00091_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」19_(5)何事も目的をはっきりさせるべし(xv・小括)_畑中鐵丸流「楽しい人生」を送り切った後の死に方_20191120

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です。

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する「楽しい人生」については、
自由であること(その1)
美容と健康を保てること(その2)
財産があること(その3)
尊厳があること(その4)
刺激があること(その5)
及び
自分のコピーを増やすこと(その6)
のすべてが内包されるべき要素として必須です。

すなわち、自由であること(「楽しい人生」の内包要素その1)や、健康であること(「楽しい人生」の内包要素その2)カネをもっていること(「楽しい人生」の内包要素その3)ナメられない程度の評価基盤、すなわち、尊厳をもっていること(「楽しい人生」の内包要素その4)刺激があること(「楽しい人生」の内包要素その5)自分を実現し、自分を理解し共感し、自分のことを忘れず、埋もれさせることなく、自分の思いを共有し伝播してくれる弟子やコピーを増やすこと(「楽しい人生」の内包要素その6)が、「楽しい人生」であり、私の人生における唯一無二の目的です。

そして、「楽しい人生」を送って、送って、送りきって、何の悔いも迷いもなく死ぬことができると、天国にコネができます。

この世の去り際、笑顔で人生を終えたときに、天使がやってきて、楽しいところに連れていってくれて、死後も楽しく過ごせる。

私個人としては、そんな風に思っています。

これに関連して、私の死生観についてお話しておきたいと思います。

葉隠には「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉があるそうです。

私としては、この言葉を死を美化したものではなく、
「いつ死んでもいいように、悔いのない人生を生きろ」
というメッセージと捉えています。

とはいえ、死んだときのことをイメージしたり、想定しておくことは大変重要です。

別に、死を望んでいるとか、自殺願望があるとか、病んでいるとか、この世をはかなんでいるとか、そんな消極的で後ろ向きの話ではなく、
「『出口戦略』として、人生の戦略設計上、即物的かつ功利的な意味において、この上なく重要である」
というロジカルで現実的な話として重要性がある、という意味です。

私の死生観ですが、
「死ぬこと自体は、全く、全然、ビタ一ミリ怖くないが、イタいのだけはマジ勘弁」
というものです。

死ぬことは全然望んでいませんし、むしろ、元気に長生きすることをリアルに想像し、希望しています。

私の人生設計において、満100歳の誕生日に、自分への誕プレ(誕生日のプレゼント)として、漆黒のランボルギーニを買って、老人用オムツの上から、アルマーニのスーパータイトな黒の革のつなぎを着用し、身バレしないように老眼鏡入のサングラスをかけて、夜な夜な繁華街をドライブして安全見回りをして、警備業の免許を取るなど法に触れないように武装した上で、反撃されても勝てそうな「悪」をみつけたら成敗する、というボランティア活動する、ということがすでに具体的に盛り込まれています。

そして、死ぬのは、「満120歳の誕生日に、生涯二回目となる、30歳への若返り手術をしているとき、全身麻酔がされ、完全にラリった後、麻酔の過剰投与か手術ミスといった医療過誤が原因で、絶対、絶対、絶対に痛くなく、安らかに死ぬ」と決めています。

もちろん、「間違って手術に成功」した場合、あとさらに70年くらい生きるかもしれません。

そのときは、自分より年下に対して、「人生の圧倒的パイセン」として、これ見よがしの上から目線で、エラそうに接し、未熟ぶりをディスりまくって、地位と権力と老害を振り回してやるつもりです。

「全身麻酔後、完全にラリって、意識がブッ飛んで、絶対痛くない」状況でくたばる際、クライアントや悪の手から救ったか弱き被害者や老若男女のあらゆる世代のファンが全国からかけつけ、すすり泣かれて、安らかに笑顔で旅立つでしょう。

お墓は、東京都内の一等地、と決めています。

東京都内のど真ん中に住み、普段「外堀」から出ない生活を送っているメトロポリタンの私としては、都内主要三区(千代田区、中央区及び港区)の外の「人外魔境」には、大事な骨を埋めてほしくない。

それよりも何よりも、健康で愉快で楽しい思いができる限り、徹底的に生きることに執着し、この世にへばりつきたいと思っています。

このように、「人生を楽しむ」という明確な目的をはっきりともち、しかも、「何時、どのように死んでいくか」という出口戦略まで明確にもっていることで、私の人生は台風一過の青空のように、クリアで明快です。

もちろん、目的を達成するためには、乗り越えるべき課題や苦労が出てきたり、邪魔が入ったり、足を引っ張られたり、さらには、目標未達で終わるかも知れません。

とはいえ、(志が低く、卑近で、聞こえが悪いとかいわれるかもしれませんが)現実性と達成可能性があり、達成することがワクワクするような、はっきりとした目的があるせいか、人生に苦労や負荷はありますが、迷いはあまりありません。

ということで、ボーッと生きてしまわないためにも、何事も、特に、人生については、目的やゴールイメージをはっきり、くっきり、具体的にもつこと、がかなり大事です。

人生とか死生観とかかなり遠大な方向で、脱線してしまいましたが、本稿の目的は、冒頭申し上げたとおり、「個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、『お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々』へのリテラシー啓蒙として、処世のための『正しい非常識』」です。

次稿以降ら、本論に回帰し、卑近な処世術を述べていきたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.147、「ポリスマガジン」誌、2019年11月号(2019年10月20日発売)

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