00105_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」33・終_総括_20201220

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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これまで、苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」として、起業を考えたり、将来経営幹部を目指したり、すでに家業をついでオーナーとして企業経営をしておられる方の心構えに至るまで、
「過酷な経済社会を生き抜くための表層的なノウハウ、テクニック」
を超えた、
「本質的なリテラシーやマインドセットを含めた生き方、考え方」
をお伝えしてきました。

いずれも、
「好感度がイマイチで、マイノリティ志向の強い、毒舌家で、(本人にはさっぱり理由は不明ながら)とかく敵が多い、畑中鐵丸」
が語る、
「誰にでも適用されるべき普遍的理念」
とは真逆の、
「極めて適用範囲の狭い、独善的で偏見に満ちた代物」
といえなくもなかった代物であったかもしれません。

そんな、好感度が芳しくなく、とかく口の悪い畑中鐵丸ですが、
「これだけは、美徳として堅持している」
というものがあります。

それは、畑中鐵丸の気質として、
「ウソをつくのが下手くそ」
というか、
「ウソをつけない」
というか、
「思ったまま、考えたことを口に出してしまう」
という点です。

美点なのか欠点なのかは捉え方にもよりますが、私の語る内容は、だいたい、的のど真ん中を射ちゃっていると思います。

畑中鐵丸は、
「理想」
を語るのは、苦手というか、下手クソです。

だって、
「理想」
って、現実とは違う、いってみれば、キレイでデオドラントな
「ウソ」
ですから。

「仕事や人生の大事な局面」で、「常識や、学校の先生や親に教えられたことや、テレビや新聞で言っていること」にしたがうと、たいてい失敗します。

「常識や、学校の先生や親に教えられたことや、テレビや新聞で言っていること」は理想であり、キレイゴトであり、耳障りはいいものの、役には立たないのです。

「仕事や人生の大事な局面」は、「キレイゴトではどうにもならない、圧倒的な現実」が大きく立ちはだかり、これに対して、「あの手、この手、奥の手、禁じ手、寝技、小技、反則技」を繰り出す「ルール軽視の何でもあり」で死にものぐるいで生き残るような場面ですから。

いずれにせよ、人生、世渡り、身過ぎ世過ぎの上で、役に立つのは、キレイゴトではなくリアリティです。

弁護士として、企業の大事や切所に立ち会う専門家として、常に、リアリティを語ってきましたし、現実に立ち向かうためのリアリティを語ろうとすると、クライアントや関係者がキレイゴトを盾に邪魔をし、足を引っ張ります。

キレイゴトは、有害に作用し、キレイゴトに沿った処理をすると、たいてい首を締め、死期を早めますし、結局は利敵の論理に過ぎません。

その意味では、私は、常に、リアリティを語り、敵と同時に、キレイゴトを語って利敵に回る内部の世間知らずの大馬鹿者と対向する、という二正面作戦を強いられ続ける職業人生を歩んできました。

その意味で、私は、現実を、みたまま、とらえたまま、正確に伝えるのは、得意です。

ウソをついたり、美辞麗句でごまかしたり、といった面倒なことをしなくて済みますから。

他方、真実ほど、残酷に人を傷つけるものはありません。

あるとき、クライアントの高齢の社長に言われたことがあります。

「先生、何をいっても結構だ。タブーなき議論が大事だ、というのもわかる。けれどもね、本当のことだけは言っちゃいけない。先生から、反論できない事実や真実を言われると、本当につらくなるし、死にたくなるからさ」
と。

しかしながら、
「真実、事実、現実、本当のこと」
は、課題の発見・特定・処理に不可欠であり、
「真実、事実、現実、本当のこと」
を避けては、問題の改善はおよそ困難です。

もちろん、ここで今まで述べたことは、
「真実、事実、現実、本当のこと」
のほんの一部です。

まだまだ、きちんと把握し、再確認しておくべき
「真実、事実、現実、本当のこと」
は無限にあります。

では、どうやって、偏見や誤認や誤った評価・解釈を避けて、
「真実、事実、現実、本当のこと」
を正しく、客観的に、フェアに到達する知性や感性を身につけるべきか。

それは、実は簡単なことです。

子供のころから、耳にタコができるくらい、繰り返し言われてきた、親御さんや、小学校の先生や、テレビや、新聞がインプットしてきた
「常識」
「良識」
「社会のルール」
「道徳」
「倫理」
といったものを、すべて忘れ去ることです。

親御さんや、小学校の先生や、テレビや、新聞が、
「教育」
という名の
「洗脳」作用
を通じてインプットしてきた
「常識」
「良識」
「社会のルール」
「道徳」
「倫理」
なるものは、いってみれば、
「理想」
をキレイゴトとして美しく語っているに過ぎず、それは、
「真実や現実とは真逆のもの」
であって、いってみれば、耳に心地いい
「ウソ」
に過ぎません。

「ウソ」
をありがたく奉じて、真実や現実をないがしろにしては、問題解決はおろか、課題の発見・特定すら困難です。

20世紀最大の物理学の権威にして、歴史的な天才科学者であるアインシュタインは、
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
と喝破しました。

「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理にしたがって考え、行動していたら、どうもうまくいかない。何か違和感を感じる」
そんなときは、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
こそ疑ってみるべきです。

もちろん、
「『常識や良識や社会のルールや道徳や倫理』のすべては無価値で無意味である」
というような過激なことを言うつもりありません。

ですが、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
にも
「耐用年数」
というものが観念できます。

ひょっとしたら、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
なるものが、制度疲労や本質劣化の限界に達していて、効用喪失を通り越して、有害になってしまっており、それが、
「違和感」
となって皆さんに警告音を発しているのかしれません。

私がよくクライアントや学生や弟子にお伝えする話として、こんな事例があります。

「それまで圧倒的通説であった天動説が、何時、どのようなプロセスを経て、地動説に、通説の座を譲ったのか、知っていますか」
「天動説の学者が、観測データや天文現象を目の前にして、その背景原理における自説の致命的な誤りに気づいて、非を認め、大いに恥じ入り、膝を屈して、『私が愚かでした。バカでした。間違っていました。地動説の正しさを認めます。今までアホな考えに固執してすいませんでした』とお詫びしつつ、説を変え、転向したのでしょうか」
と。

実際は、バチカンの天動説の学者は、どんな観測データや天文現象を突きつけられても、コペルニクスが地動説を唱えてから400年近くも、頑として、自らの誤りを認めず、自説の正しさに固執し、
「下水管のネズミ」
のようにしぶとく生き残り続けました。

バチカンの天動説の学者が死ぬときも、死してなお、有害な毒でしかない愚昧な自説を譲らず、生き残った者にまで愚かさを感染させていきました。

すなわち、天動説の学者は、自らの死の間際に、弟子や後継者たちに、
「いいか、地動説は絶対間違いだからな。邪説だからな。どんな観測データや天文現象を示されても、悪魔の説だ。わかったな。オレが死んでも、天動説を信奉し、地動説などという異説・邪説に転向するなよ。もし転向・変節したら、化けて出てやるし、おまえら全員地獄に行き、煉獄の炎に焼かれるぞ」
と真顔で脅迫して、それこそ
「孫子の代」
まで、
「天動説」
という愚説を信奉するよう強制したのです。

こうして、天動説という愚説は、バチカン内部で、400年近くも
「冷蔵庫の裏のゴキブリ」
のようにしぶとく生き残り続けたというわけです。

バカチン、もといバチカンが、地動説に転向したのは、1993年になってからです。

ネコが粗相を隠すように、転向をさとられないよう配慮しつつ、地味に、ひっそり、姑息に、ひそひそ、しれっと、知らない間に、さっくり、転向しました。

実に、姑息で、卑怯で、卑劣なやり方で、
「異説を唱える反対者を火炙りにしてまで守り続けた、愚説としての自説」
をしめやかに放棄し、人目を憚り、こっそり、ひっそり転向したのです。

「バカは死ななきゃ治らない」
などといいますが、天動説を組織的に信奉したバカチンもとい、バチカンの頑迷固陋ぶりは、これを通り越しています。

「死んでも治らないバカ」
「死してなお、生き残ったものも縛り付ける有害ではた迷惑なバカ」
とでもいうべき、地獄に落ちてもいいくらいのバカさ、アホさ、愚劣さです。

また、転向の際の卑劣さや姑息さも際立っており、唾棄すべき品位低劣さです。

「ちゃんと、自己批判して、総括しろよ」
「ガリレオやコペルニクスといった天才たちに、三跪九叩頭の礼を以て、きちんと謝罪しろよ」
と言いたくなります。

何を言いたいか、といいますと、
「常識にとらわれるな」
「違和感が生じたら、違和感こそ大事にしろ」
「自分の違和感を疑わず、教育の名の下に行われた『洗脳』によって18歳に植え付けられた『常識』という『偏見のコレクション』をこそ疑え」
ということです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.161、「ポリスマガジン」誌、2020年12月号(2020年11月20日発売)