00147_改めて「教育」というものを考える(5・完)_20221020

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えておりますが、今回は最終回です。

前回から、教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
というものについて述べております。

学歴なんて、
「過去の栄光」
に過ぎません。

「過去の栄光」
なんて、
「現在の挫折」
と同義です。

学歴を偏重する人間、過去の栄光をどうのこうの言う人間は、人間としてのスペックが劣化しています。実際、愚かだし、貧しいし、退屈だし、陳腐です。

とはいえ、世の中は不思議なもので、そういう
「愚かだし、貧しいし、退屈だし、陳腐な」
「ホンモノの学歴偏重主義者で、差別主義者」

「学歴くらいしか誇るもののない、ホンモノのクズ」
を、ありがたがり、崇め讃える、もっと愚かな連中もいます。

そういう
「学歴なき学歴信者(『学歴を誇るくらいしか能のないクズ』を、ありがたがる人間)」
は、クズとは思いませんが、
「なんだか、かわいそう」
と哀れに思います。

要するに、どっちの方々も、
「人間の本質を図る基準」

「学歴」
という
「便利で安易なもの」
に依存している。

自分の目を信じない。

まごころで人と接しない。

「人間のレベルをきちんと観察せず、レベルではなく、ラベルで人間を判断する」
という点で、生き方が大きく狂っている、ということなのだと思うのです。

学歴を重視する人間は、「ブランドモノを神のごとく信仰する、イタそうな、アレな方々」と変わりません。

「隠居したジジイ」
とみたら居丈高にマウントを取る。

ところが、三つ葉葵の印籠をみた途端にひれ伏す。

でも、
「先の副将軍」
なのに家来が
「脇差ししかもっていない若衆二人」
とみると、なめてかかって、タカをくくり、
「手下を使って闇討ちにしてやれ」
と考え、誰もみていないことを確認し、取り囲んで殺そうとする。

そうすると、今度は、
「意外に使える、若衆二人」
に返り討ちに遭う。

最後は、泣きながら土下座して命乞いをする。

目まぐるしいし、忙しいし、無様で、醜悪で、愚かで、滑稽なこと、この上ない。

「なんで、人を見た目やレベルで判断し、偏見と先入観で分かった気になってしまうのかなぁ」
「なんで、目の前の一個の人間を、人として、きっちりフェアに、対等に、関係を構築しようとしないのかなあ」
「本当に、どうしようもない、クズだなぁ」
とつくづく思います。

私が
「学歴というラベルを使って、レベル(本質)を見誤る人」
を愚かだと思うのは、心理学的根拠があってのことです。

ヒトに実装されている認知資源、脳の情報処理能力には、有意な個体偏差があります(端的に言うと、ヒトには、「無知で想像力貧困なバカ」もいれば、「利口で思慮深い物知り」もいる、という整理になります)。

そして、
「脳の認知資源や情報処理能力が不足している方々(世間知らずで未熟なバカ)」
は、認知資源の不足を補うために、
「ステレオタイプ(差別と偏見)」
を使います。

知的な鍛錬を受けていないと、人の脳はラクをしたがります。

ヒトの脳内では、
「ラクな情報処理プロセス」、
「自動的な情報処理過程」
が存在しますが、これをステレオタイプ化といいます。

ヒトは特定の対象者をステレオタイプ化するとき(「東大卒=優秀、そうでない奴=バカで無知」といった紋切り型の判断)、その過程やその結果に無自覚であることが多いですし、その認知や知覚の中には、誤りが介在している可能性が発生します。

だから、私は、
「ラベル(学歴、肩書、身分、立場、年齢、性別)で人間を計測して分かった気になる危険性」
を常に念頭に置き、
「その人間が言った内容が、筋が通っていて、合理的で、論理的であるか」
をしっかり聞いて、
「レベル(本質)で人間を計測する」
ように心がけているのです。

「情緒が安定していて、思考の柔軟性があり、経験の開放性・新規探索性があり、自己評価の下方柔軟性があって、伸びしろが大きく、外罰傾向が皆無で、本も読むし、才能ある人間の話もたくさん聞くが、他方、自らの経験に基づく知見が豊富で、想像力と創造性があり、自己の主観から離れて状況を俯瞰できるし、相手の立場と置き換えるなど観察視点を縦横無尽に置き換えることができる認識・観察の柔軟性もある」
という方がいれば、ラベルがどうあれ、レベル(本質)に基づき、しっかりとその方をリスペクトし、正しく、フェアな関係構築に努めます。

他方で、どんなに学歴や肩書や身分や立場が立派で、年齢が上であっても、
「情緒が不安定で、思考が硬直していて、経験の開放性や新規探索性もなく、プライドが高く、若さや柔軟性や伸びしろを感じさせず、外罰傾向が顕著で八つ当たりばかりしていて、本を読まないし、才能ある人間の話も敬遠し、あるいはロクな人間としか交わっておらず、経験がないくせに机上の空論や誇張した武勇伝ばかりいっちょ前に披瀝したがり、状況俯瞰する力や立場を置き換えた思考や発想が皆無」
という、レベル(本質)の欠如した人間については、正しく見下し、正当に蔑むとともに、そいつの戯言は、有害なノイズとして、一切遮断します。

学歴は、単なるアクセサリー、おもちゃにして遊ぶ程度のくだらない陳腐なガジェット。

そんなところです。

そして、私は、
「『学歴』というくだらないものを偏重するバカ」
を、心の底から軽蔑します。

とはいえ、
「学歴がない奴が素晴らしい」
ということまでいうつもりはありません。

「学歴『だけ』の人間」
にはクズやゲスが多いですが、
「学歴すらない人間」
にはさらに困った方が多い、というのも、経験上の蓋然性として、有力な推定根拠となり得ますので(※)。

[※この「経験上の蓋然性」を基礎づけるデータとしては、法務省が発表している矯正統計(2021年度)の「新受刑者の罪名別 教育程度」が参考になります。同統計によれば、令和3(2021)年度の新受刑者16,152名のうち、大学卒業者は1,173名であり、大学卒業以外の方が14,979名で92.7%に上ります。したがって、上記は、単なる思い込みや先入観ではなく、データに基づく合理的推定です。]

もちろん、「推定」は、あくまで「推定」です。

どんな人間であっても、学歴や経歴や肩書や立場を離れて、一人の人間として接し、その人間の言葉と行動をしっかり観察した上で、評価や判断をするように努めています。

以上、教育の再定義、あるいは教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
に関して、いつものとおり、私の独断と偏見に満ちた持論を展開させていただきましたが、このあたりで、
「教育再考」
と題する小論を終えたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.181、「ポリスマガジン」誌、2022年10月号(2022年9月20日発売)