00143_改めて「教育」というものを考える(1)_20220620

1 世の中、本当に大事なことほど、本や新聞に載っていない

世の中
「本当に大切なこと」
ほど、本や教科書には載っていないし、新聞やテレビでも教えてくれないし、親や、学校の先生や大学の教授も知りません。

じゃあ、
「公式情報として表に出てこない世の中の本質」
を、どうやって知るか?

それが、知性、
「ホンモノ」
の知性を働かす、ということです。

「本当の」
勉強というのは、この種の
「ホンモノ」
の知性を身につけることです。

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じて、初めて身に付けることのできる、本物の知性です。

そういう情報は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

そして、この
「一握りの人間によって独占されている、公式情報として表に出てこない世の中の本質」
の存在を知り、中身を理解し、実際機能している現場をみて、自分でも使ってみて、限界を知り、臨床的な知見を増やし、
「モノにする」
というのが、
「本当の教育」
と呼ばれるものだと思います。

2 小学校以来、垢のように身に着けてきた「常識」や「良識」の価値と有用性を疑ってみる

「公式情報として表に出てこない世の中の本質」
というものは、だいたい非常識なものです。

そして、
「非常識この上ない、公式情報として表に出てこない世の中の本質」
を知るうえで、あるいは、これを知るための知性を身に付けようとするとき、たいてい、
「常識」
が邪魔します。

無茶苦茶邪魔します。

シビれるくらい、徹底的に邪魔してきます。

というか、そもそも、
「常識」
とは何でしょうか?

「常識」とは、「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」を指します
(アルベルト・アインシュタインの言葉です)。

そして、「(私からみた今行われている)教育(という名の営み)」は、
「頭脳が未発達で、知性が乏しい、知的水準が未熟な者へ、『常識』という『陳腐な偏見』を植え付けるための、国家主導の洗脳」
のように観察されます。

「(私からみた今行われている)教育(という名の営み)」を言い換えると
「集団行動にふさわしい挙動規律を適合するためのOS(オペレーション・システム、基本挙動)」
を、各端末である未成年にダウンロードする。

これが本質的な意味のように思えます。

なお、「ダウンロードするべき当該ソフトの是非や有効性」
は、まったく別の問題です。

格納先に複製ソフトを移植し、基本挙動を統一させる。

ただ、それだけがダウンロード、すなわち、「(私からみた今行われている)教育(という名の営み)」の目的、となっているように観察されます。

ダウンロードするソフトが、優れたソフトであれば、最高の教育となります。

しかし、ダウンロードしたソフトが狂っていたり、間違っていれば、どんなに優れたコンピューターもただのゴミとなります。

どんなに計算機能が高く、記憶領域の大きなコンピューターであっても、OSがダメであれば、まったく使いものになりません。

コンピューターに間違ったOSをダウンロードしてしまったら、一度、初期化するなりソフトを削除するなりして、正しいOSを入れ直すべきです。

しかし、一度おかしなOSをダウンロードされた人間の場合、すなわち、間違った教育を受けて強固な偏見、もとい常識に凝り固まってしまった人間をロボトミー手術したり…というのは、人権問題を生じかねません。

ですから、教育を受けるのは結構ですが、教育を受ける前に、
「教育」
という名のもとに一体どんな
「洗脳」
が行われているのか、をきちんと考えておく必要があります。

「洗脳」
には、
「いい洗脳」

「悪い洗脳」
があります。

ソフトウェアに、機敏で効率的な挙動をするよいソフトと、無駄にリソースを食うばかりで非効率でエラーばかり撒き散らす廃棄物のようなソフトがあるように。

3 悪い教育(洗脳)

ダメな会社やバカな組織に間違って入ってしまった場合、現状維持バイアスを働かせるあまり、

「探せばどこかいいところがあるはずだ」
「ダメなところをそのまましないようにすれば自分としても成長の糧を得られる」
とポジティブ(というか、アホ)な考え方をする人がいます。

その際、自分を納得させるために、
「反面教師」
という言葉が使われます。

曰く、
「反面教師という言葉があるじゃないか。この会社の経営のあり方を反面教師として、自分は 成長するぞ」
と。

一般に、
「反面教師」
とは、
「悪い手本となってくれる事柄や人物」
のことを指すと考えられてお り、
「人のふり見て、我がふり直せ」
と同じ意味で使われることが多く、故事成語のように思われています。

しかしながら、
「反面教師」
という言葉は、古来の諺でも何でもなく、第二次世界大戦後、毛沢東によって開発された陰惨なリンチ手法を指すもので、その中に肯定的な意味はまったくありません。

すなわち、毛沢東はある組織に、能力ないし思想に欠陥がある者がいた場合、放逐せず、あえて、仕事や権限や尊厳を一切奪った状態で飼い殺しにし、その酷い状況で晒し者にすることにより、制裁を加えるとともに、同様の人間の発生や増殖を防ぐという規律手段を用いたそうです。

そして、そのリンチの対象となった人物を指して
「反面教師」
と呼んだそうです。

この言葉の本来の意味のとおり、
「反面教師」
は、リンチのターゲットであり、ここから学ぶものは一つもなく、また、学んではいけないものです。

たとえば、ここに、東大を強く志望する、開成中学受験に合格した少年がいたとしましょう。

この少年を、あえて、
「教師も生徒もやる気のない、すさんだ公立中学」
に放り込んでしまいます。

この場合、少年は、周囲の人間や環境を
「反面教師」
として学んで、人として大きく成長して、無事東大に合格してくれるでしょうか。

逆ですね。

おそらく、そのまま開成に入って中高6年間を過ごせば、現役で東大に合格できたであろう少年 は、一生東大に合格できないで終わることになるでしょう。

このように
「反面教師」
は、人間の健全な成長にとって有害無益なものなのです。

「目の前の残念な人間や環境を反面教師として成長するぞ」
などという文脈において語られる
「反面教師」
という言葉は、ダメな人間がダメな人間関係やダメな環境から抜け出す努力を放棄する際の自己正当化の弁解道具に過ぎません。

賢明な人間は、
「反面教師」

「教育上、悪い影響を及ぼす」
「このお手本をみても何も学ぶものはない」
「悪い洗脳を受けるだけ」
と考え、全速力で逃げて遠ざかり、一刻も早く
「模範たる教師」
をみつけるための努力をするものです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.177、「ポリスマガジン」誌、2022年6月号(2022年5月20日発売)