「反省しない社員を、育てるべきか、切るべきか。」
経営の現場では、こんな問いに直面することは少なくありません。
たとえば今回、ある企業で人事の相談を受けました。
不祥事を起こした社員が2人いました。
社員Aは、深く反省の意を示し、自らの処分を当然のことと受け止めていました。
一方、社員Bは開き直り、仲間内では会社批判を繰り返していたとのことです。
「辞める」
と言いながら、実際には辞めません。
むしろ、会社にとどまりながら、経営を腐すのです。
社員Aと社員B、どちらが悪質か、火を見るより明らかです。
けれども――この2人を、どう処するかは、単なる比較の問題ではありません。
その社員に悪意があるのか、ただ無知なのか。
本当に反省しているのか、それとも芝居(表面だけの反省)なのか。
育てるべきか、切るべきか。
その見極めは、人の問題のようでいて、実は経営者自身の在り方が、もっとも深く問われる瞬間でもあります。
この話を聞いたとき、私はふと思い出しました。
以前、まったく別の経営者が、驚くほど似たようなことを語っていたのです。
「きれいごとでは人は育ちません。誤解や葛藤が渦巻く“泥のような現場”で、どうにか人を信じて育てていくしかないと、日々、肚をくくっています」
現場というのは、いつだって不格好で、どろどろしていて、その時々の感情も、ぶつかり合っています。
表面的に整った美しい処分や、いかにも正しそうな論理だけでは、人は動きません。
だからこそ、判断は、難しいのです。
ここで、将棋の話を少ししましょう。
将棋には、
「捨て駒」
と呼ばれる手があります。
一見、ムダに見える手。
すぐに取られてしまう駒を、あえて打つのです。
熟練の棋士ほど、こう言います。
「すべての駒には意味がある。ムダな駒など一つもない」
たとえば、飛車や角のような派手な駒ばかりを使っていても、勝てるわけではありません。
歩をどう使うか。
香車をいつ温存するか。
見捨てたようで、実は布石だった――そんな一手が、勝敗を分けるのです。
経営も同じです。
開き直っているように見える社員Bが、実は組織の風通しを改善する触媒になることがあります。
一見厄介な存在が、見方を変えれば、“社内の真実”を映す鏡かもしれません。
もちろん、悪意しかない者は、切るしかありません。
けれども、ただの無知や未熟さであれば、それを見極め、あえて打つという
「再教育の一手」
も、経営者には必要です。
たとえば、一見すると、
「あれが処分と言えるか? 上は何を考えているんだ。不公平じゃないか!」
と、見えるような配置換えになるかもしれません。
けれども、実はその部署こそ、本人がもっとも嫌がっている部署だとしたら・・・。
そう、
「それが処分なのか?」
という声の裏で、当の本人には、“根性試し”の場として、最も厳しい任務が課されているのです。
もちろん、本人が何を嫌がっているかを知るには、どれほどその社員のことを見てきたか――そこにかかっています。
これは、再教育以前の問題であり、“調査”が肝です。
社員Bが、そこから這い上がれるのか。
それを、じっくりと見ていくのです。
もちろん、時間はかかります。
表面だけを見て、
「軽すぎる」
「優遇だ」
と批判する社員が出てくるかもしれません。
しかし、それでもなお、そこに仕掛けた“再教育の意図”を信じられるか。
経営者にとって、それこそが勝負どころなのです。
一方で、反省を示している社員Aには、あえて距離を取ります。
遠くから見守りながら、実績と信頼を積ませていきます。
再登用のチャンスを、水面下で静かに準備しておくのです。
もっとも、これも一歩間違えれば、
「なぜ何もしてくれないのか」
と、本人のやる気をそいでしまうこともあります。
周囲からも、
「放置ではないか」
と誤解されるかもしれません。
どちらも、ただの
「許し」
ではありません。
経営者のいっときの感情などではなく、
「信じて試す」
再教育という名の、戦略的な判断なのです。
その意図が、社員に理解されることはほとんどありません。
けれども、だからこそ、誤解をおそれず、孤高を恐れず、決断し、信じ切る姿勢が問われるのです。
将棋と同じく、経営でも、すべての駒(社員)には意味があります。
切ってしまえば、それまでです。
けれども、温存して、見極めて、次の手を打つことで、想像もしなかった展開が開けることがあるのです。
再教育とは、単にチャンスを与えることではありません。
時に厳しい手を打つことも必要です。
けれども、その一手に
「信じる意志」
が宿っていなければ、ただの処分になってしまう。
人を裁くのではなく、導く。
それは、経営者の“読み”が問われる、将棋にも似た営みなのです。
著:畑中鐵丸