00103_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」31_(17)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その3_20201020

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前回、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「どんな人間であれ、生きている限り、1日最低1つは法を犯す」
という、歴史上証明された絶対的かつ普遍的な法則を紹介しつつ、この例外として、
「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの方が、2種類存在する、と申し上げ、その1つとして、受刑者が
「生きていても、(受刑中は)絶対法を犯さない(というか、犯せない)」
のタイプの人間である、と申し上げ、受刑者の処遇の実体や、懲役刑という処罰の本質について、ご紹介しました。

(7)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの人間その2―皇族の方々―

「絶対、法を犯さない」
という属性をもつ方々が、受刑者に加え、もう1タイプ存在します。

それは、皇族の方々です。

無論、皇族の方々は、性欲を制御できない神父さん(※ごく一部だと思います。多分ね)や、世俗の欲にまみれることもある神主さん(※ごく一部だと思います。わかんないけど)やお坊さん(※ごく一部だと思います。自信はないけどね)と違い、気品と、気高さと、生まれ持った高貴さがおわしますから、
「その品位と高潔さがある故に、絶対、法を犯さない」
ということもあるでしょう(ね、おそらく)。

(そんなもんをお持ちかどうか知らんけど)内面の気品や気高さもさることながら、それ以上に、日本の皇族の方々は、特殊な環境下におかれています。

すなわち、皇族の方々は、24時間監視され、自由が奪われ、社会との接点がありません。

なんと。

偶然にも、意図せず、発見した私自身びっくりしていますが、「皇族の方々の生活環境」は、「刑務所の受刑者の生活環境」と同じになっています(!)。

だから、どんなに罪を犯そうとしても、環境面、処遇面で、犯しようがない、ということもあり、(もちろん内面の気高さも大きなファクターもあるかもしれませんが)
「絶対、法を犯さない」
という特異な人生を送っておられるのです。

欧米の皇族には、監視もなくあるいはゆるく、自由を謳歌でき、社会との接点が多いせいか、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
といったタイプの方もいらっしゃり、薬物中毒経験者であるノルウェー王室のメッテ・マリット王太子妃など、結構、ワイルドでファンキーな問題を起こしていらっしゃいます。

しかしながら、わが国ニッポンでは、
「象徴天皇制」
言い換えれば
「天皇終身アイドル制」
という、大きな大きなお役目を負わされた挙げ句、刑務所の受刑者同様、24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点もなく、我々一般ピーポーのように気軽に罪も犯せない、なんとも窮屈な生活を強いられている日本の皇族の方々は、本当においたわしい限りです。

臣民の1人としては、皇族の方々が、そんな窮屈な生活を送られながら、不満1つ言わず、しっかりとお役目を果たされていることについては、頭が下がる思いです。

(8)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの2種類の人間―受刑者と皇族の方々―の共通性

「受刑者」

「皇族の方々」
という、一見真逆のタイプの二種類の属性の方が、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「どんな人間であれ、生きている限り、一日最低一つは法を犯す」
の例外として、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
稀有な方々として、厳然と存在します。

(受刑者と皇族の方々を並列として議論するのは、大の「皇室ファン」の私としては、どうにも気が引けますが、純粋な社会科学の議論として続けますと、)これら例外的な方々が、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
のは、
「法を完璧に把握し、すべての法を尊重し、常にかつ完全に、高貴で品位を保ちエレガントな振る舞いをされているから」
というよりも、
「社会と隔絶された環境におかれ、24時間監視体制下にあるから、たとえ法を犯したくても物理的・環境的・方法論的に法を犯しようがないから」
というのが大きな理由と思われます。

(9)「法を守れない人間」を優しく保護する「プライバシー権」

以上のような、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
稀有な方々は別として、ごく普通に市民生活を送るカタギの我々は、生きている限り、気軽に1日に2つ3つ法を犯す自由を謳歌し、気ままに、楽しく生活しています。

除夜の鐘が108とかいわれ、煩悩は108程度ですが、普通に生活していたら、法令違反は1年間で軽く1000を超えます。

我々は、そのくらい、日々法を犯しながら、平気な顔で生きているのです。

そして、法律も、このような人間の本質をよく理解した上で、
「隠れて、コソコソ、表沙汰にならず、ひっそりと生きていく」
ということを、人格的尊厳を守るための人権として、正面から認めています。

この、
「誰しも、法を守らず、約束を反故にし、ウソをつき、他人を裏切り・陥れ、目先の利益を姑息においかけて、生きている」
という
「人間のど真ん中の本質」
をよく理解した上で、
「検挙・起訴に至らないようなライトな不正や非行も含めて、都合の悪いことや外聞の悪いことを表沙汰にせず、隠れて、コソコソ、ひっそりと生きていく自由ないし権利」
を、
「人格的尊厳を守るための人権」
として高らかに謳いあげ、保障した憲法上の権利。

これを称して、
「プライバシー権」
といいます。
 

「人間は、生まれながらにして疚しいことが満載なので、これを逐一追及されることなく、コソコソと生きていける状態こそが、『人間が人間らしく、人格的尊厳を保って生きていく』ためには絶対的に必要である」

これがプライバシー権を「基本的人権」として保障する背景論理です。

「社会で生活する全員が、24時間365日、衆人環視に耐えられるような、非の打ち所1つない清廉潔白な生活を、正々堂々と送っている」
というなら、こんな
「プライバシー権」
なんて、
「隠れてコソコソする生活を保障するような姑息にして卑怯な権利」
なんて不要なはずです。

しかしながら、プライバシー権は、皆ほしがりますし、これがないと、人格的尊厳を守って生活できない。それほど、重要にして貴重な人権なのです。

このプライバシー権のおかげで、我々は、衆人環視の状況で現行犯を犯すような明白で愚かなことをせず、あるいは、犯人性や行為を示す顕著な痕跡を残さない限り、何時でも、気軽に、自由に、イージーに、法を犯せます。

そして、そのような環境を享受する自由ないし権利を、法律の王様である憲法が基本的人権として保障しています。

これが、プライバシーという権利の根源的本質です。

正義も品もない、むちゃくちゃな言い方ですが、ある意味、現実的で、人間臭い話です。

憲法というのは、
「すべての人間が、何時何時でも、どのような状況にあっても、すべての法を守って、誰に対しても説明つく行動をして生きるべき」
という非現実的なまでに堅苦しい教条主義的前提に立っていません。

むしろ、憲法は、
「人間が生きている限り、法を犯さずにいられないが、皇族の方々や囚人でもない限り、それを逐一目くじら立てて、全てを監視下において、窮屈で息がつまるような生活を強制せず、自由気ままに、ときに、ちょっとした悪事や非行や法令違反を含め、やましいことや、後ろ暗いことや、説明できないことや、表沙汰にしてほしくないようなこともやらかしながら、生きていける。そういう姑息な生き方が保障された環境こそが、人間らしく生きることであり、これを基本的人権として保障するべき」
という、
「実に、成熟した考えに基づく、粋(いき)で鯔背(いなせ)で世情に通じ、俗気にあふれる法理」
を内包しているのです。

そして、プライバシー権という
「犯罪や犯罪に至らないようなライトな非違行為も含めて、都合の悪いことや外聞の悪いことを表沙汰にせず、隠れて、コソコソ、ひっそりと生きていく」
ための人権のおかげで、皇族でも受刑者でもない、市井の我々は、現行犯として逮捕されたり、顕著な痕跡をおおっぴらに残すような真似をしない限り、1日2つや3つの法を犯しながら、自由に、気ままに生活ができるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.158、「ポリスマガジン」誌、2020年10月号(2020年9月20日発売)

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