ある企業の管理職研修で、こんな問いを投げかけたことがあります。
「あなたが沈黙を選んだとき、その沈黙は、チームの誰に伝わっていますか?」
残念ながら、誰にも伝わっていませんでした。
上司として、あるいはプロジェクト責任者として
「これは言わないほうがいい」
と判断した沈黙。
それは自分の中では
「当然」
の判断であったかもしれません。
しかし、他のメンバーはその
「語らなかった理由」
を知らされておらず、そもそもそれが
「沈黙という選択肢」
であるという認識さえ持っていなかったのです。
沈黙というのは、個人の判断だけで守りきれるものではありません。
チーム全体として、
「語らないこと」
の意味や価値を共有していなければ、その沈黙は、むしろ誤解や不信の火種となってしまうのです。
沈黙は「ルール」ではなく「文化」
たとえば、守秘義務や情報管理に関するルールが整っている職場であっても、会議の場ではうっかり本音が出てしまったり、
「これは言っても大丈夫だろう」
と、誰かが軽率に口を滑らせたりすることが後を絶ちません。
なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。
ルールはあっても、
「沈黙の文化」
が育っていないからです。
沈黙というのは、条文で明文化できるようなものではありません。
口にしてよい情報、口にすべきでない情報。
その
「間」
にあるのが、
「言わないことの美学」
なのです。
つまり、沈黙とは
「ルール」ではなく「文化」であり、
「守らせるもの」ではなく「自ら守りたくなるもの」
なのです。
この違いは、実はとても大きいです。
語らなかった理由が語らずとも伝わるような組織は、どうやってつくられるのか
結論から言えば、それは
「仕組み」としての“文化”化と、
「ふるまい」としての“美学”化。
この2つの軸で育てていく必要があります。
あるプロジェクトで、上司がある社外情報について一切触れず、黙ったまま方針を変更したというケースがありました。
部下たちは困惑し、現場では
「あの件はどうなったのか」
「なぜ突然変わったのか」
とざわつき始めました。
これは、語らなかったこと自体が問題だったのではありません。
「なぜ語らなかったのか」
が共有されていなかったことが、問題だったのです。
沈黙という判断を、どう
「伝える」
かという矛盾。
そこにこそ、
「語らない美学」
が文化になる余地があるのだと思います。
たとえば次のような言い回しが考えられます。
「いまは話せませんが、しかるべきタイミングでお伝えします」
「ここで語らないという判断は、チームとしての選択です」
「これは、まだ語る段階に達していません」
こうした言葉の背後には、
「沈黙という判断は、信頼にもとづいている」
というメッセージがあります。
その態度を繰り返すことで、やがて
「語らずとも伝わる」
沈黙が育っていくのです。
“語らぬこと”は、チームの品格をかたちづくる
沈黙とは、弱さや逃避ではありません。
むしろ、それは強さであり、矜持であり、連帯の証しでもあります。
この話をある読者の方にしたところ、こんな反応をいただきました。
「黙っていると、仕事をしていないように見えるんです」
たしかに、そのように受け取られることもあるでしょう。
しかし、
「黙っている意味」
をチームが理解していない組織であれば、沈黙の中に込められた判断や責任は、誰からも評価されず、埋もれてしまいます。
だからこそ、沈黙の価値は、組織全体で共有しなければなりません。
あの手、この手、奥の手。
沈黙の価値を
「ミエル化」
「カタチ化」
していく工夫が、今まさに求められているのです。
たとえば、議事録に
「語らなかったこと」
を明示する欄を設けてみる。
たとえば、社内メルマガに
「いま語れないこと」
のコーナーをつくってみる。
あるいは、沈黙を貫いたことに対して、静かに称える習慣を根づかせてみる。
「語らなかったことに、意味がある」
そう思える組織には、情報を守る強さと同時に、主権ある判断を静かに貫く“芯”が内側から育っていくのです。
語らないという選択を、“私たち”の選択にするために
語らないというのは、たしかに個人の美学です。
けれども、組織の中においては、それは
「構え」であり、
「姿勢」であり、
ときに
「文化」や「連帯」そのもの
へとつながっていきます。
情報社会のなかで、すぐに語ること、すぐに反応すること、すぐに説明責任を果たすことが、正義のように扱われがちです。
だからこそ、
「あえて語らない」
という判断には、チームとしての確信と、覚悟が求められるのだと思います。
語らなさを恐れず、沈黙に意味を持たせる文化。
それは、ただのルールではありません。
それは、静かにチームを貫く、美意識そのものなのです。
著:畑中鐵丸