「言わなくていいことを、なぜ言ってしまったのか」
こうした
「ポロリ」
は、社内でも社外でも、あとを絶ちません。
意図的でないにせよ、情報が漏れる瞬間というのは、実にさりげなく、そして深刻です。
たとえば、次のようなケース、身に覚えはありませんか。
・「その話、まだ表に出さないでね」――そう念を押したはずの情報が、別の部署ですでに知られていた。
・「誰にも言ってないのに」――話した相手が、なぜか“知っていて当然”の顔をしていた。
あるいは、
・聞かれてもいないのに、自分から話してしまった。
・明確な口止めがあったわけでもないのに、なぜか口を開いてしまった。
・誰に咎められたわけでもないのに、なぜか“言ってはいけないこと”を語ってしまった。
もしかすると、これらは情報漏洩というより、
「語ってしまいやすい空気」
に巻き込まれた結果なのかもしれません。
語ってしまったというより、
「語らされていた」
のかもしれません。
人は、なぜ語ってしまうのか
語りたくなる理由は、いくつかあります。
ひとつは、「知っていることを話すと、ちょっと優位に立てる」という欲求。
もうひとつは、「場をまわすために何か話さねば」という義務感のような気持ち。
そしてもうひとつ、「つい口をすべらせてしまう」という、無意識の自己防衛反応。
とりわけ厄介なのが、3つ目、
「誰かに頼まれたわけでもないのに、つい話してしまう」というパターンです。
これは
「漏らした」
というより、
「情報をわざわざ届けに行ってしまった」
という構造になります。
その背景には、情報を
「守るもの」
ではなく
「動かすもの」
だと捉えてしまう感覚があります。
つまり、
「情報は誰かに渡してナンボ」
「話せば意味がある」
という思い込み。
「一度出た言葉が、どこへどう波及するか」
その想像力が、決定的に欠けているとも言えるでしょう。
話した人だけが悪いのか?
情報が漏れるとき、責められるのはいつも
「話した側」
です。
けれども、本当に悪いのは、話した人なのでしょうか?
もしかすると、
語らせようと
「仕掛けた誰か」
がいたのかもしれません。
もう少し踏み込むなら、
「語った側」
にすべての非があるとは限りません。
話すように仕向けてくる
「誘導のプロ」
がいることもあります。
つまり、
「仕掛けたのは誰か」
「仕掛けられたのは誰だったのか」
この構図で見ていくと、
実は
「話してしまった人」
が、
「引き出されていた」
だけなのかもしれません。
そうした視点も必要です。
たとえば、何気ない雑談の中に交わされる
「最近どう?」
という一言。
それが実は、情報を
「語らせるためのトリガー」
になっていることもあるのです。
あの手、この手、奥の手、禁じ手――
あらゆる手段を使って、情報を
「引き出す技術」
を持っている人がいます。
話す側が油断したというより、聞く側が
「仕掛けていた」。
そうした構造の中で、
「つい語ってしまった」
という結果が生まれるのです。
語らないための仕組みを持つ
だからこそ大切なのは、個人の感覚に頼らない
「語らない仕組み」
を持つことなのです。
「これは話していい情報なのかどうか」
その線引きが曖昧なままでは、人は場の空気や相手の雰囲気に流されてしまいます。
語らないことを、美学ではなく
「手順」
として持つことです。
・この話題には触れない
・このタイミングでは何も言わない
・この人には話さない
そうした「語らないルール」を、あらかじめ共有しておくのです。
あるいは、守るべき人や場に対しては、必ず
「語る前に一呼吸おく」
という手順を意識しておくことです。
それだけでも、
「語らせる力」
に対する抵抗力は、ぐっと増していきます。
語らない力とは、読み取る力でもある
情報を守るというのは、単に
「話さない技術」
ではありません。
・誰が
・どんな場面で
・なぜその情報を欲しがっているのか
その背景まで読み取れる人が、本当の意味で
「語らない力」
を持っている人なのです。
そして、もう1つ。
語らないというのは、
「相手を信じていないから」
ではありません。
むしろ――
「情報の価値を理解しているから」
語らないのです。
話すことが、必ずしも親切ではない。
語らないことが、もっと深い誠実である。
そうした
「構え」
を持つ人が、組織の中で、本当に信頼される存在になっていくのです。
語らないことで、信頼を守れる。
語らないことで、未来を壊さずに済む。
こうした
「見えない技術」
こそが、
今日のビジネスの現場を、静かに、けれども力強く支えているのです。
著:畑中鐵丸