00220_ただの処分では終わらせない_再教育:経営者に問われる「読みの力」

「反省しない社員を、育てるべきか、切るべきか。」

経営の現場では、こんな問いに直面することは少なくありません。

たとえば今回、ある企業で人事の相談を受けました。

不祥事を起こした社員が2人いました。

社員Aは、深く反省の意を示し、自らの処分を当然のことと受け止めていました。

一方、社員Bは開き直り、仲間内では会社批判を繰り返していたとのことです。

「辞める」
と言いながら、実際には辞めません。

むしろ、会社にとどまりながら、経営を腐すのです。

社員Aと社員B、どちらが悪質か、火を見るより明らかです。

けれども――この2人を、どう処するかは、単なる比較の問題ではありません。

その社員に悪意があるのか、ただ無知なのか。

本当に反省しているのか、それとも芝居(表面だけの反省)なのか。

育てるべきか、切るべきか。

その見極めは、人の問題のようでいて、実は経営者自身の在り方が、もっとも深く問われる瞬間でもあります。

この話を聞いたとき、私はふと思い出しました。

以前、まったく別の経営者が、驚くほど似たようなことを語っていたのです。

「きれいごとでは人は育ちません。誤解や葛藤が渦巻く“泥のような現場”で、どうにか人を信じて育てていくしかないと、日々、肚をくくっています」

現場というのは、いつだって不格好で、どろどろしていて、その時々の感情も、ぶつかり合っています。

表面的に整った美しい処分や、いかにも正しそうな論理だけでは、人は動きません。

だからこそ、判断は、難しいのです。

ここで、将棋の話を少ししましょう。

将棋には、
「捨て駒」
と呼ばれる手があります。

一見、ムダに見える手。

すぐに取られてしまう駒を、あえて打つのです。

熟練の棋士ほど、こう言います。

「すべての駒には意味がある。ムダな駒など一つもない」

たとえば、飛車や角のような派手な駒ばかりを使っていても、勝てるわけではありません。

歩をどう使うか。

香車をいつ温存するか。

見捨てたようで、実は布石だった――そんな一手が、勝敗を分けるのです。

経営も同じです。

開き直っているように見える社員Bが、実は組織の風通しを改善する触媒になることがあります。

一見厄介な存在が、見方を変えれば、“社内の真実”を映す鏡かもしれません。

もちろん、悪意しかない者は、切るしかありません。

けれども、ただの無知や未熟さであれば、それを見極め、あえて打つという
「再教育の一手」
も、経営者には必要です。

たとえば、一見すると、
「あれが処分と言えるか?  上は何を考えているんだ。不公平じゃないか!」
と、見えるような配置換えになるかもしれません。

けれども、実はその部署こそ、本人がもっとも嫌がっている部署だとしたら・・・。

そう、
「それが処分なのか?」
という声の裏で、当の本人には、“根性試し”の場として、最も厳しい任務が課されているのです。

もちろん、本人が何を嫌がっているかを知るには、どれほどその社員のことを見てきたか――そこにかかっています。

これは、再教育以前の問題であり、“調査”が肝です。

社員Bが、そこから這い上がれるのか。

それを、じっくりと見ていくのです。

もちろん、時間はかかります。

表面だけを見て、
「軽すぎる」
「優遇だ」
と批判する社員が出てくるかもしれません。

しかし、それでもなお、そこに仕掛けた“再教育の意図”を信じられるか。

経営者にとって、それこそが勝負どころなのです。

一方で、反省を示している社員Aには、あえて距離を取ります。

遠くから見守りながら、実績と信頼を積ませていきます。

再登用のチャンスを、水面下で静かに準備しておくのです。

もっとも、これも一歩間違えれば、
「なぜ何もしてくれないのか」
と、本人のやる気をそいでしまうこともあります。

周囲からも、
「放置ではないか」
と誤解されるかもしれません。

どちらも、ただの
「許し」
ではありません。

経営者のいっときの感情などではなく、
「信じて試す」
再教育という名の、戦略的な判断なのです。

その意図が、社員に理解されることはほとんどありません。

けれども、だからこそ、誤解をおそれず、孤高を恐れず、決断し、信じ切る姿勢が問われるのです。

将棋と同じく、経営でも、すべての駒(社員)には意味があります。

切ってしまえば、それまでです。

けれども、温存して、見極めて、次の手を打つことで、想像もしなかった展開が開けることがあるのです。

再教育とは、単にチャンスを与えることではありません。

時に厳しい手を打つことも必要です。

けれども、その一手に
「信じる意志」
が宿っていなければ、ただの処分になってしまう。

人を裁くのではなく、導く。

それは、経営者の“読み”が問われる、将棋にも似た営みなのです。

著:畑中鐵丸