00102_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」30_(16)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その2_20200920

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前回、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「人間がどんなに修行を積んで、立派になっても、欲には決して勝てない。法やモラルを守れといっても、人間が動物である限り、本能と衝突した場面では、必ず、本能が法やモラルに打ち勝つ」
「どんな人間であれ、生きている限り、1日最低1つは法を犯す」
という社会科学上の絶対真実ともいうべき原理ないし法則をお伝えしました。

しかし、物事には必ず例外があります。

すなわち、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
という絶対的かつ普遍的な法則にも例外があり、
「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの方が、私の知る限り、少なくとも2種類存在する、と述べました。

では、この
「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの人種、どんな属性の方なのでしょうか。

いえ、カトリックの神父さんとか大きな神社の神主さんや名刹のお坊さんとかではありません。

カトリックの神父さんの児童の性的虐待や、
「姉弟の間で、文字通り『血で血を争う抗争』」
となった神社の内部抗争等をみれば、むしろ、
「どんなに立派(そう)な人間でも、決して欲には勝てない」
というシンプルながら、強烈な現実を再確認することができるくらいですから。

(5)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの人間その1―受刑者―

「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの人種の1つ目は、懲役刑を食らって刑務所に収監された受刑者の方々です。

これらの方々は、別に、法令遵守意識が高いとか、精神が高邁・高潔というわけではありません(私の勝手な推測ですが、おそらく真実に近いと思います)。

普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着で、さらに言うと、大胆に法を犯したか、はっきりとした痕跡を残したか、あるいはその双方をやらかし、普通の人より大きなしくじりを犯した方々です。

ですが、受刑者の方々は、どんなに法を犯したくても犯すことは不可能です。24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点がないからです。

(6)「懲役」というペナルティの本質的過酷さ

深夜の高速道路の自動車のスピード状況や、かつての大阪市内の路駐の状況をみれば、
「ごく普通の市民であっても、生きている限り、個人単位で、1日に2つ3つ法を犯しながら、生活している」
という事実はご理解いただけると思います。

除夜の鐘が108とかいわれ、煩悩は108程度ですが、普通に生活していたら、法令違反の数は1年間で軽く1000を超えます。

我々は、そのくらい、日々法を犯しながら、平気な顔で生きているのです。

ところが、犯罪者の方々、すなわち、

・「法を無視ないし軽視するような性格・気質」を生まれ持っている
あるいは
・「欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向」を有している
ような特定属性の方々が、
「どんなに法を犯したくても、24時間監視体制下にあって、社会との接点もないため、決して法を犯せない」
という環境で長期間過ごさなければならない。

そこに、懲役刑というペナルティの本質があると考えられます。

すなわち、懲役刑というペナルティの本質的な意味は、
「どこかに閉じ込めておくこと」
「どこかに隔離しておくこと」
ではありません。

もし、懲役刑がそういう趣旨をもつのであれば、犯罪者をまるごと、脱出手段をなくした絶海の孤島に放り出せば、済むはずです。

刑務所設備もそのメンテナンス費用も刑務官その他の人件費も大幅に削減され、
「犯罪者のために多額の血税を投入する」
という無駄もなくせます。

多額の建築費・設備運営費・人件費をかけて、24時間監視体制で自由を奪うインフラを作って運営するのは、犯罪者に対して、単純な隔離以上に、受刑者により積極的に働きかける意義と必要性が存在するはずです。

要するに、
「犯罪者、すなわち、『法を無視ないし軽視するような性格・気質』を生まれ持っている、あるいは『欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向』を有しているような特定属性の方々」
に対して、
「一定期間、24時間監視体制の下、社会との接点を失くさせ、『法を犯したくても、決して法を犯せない』という状況ないし環境」
に追い込み、強烈な精神的な負荷をかけさせる。

このように、
「『法を無視ないし軽視するような性格・気質』を生まれ持っている、あるいは『欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向』を有しているような特定属性の方々にとって、悪夢というべき、最悪な環境」
を作って、そこに犯罪者を送り込むことを以て懲らしめとする、という点にこそ、懲役刑というペナルティの根源的負荷性があるものと思われます。

要するに、
「普通の人なら、普通に生きて、普通に1日2つや3つの法を犯しつつ、娑婆で気ままに生きれる」
という自由があるところ、懲役刑を食らうと、
「普通の人のように、気軽に、自由に、カジュアルに法を犯そうとしても、24時間監視され、社会との接点がなく、自由が奪われた状態で、気ままに法を犯せない」
という窮屈な生活を強いられる。

しかも、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
というリベラルでファンキーな方に、普通の人より窮屈な生活を強いる、という苦痛を味わわせる。

ここに、懲役刑のペナルティとしての厳しさがあるものと思われます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.157、「ポリスマガジン」誌、2020年9月号(2020年8月20日発売)

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