながらも、急いでいたり、予定が詰まっていたりして、そのままにしてしまう。
「まあ大丈夫だろう」
「あとで直せばいい」
出張に着ていったり、打合せを何件も回ったりしているうちに、その“ほころび”は、確実に広がります。
気づいた頃には、布地が裂けていて、針と糸ではもう直せない。
袖のほころび、裾のほつれ、ボタンのゆるみ——どれも
「気づいていたけれど直さなかった」
結果として、いずれ、そのスーツは
「着て行けない服」
になってしまうのです。
プレゼンの舞台。
懇親会の誘い。
大手企業との面談。
どれも、スーツが着られないというだけで、機会を逃してしまうかもしれません。
場合によっては、ただの“見た目”の問題では済まされないのです。
要するに、
「ほころびに気づいていた」
こと自体には、何の意味もないのです。
「見つけたとき」
が、いちばん小さい。
これが、リスクの本質です。
そして、
「動かなかった分だけ」
リスクは広がるのです。
声が上がらない現場に、リカバリーはない
会社でも、同じことが起きています。
・社内のチェック体制に抜けがある
・報告書に誤記がある
・上司の言動に、妙な違和感をおぼえる
・取引先の対応に、いやな胸騒ぎがする
「これは、マズいかもしれない」
そう感じた経験は、誰にでもあるでしょう。
現場には、日々“リスクのほころび”が違和感として見えています。
ところが、ほとんどの人は、その“違和感”を自分の中で完結させてしまう。
「まあ、大ごとにはならないだろう」
「誰かが気づいているはずだ」
「時間ができたら直そう」
「指摘されてから考えればいいか」
さらに問題なのは、
「言ってもムダ」
と思い込んでしまうことです。
「言ってもどうせ、無視されるだけ」
「以前、言って叩かれたから、もう言わないと決めた」
現場で
「何かおかしい」
と感じた人は、本来なら声を上げようとしたはずです。
「前に、先輩に言ったら笑われた」
「言っても、対応されなかった」
「上司に“そんな細かいこといいから”と遮られた」
こうした経験が、“声を上げない方がいい”という学習につながっていくのです。
そして、気づいた人ほど、声を潜めるようになるのです。
気づいたが、声にしない。
あるいは、気づいても誰にも伝えない。
沈黙の連鎖が、組織を殺します。
ほころびを見逃し、先送りにしているうちに、会社は
「出番のスーツが着られない」
状態になっていきます。
機会を逃し、信頼を損ね、致命的なリカバリー不能に陥る。
それは、決して大げさな話ではありません。
「違和感がある」
と感じても、それを言語化するのは簡単ではありません。
しかも、それを相手に伝わるカタチに整えて、共有するとなると、もっと難しいのです。
リスクは、
「気づいた人」
がいたからといって、防げるものではありません。
その“ほころび”を、どう繕うか。
それこそが、すべてなのです。
「察知の先に、『動線』があるか」
多くの企業では、
「リスクに気づけること」
が重要だとされます。
もちろん、それも大切です。
けれども、本当に問われるのは、
「察知したあとの動き方」
です。
気づいたあとに、
・誰に知らせるのか
・どの情報を残すのか
・どのフローに載せるのか
・組織としてどう潰すのか
これらの一連の動線がなければ、“察知力”は、ただの気づきで終わります。
要するに、
「動ける構造」
がない会社には、リスク対応も存在しないのです。
注意深い人間ではなく、注意深くあれる“構造”が、会社を支えるのです。
繕い方を知らない者に、裂け目は直せない。
動き方が決まっていない組織に、リスクは処せない。
だからこそ、
「構造」
が必要なのです。
個人に頼るな、構造を作れ
リスク対応を
「個人の能力」
に任せてしまうと、会社の運は“偶然”に左右されます。
運よく気づく人がいて、運よく動けるチームがあって、運よく潰せた。
それは
「奇跡の偶然」
でしかありません。
危機管理とは、勇気ある個人をつくることではありません。
「誰もが、気づいたときに動けてしまう構造」
をつくることです。
“構造”のない会社では、ほころびに気づいても、誰も動けません。
・動こうとすれば、上司に止められる
・報告しようとしても、通報経路がない
・対応の経験もなければ、判断基準も曖昧
結果として、トラブルは
「みんな気づいていたけど、誰も何もしなかった」
かたちで表面化します。
リスクは、後で検証しても意味がありません。
察知した
「その瞬間」
に、動けるかどうか、です。
つまり、
「構造として仕組まれているかどうか」
なのです。
放っておけば問題は“巨大化”します。
気づいたときが、いちばん小さい。
放置こそが、最大のリスクです。
裏を返せば、
・すぐ直すことが当たり前になっている
・未然の共有を習慣化している
・違和感の積み重ねを言語化している
そんな会社では、“ほころび”は未然に処理されていきます。
具体的には、たとえば以下のようなものです。
・日常的なリスク共有の場(Slackの専用チャンネルなど)を用意しておく
・共有・報告・相談のためのテンプレートや投稿フォームを整えておく
・「誰に何を報告すべきか」の相談動線をあらかじめ明文化しておく
・小さな異常や違和感も残せるよう、ログや議事メモのルールを徹底する
いずれも、
「動線の設計」
「小さなリスクのカタチ化」
です。
これがない組織では、たとえ100人がリスクに気づいたとしても、誰も繕わず、ほころびはどこまでも裂けていきます。
“そのうちやる”では間に合わない
知識は、必要です。
経験も、大切です。
でも、それだけでは足りないのです。
・リスクの傾向を知っていても
・過去の失敗を語れても
・他社のトラブル事例を分析できても
動けなければ、防げない。
その知識が
「現場で動ける構造」
に落とし込まれていないかぎり、それは“飾り”でしかないのです。
“通知”で終わらせるな
昨今は、検知や監視の技術も進化しています。
カメラやログ、アラート通知など、“気づく仕組み”は進んできました。
けれども、通知だけでは意味がありません。
繕う構造がなければ、裂け目は広がるだけです。
気づきは、誰かが報告にあげなければ潰れません。
報告は、記録に残らなければ継承されません。
記録は、見返されなければ、記録のままです。
そして、処さなければ、体制に反映されません。
こうした
「ほころび対応のレイヤー構造」
があってこそ、リスクはカタチとして潰せるのです。
そしてそれが、最終的には企業の体質をつくるのです。
「知っている」だけでは、組織は裂ける
服の糸が1本ほつれたまま、放置したら――
そのほころびは、やがて服を裂くだけではなく、着る人の可能性をも潰しかねません。
知っているだけでは、役に立ちません。
違和感を小さなリスクとして潰すしくみ。
その“当たり前”を構造化することが、危機管理の本質です。
著:畑中鐵丸